1999年5月 北陸攻略(3)

5月3日、夜明けと共に杉津PAを発した拙者。友と一緒の旅も良いけれど
一人旅は時間に縛られず、自由気ままに動けるのがありがたい。
なんせ時刻はまだ朝6時だからねぇ (^^;
とにかく今日は時間がある限り、城攻めをする予定なんだから
1分1秒でも早く行動するのが肝心な所。北陸道を南へ走り
敦賀ICで高速を下ります。と言っても、何故かICは渋滞気味。
連休だけあって、やはり時間を惜しんで動く観光客が多いのか、
それとも祭日でも出勤する朝の混雑に巻き込まれたのでしょうか?
ちと驚きつつ、ICの出口で料金を収受してくれた担当の方は若いお姉さん。
最近は随分と女性職員も増えましたが、当時はまだまだ少ない頃で
早朝の渋滞以上に、思わぬ驚きに遭遇したのでありました。
街一番号はそのまま国道8号線を進み、敦賀市街地から南に外れた
疋田集落へ。国道161号線との分岐点付近が疋田城跡なので
今日の城攻めはここからスタートになります (^ ^)v

敦賀を本日の起点にしたのは、何も城攻めだけのためではありません。
敦賀市内には色々な観光名所があり、それを見ようと思い立ったからであります。
で、地図帳に載っている各名所を手当たり次第に廻ってみました。
まずは国道27号線の南側にある柴田氏庭園。福井県で柴田氏というと
歴史好きの拙者としては直ぐに「柴田勝家関連か?」と思ってしまうのですが
事の真相はよく分かりません。ともあれ、ちぃとばかり覗いてみましたが
池泉式のなかなか風流な庭園。連休なのに観光する人も無く、なかなかお得でした。
そこから真っ直ぐ北に行くと、敦賀湾に面した砂浜、気比の松原。
静岡にある三保の松原と並び、海辺に続く松並木が綺麗な有名観光地です。
こちらはさすがに名所とあって、家族連れで散歩する人や釣り客などで賑わっていました。
付近には松原神社や武田耕雲斎の墓といった史跡もあります。

え、武田耕雲斎って誰やって?あー、日本史でも結構マイナーな人名ですからねぇ。
大学入試レベルの問題になら出てくる人なんですが…。
江戸時代末期の1864年、水戸藩(茨城県の、御三家の、あの水戸藩です)の中でも
特に過激な尊皇攘夷(天皇中心の政体にして外国人を排斥しようとする思想)派らが
天狗党と称して筑波山で決起、上野国(群馬県)や信濃国(長野県)を突破して
京都を目指す進軍を行いました。美濃国(岐阜県南部)からは北陸方面に転進し
琵琶湖西岸から京都に攻め入り、当時の将軍後見職として在京していた
一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜です)との交渉を成し遂げようという計画。
しかし、あまりに過激な思想と大規模な行軍は諸派から危険と見なされて攻撃され
入京を目前にしたここ敦賀で壊滅したのであります。その天狗党の首謀者であったのが
武田耕雲斎。幕末の動乱期、己の信念に命を懸けた侍の一人なんですね。
拙者は日本史好きと言えど、幕末期では佐幕にも倒幕にも偏らない考え方なので
特に耕雲斎に大きな思い入れがある訳ではないのですが、
それでも歴史上に名のある人物がここで眠っていると言うのなら
少しばかりの興味を惹いたので、記念に訪れた次第であります。

気比の松原からそのまま海岸沿いに東へ向かうと敦賀港。
その敦賀港の一角に突き出た岩山が、敦賀での城攻め第2弾になる金ヶ崎城址です。
南北朝動乱期における激戦地であり、戦国時代にも織田信長が猛烈に攻め立てて
浅井長政との同盟破棄に至った経緯を持つ歴史上のターニングポイントとなった城跡。
現在の城跡には、南朝拠点であった事に由来する金崎宮が建ち
城の眼下で望む海には、南朝敗戦にまつわる逸話で有名な絹松岩が今もたたずんでいる。
ここから望む敦賀港の光景はなかなかのものですぞ。

金ヶ崎の岩山を下りると、すぐそばには越前随一の神社・気比神宮があります。
神社マニアではありませんが、さすがにこれだけ有名で大きな神社ですから
参拝くらいしないとねぇ。鳥居や社殿は鮮やかな赤色で塗られ、
新緑とのコントラストが目にまぶしいくらい。いやー、これは見事だ。
広大な境内はまるで京都の御所かと思うような感覚でした。
気比神宮
気比神宮

石灯籠の奥には紅い鳥居。
とても厳かな雰囲気漂う場所です。
海沿いの町に御座する神社って、
何だか独特な重みがあるような気がするのは
やはり拙者だけですかな? (^^;
市内を半周する形で巡った敦賀観光も、ここで終了。
まだまだ見たい場所は沢山あったのですが、そろそろ切り上げて移動しないと
今日1日が敦賀だけで終わってしまいますからねぇ。
気比神宮を発った拙者は、早朝に出た敦賀ICから再び北陸自動車道に入り
少しずつ北へと進路を取ったのであります。

続いて訪れたのは燧ヶ城(ひうちがじょう)
敦賀ICの一つ隣、今庄ICで高速を下りて(たった1区間だけ高速利用かい!)
国道365号線を南へ向かった今庄の町を見下ろす山の上にある城跡です。
何でも、城の創建は平安時代にまで遡り、南北朝の合戦や
戦国時代の一向一揆でも用いられた歴史を持つ古い城砦との事。
今庄町内の観音堂脇から登山道を登っていくと城跡にたどり着けるが
いやはや、この登山道がちょっとばかり恐ろしげな獣道。
蛇や蜂が出てくるんじゃないかというような藪を抜けたと思ったら
ロープが伝わされた斜面を滑らないように歩かねばならなかったり。
それでもまぁ、健脚の方なら15分ほどで登れる山道なので、
距離はさほど大したこともなく城跡に到着できる。
古くから改良を重ねて使い続けられた城郭なので、遺構は見事なもの。
竪堀や石垣がひと目で確認でき、城マニアにはたまらない。
おまけに城跡からは今庄の町を一望できるので、爽快感この上なしという感じ。
俳人・松尾芭蕉も奥の細道紀行で訪れた城跡と言いますが、
彼もこの光景を目にしていたのでしょうか?

さてさて、その次に攻めたのは杣山城(そまやまじょう)
今庄ICを挟んで国道365号線を北へ行った所にある城跡です。
何でも山の中腹にキャンプ場があるので、麓から登山道が整備されているようなのですが
一番下から登って行ったら時間がいくらあっても足りません。
出来るだけ車で登れる所まで進もうと思い、林道の終点まで乗り付けました。
幸い、きちんとした駐車スペースがあったので路駐トラブルにはならずに済みそう。
ここからなら城跡まで…20分くらいで登れるかな?と目算したのですが
杣山城恐るべし、行けども行けども山頂は見えて来ない!
道の途中途中に曲輪らしい痕跡が現れるものの、どう見ても出曲輪に過ぎず
目当ての主郭部はまだまだ先、といった感じ。こうなりゃ意地でも登ってやるぞ!と決め
結局、予定時間を大幅にオーバーして1時間近く歩きようやく本丸跡に到着しました。
それにしても「杣」って字、簡単に書けるけど読むのは難しいよね(関係ないって!)

杣山の麓にある杣山神社に参拝し、再び今庄ICに戻ります。
またもや1区間だけ高速を利用し(細かく時間稼ぎしないとね)武生ICを下りました。
ここで目指したのは小丸城。織田家が越前を支配する過程で
部将の佐々成政(ささなりまさ)が築いた城でありますが、
現在は水田地帯の中にたたずむ小さな公園になってます。
とても静かで普通の公園なんですが、拙者が訪れたとき
なぜか近所の方と思われる人たちがバーベキューやってました (^^;
あまりそういう事をするような場所ではなさそうなんですがねぇ…。
ほぼ完全に児童公園だし。
近所の方以外誰も来ないような公園だから、貸切状態で
何でも好きにできると言う事なのかな?ある意味うらやましい話です。
小丸城址を軽く見た後、武生市内を少々動き回り、
城と同じく戦国期からの遺構とされる毫攝寺という古刹も拝観しました。
武生という町、なかなかに見所の多い場所みたいです。

さて、そろそろ福井県から石川県に目標を変更。
武生ICから一気に北上し、金沢の更に北まで移動します。目的地は津幡。
ここ津幡にも城がありまして、これまた佐々成政と因縁深い城だったりします。
そんな津幡城、探してみれば今や小学校の敷地。
パッと見、遺構らしい遺構は確認できず、しかも勝手に学校内で駐車する訳にも行かず、
ましてや学校を窺う怪しい不審者と思われても困るので、城跡の石碑だけ写真に撮って
そそくさと退散。まぁ、城跡に来た証拠写真だけ急いで撮ったという感じです。
これで石碑すら無かったらどうなっていた事やら… (^^;

津幡から北上、今度は羽咋市の観光。さすがにもう城攻めではありません(爆)
朝方、敦賀で気比神宮を拝観したのに続いて、能登の入口にある大社
気多神社を訪れました。気比に負けず劣らず大きな神社です。
(気比と気多、似通っていて紛らわしい文章だね)
とは言ったものの、もう時刻は午後4時過ぎ。
神社の受付(と言うのか?)は早くも閉まってしまいました。
境内に上がると、最後の参拝客と思しき人が…帰るところ。
つまり、正真正銘拙者がこの日一番最後の拝観者になったのでありました。
っつーか、もうほとんど中見せてもらえないじゃん!

気を取り直して、それでも観光を粘る拙者は気多神社から更に北へ。
日が沈むまでは何とか観光してやろうと固く決意し(何じゃそりゃ?)
訪れたのは妙成(みょうじょう)寺。加賀前田家にゆかりのある寺で、
本堂や書院など境内の建築物がほとんど国の重要文化財に指定されている大寺です。
で、ここに到着したのが午後5時5分前。はっきり言って、拝観時間終了です。
でも…せっかく来たんだから…何とか覗き見できる所は…と探し回り
裏口からこっそりと中を見させて頂きました。そしたらまぁ、さすがに国の重文。
何だか立派な建物だらけじゃありませんか!
特に五重塔は圧巻。こりゃ大きいッスね。思わず見とれてしまいました。
あー、こんなに素晴らしい所だったら、もっと早く来れば良かった(悔)
少し無念の思いに後ろ髪引かれつつ、長居は出来ないのでその場を後にしました。
国重文 妙成寺五重塔
国重文 妙成寺五重塔

天に向かってそびえる五重塔は、
お寺の境内の中でも特に
高台になっている場所に建っていて
ひときわ高く感じられます。
木々の枝葉から覗く塔の造形は美しく
さすが重要文化財と思わせる安定感があります。

さて、まだ完全に日が暮れた訳ではないので辺りは少々明るいのですが
この調子じゃ「拝観時間」という厚い壁にことごとく阻止されそうなので
さすがに観念し、今日の観光は終了とする事にしました。
とりあえず、元来た道を戻って高速道路を目指すことにしつつ
明日の観光予定や本日の宿をどうするか思案するかすこば。
うーん、明日何を見よう。どこ行くべ?このまま能登攻めするか?
いや、次は富山か?一口に富山と言っても広いしなぁ。海沿いか?山奥か?
あ!山のほう行くなら、飛騨方面に向かって改めて白川郷を見に行くか!!
うん、それがいい。それに決定〜っ!やっぱ行けず終いでは寝覚めが悪いからね。
そうと決めれば、北陸自動車道から小矢部砺波JCTで東海北陸自動車道に路線変更。
当時の終点、福光ICにはそこから15分ほどで到着、ここからは一般道を走る事になる。
さて、一般道に下りたんだから宿でも見つけるか?さし当たってICのすぐ目の前は
城端の町だから、適当な宿泊場所は無いものかなぁ…と思ったのだが
これがまぁ何も無い。時刻は午後6時30分を過ぎ、陽は完全に没したが
茅ヶ崎ならまだまだ人も出歩いているし、店だってやっている時間なのに
さすが富山の片田舎(失礼)だと、人っ子一人いないし、
街燈以外の明かりは全て消えて真っ暗。気がつけば、城端駅を高岡行きの
最終電車(この時間で!)が出発しておりました。ありゃー、こりゃヤバいなぁ。
このままだと宿どころか夕食すらとれなくなっちまう。
先ずは食事を最優先と考えて、郊外にあったコンビニをようやく見つけ
弁当にありついたのであります。旅先の夕食がコンビニ弁当というのもわびしいが
何も無いよりマシだもんね。それにしても、城端の町なかには開いている店が
もう1軒もなかったんだけど、町の外ではコンビニが営業中って…どういう事?!

とりあえず、メシは食った。あとは宿だ。最悪、2晩連続だが車中泊だ。
目的地の白川郷方面に向かいつつ、宿らしい場所はないかと探し回る。
城端の町から南下したところで、おや?温泉宿らしき建物を発見。
ここなら泊まれるかな…と期待しつつ受付に行ってみると
あいにく今日はもう満室でダメとの事。残念。
仕方がないので国道304号線を南に向かい、車は城端町から平村に入った。
ここは白川郷と並んで世界文化遺産に登録されている合掌造り集落、
五箇山(ごかやま)のある村だ。ここなら宿もあるかな?と思ったら
何やら辺りが賑やかだ。こんな夜中(もうすっかりそんな時刻になってました)なのに。
いったいこの騒ぎは何だろう、と思って車を路肩に停めてみると
集落内の古寺、行徳寺で夜祭をやっている。ぼんぼりや松明の灯りに照らされる中
獅子舞が寺の境内で激しく動き回っているのだ。ちょうどこの日は
赤尾獅子舞という伝統芸能の奉納祭だったらしい。そういや、5月3日の祝日だもんね。
思わぬ偶然で伝統の祭りに出くわしたのはラッキー、写真を撮らせて頂いたが
この調子じゃ…宿も満室だよねぇ。五箇山での宿泊も諦め、
車はそのまま上平村へ進んだ。上平村役場の傍には公衆浴場の
くろば温泉があったので、せめて風呂だけでも入ろうかと考えたが
これまたちょうど営業時間が終了、風呂に入れず (x x)
考えが後手後手に廻る中、車は県境を越えて岐阜県へ入ってしまった。
要するに、宿が見つからないまま白川郷に到着してしまったのである。
もうここまで来たならしょうがない。観光駐車場に車を入れ、ここで夜を明かす事にした。
ま、気楽な一人旅だし、広いワゴン車の特権だし、2泊連続で車中泊でも大丈夫やね。
静かな闇夜を乱さぬよう、早々にエンジンを切って寝たかすこばでありました。




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