岬の山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
金ヶ崎は「かねがさき」或いは「かながさき」とも読むが、国の史跡名称に振られた読み仮名では「かながさき」となっている。
但し、城の所在地である金ケ崎町(「ヶ」ではなく「ケ」の字が充てられる)は「かねがさきちょう」と読む。敦賀市街地の北端部
福浦港に突き出した絹掛ノ崎という岬(現在は海岸線が埋め立てられ、往時の雰囲気は損なわれている)を活用した山城。
この山は最高所(それが一番突先にある)が標高86.7mを指し、すぐ裏手は垂直に切り立つ断崖となって海の波が洗うので
つまりこの高さが城の比高と言える険峻な地形。山は南に向かって細尾根が延び、隣の山(天筒山)に繋がるが、当然その
尾根が金ヶ崎城主郭へと至る主攻経路になる為、稜線上にいくつかの堀切を穿ち敵の侵入を阻む縄張となっている。■■■
敦賀の地は原史時代の崇神天皇期に朝鮮任那(みまな)国の王子・都怒我阿斯等(つぬがあらしと)が当地に上陸し国司と
なって「角鹿(つぬが)」と呼んだのがその初めと伝えられ、713年(和銅6年)に「敦賀」と改められたものである。この事からも
伺える様に、敦賀は古来からの有数な港町であった。源平合戦の折にも、越前三位こと平通盛(たいらのみちもり)が北陸を
進軍して来る木曽義仲に備えて金ヶ崎に築城したとの伝承があり、ここが陸海交通の要衝であった事が良く分かる。そして
南北朝の動乱では南朝方の有力拠点となり、北朝方を多いに悩ませる。金ヶ崎城の名が史料の上に現れるのはこの頃で
1336年(建武3年/延元元年)、南朝方の新田左近衛中将義貞が後醍醐天皇の皇子である恒良(つねよし)・尊良(たかよし)
両親王を擁護して籠城する。これは都落ちした彼等を、敦賀に所在する北陸道総鎮守たる氣比神宮の大宮司・気比弥三郎
氏治(けひうじはる)が迎え入れたもので、北朝方への降伏に傾いた後醍醐帝に代わり南朝主戦派を率い「北陸朝廷」とも
称される一団を構成する事になった。10月13日に金ヶ崎へ入城した彼等を、当然ながら北朝勢は看過できず、越前守護の
斯波右馬頭高経(たかつね)が攻城に着手。しかし堅固な地形に阻まれ、戦いは膠着する。軍記物「太平記」は金ヶ崎城の
固さを「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」と謳い、敵兵を寄せ付けない状況に城方では10月20日
海に船を浮かべ雪見の宴を催したとか。されど北朝がそれで黙っている筈はなく、翌1337年(建武4年/延元2年)の年始から
海上まで封鎖する大軍勢で金ヶ崎城を取り囲み、兵糧攻めを敢行。飢餓に陥った城内は徐々に衰退し、新田義貞は援軍を
得るべく2月5日、密かに城を抜け出す。しかし越前国内からかき集めた軍勢は足利勢に足止めされて金ヶ崎へは戻れず、
それを見て3月3日から北朝勢の金ヶ崎城総攻撃が始まった。力尽きた城方は6日に首脳陣が自刃、辛うじて恒良親王だけ
小舟で脱出するが、この時に親王が衣をかけたといわれる“衣笠岩”が今でも海の波にあらわれている。なお、義貞が城を
抜け出したのもこの時だとする説もある。また、恒良親王も捕らわれて討ち取られたとも言われ、金ヶ崎の落城譚には諸説
入り混じっていて判然としない。この後、新田義貞は1338年(延元3年/暦応元年)4月に金ヶ崎城を奪還したとされるものの
程なく戦死、越前は北朝方によって平定され、この城は越前守護代・甲斐氏の一族が守備、敦賀城と称した。その一方で、
北朝内部の権力闘争である観応の擾乱(1350年〜1352年)でも乱の片方の当事者である足利左兵衛督直義(ただよし)が
ここに立ち寄ったとされる。更に、城を預かった甲斐氏は斯波氏の家宰として越前守護代になった一族であるが、後に守護
斯波家が京都の政権中枢に食い込む事で政権基盤を固めた(制度的支配者)のに対し、甲斐氏は現地支配を強めて力を
蓄え(つまり現実的支配権行使)、両者は対立するようになった。1459年(長禄3年)斯波家当主・左兵衛督義敏(よしとし)は
策を弄して甲斐家の重要拠点である金ヶ崎城を5月13日に攻めたが、逆に返り討ちに遭って敗北。この攻撃は幕府の命に
背いた行動であったため、将軍・足利義政の不興を買った義敏は家督を剥奪されている。このように、南北朝の戦い以後も
金ヶ崎城は越前南端の戦略的要衝として度々の合戦が繰り広げられた。なお「敦賀城」の呼称は近世城郭として築かれた
敦賀城(下記)の事を指すのが一般的なため、金ヶ崎城を敦賀城と呼ぶ事は少のうござる。■■■■■■■■■■■■■■
朝倉家の興亡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、先に名の出た斯波義敏は応仁の乱における当事者の一人として知られている。甲斐氏、それに朝倉氏と言った越前
守護代の各家と対立して家督を失ったが、その後は足利義政の赦しを得て復権。しかし、義敏の失脚で家督を受け継いだ
斯波治部大輔義廉(よしかど)が今度は守護職を剥奪されるに至り、義廉は甲斐氏・朝倉氏を取り込んで派閥を形成した。
この状態で応仁の乱が勃発し、義政に服していた現越前守護・義敏は東軍で、それに対する前越前守護・義廉に甲斐氏や
朝倉氏の守護代連合を加えた側が西軍という構図になる。越前での戦いは開戦当初、実効支配力を有する守護代を擁した
西軍が有利であったが、東軍が調略の手を伸ばし朝倉氏を寝返らせる。この状況変化に守護家は義敏・義廉ともに没落、
甲斐家も出遅れて、越前では“朝倉氏の一人勝ち”という体制に塗り替わった。結果、守護代である朝倉家が事実上の越前
国主という状態で戦国時代を乗り切る時代になっていく。その越前国主朝倉氏5代目(朝倉氏としては11代目の当主)である
左衛門督義景は中央政界を掌握した織田上総介信長と対立する。将軍・足利義昭の名代として服属を要求する信長に反発
織田家の命令には従わぬと拒否し続ける義景。実は、甲斐家・朝倉家と並んで織田家も元は斯波家守護代の家柄なので、
朝倉義景としては「織田家に命じられる謂れはない」との立場だったのだろう。その対立は信長による朝倉家攻めを誘発し、
1570年(元亀元年)織田軍は越前へと侵攻を開始した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この年の4月20日、同盟者の徳川家康と共に京を出陣した信長は、近江今津から熊川宿を抜け若狭国へ進出。23日に佐柿
国吉城(福井県三方郡美浜町)に入り、城主・粟屋越中守勝久(あわやかつひさ)の歓待を受けた。ここに2日間逗留した後
(信長は当初、越前攻めを目的とせず若狭平定のつもりだったとする説もある)、満を持して25日から越前国へと攻め入った。
対する朝倉方の最前線となったのが金ヶ崎城と、山続きで繋がる天筒山城(敦賀市内)である。織田勢は、まず天筒山城に
猛攻をかけ陥落させ、守将である朝倉中務大輔景恒(かげつね)を金ヶ崎城に追い詰めた。景恒は朝倉家中で敦賀郡司に
任じられており、血縁的には当主・義景の従兄弟に当たる人物だ。織田軍は金ヶ崎城とも熾烈な戦闘を行ったが、朝倉側の
援軍が遅れた為、支えきれなくなった景恒は翌26日に降伏開城する事となった。こうして金ヶ崎城は織田軍の手に落ちたが
この時に、信長と同盟を組んでいた筈の近江の浅井備前守長政が朝倉方に同調して挙兵。南北の挟撃に遭う事を恐れた
信長は、せっかく奪った天筒山城と金ヶ崎城を放棄して即時撤退した。織田軍の撤兵時に決死の殿軍を務めたのが、当時
まだ雑兵上がりだった木下藤吉郎、即ち後の関白・豊臣秀吉で、この活躍は「金ヶ崎の退き口」とされる有名な逸話である。
主君・信長に取り入る“小賢しい成り上がり者”と蔑まれていた藤吉郎は、命を張った“戦功”を挙げたとされて、以後は織田
家中で一目置かれる存在になり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「金ヶ崎の退き口」で藤吉郎は名を上げたものの信長にとっては屈辱的敗戦であり、織田・徳川連合軍は同年6月に態勢を
立て直して再度浅井・朝倉軍と激突。これが姉川の合戦である。緒戦は浅井・朝倉軍が優勢であったが徳川軍が持ち堪え
美濃勢が側面攻撃を仕掛けたため、浅井・朝倉軍は総崩れとなり壊走した。以後、3年の時をかけて信長は浅井・朝倉家を
滅亡に追い詰めて行く。信長の妹・お市の方を娶った浅井長政は滅びの瞬間まで夫婦仲睦まじかったが、金ヶ崎の裏切を
信長に知らせたのもまたお市の方。彼女としては夫も兄も大切にしたかったのであろうが、義兄弟の関係を断絶させたのが
ここ、金ヶ崎の攻防戦だった訳である。恒良親王が絹衣を涙で濡らした金ヶ崎は、お市の方も悲嘆に暮れさせた。■■■
城址の現状■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「退き口」以後の歴史は詳らかでは無い。近世城郭としての敦賀城(下記)が築かれた事で廃城になったと考えられるものの
その時期は不明。ただ、南朝遺跡としての価値が戦前に評価され、1934年(昭和9年)3月13日に国の史跡指定されている。
実は江戸時代末期に山腹から経塚が発見されており、これが明治時代に尊良親王の墓所見込地と推定され、金ヶ崎城の
(南朝としての)史跡認知度を高めたのだろう。なお、この解釈は後に改められて(墓所は別の場所だとか)現在では親王が
自刃した場所とされている。また、主郭(月見御殿)の脇では1909年(明治42年)6月に古墳を検出。これは円墳で、竪穴式
石室を有し、副葬品として直刀1振と銅鏡1面が出土している。やはりこの城跡は、古代〜中世において敦賀の町と密接した
様々な歴史に彩られているようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
冒頭にも記したが、天筒山から繋がる尾根の先端(岬の突端)がこの山の最高所で、そこが主郭。主郭へ続く尾根は、南側
(天筒山方面)から順に一の木戸・二の木戸・三の木戸と呼ばれる3箇所の堀切で切断されている。三の木戸の手前には、
比較的大きな平場が開け、ここが小曲輪となっていた模様。この木戸は水の手と呼ばれて、湧水があったとか。また、発掘
調査によればこの曲輪跡からは焼米が出ていて、兵糧庫としても機能していたと考えられる。そこから岬の先端へと登って
行けば主郭だ。主郭は数段に分かれており、一番奥が最も高い。この部分が月見御殿と呼ばれており、城主が月見の宴を
催した風雅な歴史を想像させる。尤も、南北朝期の城は戦いに特化した臨時城郭だっただろうから、城主が居館を構えたと
すれば室町期〜廃城以前までであろう。加えて、城主居館があったとしても山麓部に建てたであろう(後述)ので、あくまでも
主郭での建物があったとしても物見として使われた程度の物ではなかろうか。とは言え、それを“月見”に例えたとするのは
やはり高貴な風情を醸し出す。戦に明け暮れた親王が、岬の上で月を眺めた事がひと時の癒しになったのだと思いたい。
その月見櫓(としておこう)があった敷地は崖に面し、その下は日本海。比高差90m弱の断崖を降りた所に、件の衣笠岩が。
大手から北朝勢に攻め込まれた南朝勢は、脱出しようにもこの崖を降りねばならず、恒良親王一人が抜け出すしか出来な
かったのだろう。士卒300余が討ち死にし、名のある将(尊良親王までも)が揃って自刃したのは、ひとえにその時間稼ぎを
する為だったと想像する険しさだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
尾根からは西へ突き出す支尾根が延びる。この尾根の先が小さな岬で、鴎ヶ崎と呼ばれる。江戸時代末期、小浜藩が敦賀
茶町に台場(茶屋町台場)を構築した際、この岬から土取りを行ったが、そこで出来た平場にも台場を構える事となり1862年
(文久2年)鴎ヶ崎台場とされた場所である。主尾根から鴎ヶ崎へ下る道の途中には、問題の尊良親王経塚が。ここも小さな
曲輪があったのだろう。そして支尾根と主尾根の間に挟まれた谷戸に、現在は金ヶ崎宮が鎮座する。往時はここが城主の
居館?だったと思われる。当頁で神社の詳細は省くが、その祭神は恒良親王と尊良親王とされ、摂社には他の南朝城将が
祀られている。やはり金ヶ崎城は「南朝の城」という位置付けなのだろう。朝倉家を祀る社もあるようなのだがすっかり影が
薄い…(苦笑) ともあれ、神社境内から一段下った所に真言宗誓法山金前寺(こんぜんじ)が。この寺は聖武天皇の詔勅で
建立され、天皇親筆による金光明経を賜り、その経を金櫃に封じ裏山に埋め奉じた。それが故に山の名が金ヶ崎となったと
されている。兎角、南朝崇拝で“神社の聖域”と思われがちな金ヶ崎だが、名の由来は寺にあるというのは意外に知られて
いない。まぁ、その寺も結局は天皇に繋がる由緒なのだがw この寺の手前に金ヶ崎公園の観光駐車場があり、城址への
来訪に利用できる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで現在、鴎ヶ崎の下には「人道の港 敦賀ムゼウム」と言う資料館が建てられている。ロシア革命により孤児となった
ポーランド難民の子供たちは日本赤十字社の救護活動によってここ敦賀港へ辿り着いた。また、第2次世界大戦の折には
ナチスドイツによって追われたユダヤ人らが、リトアニアのカウナス領事代理・杉原千畝氏の発給するビザを使いシベリア
鉄道でヨーロッパを脱出、同じく敦賀の港へ逃れて来る。こうした功績を讃えた資料館が「敦賀ムゼウム」であるが、かつて
血で血を洗う戦いが繰り広げられた金ヶ崎城の眼前に、世界平和に供する敦賀港があったという事実は郷土の誇りなので
あろう。月見の城にて、世界の平和が永久に続く事を祈念したいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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