街道の集約点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「疋田城」とも書く。読みはいずれも「ひきだ」城。塩山城(えんやまじょう)の別名もござる。敦賀市の南部、滋賀県との
県境に近い疋田集落にある城郭。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城は交通の要所に建てられており、琵琶湖の東側から来る塩津街道と、西側を走る西近江街道の交わる場所が
この疋田集落なのである。現在も、国道8号線(湖東ルート)と同161号線(湖西ルート)が疋壇城址の目の前で結節し
鉄道路線もJR北陸本線が城跡のすぐ裏を走っているが、この線路は敦賀市街地から疋田へ抜ける間にループ式の
トンネルで50m近い高低差を登って行く。即ち、疋田を抜ける峠道は交通の難所でもある訳だ。そもそも、疋田の地は
琵琶湖と敦賀港のほぼ中間点に位置しているため古代から重要な幹線道路と認識され、律令制時代には古代三関
(こだいさんげん)の一つである愛発関(あらちのせき)が置かれていた(他の2つは不破関と鈴鹿関)。疋田へは塩津
街道・西近江街道の他にも柳ヶ瀬街道(現在の北陸自動車道に沿った経路)も繋がっており湖西・湖北から日本海へ
出る道はほぼ必ず疋田を通るようになっていた。ここに城が置かれるのも当然であろう。なお、北国(ほっこく)街道の
椿坂峠〜栃ノ木峠を越える道(現在の国道365号線)が本格的に整備されるのは疋壇城の廃城後なので、この城が
現役だった当時、その道は使用されていないと考えられよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城主・疋壇(疋田)氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここに築城されたのは文明年間(1469年〜1487年)の頃、越前朝倉氏の家臣・疋壇対馬守久保(ひきだひさやす)の
手によるものだと言われている。平安時代前期の貴族武将・藤原利仁(としひと)は鎮守府将軍となって武威を誇り、
その後裔である斎藤伊傳(これすけ)・為延(ためのぶ)父子は共に越前国押領使と任じられた(「尊卑分脈」)。利仁の
2男・叙用(のぶもち)は斎宮頭(伊勢神宮に仕える皇女(斎宮)を世話する役職)となって斎藤姓を名乗り、叙用の孫が
伊傳に当たるが、史料によっては為延を孫とするものもあり判然としない。ここでは尊卑分脈に基づき話を続けるが、
為延は所領の地名から「疋田」を称し疋田斎藤氏の始祖となった、とされている。但し、文献により「匹田」「引田」など
様々な字を充てるので、当初はその表記が一定していなかったようだ。また、為延が用いた「疋田」の地名は敦賀郡の
匹田村(疋田村)ではなく、坂井郡の疋田(現在の福井県あわら市北疋田・南疋田)を指し、後に疋田氏が敦賀郡へと
移った事で敦賀の「疋田」地名が成立したとする見解もある。ともあれ、この疋田為延から始まった一族が疋壇氏へと
繋がるのである。ちなみに、為延の孫の代では疋田氏の他に竹田氏・千田氏・宇田氏・方上(片上)氏と言った家々が
派生しているが、これらの地名も坂井郡の中(片上は今立郡)に存在しており、先に述べた疋田斎藤氏の出自に関し
考察の一助ともなろう。なお、疋田為延の兄弟である吉原四郎則光は足羽郡河合郷に入った事で河合斎藤氏を興し、
その系統からは源平合戦の老将として名高い斎藤別当実盛(さねもり)が誕生している。そもそも、始祖の藤原利仁から
して、蝦夷討伐の総大将・坂上田村麻呂や都の化け物退治で有名な源頼光らと共に武功に秀でた剛の者として認知
されており、この一族は尚武の家系…と言ったら持ち上げすぎであろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■
織田信長により落城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
疋壇城主は久保の後、左衛門佐―兵庫―三六郎―喜助―駒之助―与一郎(いずれも実名不詳)と7代続いた。そして
この城が史上に登場するのは、織田信長の越前攻めにおいてである。室町15代将軍・足利義昭を擁し、天下に号令を
かける信長に対し、越前の国主・朝倉左衛門督義景は反発し不服従を貫いた。そのため1570年(元亀元年)4月20日、
信長は大軍を率いて京を出発、越前攻略を開始する。同月25日、朝倉領国の最前線城郭である金ヶ崎城や天筒山城
(共に敦賀市内)を攻撃し陥落させた。この折、疋壇城も織田軍に攻め落とされたと言う。ところが、直後に信長の義弟
(信長の妹・お市の方が嫁いだ相手)にして同盟者であった筈の浅井備前守長政が裏切ったと言う報が入り、織田軍は
眼前の朝倉軍と背後の浅井軍に挟撃される危機に陥った。全滅を避ける為、織田軍は全軍撤退の止む無きに至り、
結果として疋壇城は放棄され、朝倉家が取り返す。攻撃で傷んだ箇所を修復し、朝倉家臣の栂野三郎右衛門尉景仍
(とがのかげより)や藤田八郎左衛門尉、朝倉家奉行の小泉藤左衛門尉吉統(よしむね)らが布陣。現在に残る城跡の
遺構は、この時の改修による構造物であると考えられる。しかし信長は復讐に燃え、敵対した浅井・朝倉を3年かけて
干上がらせていった。1573年(天正元年)8月、居城・小谷(おだに)城(滋賀県長浜市)が陥落寸前となった浅井長政。
それを助けるべく朝倉軍も小谷城近辺に展開していたものの、既に敗色濃厚な戦況に朝倉勢士卒の士気は低く、陣を
各所で失陥していった。もはや小谷に逗留しても戦い続けられぬと判断した義景は8月13日に撤退を開始。だがむしろ
信長はそれを狙っており、本国・越前へ逃げる朝倉軍を追撃し壊滅させる作戦を発動。この日、朝倉軍は自領の最も
近い城である疋壇城を目指して落ち延びたが、織田軍は柳ヶ瀬街道の難所である刀根坂で背後から攻めかかった。■
この戦いで朝倉軍はほぼ壊滅したが、それに先立って既に前日の段階で疋壇城も落とされていた。そのまま勢いに
乗って織田軍は義景の本拠・一乗谷館(福井県福井市)へ雪崩れ込み、進退窮まった義景は20日に自刃。朝倉家の
滅亡で救援の途が断たれた小谷城も直後に落城、長政も9月1日に自害に至る。織田軍の蹂躙を受けた疋壇城は、
城主・疋壇六郎三郎(与一郎の事か?)が討死、これにて廃城となったようでござる。■■■■■■■■■■■■■■
福井県指定史跡 第44号■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
疋田集落はかつての宿場町である為(信長の越前平定以後、街道整備で宿場が繁栄した)、旧街道に沿って町屋が
並ぶ。こうした集落の西側に日吉神社があり、神社境内の南側にあるのが城の主郭跡である。主郭は東西50m程×
南北およそ80mの長方形で、東を除く3面は土塁で囲まれている。特に南西隅部は一段高い土塁で、往時は天守級の
櫓が建っていた櫓台だったと想像させてくれる。主郭の北と南には副郭があったと考えられ、日吉神社境内は北曲輪
(小丸)跡だったようだ。南曲輪は明治期に西愛発小学校が建てられ整地されてしまったので遺構は残されていないが
今では学校も廃校となり更地となったので、ここに車を停める事が出来る。但し、城址へ至る道は極めて細く狭いので
運転には細心の注意が必要だろう。話を縄張りに戻すが、主郭の周囲は(埋められてしまった南面を除き)堀で囲まれ
その堀や土塁の法面は要所要所を石垣で固めている。後世、城址は耕作地に改変されてしまったためどこまでが古の
遺構なのかは分からないが、当時の石垣と判断できるものもあるので必見だ。城地の東面は並行して流れる五位川に
向かってなだらかな傾斜面になっているが、これをいくつもの段曲輪として造成しているので全体としてはかなり広大な
敷地を有していた城砦だったのかと。半面、西側は堀1本で遮断するのみで、こちら側からの攻撃はあまり想定されて
いなかったようだ。ちなみに現在、城のすぐ西側に北陸本線の線路が走り、鉄道写真を撮るのに適した光景が(笑)
山間の小集落に隠されたなかなかの名城は、1954年(昭和29年)12月3日に福井県史跡(第44号)に指定されている。
ただ、城跡の大半は私有地(耕作地)のままなので見学時にはむやみに荒らしたりしないよう注意すべし。■■■■■■■
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