越前国 燧ヶ城

燧ヶ城大手虎口石垣

 所在地:福井県南条郡南越前町今庄・南今庄
 (旧 福井県南条郡今庄町今庄・南今庄)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★☆■■
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木曽義仲の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「ひうちがじょう」と読む。燧城、火打城とも。その創建は古くて、平安時代末期の源平合戦で既に築城されていたと
見られている。記録を紐解けば、関東で源頼朝が挙兵して、北陸地方では木曽義仲が反平氏の活動を始めた事に
対し、1183年(寿永2年)4月17日に平氏は小松三位中将こと平維盛(これもり)を総大将として北陸道に出陣する。
それを待ち受けるべく義仲が信濃の豪族・仁科太郎守弘に命じて築城させたのが火打城であったとされ、この城は
日野川を塞き止めて作った人工の湖に囲まれており、そのため平氏側は城に攻め込むことができなかった。平氏軍
10万と言われるのに対し、仁科守弘や稲津新介実澄率いる城方は越前・加賀などから集まった兵力6000騎だった
とか。この他、城方には林六郎光明・富樫入道仏誓・坂南五郎成家・斎藤太実直と言った将の名が挙がっている。
4月27日から維盛勢は城を囲むが攻めあぐね、無為に日を費やすも、籠城していた天台宗霊応山平泉寺の長吏・
斎明(さいめい)が平家方へ内通するに至り、湖の決壊方法を平家方に教えた。それに基づき維盛は水止めの柵を
破り、火打城を陥落させる。斎明はもともと平家に従った僧兵で、越前・加賀の衆が義仲になびくのを見て城方へと
鞍替えしたものの、兵力差に怖気づき平家方に戻ったようだ。以後、斎明は維盛軍に従う。その一方で、越後にて
戦力を整えていた義仲が満を持して出陣、5月11日に有名な倶利伽羅峠合戦に及ぶのである。結果は周知の通り
平家方の大敗となり、勢いづいた義仲は一気に都まで攻め上がる事になるのだが、維盛は当初越後までの進軍を
企図していたと言われており、敗れたとは言え火打城での戦いが義仲にとって貴重な時間稼ぎとなったようである。
火打城が平家軍を足止めしなければ越後まで攻め込まれており、倶利伽羅峠の戦いは起きなかった筈だ。なお、
寝返りを繰り返した斎明威儀師は倶利伽羅峠で義仲勢に生け捕られ、首を討たれたそうな。■■■■■■■■■■

太平記の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
燧ヶ城をめぐる次なる戦いは南北朝時代。当時、今庄九郎入道浄慶なる者が居城にしていたと云う。越前は新田
左近衛中将義貞が勢力圏とした事からも分かるように南朝方優勢の土地であるが、浄慶は北朝に与して南朝勢の
連絡を絶つ任に就いていた。当時の南朝方は金ヶ崎城(福井県敦賀市)と杣山(そまやま)城(南越前町内)を二大
根拠地としていたが、両者の間に割り込む燧ヶ城が南朝勢を分断する形になっていたのだ。その働きもあってか、
徐々に南朝方は劣勢になっていくのだが、軍記物「太平記」ではこんな逸話も残されている。曰く、脇屋刑部卿義助
(義貞の弟)が杣山城から金ヶ崎城へ戻ろうとする際、燧ヶ城主の浄慶が街道を封鎖し待ち構えていた。義助は事の
次第を明らかにすべく、由良越前守光氏を使者に立て浄慶を問い質す。浄慶の父・今庄法眼久経は南朝に味方し
後醍醐天皇に付き従った人物なので、話をすれば通して貰えると考えたのである。ところが浄慶は「父を取り立てて
下さった恩は有り難いが、自分は父とは離れて斯波尾張守高経(北朝方の有力武将)に属しているので何もせずに
見逃す訳にはいかぬ。願わくば一行の中で誰か名のある将の首を出して頂ければ、形だけでも一戦交えた証拠に
出来る」と返答する。だが義助も「これまで従ってくれた者共を、自分の命惜しさに犠牲とする事は出来ない」と突っ
撥ねた。両者の間で窮した光氏は「ならば私の首を取って手柄とし、代わりに大将(脇屋義助)は通せ」と、刀を抜き
自害しようとしたのである。浄慶は慌てて光氏に取り縋り「大将の申分も士卒の忠義も理に適っており、私めが罪を
被れば事は済む」と、一行の通過を許したそうだ。立場の違いはあれども互いの忠義を讃え合う、どこか牧歌的な
戦の作法が残されていた1336年(延元元年/建武3年)10月の話とされてござる。■■■■■■■■■■■■■■

一向一揆の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
室町時代になると越前守護・斯波氏の家臣である赤座但馬守(景秋?)、戦国期には朝倉氏の重臣・魚住備後守
景固(うおずみかげかた)が相次いで城主となった。この後、越前国は織田信長によって制圧されるが、それに反し
1574年(天正2年)越前一向一揆が勃発すると燧ヶ城が一大拠点となり、石山本願寺(大阪府大阪市中央区)から
越前総指令官として派遣された下間筑後法橋頼照(しもずまちくごほっきょうらいしょう)がこの城に陣取って、一向
一揆の指揮に当たった。この他に藤島超勝寺・荒川興行寺(共に越前国内の一向宗大寺院)の門徒らが入城して
気勢を上げ、同じく旧今庄町内にある湯尾城には加州大将と呼ばれた坊官の七里三河守頼周(しちりよりちか)が
入城し、信長の一揆討伐軍を多いに悩ませた。だが頼照や頼周ら本願寺坊官は高圧的態度で民衆に接したため、
後に一揆内一揆が発生、越前一向一揆は大混乱に陥り、それに付け込み1575年(天正3年)信長は越前を一挙に
制圧する。以後、織田政権下では忠臣・柴田権六勝家が越前支配を担当。信長が本能寺に斃れた後、その勝家は
勢力を増してきた羽柴筑前守秀吉と対立して1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いが発生するものの、勝家は敗北して
しまった。敗走する柴田軍を秀吉が追撃する際、勝家自らこの城の付近で厳重な警戒態勢を取ったと云う。とまぁ
この城は源平・南北朝・戦国と日本の歴史が戦乱期を迎える度にその名を記す筋金入りの実戦城郭である。義仲
勢が籠る様子は「北陸道随一の城郭なり」と評されたが、それだけ守りに適した地勢だったのだろう。■■■■■■

地形こそ守りの要■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城山は元の今庄町、その中心街を南側で塞ぐ位置にある。この町は東と西を大きな山塊に挟まれる中、日野川が
南から北へと流れて、それは越前の大河・九頭竜川と合流し三国湊へと注ぎ出る。川に沿って国道365号線つまり
かつての北国街道が貫通しており、水運と陸路が越前国内の背骨の如く通っている町なのだが、そんな日野川の
渓谷が細長く延びる狭隘な土地に開かれた町へと、西の山塊から東向きへ半島状に突出した山が城として使われ
山頂の標高は272m、日野川の河畔が海抜130m弱なので比高差が140m以上になる。しかも城山の南麓に沿って
日野川の支流・鹿蒜川が流れており(城山の突端部で日野川と合流する)城は南面〜東面が天然の水濠に囲まれ
敵勢を阻む地形である。木曽義仲の籠城戦略で城下を水浸しにし敵を阻んだというのは、2つの川から豊富な水を
引き込んだという事か。西側は主山塊なのでこちら側から侵入者が寄せ来る事も無く、必然的に城を攻めるには
北側、今庄の町を突破しそこから山を登るしかないだろう。現在でも、市街地の街道から枝分かれする道を入って
城の北側にある今庄観音堂もしくは新羅神社から繋がる登山道を登り城域に至るのが城址への道である。■■■■
半島状の山であるが故、山頂部も東西に細長い楕円形の敷地となっている。この山頂部一帯を城地としているが
約300mの長さをほぼ中間点で堀切を穿ち半分に分け、その堀切のすぐ東側を整地した主郭とし、更に山頂部の
東端には複雑な導入路を構えた虎口として防備を固めている。主郭の隅辺は石垣を備えた明瞭な段差を作り出し
虎口にも前衛となる堀切が用意され、切り離された部分が馬出のような小曲輪になって多重防御の要諦を為す。
他方、中央の堀切には土橋を備えるがその西側に関しては概ね自然地形のままで曲輪となっており、こちら側は
堀切を掘っていない。東側に比べると単純な作りだが、城域西端部には2列の土塁が用意され、その間の空間は
東端と同様に枡形虎口のような形状になっている。曲輪の連なりとしては東西一列に曲輪を並べる連郭式という
感じであるが、曲輪の連携を活かし守る城と言うよりは山地の比高差で敵を寄せ付けず、仮に登って来たとしても
城の入口となる東西両端の虎口でひたすら排除するというものだったのか。実際、主郭が石垣で囲われているが
高さはせいぜい1m程度でそれほど堅牢な防御施設だという程ではない。城主が居座る敷地を、他の雑兵曲輪と
差別化するための構造物だったのか?下間頼照は高慢な態度が嫌われ、最終的には民衆から討たれたそうだが
石垣はそうした“差別化”の為のものだと言うなら、やはり城内は城兵(一揆勢)が籠るに適すよう出来るだけ広い
敷地を構える事が優先されたのかもしれない(何せ源平合戦時には6000が籠ったとか…誇大表現であろうがw)
なお、主郭内には土壇が2箇所あるのだがこれは城郭としての構造物ではなく宗教的設備(寺堂)跡なんだとか。
やはり一向宗が何かしらの改造を行っていた?いや、どうやら廃城後の遺構との事だが、詳細は不明だ。■■■■■
ともあれ、長い歴史を辿ってきた山中の古城。現在も竪堀、石垣や土塁が昔のままの姿を留めており保存状態も
良好。石垣は恐らく戦国期に構築されたものだろう。また、城内には投石用の飛礫が各所に見受けられる。訓練
された専門兵よりも、一揆勢など一般民衆が戦う為の城だと言う証だろうか。だとすれば、とにかく「数」を頼みに
する収容空間を重視した(だからこそ、城主の権威を差別化する必要もあった)城なのか。城址からは今庄の町が
一望できる。明瞭な遺構が残る事から、1977年(昭和52年)7月1日に町指定史跡となっており申す。■■■■■■■■

ヲタ萌え…の城?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、江戸時代になると俳人の松尾芭蕉が「奥の細道」紀行でこの城跡に立ち寄ったと言われている。1689年
(元禄2年)3月27日に江戸の自宅を出発した芭蕉一行は日光〜白河〜松島〜平泉と東北地方へ向かい、立石寺
(山寺)を経て酒田へ出た後は日本海沿いを南下、金沢〜小松を過ぎて8月13日の夜を今庄の宿場で過ごした。
燧ヶ城近辺を抜けたのはその日の事で、木曽義仲の戦跡を偲んで「義仲の 寝覚の山か 月悲し」と詠んでいる。
その後、敦賀を通り8月20日過ぎに大垣へ到着。これが「奥の細道」の終着点であるが、紀行は途中途中で源平
合戦の古跡に立ち寄っており、例えば平泉で源義経・弁慶主従を想い「夏草や 兵どもが 夢のあと」と詠んだ句が
有名だ。どうやら芭蕉は木曽義仲の大ファンだったらしく、己が没する直前にも「義仲の墓の隣に葬って欲しい」と
遺言し、それに従って滋賀県大津市にある天台宗系朝日山義仲(ぎちゅう)寺(義仲の菩提寺)に埋葬された。奥の
細道紀行は芭蕉にとって“義仲推し活”“聖地巡礼”の旅だったのかもしれない。だとすれば、義仲所縁の城である
燧ヶ城を訪れるのも当然の結果か(笑) 一説には忍者であったとも言われる芭蕉が、戦国時代まで使われていた
この城を密かに探索する為の大義名分だった―――と考えられなくもないが、それにしては義仲に対する情熱が度を
越しており、やっぱり純粋に“義仲追慕として”燧ヶ城を訪れたのだろう。今も昔も、ヲタク心は変わらないw■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡




疋壇城  杣山城