越前国 杣山城

杣山城本丸跡

 所在地:福井県南条郡南越前町阿久和
(旧 福井県南条郡南条町阿久和)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★■■■
★☆■■■



太平記の“鍵”となる城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
杣山(そまやま)城は南北朝時代の戦跡、太平記の舞台として有名な山城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
創建は平安時代初期、大和源氏の祖となる源頼親(よりちか)は各国の国司を歴任、そうした中でこの城を築いたとされるが
この話は信憑性に乏しい。恐らく鎌倉時代の中期に瓜生(うりゅう)氏が築城したものだと考えられる。この瓜生氏と言うのは
伝説の武人・渡辺綱(わたなべのつな、嵯峨天皇の5代後裔)の子孫だと言われ、綱のさらに8代後の人物である種が越後国
三島郡瓜生(うりう、新潟県長岡市)に入って瓜生姓を名乗り、瓜生種を称した事が始まり。種は鎌倉幕府の御家人だったが
承久の乱で朝廷方に付いた為に没落。種の子・貞は文永年間(1264年〜1274年)に越前国今立郡へ移住、そのまた子供の
衡が杣山の地に入ったと伝わる。杣山城の築城者はこの衡と言う事になろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
衡の子・保(たもつ)の代に南北朝時代を迎える。保は一貫して南朝に与した人物で、朝廷から検非違使に任じられた。当然
杣山城も南朝方の拠点城郭として重きを為す。越前は南朝の重鎮・新田左近衛中将義貞が根拠地とした国なので、義貞は
金ヶ崎城(福井県敦賀市)を拠点に北朝方への抵抗を続けている。一方で、杣山城と金ヶ崎城の間にある燧ヶ(ひうちが)城
(福井県南条郡南越前町)は北朝に味方しており、杣山城―燧ヶ城―金ヶ崎城の線を舞台として南朝方―北朝方―南朝方の
布陣がされた。南朝方と北朝方は互いの連絡線を絶つべく計略や戦闘を展開、両軍入り乱れる長く辛い戦いが継続された。
瓜生保は一時期、北朝方の足利尊氏に参じているが、これは尊氏が発した偽綸旨に騙されたと伝わる(諸説あり)。北朝へと
鞍替えした瓜生一門を再び南朝方へ引き戻し、連携を図るために義貞の弟・脇屋刑部卿義助(わきやよしすけ)が金ヶ崎城と
杣山城を往復したと言う。これにより金ヶ崎城を攻めようとする足利軍は金ヶ崎城の守備兵と杣山城から出撃する兵の挟撃を
懸念しながらの行動を余儀なくされ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、金ヶ崎城は遂に陥落し新田義貞らは杣山城へと退却して来るが、それも北朝勢の攻撃を受けて1341年(興国2年/
暦応4年)6月25日に落城する。一連の攻防戦の中で瓜生保は戦死、義貞は更に落ち延びていった。結果、杣山城は北朝方に
奪われて、足利一門・斯波修理大夫高経(しばたかつね)の家老である増沢甲斐守祐徳が入る事になった。以後、室町時代は
斯波家が越前守護となっており、杣山城は斯波氏の城として存続したと見られる。これに対し応仁の乱に於いて越前守護代・
朝倉弾正左衛門尉孝景(たかかげ)が斯波家への下剋上を行い、その過程で1470年(文明2年)に杣山城は朝倉方が奪取。
朝倉家臣・河合安芸守宗清が入城した。戦国時代は河合安芸守家が城主を継承したようである。■■■■■■■■■■■
1573年(天正元年)朝倉氏は織田信長に攻められて滅亡。越前は織田家の領土となるが、これに反抗する一向一揆が決起し
翌1574年(天正2年)杣山城に一揆勢が立て籠もったというのが最後の記録。以後、この城の歴史は詳らかで無い。恐らくは
一揆鎮圧と共に廃城とされたようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

猛烈に険峻な山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
杣山は標高492.1m。麓からの比高差およそ380mという山城を築くにはかなり高い山である。山頂の東と西に支峰の小ピーク、
山頂の北に支尾根がある。最も高い山頂が本丸であるのは当然だが、西の小ピークは西御殿と呼ばれる曲輪、山頂北側の
支尾根の先端部に東御殿曲輪が啓開されている。東御殿〜本丸〜西御殿と繋がる馬蹄型の部分を城域として活用しており、
それが内包する中腹部(西御殿のすぐ下段)には殿池と言われる水源池が。この池があるおかげで、山中での籠城が可能に
なっている。もちろん、尾根沿いを縦横に堀切を穿ち、更に細かい曲輪が広がって侵入者をその場その場で阻止する構えだ。
そもそも、城山は切り立った断崖の上にあり、限られた経路と通らねば山の上へ辿り着く事は不可能だろう。必然的に、その
経路を遮断する防御構造を用意すれば堅固な山城の出来上がりという訳だ。本丸の東にある峰との間には「犬戻り駒返し」と
呼ばれる絶壁があり、ここは鎧武者が行き来するのが不可能であり、そちら側への往来は隔絶されていたと考えられる。今も
犬戻り駒返しの部分は梯子を使って昇り降りするそうで、そちら側から登山する方は注意されたし。■■■■■■■■■■■
東御殿は南北に長い約600uの不整形な敷地。西御殿のある尾根にも、大小17の平坦面(曲輪群)が構えられている。山中の
険しい地形をどうにかして活用しようとした苦労が偲ばれる。東御殿・西御殿それぞれで礎石建物址が検出されている。発掘
調査は1970年(昭和45年)〜1975年(昭和50年)にかけて実施された。なお、本丸(写真)の西下段には袿掛(うちぎかけ)岩と
言われる大岩がある。瓜生保が戦死した際、それを聞いた保の奥方が悲嘆に暮れ、この岩に衣を掛けて身を投げたとか。
この他、城山の北側山麓には居館部だったとされる平場も残る。こちらは1999年(平成11年)〜2006年(平成18年)に発掘が
行われている。谷戸を利用したこの居館部は、谷の入口に「一ノ木戸」と呼ばれる門があり、その内部には礎石建物・掘立柱
建物・井戸・石列(敷地の区画分けか?)等が確認された。一ノ木戸には石塁も。居館部の敷地からは土器・陶磁器・焼物や
石製品・鉄製品・木製品・銭貨・漆器などが出土してござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山城部分は1934年(昭和9年)3月13日に国の史跡と指定された。同年7月3日には南越前町(当時の南杣山村)が管理団体に
なっている。昭和戦前期の南朝史観に立脚した史跡指定ではあるが、山上の険峻な防御構造は現在も体感する事が可能だ。
他方、山麓の居館部は一部のみの史跡指定であったが、1979年(昭和54年)5月21日に追加指定を受けた。この指定を受けて
上記の発掘調査が行われ、中世山城の生活痕が明らかになったのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、山の中腹にキャンプ場があって駐車場や登山道も整備されているものの、それでも麓から登るとなると丸一日掛かりに
なろう。必死の思いで山を登ることになるが、山頂の本丸からは遠く旧南条町の町並みを見下ろすことができ申す。■■■■
ちなみに杣山の「杣」とは、きこりや山仕事の人足(杣人)の事を指す。杣人の山、と言う呼び名な訳だが、これは城を築く際に
あまりに多くの杣人が集まった事から名付けられたそうだ。山の名が先か、城の名が先か…卵が先か、鶏が先かというような
禅問答の如き城名でござるな(笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群
城域内は国指定史跡




燧ヶ城  小丸城