越前国 小丸城

小丸城跡石碑

 所在地:福井県越前市五分市町
 (旧 福井県武生市五分市町)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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ごく短命に終わった城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1573年(天正元年)朝倉氏を滅ぼした織田弾正忠信長は、家老・柴田権六勝家に越前国を与えその統治を任せた。この時、勝家の補佐として
府中三人衆が配され、越前府中の支配が行われている。三人衆とは不破河内守光治(ふわみつはる)・前田又左衞門利家(まえだとしいえ)と
佐々内蔵助成政(さっさなりまさ)。こうした経緯に基づき、成政によって築かれたのが小丸城だ。築城時期は1575年(天正3年)とされる。当時、
朝倉氏を滅ぼした後に越前では一向一揆が勃発しており、織田軍はその平定も急務とされていた。小丸城は一揆平定と前後し、織田家による
強固な統治体制を構築する(そしてそれを民衆に見せつける)必要によって作られたものであろう。この城は成政による越前南部の武生・南条
などを治めるための城でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平城である小丸城は、近隣を流れる鞍谷川が作り出した味真野(あじまの)扇状地の末端部にあり、7世紀に存在していた野々宮廃寺の境内を
取込む形で造成されている。現状ではあまり全容が分からない状態だが、往時は本丸・二ノ丸・三ノ丸を構え、特に本丸は東西45m×南北50m
程とされる(現地案内板による数値)。曲輪の四方には堀が巡らされ、堀幅は10m〜30m程度あったようだ。塁壁は石垣で固められ、発掘では
瓦も出土している事から瓦葺きの礎石建物があった事は確実。いわゆる「織豊系(しょくほうけい)城郭」の構成要素を備えていたようだ。関連
遺構は東西300m×南北450mの広範囲に及んでいる。更に外部には「古城」「御館」「的場」「鉄砲町」など、城に関連した字(あざ)名が残され、
城下町まで含めて小丸城が拡充されていた様子を物語っている。また、江戸時代の1685年(貞享2年)に作成された地誌「越前地理指南」には
「五分市村(中略)北に佐々内蔵成政城跡アリ、百八拾間四方」と記され、廃城以後も城館の存在は地元で認知され続けていた。■■■■■■
なお、1932年(昭和7年)に北西の戌亥櫓跡付近から出土した瓦には文字が刻まれており、それには「前田利家が一揆勢1000人程を生け捕り、
磔や釜茹での刑に処した」旨の内容が記されていた。“織田家の統治城郭”の築城に動員された民衆が、密かに織田家の弾圧を後世に残す為
腐食しにくい瓦に、こうした恨み言を刻み込んだものと考えられる。この瓦自体を後世の創作品と見る向きもあるが、織田家による過酷な支配の
象徴として小丸城が築かれたのは事実であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが1579年(天正7年)佐々成政は越中支配に転任、富山城(富山県富山市)へ居を移した(時期については諸説あり)。その為、小丸城は
全く必要が無くなり、その頃に廃城とされてしまった。まだ未完成であったと考える説もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の城址はとても小さな公園。本丸部に堀や土塁・石垣の遺構が残るものの、明確な残存部分は曲輪跡と言うよりも、櫓(天守)台?程度の
大きさであろう。塁をくぐる門は埋門形式に見え、単純に一つの建物に入る為の出入口かと思える。逆に言えば、こうした遺構が市街地に残って
いるのも貴重であろう。だが、城址として認識できるのはそれくらい。周囲は一面の水田地帯となっている。付近には国の名勝に指定されている
枯山水庭園を有する真宗出雲路派(と言うのがあるそうな)真柄山城福寺や、その真宗出雲路派の本山である出雲路山毫摂(ごうしょう)寺など
古刹があり、散歩がてらに歴史散策が楽しめよう。城跡の目印になるようなものが無いので探すのに難儀しそうだが、強いて言うならば武生東
運動公園の陸上競技場から東北東へ約1kmの場所。鞍馬弘教(くらまこうきょう…と言うのがあるそうな)常安楽院の東隣で、公園用の駐車場は
無いが常安楽院の入口に車は数台停められる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小丸城址、並びに野々宮廃寺跡は1956年(昭和31年)3月12日、福井県指定史跡(第218号)となっており申す。■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡




杣山城  平泉寺城