1999年10月 京都思いつき巡行(2)

10月の丹波地方となると、夜はやはり薄ら寒い。
おかげで夜明け頃、寒さで目が覚めてしまいました。
まぁいいや、丁度動き始める時間だもんね。そういうわけで、
朝日が顔を出す前に城攻めを開始したかすこばなのであります。
亀岡市中心部にある有名な城と言えば、丹波亀山城
明智光秀が丹波支配の重要拠点として整備した城で、本能寺の変の折には
京都へ進軍する明智軍が出撃基地とした場所でありますな。江戸時代に入ると、
江戸幕府が畿内・山陰方面への押さえとして重視し、築城の名手・藤堂高虎が
史上初の層塔型天守を築いて大改修を行った経緯を持つ、城郭史的に重要な城。
ところが明治になると城は破却され、江戸時代260年間を通じて残された
高虎の層塔型天守も解体されてしまいます。不遇の城跡は、遂には売却され
現在は大本教なる宗教団体の総本山になっているのです。
教団に申し込めば城跡の見学はできるそうなのですが、何せ早朝なので
そういう訳にも行かず、拙者は外郭から城の構造を窺うのみになりました。
それでも、堀跡や土塁など、そこかしこに遺構が垣間見られ
ここ亀山城が名城だった事がよくわかりましたぞ。
何といっても、朝の誰も居ない城跡を散策するのって気分良いしね♪

朝一で城攻めを終えたら、腹ごしらえ。それも終わらせたら
亀岡市から離れ、更に丹波の奥地へと進んでいきます。
国道312号線を走行、西に向かえば車は丹波山地の間を縫って兵庫県に突入。
誰も通らないような山沿いの国道は飛ばし放題(オイオイ)の快適さです。
で、向かった先は篠山。道中、八上城の跡を横目に見つつ、
山城に登る時間はさすがにないなと諦めながらも、狙いは別の城だったりして。
「丹波」亀山城に続き、同じく「丹波」の国名を冠する城
丹波篠山城がお目当てです。篠山盆地の中心に位置する篠山城は
徳川幕府が大坂の豊臣氏を包囲する目的で築いた超軍事要塞。
西国諸大名の動きを牽制し、一朝事在らばこの城で西国勢を食い止め
東国軍の反攻まで持ち堪える事を存在意義とされた城郭は、方形の敷地という
スタンダードな縄張りでありながら周囲を何重もの濠と高石垣で固め
寄せ来る敵兵を全方位で火力制圧できるように設計されている名城。
あまりに堅固な造り故、むしろ天守は不要とされて築かれず
丹波のみならず西日本全域に対する防御の要とされた城です。
さてそんな篠山城を訪れた拙者にショックな知らせが…。
「篠山城二ノ丸大書院復元工事に伴い、現在入城できません」
ガー(゚□゚)―ン!そんなぁ !!
せっかくここまで来たのに…今日のメインになる城だったのに…。
やっぱ、無計画に行き当たりばったりで旅するとこういうメに遭うんですね。
工事用のバリケードに塞がれては如何ともし難く、
中に入る事を諦め、外から石垣を望んだだけになってしまいましたが
遠路はるばる篠山まで来てこれで終わるのは残念無念。
必ずやもう一度訪れて、篠山城を落とすべし!と
後日のリベンジを固く誓ったかすこばなのでありました。
そういう事ですので、篠山城の写真はこの頁に載せません(爆)

篠山で無念の敗退を味わった拙者、ならば別の城を攻めるべしと思い直し
丹南篠山口ICから舞鶴自動車道を北上、再び京都府に戻ります。
次の狙いは福知山城。これまた明智光秀に関わりのある城で
丹波北辺の要地である福知山の街を統治するために整備された城郭でござるな。
福知山ICで高速を下り、国道9号線で福知山市街地に近づくと
土師川を渡る橋の手前辺りから遠くにそびえる福知山城の再建天守が見えてきます。
なおも市街地に近づき、城の目の前までやってくると
「これでどうだ!」と言わんばかりに大きく構える天守の姿。
福知山城の天守は何だか奇妙な(と書くと失礼だが)形で
下見板張りで無骨な雰囲気ながら、大きな破風で飾り立てた賑やかさもあり
かなり独創的なデザインセンスなんですよね。
しかも大きく広がった間取りなんで、カメラのレンズに収めるのが大変!
どのアングルで撮るのが一番良いか、天守の周りをグルグル回って
色々と悩んだ末に撮影した記憶があります。
福知山城天守遠望
福知山城天守遠望

結局この天守、遠くから望んだ状態が
一番収まりの良い構図になるんですね。
そんな訳で、土師川の川べりから撮った写真を掲載。
破風が幾重にも重なった姿は
かなり独特な建物ですよね。

福知山市の東隣は綾部市。確か綾部にも城跡があったような気がして
今度は京都府道8号線に乗って東へと折り返しました。
JR山陰本線の線路と並走し、とりあえず綾部駅へ。時刻は午前10時半頃でしたね。
で、市街地の中で城跡はないかと探したものの…よくわからない。
(成り行き任せの旅だから、下調べも何もあったもんぢゃないからねぇ)
頼みの綱の道路地図帳には、市街地からかなり離れた
山家(やまが)集落に城跡の記号が…。もちろん、綾部の城とは別物だけど
こうなりゃそっちの城に行ってみようと決定。
斯くして府道8号線を更に東に進み、国道27号線にぶつかったところで右折し
由良川沿いに山家集落へ。田舎の農村、と言うと不躾だが
そんな風情たっぷりの集落内を通り抜けると山の上にありました、山家城
かつての城主・谷氏を祀る谷霊神社が建立されている山家城は、
山家集落の農村を見下ろす山の上に築かれた城で、
その感覚は今も変わらぬ様子です。城跡の麓には山家の小学校があり
どうやらこの日は運動会だったのかな?のどかに、それでも賑やかでした。
この情緒、今や希少な古き良き日本の農村風景という感じで、とても良かったですよ。

綾部から北上、今まで山中の城ばかり攻めていたので今度は海を目指します。
国道27号線を戻る形でひた走り、JR舞鶴線と併走して舞鶴市へ。
港町として有名な舞鶴ですが、古くから栄えた町ですので、
もちろん城下町でもあります。西舞鶴駅の北側、現在は舞鶴公園となっているのが
田辺城の跡。ちょっと日本史に詳しい人ならば
関ヶ原合戦の前哨戦として戦われた田辺城籠城戦はご存知のはず。
1600年(慶長5年)、天下を二分して戦った関ヶ原の合戦は有名ですが、その際
田辺城主・細川幽斎はいち早く東軍・徳川家康に与する事を表明。このため、田辺城は
西軍の大軍勢から攻撃される事になります。ところが幽斎は名将中の名将、
1万5000を超える攻撃軍に対し、わずか500程度の城兵で迎え撃ち城を固く守ります。
この籠城は60日にも及ぶ長期戦になり、挙句の果てに朝廷から直々に停戦の勅命が下り
遂に田辺城が陥落する事はなかったのです。この間に家康は軍備や作戦を充実させ
関ヶ原における大勝利を確実なものとしました。で、何で田辺城の戦いで
わざわざ勅命が下ったかと言うと、幽斎は武将としてのみならず
文化人としても高名で、特に古今伝授と言われる芸能の正統継承者。
古今伝授とは、古今和歌集の解釈・故実を秘事口伝で継承するもので
この当時、幽斎がただ一人の継承者だったのです。その幽斎は
八条宮智仁親王に継承する途中で田辺城の戦いが始まってしまったため
何としても古今伝授を完了させたい朝廷が停戦命令を発したというワケ。
もちろん、幽斎は朝廷がバックアップする事を見越して
田辺城籠城をしたのでしょうから、その智謀に感服すべきでしょうな。
現在の田辺城跡、舞鶴公園には櫓や門が復元されていますが
石垣などの遺構も残され、なかなかのもの。名城の風格が窺えます。
江戸時代になって舞鶴藩の藩校・明倫斎が建てられましたが
その明倫斎の門も舞鶴公園の隣、明倫小学校の敷地に残ってます。
田辺城の近辺、歴史好きの人には見所の史跡が色々とありますね。
明倫斎門遺構
明倫斎門遺構

風格ある高麗門。
江戸時代から現代まで残る門は
西舞鶴の町を見守る歴史の語り部です。
門のうしろに見える校舎が明倫小学校、
明倫斎の後身とされる学校です。

京都の海辺と言えば、誰もが知っている有名な観光名所が。
日本三景の一つ、天橋立です。残りの二つ、松島と宮島は行った事があるので
何としても天橋立も見てみたい!遥か遠く、茅ヶ崎から西舞鶴まで来たんだから
ここで引き返しては絶対にもったいないと思い、天橋立へ向かう事にしました。
西舞鶴の市街地から国道175号線で西へ出て、由良川を渡った所で右折し
今度は国道178号線を北上、由良川に沿って走ります。
この道は北近畿タンゴ鉄道に並走した道で、時折ローカル列車を見かけました。
何ともまぁのどかな田舎道といった感じで、思わずノロノロ運転…って、渋滞だ!
何でこんな所で渋滞なの?うーん、困ったなぁ。ここからじゃ脇道もないし。
腹をくくって我慢するしかないけれど、ただ時間だけが過ぎていってねぇ。
西舞鶴まではかなりハイペースで回ってきたんだけど、
ここで一気に時間が押し気味になってしまいました。
由良川の河口、若狭湾に到達したところでようやく渋滞が解消。
天橋立に向かう宮津市街地方面への道を、遅れを取り戻すためにかっ飛ばします。
北近畿タンゴ鉄道
北近畿タンゴ鉄道

由良川の橋を渡る1両のみの車両。
ローカルムード満点の光景を
200mmの望遠レンズで切り取りました。
水色の列車は空や川の色と良く馴染みますね。
そんなこんなで、天橋立に到着したのは午後3時頃。
あまりゆっくりと見物する暇はなさそうです。
本当は橋立を渡って対岸まで行ったり、山の上に登って全景を見たかったのですが
どうもこれではそういう訳には行かないやね。ま、悩んでもしょうがない。
かなり端折った感じでの見物になりますが、とりあえず天橋立を堪能しましょう。
北近畿タンゴ鉄道の天橋立駅前に車を停め、橋立入口にあるお寺
文殊堂を拝観。そのまま橋立へ進み入り、しばらく砂州の砂浜を歩きます。
海岸線は長く続く松原になっていて、快晴の太陽の下、
空も青く、海も紺碧の色が深く広がっていました。
当然、観光客も多く賑わっていましたが、その中でも特に人垣ができていたのが
砂州の中間点あたりにある磯清水の井戸。海の中を渡る砂州なのに
なぜかここには真水が湧き出ているんです。えー、そんな事言って、
実はやっぱり塩水なんじゃないの?といぶかりながら私も一口飲んでみると
ん!本当に真水だ !!しかも美味い♪
それもそのはず、この磯清水は名水百選に選ばれるほどの霊泉なんですね。
いやぁ、それにしてもどうしてここに真水が湧くんでしょう?不思議だなぁ。

橋立の真ん中あたりまで歩き、引き返してきたかすこば。
やはり時間的に対岸まで渡るのは無理でした。
そういう事ですので、天橋立の写真もこの頁に載せません(連爆)
陽は既に傾き、名残惜しくも天橋立から離れた拙者は、元来た道を引き返し
再び西舞鶴の市街地まで戻ってきました。そうそう、舞鶴市というのは
西舞鶴と東舞鶴、大きく二つの市街地に分かれているんですね。
どうせだったらこのまま進んで東舞鶴も走ろうと思ったオイラは
西舞鶴からそのまま東進、五老トンネルを抜けて東舞鶴市街地に向かいます。
田辺城下町として栄えた商業都市・西舞鶴と違い、
舞鶴市役所などの官公庁中枢を擁する東舞鶴は軍港の町。
そう、舞鶴東港はかつての日本海軍基地、現在は海上自衛隊の一大拠点。
海自の舞鶴地方隊は、秋田県〜島根県沿岸の日本海警備を受け持ち
今や某国の動向に即応すべく警戒態勢を強化しなくてはならない重要な意義を持ちます。
で、オイラが訪れたこの日もいくつもの艦船が停泊。
思わず車を止め、巨大な艦船を遠目に眺めてしまう迫力がありました。
その中でもひときわ大きな船が、何と一番手前の岸壁に接岸。
おぉっ!これは、当時就役したばかりの最新鋭艦、
イージス艦の「みょうこう」ぢゃないか!うぁー、デカい。まるで島だ。
間近に見るとこんなに大きな船なんだねぇ。こりゃ驚いた。
舞鶴東港
舞鶴東港

こちらがそのDD175みょうこう。
あまりに大きすぎて、船全体が
レンズに収まりきりません。
夕日に照らされて、艦橋は
オレンジ色に染まっていました。

さて、東舞鶴を後にして国道27号線をそのまま東へ。程無く京都府から
福井県に入りました。もう陽は没したので、このまま若狭湾を通過し
敦賀から北陸自動車道に乗ろうという考えです。高浜町の海岸線を横目に見つつ
大飯町では原発関連施設の多さに驚きながら、車は小浜市へ。
考えてみりゃ、小浜も城下町なんだよね。日暮れ後の薄明かりだけど
何とか城跡見物はできないものか?と考え、半ば諦めつつも
小浜市街地を抜け国道162号線にシフト。町外れまで来たところで
ありました、小浜神社になっている小浜城址です。
神社の入口からして城跡だと見せ付ける大きな石垣になっていて、
境内の奥には天守台になっている巧妙な石組が…。これはきっと、
もっと色々と見れば沢山の遺構が残されているんだろうなぁと思いましたが
あたりはもう真っ暗、何が何だかさっぱりわかりません。
とりあえず三脚を使った長時間露光で石垣の写真を撮ったものの
うーん、ここももう一度改めて見直すべきだな、と結論。
篠山城と言い、天橋立と言い、小浜城と言い、今日の見物地は
どれもこれも後日の再戦が必要となった感じの道のりでした。
そういう事ですので、小浜城の写真もこの頁に…(以下略)

小浜城跡から敦賀方面に抜けるには、このまま国道162号線を進んでも良いのですが
リアス式海岸に沿って走るこの道はカーブばかりで時間がかかりそう。
むしろ来た道を戻って国道27号線を通った方が早そうなので
再び小浜駅前の繁華街を越えて行きました。で、1時間ほどかかって敦賀ICへ。
ここから北陸自動車道に乗り南下、米原JCTで名神高速、関ヶ原を抜けて
愛知県へと入ります。あとはもう帰るだけ。小牧JCTからは東名高速になり
夜通しの運転で茅ヶ崎まで帰ってきたのであります。
旅行明けの休養で、11日は一日中爆睡。翌日の勤務に備えたのでありました。
いやぁ、それにしても思いつきの旅行ってできるもんなんですね。
事前の情報不足でお預けを食らった場所もありましたが
こういう旅もまた一興。かなり面白い周遊になりました。

…それにしても、丹波・若狭はもう一度行かねばならんね (^^;


◆◇◆ つれづれに めぐる京都に 秋の空 今日の一歩は 明日の誓いに ◆◇◆




前 頁 へ


本 丸 御 殿 へ 戻 る


城 絵 図 へ 戻 る