丹後国 田辺城

田辺城跡 復元大手門

所在地:京都府舞鶴市字南田辺

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★★★☆



別名で舞鶴城。室町幕府管領家であった智将・細川藤孝幽斎が築いた平城でござる。
丹後国(京都府の若狭湾岸地域)は室町体制下、足利将軍家に連なる名門守護大名・一色家の
領国であり、その統治拠点として八田守護所(舞鶴市内)が置かれたものの戦国時代に没落。
1579年(天正7年)、織田信長の命を受けた藤孝と明智光秀に攻略される。一色軍は
八田守護所の詰城である建部山(たけべやま)城(同じく舞鶴市内)に籠もり抵抗するが
惨敗を喫し、丹後国は細川藤孝・忠興(ただおき)父子が治めるようになった。藤孝は
入国当初、宮津城(京都府宮津市)に拠ったが陸海交通の要衝である八田の地を必要とし
守護所を改め築城したのが田辺城でござる。以後、細川家丹後経営の拠点とされる。
1582年(天正10年)6月、本能寺の変で主君・信長が討たれると藤孝は入道し隠居、
幽斎と号した。かつての盟友・明智光秀との決別を表明する為である。家督を
嫡子・忠興に譲った幽斎は、同時に田辺城も譲って宮津城に隠棲する。斯くして
田辺城主は忠興となり申した。この状況のまま細川家は豊臣秀吉傘下の大名として
存続するが、その秀吉が1598年(慶長3年)に没すると天下の形勢は風雲急を告げる。
新政権樹立を目指す徳川家康と、旧体制を維持せんとする石田三成が対立したのだ。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の合戦が勃発すると忠興は東軍・徳川家康に同心。この折
忠興は家康と共に東国へ下向していた為、領国・丹後は西軍の攻撃目標となってしまった。
このため幽斎が現場復帰、自身の居城・宮津城を放棄して田辺城に入城、籠城戦の指揮を採り
小野木(おのぎ)重次・前田茂勝・小出吉政といった西軍諸将を迎え撃った。丹後国内の兵は
大半が忠興に従って外征していたが、政・戦・智のいずれにも長けた幽斎は西軍1万5000の
猛攻にわずか500の城兵で一歩も譲らず、7月19日から始まった攻防戦は長期化する。
それでも徐々に城方は劣勢となっていったが、当代一流の文化人である幽斎は、
同時に古今伝授の継承者でもあった為、彼の戦死を危惧した八条宮
智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)は幽斎に開城を周旋する。
ちなみに古今伝授とは「古今和歌集」の故実・語釈を秘事口伝として継承するもので
この時、継承者は幽斎ただ一人であった。智仁親王こそ、当時幽斎から古今伝授を
受けていた弟子であり、その伝達はまだ完了していなかった。ここで幽斎が没しては
鎌倉時代以来の名誉ある伝統が絶える事になるのだ。ところが幽斎はこれを拒否。
事もあろうに、討死覚悟の戦いであると述べたのである。これで戦いは更に長引き、
徒に日を費やし落城の色が濃厚となるや、遂に時の帝・後陽成天皇から東西両軍に
講和の勅命が下される。遂に田辺城が落とされることはなかったが、開城したのは
9月13日の事。関ヶ原本戦は2日後の15日であり、当然の事ながら田辺城包囲軍は
関ヶ原に参加できずに終わっている。形の上では西軍が勝利した田辺城の戦いであるが
実質的には細川幽斎の戦略的大勝利でござった。なお、籠城中に幽斎が詠んだ歌は
「いにしへも 今もかはらぬ 世の中に こころの種を 残す言の葉」。
明らかに古今伝授を切り札にし、朝廷までも手玉に取った幽斎の政略が読み取れる。
軍功で細川父子は豊前・豊後(現在の福岡県・大分県周辺)39万9000石の領主に昇進、
中津城(大分県中津市)へと移る(後に小倉城(福岡県北九州市)へ)。丹後国には
信濃国飯田(長野県飯田市)6万石から移された京極高知(たかとも)が12万3000石で入封。
田辺城、次いで宮津城を居城とした高知は子供らに丹後各所を分知し、このうち田辺には
高知3男の高三(たかみつ)が入った。一国一城令(大名の居城を制限する幕府法令)により
高知は田辺城を破却していたが、高三の入府で再興されてござる。彼の所領は加佐郡
3万5000石、これが田辺藩でその系譜は高直(たかなお)―高盛(たかもり)と続いたが、
1668年(寛文8年)5月3日、但馬国豊岡(兵庫県豊岡市)へと転封になった。
代わって田辺城主になったのは牧野親成(ちかしげ)、石高は3万5000石。この時
田辺城は大改修されて明治維新に至っている。牧野氏もまた明治まで田辺城主を継承し
因幡守富成(とみしげ、親成の弟)―佐渡守英成(ひでしげ、富成の甥)
豊前守明成(とししげ、英成2男)―豊前守惟成(これしげ、明成3男)
佐渡守宣成(ふさしげ、惟成5男)―豊前守以成(もちしげ、宣成長男)
内匠頭節成(ときしげ、以成の甥)―内匠頭誠成(たかしげ、節成長男)
内匠頭弼成(すけしげ、誠成長男)と、合計10代に亘った。宣成の代(寛政の改革期)
田辺城で藩校・明倫館が開かれて藩士子弟の学問奨励を行っている。最後の藩主である
弼成は1869年(明治2年)版籍奉還で知藩事とされたが、この時に藩名を紀伊田辺藩との
混同を避けるべく舞鶴藩に変更。舞鶴は冒頭に記した通り田辺城の雅号であり
程なく行われた1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県において藩名が舞鶴県として
受け継がれ、現在では市の名称(京都府舞鶴市)となってござる。
廃藩ならびに廃城令発布に伴い1873年(明治6年)廃城とされ、城跡は市街地に没した。
田辺城の縄張りは満々と水を湛えた3重の堀を有する輪郭式で、天守を揚げた本丸を中心に
二ノ丸、さらに三ノ丸が周囲を取り囲んでいた。その規模は東西およそ1km×南北約1.5km、
広大な敷地を誇っていたが、これらが今ではほぼ全て西舞鶴の市街地となっている。
それでもごく僅かに残る水路などにかつての堀跡を垣間見えるが、主として残るのは
本丸(のごく一部)部分のみでござろう。JR舞鶴線西舞鶴駅の北、500mほどの位置に
舞鶴公園として整備され、市民の憩いの場となっている。ここには1940年(昭和15年)に
2重隅櫓を模した彰古館が建てられ、1997年(平成4年)には復興大手門も建てられた。
この大手門は木造建築、内部は田辺城資料館となっている。ただし、隅櫓・大手門とも
旧来の位置にあったものではないので注意が必要。公園内にある純然たる城郭遺構は
天守台であった石垣や、部分的な土塁のみでござる。ともあれ、彰古館や復興大手門は
景観に合うような作りとなっているので好感が持てる。また、資料館も入館無料だ。
公園には復元された藩主庭園なども開放されており、訪れる人も数多い。
なお、公園の向かいにある明倫小学校には藩校・明倫館の門が残されている。
そして大手門の前は舞鶴警察署。路上駐車は止めませう (^ ^;


現存する遺構

明倫館門・堀・石垣・土塁・郭群




丹波亀山城  淀古城・淀城