丹波国 福知山城

福知山城再建天守

 所在地:京都府福知山市字内記・字岡ノ

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★★★■■



「掻上の城」から「丹波の名城」へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
福知山市役所の東およそ300mの位置にある小山に初めて城を築いたのは戦国時代初期、在地国人・塩見大膳大夫頼勝
(しおみよりかつ)の手に由るものだと言われている。当時の城は空堀と土塁だけで作られた簡易な掻上の城で、龍ヶ城と
名付けられていたが、そのまま掻上城とも称する事もあった。頼勝の父は小笠原大膳大夫政信と言い、信州の名族として
名の知れた小笠原氏と同族である。丹波の小笠原氏は室町幕府草創期に将軍・足利尊氏から天田(あまた)郡を与えられ
そのまま土着した系譜。天田郡というのは福知山周辺の郡で、頼勝は郡内各所で城を築き子供らを其々の城主として配し
天文年間(1532年〜1555年)には天田郡全域を掌握したと伝わっている。そうした塩見氏の本拠となったのが龍ヶ城つまり
後の福知山城でござった。頼勝の嫡男・頼氏が城を受け継ぎ、城名を横山城と改め、自身の姓も横山として横山大膳大輔
頼氏と名乗っている。その次代は頼氏の子・信房が城と横山大膳大輔の名を継承した。■■■■■■■■■■■■■■
記録上に城の存在が出てくるのは天正年間(1573年〜1592年)。畿内の大半を織田上総介信長が押さえ、その先鋒として
明智日向守光秀が丹波国へと侵攻してきてからだ。丹波国人衆は往々にして集合離散を繰り返し互いに相争っていたが
光秀の侵攻に対しては一致協力して対抗、織田家への服従を拒んでいた。勿論、横山氏も国人衆の一翼を担って光秀に
反抗していたが、強大な軍事力を誇る光秀は各個撃破を敢行。1579年(天正7年)8月20日から光秀配下の将が横山城へ
攻撃を開始し、横山信房は弟や一族と共に防戦に努めたものの敗れて自刃、或いは戦死していった。斯くして光秀による
丹波統一が成り、信長もその功績を讃え、翌1580年(天正8年)には丹波一国が光秀の所領として認められている。■■■
光秀は丹波統治に於いて自身の居城(本拠)となる亀山城(京都府亀岡市)を用いた一方で、天田郡支配の拠点としては
横山城を重んじ、これを「福智山城」と改名して近世城郭への大改造を行った。それまであった掻揚げの横山城は、石垣
造りの強固な城郭へと生まれ変わり、城代として藤木権兵衛(光秀家臣)と明智左馬助秀満(光秀の娘婿?)が入った。
なお、早急な築城に際して不足する石材を補う為、領内各所から供出された転用石が数多く組み込まれている。従前では
“神仏を恐れぬ信長”の家臣である光秀もまたそれに倣って石仏や墓石と言った祭祀用石材を構わず使用し、宗教勢力を
屈服させようとした、若しくは神仏の加護を得る為にそういった石材を用いたと考えられていたが、近年では統治者として
善政を敷いていた光秀の功績から、「無理に徴発したのではなく、後に新たな石を返還する約束で」石材を集めたのだと
唱える説もござる。いずれにせよ、近世城郭として生まれ変わった福智山城は丹波国内でも有数の名城となり、城下町も
整備された。現在も城下を流れる由良川の河畔には「明智藪」と呼ばれる堤防が残り、光秀による治水事業の痕跡として
知られている。また、市街地は短冊状の町割りになっているが、これも光秀以来の都市政策が残るもの。福知山は山家や
綾部から至る東西方向の街道と、篠山・黒井から与謝峠を越え宮津へ結ぶ南北交通の結節点にあり、更に由良川を下り
舞鶴湾へ入れる水上交通の恩恵も受ける地点。それまでの丹波国内では戦国期ならではの山城が主流であったものを
城下町(経済流通)開拓に重きを置いた平地の平山城として横山城を重視したのは流石、光秀の天才ぶりと言えよう。

本能寺の変、そして関ヶ原を経て■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
織田家の山陰方面軍総司令官となった光秀は丹波を降し、福智山・丹波亀山を拠点として中国地方の太守・毛利氏との
対決に備えた。が、1582年(天正10年)6月2日、京都本能寺に主君・信長を襲い謀殺。その光秀も山崎の戦いで同月13日
羽柴筑前守秀吉に敗死し、天下の形勢は秀吉に傾いた。丹波は羽柴家勢力下に入り、福智山城は秀吉の養子・於次丸
秀勝(ひでかつ)が城主となるも、すぐに杉原伯耆守家次(すぎはらいえつぐ)へと交代。家次は秀吉正室・寧子の伯父に
当たる人物だ。その家次が1584年(天正12年)9月9日に没すと、今度は小野木縫殿助公郷(おのぎきみさと)が城主に。
公郷は1600年(慶長5年)の関ヶ原戦役で西軍に属し、東軍・細川家の城である田辺城(京都府舞鶴市)攻撃戦に参加。
田辺城は歴戦の名将・細川幽斎(ゆうさい)が籠るが、守備兵は僅かに500程度。対する攻撃側は1万5000を越える兵で
勝負は見えたかに思えたが、幽斎はあらゆる手を尽くして戦闘は膠着。そうこうしている間に関ヶ原本戦で東軍が大勝し
追われる側となった公郷は福智山へ兵を退く事になった。今度は細川越中守忠興(幽斎嫡男)の兵が福智山城を包囲し、
結果、公郷は11月18日に自刃して開城するに至ったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
関ヶ原合戦後の論功行賞で同年12月から有馬玄蕃頭豊氏(ありまとようじ)が6万石で入府する。この時に城と城下町の
再整備が為され、名前も「福知山城」に改めた。この整備で現在の福知山の町が形取られるようになり申す。翌1602年
(慶長7年)7月28日、豊氏の父・刑部卿則頼(のりより)が病没するとその遺領2万石も受け継ぎ8万石となり、大坂の陣に
於いても戦功を挙げた豊氏は、1620年(元和6年)閏12月8日に筑後国久留米(福岡県久留米市)21万石へと大躍進の
加増となって転封される。それに代わって翌1621年(元和7年)8月から岡部内膳正長盛が丹波亀山から5万石で入封。
その長盛が1624年(寛永元年)9月に美濃国大垣(岐阜県大垣市)5万石へ移封されると、摂津国中島(大阪府大阪市)
4万5700石を領していた稲葉淡路守紀通(のりみち)が福知山へと配された。ところがこの人物はかなりの危険人物で、
近隣大名との騒動、領内農民の大量殺害、果ては福知山城の空堀に水を入れる(武家諸法度違反)など様々な問題を
起こした。遂に所業を疑われ、幕府から詰問のため江戸へ上がるよう命令が下ると1648年(慶安元年)8月20日、福知山
城中で自害して果てる。幕府は紀通が謀叛を企んでいる可能性すら危惧し、周辺諸藩へ福知山城包囲の出兵まで用意
させていたと言う。稲葉氏は改易となり、暫くの間は幕府が福知山を統治する時代になった。代官として彦坂平九郎と
小川藤左衛門が実務に当たり、この期間を過ごしている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、1649年(慶安2年)2月18日から1669年(寛文9年)6月8日までは深溝(ふこうぞ)松平主殿頭忠房(ただふさ)が
福知山城主に任じられ、4万5000石を領していた。次いで入封したのは朽木伊予守稙昌(くつきたねまさ)、3万2000石。
前任地は常陸国土浦(茨城県土浦市)2万7000石であった。これまでの城主はいずれも代替わりせずに転封や改易を
受け続けていた福知山であるが、以後は明治維新まで朽木氏13代に亘って治める城とされたのでござる。稙昌の後、
民部少輔稙元(たねもと)―伊予守稙綱(たねつな)―土佐守稙治(たねはる)―土佐守玄綱(とうつな)―出羽守綱貞
(つなさだ)―伊予守舖綱(のぶつな)―隠岐守昌綱(まさつな)―土佐守倫綱(ともつな)―土佐守綱方(つなかた)―
隠岐守綱条(つなえだ)―河内守綱張(つなはる)―伊予守為綱(もりつな)と続いている。■■■■■■■■■■■■

福知山城の構造と移築建造物■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1869年(明治2年)6月20日、版籍奉還で為綱は福知山知藩事に。次いで1871年(明治4年)7月15日に廃藩置県。これで
福知山藩は福知山県になり、更に豊岡県を経て京都府へ編入されている。廃藩に伴い城は廃城、1873年(明治6年)の
廃城令によって処分されており、城内の諸建築は大半が破却・移築されてしまう。城の縄張りは由良川・土師(はぜ)川
法(ほう)川の3川が合流する地点のすぐ西側にある朝暉ヶ丘(あさひがおか)という小丘陵頂部を本丸とし、そこから西へ
下る台地中腹を二ノ丸、更に西側にある別の小山を繋げて三ノ丸(伯耆丸)・内記丸と大きく4つの曲輪を連郭式に並べた
ものだった。二ノ丸と三ノ丸の間は堀切を穿ち分断。この他に数々の小曲輪が付属、周囲を3重の堀で囲っていたのだが
明治期、福知山に駐屯した陸軍歩兵第20連隊が演習場への通行確保を目的に二ノ丸部分を削り取り、周囲の平地と
同じ高さにしてしまった。この為、現在の城址は本丸部分と伯耆丸部分だけが独立した山になっていて、往時の縄張は
あまり感じられないようになってしまった。城全体の規模は東西およそ500m×南北350m程度(最大)という感じで、本丸
標高は海抜43mを数えてござる。周囲との比高は30mほど。本丸には「豊磐ノ井(とよいわのい)」と名付けられた井戸が
掘られ、その底は海面下7mに達する。つまり深さは50mもある事になる。聞けば城の本丸にある井戸としては日本一の
深さだとか(随分と限定された括りだがw)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築現存する建築物は城門が7棟と能舞台、それに番所建築。福知山市内にある浄土宗霊光山法鷲(ほうしゅう)寺
曹洞宗明鏡山正眼(しょうげん)寺・浄土真宗慈光山照仙寺・浄土真宗朝耀山明覚寺・真言宗長谷山瑞林寺・真言宗
瀧山観瀧(かんりゅう)寺のそれぞれ山門(観瀧寺は南門も)が福知山城の旧城門だったものと伝わり、いずれも市の
重要文化財に指定されてござる。瑞林寺山門は2006年(平成18年)3月23日、それ以外の6棟は1997年(平成9年)4月
24日の指定。市内、一宮神社の能舞台も同様。厳密に言えば、城の鎮守である朝暉神社の能舞台が移されたものだ。
そして二ノ丸にあった銅門番所は続櫓部分が1916年(大正5年)に本丸内へ移築されて現在に至る。なお、浄土真宗の
瑞華山長命寺にも移築門があったそうだが、近年改築されてしまい鬼瓦が保存されているのみとの事。他に城跡での
出土遺物として小刀・竹筆・銅鏡・銅銭を封入した丹波壺が1986年(昭和61年)に確認されている。■■■■■■■■

特徴ある天守、その追究■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、福知山城での再建建築として目を惹くのが天守(写真)でござろう。明治初期に破却された天守は、本丸中心に
聳えていて外観3重の姿は遥か彼方からも見つけられる福知山城の象徴であった。既に1973年(昭和48年)の時点で
再建計画が立ち上がり、地質調査も行われ、東京工業大学の藤岡通夫博士による基本設計図が引かれていた。だが
時代はオイルショックの頃で、一度は計画が頓挫。しかし粘り強く再建の機運を育み、1983年(昭和58年)から予算を
調達するようになり、寄付金も含めて財源を確保した。1985年(昭和60年)に小天守部分と続櫓が完成して、翌1986年
(昭和61年)大天守も竣工、その翌日・11月10日に郷土資料館として開館し申した。■■■■■■■■■■■■■■■
再建天守は鉄筋コンクリート造り、3重4階。総高20.2mで延床面積は1063u。大天守本体は南北方向にかなり細長い
長方形の敷地を有し、その西面には半分近くを塞ぐような附櫓が張り出す。また、東面には複雑に重なる入母屋破風が
存在している。初重と2重目はほぼ同大、その上に大入母屋破風が長辺方向に切られ(普通は短辺側になる)更にその
上部に3重目の望楼が小さく乗っかる形状。入母屋破風の向きが通常と異なる上、望楼部が余りに小柄、そして破風や
附櫓が複雑に構成され、他の城の天守に比べてかなり独特の外見を見せる建物だ。江戸期は天守の南側に2重2階の
菱櫓が繋がっていたとされ、更に複雑だったようである。天守群は増築に増築を重ねてこのような形状になったらしく、
天守台の石垣にも積み増しの痕跡が見受けられる。なお、この天守台は江戸時代からそのまま残るもの。天守台の他
周辺各所に残る城址遺構の石垣は1965年(昭和40年)10月14日、福知山市史跡に指定されている。また、福知山城は
2017年(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から続日本百名城の一つに選ばれ申した。■■■■■■■■■
下見板張りの天守は武骨な外観でありながら、大入母屋破風の雄大さが目を惹いて上品な雰囲気も醸し出す。藤岡
博士は数少ない古文書史料を基にこの形状を導き出したとの事だが、2020年(令和2年)に城郭模型作家の島充氏が
福知山城天守の鶏卵紙古写真を確認、復興天守の外観がほぼ忠実な再現であると証明された。島氏はこの古写真を
元に精密な計測図を測り直し、その模型を製作との事だ。藤岡博士と島氏、両者の熱意と頭脳を改めて称賛したい。
龍ヶ城・掻上城・横山城の別名は記したが、他に臥龍城・八幡城などの別称もある。■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
法鷲寺山門・正眼寺山門・照仙寺山門・明覚寺山門
瑞林寺山門・観瀧寺山門・観瀧寺南門(いずれも伝福知山城城門)
一宮神社能舞台(旧朝暉神社能舞台)《以上市指定重要文化財》
銅門番所続櫓




(指月・木幡山)伏見城  丹波亀山城