若狭国 小浜城

小浜城天守台

 所在地:福井県小浜市城内

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★■■■



日本海の海城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
福井県小浜市にある平城。現在の小浜市中心街からはやや北に偏った位置にある。ここは市内を流れる北川と南川それに
多田川の河口が集約しており、城地は川に挟まれた立地。これらの川が北面と南面を洗い、西面は海となっており、天然の
水濠として利用していた。日本海側では稀な海城(海に面して防備を固めている城)で、小浜湾に浮かんだ三角州は南東隅
だけが陸地に接続し(それも橋と橋で結ばれた細い隘路)、その内部に曲輪を構える。三角州の中心に正方形をした本丸を
置き、その南に二ノ丸、東に三ノ丸、北に北ノ丸、西に西ノ丸を配した典型的な輪郭式の縄張り。現状では北川(多田川)や
南川は河川改修にて当時とは異なる流路となっており、本丸を囲っていた内濠の北辺や二ノ丸の南半分がこれらの河口に
取り込まれている。必然的に城地も整地されて、現在では本丸敷地の西側3分の2程度が残存するのみ。その本丸敷地にも
民家が密接して建てられるようになっており、なかなか往時の“水に囲まれた名城”ぶりを推察するのは難しい時代になって
いる。他方、今に残された本丸跡地の内部は小濱神社として保全されており、天守台をはじめとする石垣が境内の中だけは
綺麗な状態を維持している。江戸期、本丸と二ノ丸に御殿が建てられ、本丸の外周のみならず城域全体の外縁部にも各種
櫓が揚げられ、その数は42にもなったとか。他に櫓門が5棟、多聞櫓も10棟あったそうだ。中でも西ノ丸の西面(つまり城の
最西部)の多聞櫓は遠見所、北西端の櫓が浪洗櫓、南西端は船見櫓とされ、海面への警戒に重きを置いていた様子が良く
分かる。海城(水城)故に軍船の往来は城の存立を左右する重要な問題であったと言える訳だが、反面、統治拠点たる近世
城郭としては、物流(即ち経済活動)を担う船舶への関心が高かった意味もあろう。小浜城の別名は雲浜(うんぴん)城だが
これは「雲の浜」に築かれた城だからだとか。この「雲の浜」とは、かつて漁師が網を干し、その情景が蜘蛛の巣の如き様子
だった事から「蜘蛛の浜」を「雲の浜」と雅に言い換えたものなんだとか。蜘蛛の巣を広げていた漁師たちは、築城に先立ち
この地から退去させられたそうだが、それだけ「雲の浜」が海上交通を睨む要衝で、是が非でもここに築城したかったと言う
事だったのであろう。城地総面積は6万2492u、うち本丸面積は1万347uでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■

近世城郭として築城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小浜は室町時代に若狭守護だった武田氏が居を構え、市街地の南西にある後瀬山(のちせやま)に城を築いていた。戦国
争乱に伴って武田氏は没落、越前朝倉氏が侵攻してくるものの、その朝倉氏が滅ぶと織田信長配下の丹羽五郎左衛門尉
長秀(にわながひで)が入城。そして関ヶ原合戦の後、後瀬山城は廃城となり新たにこの小浜城が築かれる。一連の関ヶ原
戦役に於いて、大津城(滋賀県大津市)を死守し東軍の勝利に大きく貢献した京極左近衛少将高次(きょうごくたかつぐ)は
徳川家康に高く評価され大津6万石から若狭一国8万5000石へ加増転封、1600年(慶長5年)10月に入国する。入封の翌年
1601年(慶長6年)から築城工事を開始。縄張は高次の家臣・安養寺三郎左衛門氏種(あんようじうじたね)と赤尾伊豆守が
行ったと言い、石垣に用いる石材は若狭全域に船を出して集めさせたとか。これは水際の軟弱地盤に築城する為、基礎を
固める石材が膨大な量必要となり、近隣の石ではとても足りなかったからと言う事らしい。1607年(慶長12年)城は一応の
完成を見たとされるが、その後も工事は継続されている。1609年(慶長14年)5月3日に高次が没して長男の若狭守忠高が
家督を継ぎ、築城事業も引き継がれたが、京極家は江戸城(東京都千代田区)天下普請や大坂の陣への出征など幕府に
対する奉公にも労力を割いており、もともと難工事である低湿地での築城は更に長引く事となったようだ。■■■■■■■
1634年(寛永11年)閏7月6日、京極家は出雲・隠岐2ヶ国の太守に任じられ、出雲国松江(島根県松江市)26万石へと加増
転封。代わって徳川譜代大名である酒井讃岐守忠勝が武蔵国川越(埼玉県川越市)10万石から小浜城主に。所領は若狭
一国と各地の飛地を加え12万3500石。後に酒井家は加増を受け13万3000石にまでなっている。以後、明治維新まで酒井
氏が城主を務めた。忠勝は京極氏時代からの築城工事を進め(むしろこれを新規の工事と見る向きもある)、まずは石垣や
塀の破損個所を修復、堀の浚渫から着手。続いて翌1635年(寛永12年)より天守の築造を開始、これには幕府直属の大工
中井五郎助正純(初代大工頭・中井大和守正清の弟)が召し出され建造を行い、1636年(寛永13年)に竣工した。同年には
中櫓や船見櫓・浪洗櫓も完成している。1642年(寛永19年)に百間橋虎口や大手門が完成した後、1645年(正保2年)本丸の
多聞櫓が出来上がった事で最終的な工事完了となった。京極高次の築城開始以来、実に45年にも渡る大工事であり、故に
本来は破却されるべき旧来の城・後瀬山城は1642年まで維持されたと言う。とは言え、一国一城令(1615年(元和元年))や
寛永の破城令(1638年(寛永15年))が発布された後にも関らず後瀬山城は明確な破却が行われておらず、小浜藩が有事
再利用を考えていた節もある。戦で立て籠もるならやはり山城、という事なのだろうが、裏を返せば平城の小浜城は統治に
特化した政庁城郭として使用した訳である。しかし一方で京極高次が山城より海城を選んだのは、大津城での経験を活かし
有り余る水を防御に用いる術を心得ていたからだと見る向きも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

被災と廃城への歴史■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな近世統治体制の象徴だったのが天守。小浜城天守は3重3階、多聞櫓と繋ぐ複合式天守であり、天守本体の寸法は
1階平面が7間×8間(床面積185.5u)、2階が3間×6間(同99.4u)、3階が3間×4間(同39.7u)、高さ9間3尺5寸であった。
この天守は1874年(明治7年)まで残ったと言う。一方、他の建築や石垣・堀は度々の災害に見舞われ破損と再建(再築)を
繰り返す。1655年(明暦元年)城内各種の建物は瓦の葺替えが行われるも、1662年(寛文2年)大地震により多くの石垣が
崩壊。1794年(寛政6年)には洪水が発生し大手口が潰された。また、1801年(享和元年)には大規模な堀の浚渫も行って、
川に直結した城ならではの苦労が想像できよう。海側には多くの“捨て石”が沈められて、現代で言う消波ブロックのような
機能を持たせていた。これもまた、波による浸食を防ぐための「防備」が必要だった訳だ。■■■■■■■■■■■■■■
小浜藩主酒井家は忠勝の後、修理大夫忠直―遠江守忠隆―靭負佐忠囿(ただその)―修理大夫忠音(ただおと)―備後守
忠存(ただあきら)―讃岐守忠用(ただもち)―遠江守忠与(ただよし)―修理大夫忠貫(ただつら)―讃岐守忠進(ただゆき)
―修理大夫忠順(ただより)―修理大夫忠義(ただあき)―若狭守忠氏(ただうじ)と続き幕末維新を迎えた。譜代の名門・
雅楽頭酒井家は代々に渡って老中や大老を輩出していたが、中でも幕末の老中を務めた忠義は大老・井伊掃部頭直弼に
同調して安政の大獄を推進、桜田門外の変で井伊が討たれた後はその反動で失脚を余儀なくされる。それに代わり家督を
継いだ忠氏は、鳥羽伏見の戦いまでは幕府方だったが、敗戦に際して新政府へ与するも藩内佐幕派の動きを抑えられず
閉塞する。その結果、右京大夫忠禄(ただとし)と名を変えていた忠義が藩主の座を再相続するのである。斯くして明治の
新時代を迎え、版籍奉還で小浜知藩事となった所で忠禄はその座を右京亮忠経(ただつね)に譲った。さりとて、直後には
廃藩置県が断行され、忠経は職を解かれた。このため、1871年(明治4年)7月14日から小浜藩は小浜県となり、城は県庁
および大阪鎮台分営として用いられる事となる。但し、小浜県は同年11月20日に敦賀県に統合され、更には滋賀県を経て
福井県へ編入。そして大阪鎮台分営が改修工事を行っていた12月、二ノ丸から火災が発生。この火事は城の大半を焼き、
目立った建物は天守を残すのみとなる。しかし奇跡的に残った天守も、先述した如く1874年に老朽化を理由に売却処分を
受け、1872年(明治5年)には城内を南北に貫通する道路建設で多くの石垣も崩された。こうして、城地は近代化・宅地化の
波に飲み込まれ、現在ある姿に変貌していったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

小浜城の今、そして未来へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小濱神社は1875年(明治8年)藩祖である酒井忠勝を祀って建立。本丸を囲う一連の石垣はそのままの姿で残されている。
この石垣群は見事なもので、天守台からは小浜市街や後瀬山を望むことができる。残存石垣が評価され、城跡は1956年
(昭和31年)3月1日、福井県の史跡に指定された。移築遺構としては、御殿書院の玄関部分だけが市内多田にある真言宗
石照山(せきしょうざん)多田寺に残る。また、藩校「順造館」正門も福井県立若狭高等学校の敷地内にある。■■■■■
城址では昭和50年代および平成前期に数次の発掘調査が行われた。それによれば、城としての遺構は地下で良好に残存
しており、中でも第4次調査では長局跡が検出されている。この長局は正保城絵図(正保年間に幕府が城郭図を諸大名に
提出させたもの)や他の小浜城絵図には描かれておらず、酒井忠勝が1645年3月23日付で記した書面にのみ存在が記され
長らく存在が不明であった建物。この調査で場所が特定され、隣にある井戸は長局専用のものだったとも考えられるように
なっている。発掘で数多く出土したのは瓦で、菊花紋・巴紋・檜扇紋・剣方喰紋などが捺された軒丸瓦が特に目立つ。なお、
剣片喰紋は城主・雅楽頭系酒井家の紋であり、小浜城の建造物が酒井家の統治下で成立した様子を物語る。■■■■■■■
ところで小浜城には人柱伝説があり、それに関連した地蔵尊が城地の脇に安置されている。京極高次が築城を開始した
1601年、安全護持のため豪商・組屋六郎左衛門の娘が人柱にされた。時は過ぎて酒井忠勝の入封後、城代家老の三浦
帯刀は蜘蛛手櫓の近くで毎夜女の啜り泣く声がすると聞き、人柱となった娘の話を知る。彼女を憐れみ、「組屋地蔵尊」を
奉り本丸の守護とした。ところが1662年5月の大地震で石垣が崩れ、その修復の際に地蔵は他の石に紛れて行方不明と
なってしまう。爾来、地蔵は謎のままだったが1953年(昭和28年)9月の水害で石垣が再び崩れ、それを1959年(昭和34年)
修理していたところ発見されるに至る。こうして、地蔵は約300年を経て再度祀られる事になったそうな。今後は城が不幸な
災害に見舞われないよう、お地蔵さまに願いを託したい。小浜市では破却された天守を復興すべく調査研究を行っており、
それが上手く運ぶよう、併せて祈願したいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡

移築された遺構として
多田寺庫裡玄関(御殿書院玄関部分)








若狭国 佐柿国吉城(佐柿陣屋)

佐柿国吉城からの眺望

 所在地:福井県三方郡美浜町佐柿

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★■■



難攻不落の堅城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
単に国吉城とも。若狭国の東端を塞ぐ街道の要衝。若狭国と越前国の境界は、現代の三方郡美浜町と敦賀市の境に相当し
国境の山塊を越えるのが関峠、現在の福井県道225号線やJR小浜線の線路が山越えをする地点だが、関峠から若狭側へ
入って佐田(さた)・太田・山上(やまがみ)の3集落を通過すると再び天王山(てんのうやま)〜御岳山(おたけやま)の山塊が
街道を遮る事になる。ここを抜けるのが椿峠で、天王山と御岳山の“鞍部”と言える地形だ。その椿峠を南から監視・制圧する
標高197.3mの山(御岳山北辺の小ピーク)に築かれたのが佐柿国吉城である。海岸線入り組む若狭湾の至近にある城山は
海から僅かに1km弱で山頂がある為、標高がそのまま比高と言えよう。ちなみに、椿峠の標高は60m程(但し、現在の峠道は
線路の敷設に伴い切通しになっているので、元地形より少し削られて50mを切る)なので、城からは容易に側面攻撃できる。
国境封鎖の天険と言うに相応しい地勢・地形が佐柿国吉城であるが、来歴も華々しく“若狭の不沈戦艦”と言うべき堅固さも
誇っている。以下にその歴史を記し申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここに城を築いた最初の人物は常国国吉(つねくにくによし)なる者だと言う。伝承では南北朝期の事だと言い、「国吉の城」
それが国吉城の城名に繋がった訳だが、当時(戦国時代まで)は地名の「佐柿(佐賀伎)城」と呼ばれていたそうだ。その後、
室町幕府の成立により若狭国守護は一色氏が任じられ、6代将軍・足利義教の頃に武田氏へ挿げ替えられる。この武田氏
(若狭武田氏)は出自が安芸武田氏(安芸国(現在の広島県)に根付いた甲斐源氏の一族)で、元を辿れば甲斐の武田氏と
同族である。即ち、戦国最強を謳われる武田信玄(時代はこれより後だが)と同じ血筋と言う事になるのだが、若狭武田氏は
さほど武勇に秀でた一族ではなく、応仁の乱以後の戦国乱世に至って勢力を弱めた。そんな斜陽の若狭武田氏の家臣中で
戦国時代後期に気炎を揚げたのが粟屋越中守勝久(あわやかつひさ)だ。粟屋氏の出自には不明瞭な事が多いがこちらも
甲斐源氏武田氏の分流・安田氏の流れを汲むとされ、常陸国真壁郡粟屋庄(茨城県筑西市、甲斐源氏所縁の地)に土着し
その名を名乗るようになったとか。若狭武田氏の家臣には他に逸見(へんみ)氏なども居るが、これも甲斐源氏庶流に当たる
血筋で、武田氏が甲斐→常陸→甲斐→安芸→若狭と移ったのに伴い同行してきた随臣と考えられよう。武田氏の若狭入国
当初、粟屋氏は遠敷郡(おにゅうぐん、若狭国中西部)に封じられていたが後にその所領は召し上げられ、経緯は不明ながら
戦国後期になると三方郡へ勢力範囲を移していたと推測されている。勝久は「国吉の城」の古城跡地に1556年(弘治2年)、
改めて築城。この城を拠点に、武田家臣として、そして独立領主としての働きに邁進する。当時の武田家では越前朝倉氏に
迎合しようとした前当主・大膳大夫義統(よしずみ、よしむねとも)に対し長男である後継者・孫八郎元明(もとあき)は反発、
反朝倉の姿勢を示した。若狭の独立(および自身の権益確保)を守ろうとした勝久は元明に与し義統と対立。そのため武田
家中での争乱を鎮める大義名分で朝倉氏の侵攻が1563年(永禄6年)から始まったが、佐賀伎城(と、ここでは記す)に籠る
勝久はこれを数度に亘って撃退し続ける。史料によって異なるようだが、朝倉軍による佐柿城攻めは1556年・1563年8月〜
9月・1564年(永禄7年)9月・1565年(永禄8年)8月〜9月・1566年(永禄9年)8月・1567年(永禄10年)8月とほぼ毎年のように
行われた。されど堅城・佐柿城は屈しない。その固さは、江戸時代初期に作られた軍記物「若州(じゃくしゅう)三潟(三方)郡
佐柿國義(国吉)籠城記」で朝倉方の申分を「国吉城数年ノ間攻ルト雖城郭嶮岨ニ〆自由ニ寄難キ故ニ味方一度モ無得利」
国吉城を数年の間攻めると言えども城郭険阻にして自由に寄せ難き故に味方一度も利を得る事無し、と記している。この
「国吉籠城記」は、籠城戦に参加した(つまり粟屋勢の)田辺宗徳入道、戦の当時は田辺半太夫安次(はんだいやすつぐ)と
名乗った現地の侍が、戦乱の終わった江戸時代になってから自身の回想録として体験記を著したもので、小浜藩主に献上
された。故に、城方目線での記載な上に後世になって写本が流通(当然その時に誤伝や勝手な追記が為される)する事に
なった為、必ずしも真実だけ伝えた訳では無いが、他方で敗戦を続けた朝倉方に当時の記録が殆ど無い(=“汚点”として
記録に残せなかった)事から、それを反証する論拠が無い、概ね事実を残した内容だと言える。■■■■■■■■■■■■

信長・秀吉・家康と国吉城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが1568年(永禄11年)4月、朝倉勢は作戦を変えて若狭へ侵攻する。椿峠を一気に抜けるも、佐柿城を無視してそのまま
後瀬山城(若狭武田氏の本拠)を攻略。朝倉勢との交戦を回避した粟屋勝久であったが、武田元明は囚われの身となり、
朝倉氏の本拠・越前一乗谷館(福井県福井市)へ拉致されてしまう。朝倉方は虜囚の元明に命じ勝久の降伏を促すものの
勝久は「例え孫八郎殿の敵になろうと、朝倉義景に同心するなど思いもよらぬこと」と、徹底抗戦の構えを崩さない。以後、
佐柿城は“独立領主としての”粟屋勝久が維持した。その一方、朝倉左衛門督義景は京都を掌握した織田上総介信長との
対立を深めていく。必然的に、勝久は“義景の敵”信長と接近するようになり、その信長が1570年(元亀元年)4月に朝倉氏
討伐を開始すると共闘に動いた。4月20日に京都を出発した信長軍は、23日に佐柿城へ入城。この時、勝久は城内を掃き
清め倉見峠(現在の福井県三方上中郡若狭町内、国道27号線が越える峠。近江今津から若狭湾へ抜ける路)まで信長を
出迎えに行ったとあり、信長からは「お褒めの言葉」を頂き、城下町の整備を申し付けられたと言う。信長の軍は25日まで
佐柿城に逗留。旧説では、信長は当初から朝倉攻めを目論んで越前へ接近したと言われてきたが、近年では若狭平定や
義景との外交交渉を行う為に北進し、それが決裂したので越前侵攻に踏み切ったと言われている。佐柿に2日間滞在した
日程は、或いはそうした作業を行っていたのであろうか。ともあれ、佐柿城を出発した織田軍(と同盟者の徳川軍)は越前
攻略を開始して瞬く間に手筒山城と金ヶ崎城(共に福井県敦賀市)を占拠したが、そこで信長の義弟・浅井備前守長政の
離反が発覚する。眼前の朝倉勢と背後の浅井勢から挟撃される危機を脱すべく、織田・徳川軍は全軍撤退の止む無きに
至った。世に云う“金ヶ崎の退き口”である。信長は僅かな供回りだけ連れていち早く戦場を離脱し、残された諸将は敵の
追撃を防ぎながらの撤収を敢行。中でも木下藤吉郎は殿軍を仰せつかり、また徳川軍も侵攻時に突出していたため逆に
撤退が最後尾となってしまう。図らずも後の天下人となる秀吉・家康の2人が敵に追われる形となったが、両者は敦賀から
この佐柿城を目指したと言う。金ヶ崎から佐柿までは12kmほど、数度に及ぶ朝倉軍の攻撃を跳ね除けた佐柿城まで逃げ
込めば、とりあえずそれ以上の追撃は振り切れると読んだのだろう。ところが、地元の伝承では追われる木下軍が「黒浜」
(佐田集落付近の海岸)で朝倉勢に追い付かれ袋叩きになっていた所を、佐柿城の目前まで来ていた徳川軍が引き返して
助けたと言う。結果、藤吉郎と家康は共に無事帰還する。この時の恩を覚えていたのか、また自身の危機を顧みず救援に
戻って来た“漢気”と“勇猛さ”に畏怖したか、(他の要素もあろうが)後の豊臣政権で徳川家康は「律義者」として大老職を
得たのでござる。そう考えると、佐柿での戦いは後世の天下泰平に大きな影響を与えたと言えなくもない。■■■■■■■
さて1570年は敗退したものの、信長の朝倉攻めは着々と進んで1573年(天正元年)8月に一乗谷までの侵攻が行われた。
この攻略に粟屋勝久も参加、抑留されていた武田元明の開放に成功する。ただ、既に若狭国は織田氏の支配下に置かれ
丹羽長秀が統治する事になり、武田氏の復権は無かった。これに伴い、粟屋勝久も長秀の与力とされる。そして本能寺の
変が発生し、天下の行く末は木下藤吉郎あらため羽柴筑前守秀吉が握るようになると勝久は国替えされ、賤ヶ岳の合戦に
於いては越前の柴田修理亮勝家が来襲する可能性に備え改修を受けたとも伝わっている。1583年(天正11年)5月からは
木村隼人正定光が国吉城主を拝命する。1585年(天正13年)〜1586年(天正14年)にかけては若狭国主・丹羽五郎左衛門
長重(長秀後嗣)の直轄城となり城代として江口三郎右衛門が置かれるものの、その時期を除き1587年(天正15年)までは
定光が佐柿の統治を行い、城や城下町の再整備(これは秀吉が行ったとする説もある)を果たしている。■■■■■■■■
この造成では丹後街道(椿峠を抜けて来る道)の付け替えを行い、国吉城の城下町を貫通するように変更。城から西へは
耳川(美浜町平野部の中心を流れる川)までほぼ一直線の経路とした。それまでは純軍事的な城だった佐柿城を、近世の
経済活動に適した統治城郭たる国吉城へ変更した訳だ。この後、城主が目まぐるしく替わり1587年に浅野弾正少弼長政が
若狭国を持ち城代として浅野平右衛門を入れ、1593年(文禄2年)からは木下式部大輔勝俊が領主になり松原三左衛門を
城代に据えたが、城は概ね木村時代の形が維持されている。関ヶ原後は小浜城の項で記した通り若狭一国は京極高次の
所領となり、国吉城には多賀越中守良利が城代として据えられ、佐柿の町の入口には関所も設置された。ただし、1604年
(慶長9年)6月に佐柿で大火が発生。1615年(元和元年)には一国一城令で廃城になったと見られ申す。■■■■■■■■

国吉城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は山頂部周辺に山城の構えを作り、西麓には城主の平時における館が築かれた。これを別の城(国吉城と粟屋氏館)と
見る説もあるが、然程の乖離がある訳でも無いので当頁では一体のものとして扱う。まず山城部であるが、この城山は概ね
北西方向〜南東方向に向けて尾根が延び、山頂からは西への支尾根がある(他にも細かい尾根がいくつか)。山頂一帯が
本丸で、北西方面への尾根に北西曲輪群(U郭・V郭・W郭・X郭・Y郭の5段構え)、それに西の支尾根に二ノ丸を置いた
縄張り(曲輪名称は現地案内図に準拠)。まず北西曲輪群だが、尾根の傾斜面を階段状に5段で啓開、その切岸は綺麗に
削り落とされている。この切岸は段差が高くて直登する事は不可能だ。必然的に城内通路を使わざるを得ないが、下段の
曲輪から上の曲輪へ上がる毎に屈曲した導入路(つまり虎口)が待ち構え、上段から狙い撃ちされるよう計算されている。
この北西曲輪群から、尾根伝いに降りた位置が椿峠に当たる。即ち、峠(街道)から攻め上がろうとする敵勢が駆け登って
来る経路にこうした厳重な構えが立ち塞がる訳で、朝倉勢を撃退した堅城ぶりはこの構造あっての事と言えるだろう。仮に
その尾根を避けて回り込もうとすると西支尾根が阻害する。二ノ丸は本丸に次ぐ広さがあって、上下2段に分かれた敷地。
この曲輪に兵を置けば、北西曲輪群との挟撃で斜面を迂回してきた敵を蹴散らす事は簡単だろう。また、北西曲輪群から
東側へ回り込もうとした場合は、数条の竪堀が往く手を阻む。そして山頂には本丸。概ね三角形をした敷地は、北西と北東
頂点部が虎口の構えになっていて侵入者へ備える。北西側が北西曲輪群や二ノ丸と接続、北東側は支城への連絡口だ。
また、南の頂点部には櫓台と思しき高まりがある。本丸からは眺望が開け(写真)遠くから寄せ来る敵を監視できる。更に、
本丸をぐるりと取り囲む帯曲輪も備えられていて、多重防御を可能とする。しかも本丸や帯曲輪の斜面は石垣で固められ、
堅固さをより一層増している。と同時に、城の威厳を高める視覚的効果も抜群だ。この石垣は、恐らく木村定光時代に構築
されたもので、豊臣政権による“織豊系城郭”の技術が導入された結果であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、「国吉籠城記」には城についての紹介文も含まれている。それによれば、城の三方は急峻な崖になっていて尾根
筋からも距離があり登る事は出来ない。椿峠の街道は細くて両脇を険しい山に挟まれている。そして城の周囲には大木や
古木が生い茂り、矢玉の障害になっている。大手口は最初平坦だが、九十九折の細道を数十町登らなければならない、と
書かれている。大手口は二ノ丸から城主居館へ至る道の事であろう。日常的に城兵が行き来する道ですら九十九折の道を
登らねばならない険しさで、椿峠からの登り口(大手に対して搦手口とされている)は両脇から狙い撃ちされ、しかも周囲は
厳しい崖で切り立って、更に樹木が邪魔で敵からの攻撃を遮断するようになっていた訳だ。これは現状の城跡と一致する。
一方、現状と異なる記載は城の北側に広がる平野部の記述。現在、坂尻町域内における福井県道225号線とJR小浜線の
線路に挟まれた区画は大規模な圃場開拓が為され一面の田圃になっているが、当時はこれが全て機織池と呼ばれる湖に
なっていた(機織池は極めて小規模だが今も僅かに残されている)。そのため「籠城記」では城の北の守りがこの池で成り、
しかも池には乱杭(らんぐい、敵を足止め・殺傷する為に仕込む杭)や逆茂木(さかもぎ、同様に木の枝や根を使った物)が
沢山仕掛けられていたと記す。これまた、北東方向から来るであろう朝倉勢が大規模に展開できない地形(と罠)になって
いた事が、城を守るに貢献していた様子を雄弁に語っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、城主居館部に目を転じれば、二ノ丸直下の尾根と尾根に挟まれた谷戸を大きく造成し、数段に段差を作った敷地を
重ね、その段差が石垣で固められている。この石垣がいつからあるのか分からないが(これも木村時代か?)粟屋勝久が
城主であった頃から、構造的には大差なくこのような曲輪群が築かれていたようだ。発掘調査では石組の排水溝も検出し
この居館区域が整然と、そして緻密な測量に基づいて構成されていた事は確かだろう。これだけの遺構が残されている為
山城部とは別の居館として認識するのも頷ける。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

佐柿陣屋の時代■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、1604年6月の大火で灰燼に帰した国吉の城下町だが、城代の多賀良利の手によって復興。現状に至る佐柿集落は、
この時の町割りが基本になっている。しかし京極家が1634年に松江へ転封すると、良利もそれに従い佐柿を去る。若狭は
酒井忠勝の所領になったと上記の小浜城にて記したが、佐柿は若狭東端の要衝にして、宿場町として繁栄する重要都市で
あった為、酒井家でも統治を重視する。故に、城主居館部だった敷地の片隅に佐柿町奉行所を設置した。奉行所には屋形
役宅・台所・長屋・番所・制札場など数々の建物が並ぶと同時に、藩主が領内巡検や参勤交代の途上でここへ立寄った際
休憩・宿泊施設となる御殿(御茶屋御殿)も併設されている。奉行所を含む屋敷地面積は2043坪、池泉(庭園)・水路なども
整えられ、大名の邸宅として相応しい格式や機能を備えていたようだ。以後、佐柿は三方郡における政治的中心地、そして
丹後街道の宿場町として繁栄を謳歌する。なお、奉行所は1803年(享和3年)佐柿陣屋へと改称している。また、最幕末期に
水戸藩の尊王攘夷過激派「天狗党」が朝廷への直訴を目指し京都へ進軍するも敦賀で鎮圧された事件「天狗党の乱」では
投降者のうち110名が小浜藩の預かりとなり、1867年(慶応3年)佐柿陣屋の目前に彼らの居住地である准藩士屋敷が構え
られた。これは前藩主・酒井忠義が井伊直弼の協力者として安政の大獄を推進していた為(小浜城の項を参照)、新将軍と
なった徳川慶喜(水戸藩出身、安政の大獄時に井伊直弼と対立)からの報復を受ける恐れがあったとして水戸藩士を厚遇、
心証を良くしようとしたものである。と同時に、幕末の不穏な時代にあっては有事に備えて“荒くれ者”の旧天狗党員を囲って
藩士に准ずる地位を与え住まわせた(これが「准藩士屋敷」と呼ばれる所以)ものでござった。■■■■■■■■■■■■■
さりとて、直後に明治維新を迎え封建時代は終わる事になった。武家統治の拠点であった陣屋は不要のものとなり、各所の
建物は破却・解体・売却されていく。新たな町村制の成立後、暫くは佐柿に三方郡役場や警察分署が置かれていたものの
それが三方村(現在は市町村合併により福井県三方上中郡若狭町)へ移転したため、次第に寒村の様相を呈するように。
しかしそれが幸いし、佐柿の街並みは近代の乱開発を受けず旧来の宿場町という形態を維持し、城跡も手付かずのままで
あった。その後、徐々に郷土の歴史に脚光を浴びる時代が訪れるようになる。先立って1917年(大正6年)福井県史蹟勝地
調査が行われて城山山頂(本丸跡地)に国吉城址碑を設置、1983年(昭和58年)4月1日には城址が町史跡に指定された。
2000年(平成12年)以降はほぼ毎年のように発掘調査が行われて、城域(居館部含む)からは石垣・水路・建物跡(礎石)・
敷石遺構・塀跡の痕跡(曲輪の区画分け跡)・土坑・投石用礫石・門礎など様々な遺構が確認されている。石垣は人為的に
上半分が崩された破城痕が見受けられ、出土品としては土器・陶磁器・生活雑貨など生活遺物が。中でも、本丸南端部の
櫓台には天守を彷彿とさせる大櫓が存在していた可能性が見受けられたと言う。発掘調査と並行して、町では城跡整備の
基本方針を策定し、それに基づいて復元整備を進行させ、2009年(平成21年)4月には陣屋跡に若狭国吉城歴史資料館が
開館した。この建物、地元の大庄屋である田辺家の母屋を移築して再利用した豪壮な建築物なのだが、田辺家と言うのは
「国吉籠城記」を記した、あの田辺半太夫の御子孫なんだとか。そう言われると、もはや国吉城は田辺家の城だと考えても
良いのでは(笑) 江戸時代後期に建てられたこの母屋、桁行6間半×梁間5間余。太い柱や梁は豪農屋敷の様相を伝え、
2018年(平成30年)3月27日に国登録有形文化財となっている。ちなみに、陣屋が廃絶された時に奉行所の二階門が田辺
四郎兵衛家(半太夫家とは別の田辺家)に譲り渡され、歳月を経て破損が激しくなったので2019年(令和元年)4月に解体
されたが、そのうちの門扉部材だけ辛うじて残され同年12月に歴史資料館内へ再移転し一般公開されている。この門扉は
元の場所に里帰りしたと言う事になろう。歴史資料館には広い駐車場も完備(ここが奉行所跡)、車を使えば来訪は簡単で
国吉城址(山上)へもそこから徒歩で登る事になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本百名城に選定された。山麓に広がる数々の遺構、更に
山中の見事な城跡は見応え満点。それまではほぼ無名であった“地元の城”だが、これが続百名城に選ばれたというのは
選者の見識の深さに驚かされると同時に、それに相応しいだけの名城がまだまだ全国各地に眠っている証であろう。佐柿
城下の街並みも古建築が沢山あって、街歩きも併せて楽しみたい。但し、多くの古民家は今なお住民の方が使われている
“現役の住宅”なので、くれぐれも荒らしたり騒いだりせぬようお気を付けあれ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡

移築された遺構として
佐柿奉行所門扉




越前大野城  金ヶ崎城・敦賀城