日本海の海城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
福井県小浜市にある平城。現在の小浜市中心街からはやや北に偏った位置にある。ここは市内を流れる北川と南川それに
多田川の河口が集約しており、城地は川に挟まれた立地。これらの川が北面と南面を洗い、西面は海となっており、天然の
水濠として利用していた。日本海側では稀な海城(海に面して防備を固めている城)で、小浜湾に浮かんだ三角州は南東隅
だけが陸地に接続し(それも橋と橋で結ばれた細い隘路)、その内部に曲輪を構える。三角州の中心に正方形をした本丸を
置き、その南に二ノ丸、東に三ノ丸、北に北ノ丸、西に西ノ丸を配した典型的な輪郭式の縄張り。現状では北川(多田川)や
南川は河川改修にて当時とは異なる流路となっており、本丸を囲っていた内濠の北辺や二ノ丸の南半分がこれらの河口に
取り込まれている。必然的に城地も整地されて、現在では本丸敷地の西側3分の2程度が残存するのみ。その本丸敷地にも
民家が密接して建てられるようになっており、なかなか往時の“水に囲まれた名城”ぶりを推察するのは難しい時代になって
いる。他方、今に残された本丸跡地の内部は小濱神社として保全されており、天守台をはじめとする石垣が境内の中だけは
綺麗な状態を維持している。江戸期、本丸と二ノ丸に御殿が建てられ、本丸の外周のみならず城域全体の外縁部にも各種
櫓が揚げられ、その数は42にもなったとか。他に櫓門が5棟、多聞櫓も10棟あったそうだ。中でも西ノ丸の西面(つまり城の
最西部)の多聞櫓は遠見所、北西端の櫓が浪洗櫓、南西端は船見櫓とされ、海面への警戒に重きを置いていた様子が良く
分かる。海城(水城)故に軍船の往来は城の存立を左右する重要な問題であったと言える訳だが、反面、統治拠点たる近世
城郭としては、物流(即ち経済活動)を担う船舶への関心が高かった意味もあろう。小浜城の別名は雲浜(うんぴん)城だが
これは「雲の浜」に築かれた城だからだとか。この「雲の浜」とは、かつて漁師が網を干し、その情景が蜘蛛の巣の如き様子
だった事から「蜘蛛の浜」を「雲の浜」と雅に言い換えたものなんだとか。蜘蛛の巣を広げていた漁師たちは、築城に先立ち
この地から退去させられたそうだが、それだけ「雲の浜」が海上交通を睨む要衝で、是が非でもここに築城したかったと言う
事だったのであろう。城地総面積は6万2492u、うち本丸面積は1万347uでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
近世城郭として築城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小浜は室町時代に若狭守護だった武田氏が居を構え、市街地の南西にある後瀬山(のちせやま)に城を築いていた。戦国
争乱に伴って武田氏は没落、越前朝倉氏が侵攻してくるものの、その朝倉氏が滅ぶと織田信長配下の丹羽五郎左衛門尉
長秀(にわながひで)が入城。そして関ヶ原合戦の後、後瀬山城は廃城となり新たにこの小浜城が築かれる。一連の関ヶ原
戦役に於いて、大津城(滋賀県大津市)を死守し東軍の勝利に大きく貢献した京極左近衛少将高次(きょうごくたかつぐ)は
徳川家康に高く評価され大津6万石から若狭一国8万5000石へ加増転封、1600年(慶長5年)10月に入国する。入封の翌年
1601年(慶長6年)から築城工事を開始。縄張は高次の家臣・安養寺三郎左衛門氏種(あんようじうじたね)と赤尾伊豆守が
行ったと言い、石垣に用いる石材は若狭全域に船を出して集めさせたとか。これは水際の軟弱地盤に築城する為、基礎を
固める石材が膨大な量必要となり、近隣の石ではとても足りなかったからと言う事らしい。1607年(慶長12年)城は一応の
完成を見たとされるが、その後も工事は継続されている。1609年(慶長14年)5月3日に高次が没して長男の若狭守忠高が
家督を継ぎ、築城事業も引き継がれたが、京極家は江戸城(東京都千代田区)天下普請や大坂の陣への出征など幕府に
対する奉公にも労力を割いており、もともと難工事である低湿地での築城は更に長引く事となったようだ。■■■■■■■
1634年(寛永11年)閏7月6日、京極家は出雲・隠岐2ヶ国の太守に任じられ、出雲国松江(島根県松江市)26万石へと加増
転封。代わって徳川譜代大名である酒井讃岐守忠勝が武蔵国川越(埼玉県川越市)10万石から小浜城主に。所領は若狭
一国と各地の飛地を加え12万3500石。後に酒井家は加増を受け13万3000石にまでなっている。以後、明治維新まで酒井
氏が城主を務めた。忠勝は京極氏時代からの築城工事を進め(むしろこれを新規の工事と見る向きもある)、まずは石垣や
塀の破損個所を修復、堀の浚渫から着手。続いて翌1635年(寛永12年)より天守の築造を開始、これには幕府直属の大工
中井五郎助正純(初代大工頭・中井大和守正清の弟)が召し出され建造を行い、1636年(寛永13年)に竣工した。同年には
中櫓や船見櫓・浪洗櫓も完成している。1642年(寛永19年)に百間橋虎口や大手門が完成した後、1645年(正保2年)本丸の
多聞櫓が出来上がった事で最終的な工事完了となった。京極高次の築城開始以来、実に45年にも渡る大工事であり、故に
本来は破却されるべき旧来の城・後瀬山城は1642年まで維持されたと言う。とは言え、一国一城令(1615年(元和元年))や
寛永の破城令(1638年(寛永15年))が発布された後にも関らず後瀬山城は明確な破却が行われておらず、小浜藩が有事
再利用を考えていた節もある。戦で立て籠もるならやはり山城、という事なのだろうが、裏を返せば平城の小浜城は統治に
特化した政庁城郭として使用した訳である。しかし一方で京極高次が山城より海城を選んだのは、大津城での経験を活かし
有り余る水を防御に用いる術を心得ていたからだと見る向きも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
被災と廃城への歴史■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな近世統治体制の象徴だったのが天守。小浜城天守は3重3階、多聞櫓と繋ぐ複合式天守であり、天守本体の寸法は
1階平面が7間×8間(床面積185.5u)、2階が3間×6間(同99.4u)、3階が3間×4間(同39.7u)、高さ9間3尺5寸であった。
この天守は1874年(明治7年)まで残ったと言う。一方、他の建築や石垣・堀は度々の災害に見舞われ破損と再建(再築)を
繰り返す。1655年(明暦元年)城内各種の建物は瓦の葺替えが行われるも、1662年(寛文2年)大地震により多くの石垣が
崩壊。1794年(寛政6年)には洪水が発生し大手口が潰された。また、1801年(享和元年)には大規模な堀の浚渫も行って、
川に直結した城ならではの苦労が想像できよう。海側には多くの“捨て石”が沈められて、現代で言う消波ブロックのような
機能を持たせていた。これもまた、波による浸食を防ぐための「防備」が必要だった訳だ。■■■■■■■■■■■■■■
小浜藩主酒井家は忠勝の後、修理大夫忠直―遠江守忠隆―靭負佐忠囿(ただその)―修理大夫忠音(ただおと)―備後守
忠存(ただあきら)―讃岐守忠用(ただもち)―遠江守忠与(ただよし)―修理大夫忠貫(ただつら)―讃岐守忠進(ただゆき)
―修理大夫忠順(ただより)―修理大夫忠義(ただあき)―若狭守忠氏(ただうじ)と続き幕末維新を迎えた。譜代の名門・
雅楽頭酒井家は代々に渡って老中や大老を輩出していたが、中でも幕末の老中を務めた忠義は大老・井伊掃部頭直弼に
同調して安政の大獄を推進、桜田門外の変で井伊が討たれた後はその反動で失脚を余儀なくされる。それに代わり家督を
継いだ忠氏は、鳥羽伏見の戦いまでは幕府方だったが、敗戦に際して新政府へ与するも藩内佐幕派の動きを抑えられず
閉塞する。その結果、右京大夫忠禄(ただとし)と名を変えていた忠義が藩主の座を再相続するのである。斯くして明治の
新時代を迎え、版籍奉還で小浜知藩事となった所で忠禄はその座を右京亮忠経(ただつね)に譲った。さりとて、直後には
廃藩置県が断行され、忠経は職を解かれた。このため、1871年(明治4年)7月14日から小浜藩は小浜県となり、城は県庁
および大阪鎮台分営として用いられる事となる。但し、小浜県は同年11月20日に敦賀県に統合され、更には滋賀県を経て
福井県へ編入。そして大阪鎮台分営が改修工事を行っていた12月、二ノ丸から火災が発生。この火事は城の大半を焼き、
目立った建物は天守を残すのみとなる。しかし奇跡的に残った天守も、先述した如く1874年に老朽化を理由に売却処分を
受け、1872年(明治5年)には城内を南北に貫通する道路建設で多くの石垣も崩された。こうして、城地は近代化・宅地化の
波に飲み込まれ、現在ある姿に変貌していったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小浜城の今、そして未来へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小濱神社は1875年(明治8年)藩祖である酒井忠勝を祀って建立。本丸を囲う一連の石垣はそのままの姿で残されている。
この石垣群は見事なもので、天守台からは小浜市街や後瀬山を望むことができる。残存石垣が評価され、城跡は1956年
(昭和31年)3月1日、福井県の史跡に指定された。移築遺構としては、御殿書院の玄関部分だけが市内多田にある真言宗
石照山(せきしょうざん)多田寺に残る。また、藩校「順造館」正門も福井県立若狭高等学校の敷地内にある。■■■■■
城址では昭和50年代および平成前期に数次の発掘調査が行われた。それによれば、城としての遺構は地下で良好に残存
しており、中でも第4次調査では長局跡が検出されている。この長局は正保城絵図(正保年間に幕府が城郭図を諸大名に
提出させたもの)や他の小浜城絵図には描かれておらず、酒井忠勝が1645年3月23日付で記した書面にのみ存在が記され
長らく存在が不明であった建物。この調査で場所が特定され、隣にある井戸は長局専用のものだったとも考えられるように
なっている。発掘で数多く出土したのは瓦で、菊花紋・巴紋・檜扇紋・剣方喰紋などが捺された軒丸瓦が特に目立つ。なお、
剣片喰紋は城主・雅楽頭系酒井家の紋であり、小浜城の建造物が酒井家の統治下で成立した様子を物語る。■■■■■■■
ところで小浜城には人柱伝説があり、それに関連した地蔵尊が城地の脇に安置されている。京極高次が築城を開始した
1601年、安全護持のため豪商・組屋六郎左衛門の娘が人柱にされた。時は過ぎて酒井忠勝の入封後、城代家老の三浦
帯刀は蜘蛛手櫓の近くで毎夜女の啜り泣く声がすると聞き、人柱となった娘の話を知る。彼女を憐れみ、「組屋地蔵尊」を
奉り本丸の守護とした。ところが1662年5月の大地震で石垣が崩れ、その修復の際に地蔵は他の石に紛れて行方不明と
なってしまう。爾来、地蔵は謎のままだったが1953年(昭和28年)9月の水害で石垣が再び崩れ、それを1959年(昭和34年)
修理していたところ発見されるに至る。こうして、地蔵は約300年を経て再度祀られる事になったそうな。今後は城が不幸な
災害に見舞われないよう、お地蔵さまに願いを託したい。小浜市では破却された天守を復興すべく調査研究を行っており、
それが上手く運ぶよう、併せて祈願したいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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