丹波国 丹波亀山城

丹波亀山城跡全景

所在地:京都府亀岡市荒塚南

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



織田信長軍の山陰方面総司令官となった明智光秀が1577年(天正5年)頃に築城。
京の都を制圧した信長軍が山陰へ出るために最初の攻略としたのが丹波国でござった。
それまで丹波国は波多野氏が治めていた地で、小国ながら屈強な精兵で守られていた。
波多野氏の出自は明らかでなく、相模国の三浦氏の傍流であるとか、
帰化した渡来人が土着したものとか諸説あるもののどれも確証がない。
いずれにせよ室町幕府管領細川家に仕え丹波守護代に任じられた一族。
織田勢の丹波攻略に際し、一度は服従の姿勢を見せたものの
1576年に播磨国の別所氏と謀り叛旗を翻して明智軍と泥沼の抗争に入った。
波多野軍は数度の交戦の後、光秀の母を人質とする交換条件で降伏。
しかし信長はこの降伏を許さず当主波多野秀治を安土で磔刑にしてしまった。
結果として光秀の母も波多野勢に処刑されたが、これにより光秀の丹波攻略は完了。
光秀は丹波統治の本拠として亀山城を築き、民心の慰撫に尽力したのでござった。
本能寺の変でもこの亀山城から光秀軍は出陣し、京へ上ったのでござる。
主君信長を討った逆賊と見られるが、今でも光秀は丹波の名君として敬愛されている。
羽柴秀吉が光秀を破った後、この亀山城を治めたのが秀吉の養子である羽柴秀勝。
更に1591年(天正19年)羽柴秀秋(のちの小早川秀秋)が城主となり、城の改修を行った。
徳川政権が成立すると、一時期前田玄以が城代に入ったこともあったが
1610年(慶長15年)岡部長盛が城主に任じられ、この時に天下普請で城の改修が為された。
藤堂高虎はじめ諸大名が賦役を担当し、外観5重の天守閣も築かれた。
この天守は当時最新鋭の建築技術を導入したもので、史上初の層塔型天守であったとされる。
亀山城天守を皮切に江戸城、名古屋城、大坂城(徳川期)、津山城、福山城など
爆発的に層塔型天守が全国に普及したのでござった。
その後も城主は頻繁に交替したものの、城は火災などに遭うこともなく
明治維新まで残ったが、廃藩置県で惜しくも破却されてしまった。
城郭跡は1919年(大正8年)大本教の所有となり本部が置かれたが
昭和初期の宗教弾圧政策で破壊の憂き目に遭った。
現在も大本教団本部が置かれているが、濠跡などはそのままの姿で残されている。
写真は濠を挟んで北側から俯瞰した丹波亀山城跡全景。


現存する遺構

堀・石垣・郭群




福知山城  田辺城