丹波国 山家陣屋

所在地:京都府綾部市広瀬町成山
■■駐車場: あり■■
■■御手洗: あり■■
遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■
京都府北部、綾部市の山中にある陣屋跡でござる。何鹿(いかるが)郡山家(やまが)集落は
いかにものどかな山村であるが、ここに1582年(天正10年)羽柴秀吉の配下武将
谷出羽守衛友(たにもりとも)が1万6000石で封じられ構築したのが当陣屋の始まり。
それまで、山家には甲ヶ峰城とも称される山城の山家城があり
和久左衛門佐義国なる人物が領していた。甲ヶ峰は標高236m、丹波・丹後の名川である
由良川に支流の上林川が合流する地点にあり、この山の中腹に山家城が築かれたのは
1563年(永禄6年)3月?の事と見られている。近隣の和知・上林一帯を領した和久氏であるが
丹波平定を進める織田信長の先鋒・明智光秀に破れ、1579年(天正7年)頃に帰農したと言う。
この後、本能寺の変を経て秀吉が天下獲りへ歩を進めた時期に衛友が入部する。
谷氏は元来、宇多源氏佐々木氏の一流で近江国甲賀郡長野(旧滋賀県甲賀郡信楽町)の
地頭を出自とし、衛友の父・衛好(もりよし)は織田信長に臣従、秀吉の与力として播磨平定に
参加。衛好・衛友父子共に参戦した三木城(兵庫県三木市)平定戦の折、敵との乱戦で
衛好は討死してしまうが、即座に衛友が敵に斬り込んで亡父の遺骸を奪還した。秀吉は衛友の
勇戦と忠孝を讃え、父の遺領である播磨国平田6000石の相続を許したと言う。この時、衛友16歳。
光秀によって丹波が平定されたのと同じ1579年の事でござる。然る後、本能寺の変後に秀吉が
光秀を倒した山崎合戦においても衛友は武功を挙げ、山家1万6000石に封じられ申した。
九州征伐・小田原征伐や朝鮮出兵でも活躍を見せたと言う。
入部当初、衛友は山家城(上記の甲ヶ峰城)に入ったが山深い城は不便と判断し、それより少し
山を下った位置に新たな陣屋を築いたのである。これが山家陣屋だ。以来、谷氏は幕末まで
13代にわたってここで治世を続けている。天下分け目の関ヶ原合戦の時、衛友は地勢的事情で
西軍に就き、東軍に与した細川幽斎の田辺城(京都府舞鶴市)を攻めた。しかし幽斎は衛友の
歌道の師匠である。もとより衛友は本気で田辺城を攻めるつもりはなかった上、徳川家康の
側近・本多正純を通じて東軍にも内応していたのだ。戦意を装う為、谷軍は田辺城に鉄砲を
撃ちかけたが実は空砲で、後に“谷の空鉄砲”と伝えられるようになる。このため田辺城の
籠城戦は大いに長引き、遂に朝廷からの勅命講和が命じられる程であった。もちろん、幽斎は
無事に生き長らえ、田辺城で時間や将兵を浪費した西軍は関ヶ原本戦で敗北する。
衛友は幽斎助命の功労と引き換えに、徳川家康から本領安堵を受けたのでござる。
斯くして谷氏は東西対決の荒波も乗り越え、山家陣屋を堅守したのだ。その後も衛友は
徳川幕府に従い大坂の陣でも武功を挙げ、晩年は2代将軍・徳川秀忠の御伽衆に加えられた。
ちなみに衛好・衛友父子は試刀術の達人だったと言う。試刀術とは、一般的な武芸としての
剣術とは異なり“刀の斬り方”に特化した刀剣術の事である。丸太や実際の人体(遺体)等を
斬って刀の切れ味を評価する術なので必然的に高度な技法を習得した訳だが、衛友が
部隊指揮官としてだけでなく一人の武術者としても豪腕を誇っていた様子が窺えよう。
1627年(寛永4年)12月23日に衛友は没し、年が改まった1628年(寛永5年)4男の
大学頭衛政(もりまさ)が跡を継いだ。この折、弟の衛冬(もりふゆ、衛友6男)に梅迫1500石
甥の衛之(もりゆき)に上杉2500石、衛清(もりきよ)に十倉2000石を分知した為、山家藩領は
1万石となり申した。以後、明治維新まで加増も減封もなくこの石高が維持されてござる。
衛政の後は出羽守衛広(もりひろ)―播磨守衛憑(もりより)―出羽守衛衝(もりみち)
大学頭衛将(もりまさ)―播磨守衛秀(もりひで)―播磨守衛量(もりかず)―大学頭
衛萬(もりたか)―右京亮衛弥(もりみつ)―出羽守衛ム(もりやす)―播磨守衛弼(もりのり)
大膳亮衛滋(もりしげ)と藩主を継承。戊辰戦争では西園寺公望が指揮する山陰道鎮撫軍に
いち早く従い、1869年(明治2年)の版籍奉還では衛滋が山家知藩事となっている。1871年
(明治4年)廃藩置県により山家県とされたが、程なく京都府に編入され申した。これに前後する
1870年(明治3年)山家陣屋は火事で焼失、そのまま廃藩となり廃されたのでござる。
陣屋敷地約2万1300uのうち、7300u部分が1987年(昭和62年)11月に山家城址公園として
整備開園、1992年(平成4年)には模擬門が建立されてござる。園内には藩主・谷氏を祀る
谷霊神社の祠が建てられている。この神社裏手にはかつての陣屋遺構である堀跡・土塁痕が
僅かながらに見受けられ申す。難点は城址公園の場所が分かり難い点か?
(そもそも「陣屋跡(山家城跡は別の場所)」なのに「城址公園」としているのが…苦笑)
とりあえず、山家集落は“日本の原風景”といった鄙びた集落なので
昔ながらの静かな農村情緒を味わいたい方にはオススメ。
現存する遺構
堀・土塁・郭群
淀古城・淀城
勝龍寺城