丹波国 丹波篠山城

丹波篠山城 二ノ丸大手と復元大書院

所在地:兵庫県篠山市北新町
(旧 兵庫県多紀郡篠山町北新町)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★★
公園整備度:★★★★



戦国時代、丹波国篠山地方は八上城に拠る波多野氏が支配する地で、織田信長の命を受けた
明智光秀によって攻略されその版図に加えられた。これにより丹波の中世は終わりを告げ、
近世中央集権体制に組み込まれていく。1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で東軍が勝利すると
天下は徳川家康のものとなり、大坂の豊臣氏との対決姿勢が明白となった。その結果、
1608年(慶長13年)丹波国には家康譜代の家臣(家康庶子との説もあり)・松平左近丞康重が
常陸国笠間(茨城県笠間市)3万石から配され、5万石を有した。入国当初、康重は八上城に
入城したが、徳川幕府の大坂城包囲網の一翼を担うべく篠山(当初は笹山と記述)盆地の
中心に新城が計画されたのでござる。丹波篠山は大坂と山陰を結ぶ交通の要所であり、
西国諸大名の連携を崩すには適地であった。これが篠山城の起こりでござる。
家康は自ら地形図を引見して篠山城の築城計画を決めたといわれている。
1609年(慶長14年)春、西国諸大名15ヶ国20藩に賦役を命じる天下普請で築城が開始され、
延べ8万人を動員した突貫工事によって一年足らずで完成した。城地となった“笹山”には
もともと春日神社が鎮座していたが、それを移転させての築城でござった。同年12月26日、
早くも城主の松平康重が入居している。城の別名は桐ヶ城。
縄張奉行は藤堂高虎(伊勢国津城主)、普請総奉行は池田輝政(播磨国姫路城主)。
一辺約400mの方形を基本とした輪郭式の平山城。領域は小さいが築城の名手・藤堂高虎が
設計しただけはあり堀・石垣を縦横に巡らした堅固な作り。あまりに堅固な作り故に
築城を命じた幕府が天守の建築を差し止めた程である。そのため天守台には小さな櫓と
掻揚げの塀を置いただけで、実際に天守が建てられることはなかった。築城当初の曲輪は
天守台で成る殿守丸・その隣の本丸・さらにそれらを囲う二ノ丸、という名称だったが
天守が建てられなかったこともあり後に本丸・二ノ丸・三ノ丸へ改称された。
本丸(つまり天守台部分)の敷地は東西19m×南北20m、約380uあり、その中に井戸が
掘られていた。この井戸は深さ16mもあり、岩盤を貫いて掘削した為に2年かけて作ったそうだ。
一方、三ノ丸から外郭へと出る3箇所の虎口(北・東・南)はいずれも角馬出で固められ
鉄壁の防御を為し、“城郭技術の最円熟期”に作られた城である事を示している。
このうち、北馬出(大手馬出)と東馬出は石垣作り、南馬出は土塁作りでござった。
篠山城は天守こそなかったものの城内に無数の櫓が林立し、高石垣で固め、非常に実戦的な
城塞施設であった。その一方、輪郭式の縄張りは古来から続く伝統的な武家居館の形式を
踏襲したもので、幕府権威を示す格式を備えていた。それに関連して特筆すべき建築物が
二ノ丸(旧本丸)の大書院でござる。篠山築城当初から存在し、一大名の御殿としては
破格の規模と威厳を有したもので、これに匹敵する現存建築物は京都二条城の
二ノ丸御殿《国宝》くらいである。東西28m×南北26m、床面積739.33u、棟高12.88m、
入母屋造柿葺屋根の巨大木造平屋家屋。築城から約260年間、篠山の政庁として機能していた。
築城と同時に城下町の整備も行なわれ、町屋の出入口には砦の代わりとなる寺社を配置、
街路は複雑に折れ曲がった道筋となっていて敵の侵入を妨げるよう工夫されている。
篠山城は東西にある飛ノ山・王地山、周辺を流れる篠山川・黒岡川、そして城下町に護られた
難攻不落の城として豊臣方への睨みを利かせていたのでござった。1610年(慶長15年)に
竣工した篠山城は畿内から山陰へ至る街道を封鎖し、同じく山陽でその任を与えられた
姫路城と共に、西国諸大名と大坂の豊臣氏を分断する役を全うしたが、大坂の陣で
豊臣氏が滅亡したため、遂に戦火とまみえる事はなかった。
よって、初代城主の松平康重は1619年(元和5年)7月19日に和泉国岸和田(大阪府岸和田市)
5万石へ移封される。代わって10月、上野国高崎(群馬県高崎市)5万石より藤井松平伊豆守
信吉(のぶよし)が同じく5万石で新たな篠山城主となるが、彼は翌年8月1日に病死してしまう。
跡を継いだ嫡男の山城守忠国(ただくに、信吉長男)は30年近く篠山城主の座に就き
その間、篠山領内の寺社建立や文化振興、城下町整備に意を配った。近世篠山の町はこの頃
完成したと言っても良い。幕政にも深く関与した忠国は、1649年(慶安2年)7月4日に
播磨国明石(兵庫県明石市)7万石へ加増転封。この為、摂津国高槻(大阪府高槻市)
3万6000石を治めていた形原(かたはら)松平若狭守康信が5万石で篠山城主となり申した。
この後、城主の座は駿河守典信(すけのぶ、康信長男)―若狭守信利(のぶとし、典信2男)
紀伊守信庸(のぶつね、信利の弟)と代わっていく。典信は隠居後に病死、信利は若年で
家督相続したが病没した為、信庸が成長するまで康信が後見役であり続けたのでござる。
信庸は賢君とされ、領内の文化振興や財政再建、幕政参与などの大役を果たしている。ところが
その信庸が1717年(享保2年)5月10日に病没、跡を継いだ佐渡守信岑(のぶみね、信庸長男)は
暗愚の君であり、折りしも発生した享保の大飢饉では救済をするどころか領民に重税を課し
1748年(寛延元年)8月3日、丹波亀山(京都府亀岡市)5万石へと除封されている。
形原松平家に代わって新たな篠山城主となったのは、譜代の名家である青山氏。丹波亀山から
5万石で入封した青山因幡守忠朝(ただとも)から後、下野守忠高(ただたか、忠朝の甥)
伯耆守忠講(ただつぐ、忠高2男)―因幡守忠裕(ただひろ、忠高3男)―因幡守
忠良(ただなが、忠裕4男)―因幡守忠敏(ただゆき、忠良2男)と続く。このうち忠高は
藩校・振徳堂を建設、忠裕が増築するなど藩士の教育に力を入れている。最後の藩主である
忠敏は佐幕派で、文久年間(1861年〜1863年)京都二条城の警備を担当した他
蛤御門の変(禁門の変)でも戦力を投じていたが、戊辰戦争の折には新政府軍に降伏し
1869年(明治2年)6月19日、版籍奉還で篠山知藩事に任じられてござる。翌1870年(明治3年)
篠山藩庁舎が大手馬出の東側(現在の篠山市役所)へと移された事で、城内は事実上
機能を停止。1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県で忠敏が免職となった事で
封建体制下の遺物となった篠山城は完全に不要なものとなり、官有物とはなったものの
修理されることもなく1873年(明治6年)には廃城令で城内建築物の撤去が行なわれた。
ところが大書院は解体に多大な費用がかかるため、しばらく放置されている。この惨状に対し
名建築の荒廃を惜しんだ旧藩士の安藤直紀が保存運動を開始、大書院は学校や公共施設として
再利用される運びとなった。1875年(明治8年)大書院は篠山小学校校舎となる。
1891年(明治24年)篠山小学校は篠山町立尋常小学校に改められ、翌1892年(明治25年)
ガラス窓を取り付ける工事が行われ申した。そして1910年(明治43年)新校舎完成により
小学校設備は移転、今度は郡の公会堂として利用されるようになる。さらに1933年(昭和8年)
大書院の一角を校舎として多紀実業高等公民学校(現:篠山産業高校)が開校。
1941年(昭和16年)の新校舎完成まで使用されたのでござった。その他、城跡地内には
年代毎にいくつかの学校が建てられている。これらの経緯により多少の改築が
行なわれたものの、基本的に築城当初の姿を留めていた大書院だが
1944年(昭和19年)1月6日夜半、惜しくも失火による火災で全焼してしまった。
しかし市民の熱望により半世紀ぶりに復元が決定され、1998年(平成10年)春に工事着工。
2000年(平成12年)3月に完成し、4月1日から一般公開となったのでござる。
当時の工法を用いて忠実に復元された建築物で、内部は史料館となっている。
復元建築物とはいえ一見の価値あり。篠山城跡は1956年(昭和31年)12月28日に
国の史跡に指定されているため保存状態も極めて良く、空にそびえ立つような高石垣や
石材刻印、現存唯一の土塁馬出(南馬出)も必見でござろう。
(惜しくも大手馬出だけは明治期に破却されてしまっている)
当然の事ながら、財団法人日本城郭協会選定の日本百名城に数えられており
静かな丹波の盆地に歴史と文化を伝える貴重な遺産といえる。
時間があれば昔の姿を残す篠山の町並みも歩いてみたいものでござる。


現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
金照寺山門(伝篠山城門)




茨木城  姫路城・男山構・御着城