2015年10月 吉良・松平オフ

旅行期間:2015年10月15日(木)

主な滞在地
10月15日(木):小豆坂古戦場・岡崎市〜幸田町〜西尾市〜安城市周辺諸城郭・華蔵寺・黄金堤
吉良・松平オフ行程地図 (C)Bing


この日は城友・Oーちゃんさんと一緒に出掛ける日!
以前、岡崎市周辺で三河武士の館をいくつか訪れたんですが、それをもっと本格的に巡りつつ
拙者と同じく徳川スキーのOーちゃんさんを御案内しようと。恐らく結構な数を回る事になるので
夜明け頃に神奈川を出て、朝からタイムトライアルでどこまで行けるか!ってな感じの予定。
何せ秋も深まってきた時候ですので、日没も早くなってきているから朝のスタートを繰り上げないとね (^ ^;
そんな訳で早い時間から関東を出て、ひたすら西へ向かったのでございます。

午前7時に駿河湾沼津SAで休憩を取り、岡崎ICに着いたのは9時を過ぎた頃。
ここから南へ進んで行くルートなんですが、通りすがりに見えたのがコレ!
岡崎市史跡 小豆坂古戦場
岡崎市史跡 小豆坂(あずきざか)古戦場

愛知県道26号線を南下し、同48号線と交わる「光ヶ丘」交差点付近にあるのがこの石碑。
小豆「坂」と言うだけあって、26号線は何となく勾配を感じる坂道になっています。
ここは尾張の織田家と駿河の今川家が戦った(しかも2回?)古戦場で、戦国史の中ではちょっと有名な場所。
意図して通った訳では無かったんですが、「おぉ、ココがあの!」と序盤からテンション上がりました(笑)
岡崎と言えば徳川(松平)家の領地なのに、織田と今川が戦ったってどういう事?と思われる方もいらっしゃるでしょうが
当時、松平家は当主が次々と亡くなり力を失っていた頃で、“松平家の保護”を名目にする今川家が進出し
それを覆そうとした織田家がここまで来て戦った訳です。徳川家康はまだ生まれたばかり、織田信長も子供の頃で
ここで言う織田家と言うのは、信長の父である信秀の代の話です。信秀麾下の武将のうち、勇士である7人の将が
「小豆坂七本槍」と評される活躍をしました。あれ?七本槍って賤ヶ岳じゃないの?と、ちょっと歴史を知っている方は思うでしょうけど
(賤ヶ岳の戦いは信長没後に天下の主導権を握ろうとした豊臣秀吉が起こした合戦で、そこで活躍した7将が「賤ヶ岳の七本槍」)
それは小豆坂七本槍になぞらえて秀吉が自軍の将を喧伝した謳い文句なので、“元祖七本槍”はコッチなんですw

JRの岡崎駅を越した先にあるのが針崎勝鬘寺(はりさきしょうまんじ)。え、お寺?とお思いでしょうが、今日の1城目はこちら。
実はこの寺、戦国時代に三河で起きた一向一揆(浄土真宗の信者が権力者に対して蜂起した一揆)において
一揆勢の一大根拠地となった大要塞。なので、城として使われていた寺なんです。
そんな訳で「城として」見てみれば、この寺の境内だけ周辺の住宅地に比べて僅かに(本当に少しだけど)高い位置にある。
恐らく当時は周囲に堀や柵を巡らせていただろうから、この高さがあるだけでも敵の兵を見下ろして足止め出来そう。
何より、少しの高さとその先に下っていく地形が合わされば、遠くまで見通せるかな?と想像できて
なるほど確かに城として使えそうだと思えました。

勝鬘寺からは東海道本線の線路を渡り、愛知県道483号線を進んで幸田町に入ります。
坂崎の集落に差し掛かった所で道が大きくカーブし、そのあたりから脇道に入ると、立て続けに坂崎古城
坂崎城が並びます。どちらも徳川家康の家臣であった平岩氏や天野氏の居館跡。
特に坂崎城は地元の神社になっていて、いい感じの雰囲気。しかも“どちへんなき”慎重で公正な人物として有名な
天野康景の邸なので、三河武士を巡る旅としてはうってつけの場所。
Oーちゃんさんとテンションを上げながら、次の場所へと向かいました。

大久保氏陣屋跡 石垣
大久保氏陣屋跡 石垣

そこから車で5分とかからない場所にあるのが大久保氏陣屋跡の
八百富社(と言う名の神社)。その正面には、こんな小さな段ですが石垣が残っています。
ちゃんと看板もあるしね (^ー゚)b
この他にも、境内にはその当時にゆかりの物がのこされていたりするんですが、
ここで言う「大久保」さんは、軍記物「三河物語」を著し、時代劇(ちょっと古いヤツね)では
“天下の御意見番”として知られる大久保彦左衛門さんなので、これまたテンション上ゲ(笑)
この石垣をOーちゃんさんに見せた時の反応が
「ほら、これが石垣」
「え、どれ?」
「だからコレ」
「この小さいやつ?」
「看板も出てるじゃんw」
と、思った通りの受け答えに(笑)
なお、現在はこの石垣の間際までコンビニの敷地が占有するようになり
これほど真正面からの写真が撮れなくなってしまいました(隙間から覗き見するような感じに)
一応、文化財なんだしもう少し何とかならなかったのかねぇ?

八百富社から脇道に流れて行くと橋の袂に小さな石碑が。この辺りが高力(こうりき)だったそうで。
“どちへんなき”天野康景と並び、“仏高力”(仏のように寛容な人物)と評された高力清長ゆかりの城。
徳川ファンには名の知れた人物が次々と出てきます。その高力城(碑)から700mの所には正楽寺、大草城の跡。
こちらは徳川家(松平宗家)とライバル関係にあった大草氏(大草松平家)の城があったそうで、この狭い範囲に
松平の家臣や敵がわんさかひしめいていた、なかなか稀有な地域です。

ちなみにこの時、1城訪れるごとにOーちゃんさんが感想をTweet(当時のね)していたんですが
あまりにも頻繁に次の城に到着しちゃうもんだから「呟きが追いつかないー! (><)」と言う有様にwww
なお、写真の撮影データに照らし合わせると勝鬘寺が9:50→坂崎古城10:00→坂崎城10:05→大久保氏陣屋10:10(約10分滞在)→
高力城10:25→大草城10:30と言ったペース。見学時間や撮影のタイミングを差し引くと、移動時間は2分刻み程度…。
そりゃ、スマホに入力してる間に次へ着いちゃうわな (^ ^;

ここから更に南下して、三ヶ根駅前にある深溝(ふこうず)へ。現在は宅地や工場の敷地になっており
これと言った遺構は無いんですが、これまた松平家の分家である深溝(ふこうぞ)松平家の城なので、徳川スキーとしては行っとかないとw
そこからは西へ向かうコースを採り、西尾市エリアに入ります。で、訪れたのが寺部城
ここは徳川家臣となった小笠原氏の城。小笠原と言うと長野の名門家系なんですが、そこから流れてきた分家がここに入り
徳川家の権勢が強くなるとその家臣になった、という略歴。で、その話には続きがあって
徳川家康の許可を貰って南洋探検に出発し(新しい島を見つけたら領土にして良いという話)
そこで発見したのが絶海の孤島・小笠原諸島という事。この逸話は真偽定かでなく、ウソではないかとも言われるのですが
でもウソだとしたら、「小笠原諸島」の名は本来別の名前になっている筈だし、
作り話にしては壮大すぎるエピソードなので、どんだけ妄想力があって作った話なんだ?とも思うので
本当に小笠原まで行けなかったとしても、八丈島や青ヶ島くらいまでは行って「まだその先がある」位に確認を取って来た?のかなと。
寺部城から見る三河湾
寺部城から見る三河湾

そんな寺部城からは海が見えます。
山国の信濃にルーツを持つ小笠原家ですが
寺部に居を構えた事で、海に縁を持ち、
それが南洋探検にまで繋がった…と、想像できますね。

ここからはちょっと距離を取って、西尾市の西端部まで一気に移動。この辺りは吉良エリアになるんですが
その手始めに訪れたのは赤羽根城。親宣(しんせん)寺というお寺になっているので、城としての遺構は殆んど無いんですけど
お寺が何せ立派で、特に山門が巨大!写真で撮ろうと思っても画角に入りきらないほど (^ ^;
続いては陣屋愛好家であるOーちゃんさんのために小牧陣屋。吉良氏の領地である吉良の地を攻めるため
徳川家康が陣を敷いた砦に起源を持つ陣屋跡です。その小牧陣屋から家康が攻め立てた城が、次の目的地となる東条城
東条城
東条城

東条城は戦国時代の城を再現した模擬建築で有名(だった)な城。
近世城郭とは全然別物の櫓や門が建ち、木柵で囲われてました。
その当時、これを見るのが城マニアの間では密かな憧れでしたが
それを目にしたOーちゃんさんは、なかなか感激されておりました。
ちなみに拙者は既に攻略済(爆)
ところが木造建築で風雨に晒したままの状態だったこれらの門や櫓は腐食していき、危険になってしまい
現在では柵だけ残して撤去されてしまいました。何とか再建して欲しいと思うのですが、むしろそれどころか
このままでは柵も取り払われてしまうのでは?と言った感じ。再整備する予算が無いんだろうねー (T-T)

この後に向かったのは岡山陣屋、こちらは江戸時代に入ってからの吉良家が居館とした陣屋。
さっきから吉良家吉良家と言ってますが、江戸時代の吉良家と言えば?忠臣蔵で知られる吉良上野介、あの吉良家です。
元々、室町将軍である足利家の分家として発展した吉良家なので名門中の名門。
そんな吉良家は戦国時代に徳川家康の配下として組み込まれ、江戸時代を迎えますが
血筋の良さは“新しい将軍家”である徳川家にとっては邪魔者で、小さな領地しか与えられませんでした。
それがこの岡山の地で、吉良家は僅かな領地を守るべく、領民を大切にする治世を行います。
忠臣蔵で描かれる吉良上野介と言うと如何にも“悪役”の非道な人物ですが、実際には“良い殿様”で
岡山陣屋をはじめ、吉良町内各所には上野介義央(よしひさ)の銅像が置かれております。
吉良上野介義央像(岡山陣屋) ←これね (^-^)
と言う事で、ここからは暫く吉良家由緒の場所を回って行きます。吉良家の墓所・華蔵寺(けぞうじ)に続き
義央公が洪水対策として築いた黄金堤(こがねづつみ)も。この堤防がある場所は鎧ヶ淵(よろいがふち)古戦場、つまり
善明堤(ぜんみょうつつみ)の戦いと言う戦いが行われた古戦場でもあります。善明堤の戦いもまた、
徳川家康と吉良家の間で行われた合戦です。家康さんが三河で自立する際、最初の敵となったのが吉良さんだったんですね。
吉良上野介義央像(黄金堤) ←ここにも (^-^)

その吉良家から分かれ、後に駿河・遠江の太守となったのが今川家。家康さんも今川家に養われた?虐げられた??訳ですが
そんな今川家の発祥した地(何せ吉良家の分流ですから)も西尾市内に。今川城跡と呼ばれる場所で、ここも
歴史好きな人間としては是非とも行ってみたい、と思っていた場所。ですがまぁ、現在では中学校の裏に小さな塚があるだけで
むしろ栄枯盛衰を感じさせる物悲しさ。これもまた、現地を訪れてこそ実感できるものですね。

ここまで来ると、西尾市の中心街が目の前です。と、当然そこで訪れたのは西尾城ですな。
西尾城は以前にも訪れた事がある城ですけれども、この頃は城址の再整備が着々と進行中で
改めて行ってみれば、新しい発見があるかと。斯くして訪れた西尾城ですが…
西尾城 復元天守台石垣
西尾城 復元天守台石垣

おっ!さっそく目に入りました、新しく復元された石垣が。
石垣の組み方としては現代風に過ぎる感じですが、
きっちりと敷地を整えた姿は、往時の大櫓がこの上にあったと
再確認するに十分な規模と風格ですね。
この石垣が一番新しい施設(?)ですが、その他にも
西尾城 復元鍮石門
西尾城 復元鍮石(ちゅうじゃく)

二ノ丸の大手門(正門)に当たる鍮石門。
軒が低いので、防御施設としての使い勝手は微妙そうだけど
その分、安定感のあるどっしりした姿に見えるので、威圧効果は抜群かと。
秋の高い雲に良く映える美しさです。
西尾城 復元丑寅櫓
西尾城 復元丑寅櫓

綺麗に整備された庭園から見上げる本丸丑寅櫓。
西尾城で一番最初に再建された丑寅櫓は、本丸の隅にあり
城下から見上げるような位置になっています。こうして見れば
現代でもそういう情景を作り出していますねぇ。これもちょっと軒が低いので
実際にあった建物の通りかどうかは微妙なんですが(苦笑)
丑寅櫓からの眺め
丑寅櫓からの眺め

その丑寅櫓から見下ろした眺め。
先ほどの庭園や天守台が俯瞰で見えます。
城下町も遠くまで広がり、西尾の町の繁栄が
当時から感じられた光景だった事でしょう。
西尾城 天守模型
西尾城 天守模型

資料館では天守の構造を示した模型が展示されていました。
丑寅櫓から見下ろした(上の写真の)構図に一致させると
こんな感じの建物だったようですね。
西尾城 天守模型
西尾城 天守模型

ちなみに、その反対側からの構造がこちら。
城内側には高欄(ベランダ)があるなど、風雅に使われた建物のようですが
城外側では一切そうした遊興設備がなく、引き締まった面立ち。
何となく、名古屋城の大天守を3層にするとこんな感じ?と思える威厳ある姿です。

西尾城をじっくり見た後、ここから北上していきます。市境を越え、安城市に入ればすぐそこにあるのが藤井城跡。
公民館の前に石碑が1本立つだけで遺構が残る訳でも無い城跡なんですが、これまた松平一門の藤井松平家の城なので
今回の旅には欠かせない城跡。そこから川沿いの堤防上に出て、木戸城の裏側までやって来たのですが
この時は入口が分からず入るのを断念しました。何の事は無い、この反対側の細い路地へ回り込めば簡単に行けたのですが
そこへ至るルートが、こちら側からだと見えなかったので。一応、後日リベンジは果たしましたが (^ ^;;;

で、そこから再び大通り(県道294号線)に出た所が野寺本證寺。え、また寺?まさか…とお思いでしょうが、
そのまさか、こちらも一向一揆の拠点となった大城郭…もとい、大寺院です。いや、マジでここは城と言うべき場所でして
安城市文化財 野寺本證寺 鐘楼
安城市文化財 野寺本證寺 鐘楼

ほら、濠沿いに建つ櫓…完全に城でしょ?
この写真の撮影位置は山門前の土橋なんですが
完全にこの櫓から狙われています。撃たれる〜! (><)
ちなみに、ちょうどこの年に本證寺は国の史跡にもなりました。もちろん、一向一揆拠点としての歴史が評価されて。
やっぱりここは要塞なんですよホントにwww

そんな本證寺を見た所で時刻は17時を回り、いよいよ日没が迫ってきました。ここからはより一層駆け足で城めぐりを続けます。
県道を北上し、名鉄の桜井駅を過ぎた先にある小公園が桜井城跡。これも桜井松平家、松平一門の城。
安城市の中心街に近づき、住宅街の裏路地付近を探せば安城陣屋跡があり、更には安祥古城も。
裏路地すぎて探すのに難儀しました(&車をどこに停めるか苦労しました)が、ここは木戸城の轍を踏まず何とか探し当てる事ができました。
しかしこの辺りで完全に日没。あとは残照を頼りにもう少し粘り、東海道線の線路の北側に出た正法寺と言う寺が保科正直邸
どうやら今は無住職の寺らしく、相当に荒れており、おかげで電灯も殆どなく、写真を撮るにはもうシビアな状況。
それでもまだ何とかもう1箇所と更に粘りに粘り、すぐ近くにある神明社へも駆け込みます。ここが山崎城跡なんですが―――
安城市史跡 山崎城跡 空堀

安城市史跡 山崎城跡

車のヘッドライトで照らして何とか撮影。神社のお社は何とか様になるとして(でもこれは城と無関係な建物なので)

山崎城跡 神明社
肝心の空堀跡は、照らしても全然先が見通せず、堀底に降りても全然分からん(爆)
せっかく良い堀跡なんですが(拙者は既訪の城)、Oーちゃんさんに伝えたくても伝えきれず…残念無念 (T-T)
と言う事で、山崎城はリベンジを誓って撤収するに至りました。
そしてどう考えてもこれ以上は闇夜なのでまともに見られない事が確定したので、今回の旅はここで終了!
流石に秋分を過ぎて冬へと一直線という時季では、夜が早いですね。これが1ヶ月前ならもう少しは見て回れただろうに…。

そんな西三河から帰る道の途中、愛車の楽程号が総走行距離数88888kmのゾロ番を達成したりして。
21箇所の城(+ほか古戦場など)も回り、色々と充実した城めぐりでありました。っつーか、もう少し回れるつもりでいたんだけどなぁ(え?)
やっぱり夏ならもっと日が長くて(オィ)
そして…岡崎行ったのに岡崎城は行ってないのよね〜(汗)
(安城行ったのに安祥城も完全スルーwww)



◆◇◆ 戦国の 息吹残した 西三河 駆けても足らぬ 武士(もののふ)の跡 ◆◇◆




本 丸 御 殿 へ 戻 る


城 絵 図 へ 戻 る