三河国 岡崎城

岡崎城 復元天守の夜景

 所在地:愛知県岡崎市康生町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★☆



三河西郷氏の城を松平清康が奪取■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
室町初期、三河国の守護に足利将軍家縁戚の仁木(につき、にき・にっきとも)右馬助義長(よしなが)が任じられ、守護代として
西郷上総介頼音を置いた。「仁木」の地は現在の岡崎市仁木町に相当し、また頼音が本拠とした平岩城も岡崎市上明大寺町に
築かれたとされており、守護・守護代共に岡崎近辺を根拠としていた訳だ。後に仁木氏は没落したが、西郷氏は土着して勢力を
広げていく。1452年(享徳元年)〜1455年(康正元年)にかけて、三河守護代(とされる)・西郷弾正左衛門稠頼(つぎより、頼音の
子、あるいは孫、もしくは従兄弟)が菅生川(すごうがわ、現在の乙川)北岸の龍頭山(りゅうずやま)に砦を築いた。これが現在の
岡崎城になる訳だが、当時は平岩城の所在地が岡崎と呼ばれていたそうで、平岩城は「古岡崎城」とでも呼ぶべきであろうか。
ともあれ、後の世に龍頭山砦が岡崎城とされていくようになり、その名残として岡崎城の別名が龍城(龍ヶ城)なんだそうな。■■
ところが稠頼の子・弾正左衛門頼嗣の代になると西郷氏の勢力は傾き、三河の主要勢力であった松平氏の圧迫を受けていく。
岡崎城と言えば松平蔵人佐元康、後の徳川家康が誕生した城として有名であるが、しかしまだこの当時の松平氏は諸家分立
状態だった。頼嗣は大草松平家(元康の系統とは別の松平家)の紀伊守光重(みつしげ)に家督を譲り、その系譜は2代・左馬允
親貞(ちかさだ)―3代・弾正左衛門信貞へと受け継がれていく。この大草松平昌安(まさやす、信貞の別名)が西郷家の所領を
掌握するようになった。但し、西郷信貞は西郷頼嗣の実子とする説もある。仔細はさて置いて、こうして岡崎城は大草松平家の
ものとなるが、それを攻略したのが松平次郎三郎清康。家康の祖父である。1524年(大永4年)清康勢による攻撃を受け山中城
(岡崎市内)が陥落、それにより信貞は岡崎城を放棄して清康に明け渡す事となった。当初は平岩城に入った清康であったが、
1531年(享禄4年)頃に龍頭山砦を拠点にするようになる。これが岡崎城が本格的な城郭化する端緒である。■■■■■■■■

松平家、苦難の時代を越えて■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岡崎を占拠した1524年、この時の清康は弱冠14歳。三河は西に尾張の蛟龍・織田氏、東に駿遠の太守・今川氏を控えた難しい
土地柄であったものの、清康はその後も領土を拡大。三河のほぼ全域を制圧し、更に尾張へも侵攻する破竹の勢いであったが
1535年(天文4年)12月5日、家臣の阿部弥七郎正豊に誤殺されてしまった。通称「守山崩れ」と呼ばれるこの事件で、松平氏の
勢力は一気に衰退。25歳の若さで亡くなった清康の嫡男・二郎三郎広忠は僅かに10歳。幼君に付け込み清康の叔父・桜井松平
内膳正信定は岡崎城の乗っ取りを企み、危難を避けるべく広忠は岡崎から逃れる事となった。さりとて独裁的な信定は周囲の
反感を買い、それを利用して1542年(天文11年)5月31日、広忠は岡崎城に復帰する。だがそれでも広忠は当主としての才幹に
欠け、三河は事実上今川家の保護下に置かれ、産まれたばかりの広忠の子・竹千代(元康の幼名)も人質に取られてしまった。
更には1549年(天文18年)3月6日、広忠も24歳で没し(死因には諸説あり)、結果として岡崎城は今川家から城代が派遣されて
支配されるようになるのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
元康は不遇の幼少期を過ごすが、1560年(永禄3年)5月19日の桶狭間合戦で今川治部大輔義元が討死すると岡崎城を回復。
今川家の急激な弱体化を見るや、以後今川家と絶縁し尾張の織田上総介信長と同盟を結び今川領を侵食。1570年(元亀元年)
浜松城(静岡県浜松市中区)へと居城を移すまで、この岡崎城を本拠として三河・遠江の制圧に邁進したのである。家康の浜松
移転後は、彼の長男・松平次郎三郎信康が城主に。岡崎を本拠とした信康は、岡崎三郎と称す事になる。■■■■■■■■■
1590年(天正18年)豊臣秀吉の天下統一により徳川家は東海の所領を召し上げられ関東へ移る。そのため岡崎城主には秀吉
家臣・田中筑後守吉政が5万7400石で任じられた。この後、豊臣政権下で10万石にまで加増を受けている。その吉政は1600年
(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦で東軍に就き、天下の主となった徳川家康から筑後国柳河(福岡県柳川市)32万5000石へと
加増転封された。故に1601年(慶長6年)新たな城主として本多豊後守康重(やすしげ)が5万石で封じられる。康重の前任地は
上野国白井(群馬県渋川市)2万石だったので、3万石の加増だった。康重の後、本多家は伊勢守康紀(やすのり)―伊勢守忠利
(ただとし)―越前守利長と継承され1645年(正保2年)6月27日に遠江国横須賀(静岡県掛川市)へ移される。この間、田中吉政
城主時代にそれまでの中世城郭から石垣を多用する近世城郭へ改造された上、本多康重〜康紀期にも改修が為された。今に
残る岡崎城の縄張りが完成したのは本多康紀改修によるものである。なお、3重天守が完成したのは1617年(元和元年)の事で
これも本多康紀城主時代の話でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

川の合流点を利用■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ではその縄張りだが、北東から南西へと乙川が流れる所に、北から伊賀川が合流する岬のような地点に小高い丘の龍頭山が
あり、川に挟まれた最南端部を本丸、その北に二ノ丸、更に三ノ丸(外郭部)が並ぶ梯郭式となっている。各曲輪の周囲は堀で
囲われ、また主要部を囲って帯曲輪状の地形も残存し、人工地形と自然地形を組み合わせた城となっており、また外郭部まで
含めると全国屈指の広大な敷地を有した城郭であった。ただ、現状では本丸には龍城(たつき)神社が鎮座し、二ノ丸は公園化
されており、それより外部(外郭)は完全に市街地となっているので残存遺構は多くない。反面、本丸の清海堀は築城当時から
ほぼ同じ状態(江戸時代に石垣化されたが、形状は変わらない)との事。また、本丸と二ノ丸の間には馬出状の小曲輪があって
近世城郭(統治の為の政庁城郭)化されながらも、戦国期からの戦闘面を重視した構造を残している。■■■■■■■■■■
本多利長の除封後、三河国吉田(愛知県豊橋市)4万5000石から5000石加増で水野大監物忠善(ただよし)が岡崎に移されて
きた。水野家は右衛門大夫忠春(ただはる)―豊前守忠盈(ただみつ)―大監物忠之(ただゆき)と継承す。この忠之が1725年
(享保10年)1万石加増された為、岡崎藩は6万石に。その後は大監物忠輝(ただてる)―大監物忠辰(ただとき)―織部正忠任
(ただとう)と続いたが、1762年(宝暦12年)9月末に肥前国唐津(佐賀県唐津市)6万石へと転封された。■■■■■■■■■
これにより下総国古河(茨城県古河市)5万石の主であった松井松平周防守康福(やすよし)が入るも、1769年(明和6年)11月
18日、石見国浜田(島根県浜田市)へ移される。その浜田から入れ替わりで本多中務大輔忠粛(ただとし)が移され、以後明治
維新まで本多家が岡崎城主を継承した。中務大輔忠典(ただつね)―中務大輔忠顕(ただあき)―中務大輔忠考(ただなか)―
美濃守忠民(ただもと)―中務大輔忠直(ただなお)の順である。斯くして名を並べると、岡崎城主は本多家・水野家・松平家と
いずれも徳川譜代家臣の名家ばかり。老中も多数輩出しており、神君家康誕生の城を預かる事は栄達に繋がるとされ、岡崎
城は出世城としても有名であろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

廃城後は史跡公園として■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されど、明治の世になれば城は無用の長物。廃藩置県そして1873年(明治6年)1月14日発布の廃城令により岡崎城は廃城に
処せられた。そのため天守をはじめとする城内諸建築は悉く破却・撤去されている。一部、売却処分で城外へ移された建物も
あったが、現在の城内でそのまま残る建造物は何もない。これに対し、城の荒廃を憂う声が早くも明治初期から起こり、1885年
(明治8年)岡崎城跡の保存運動に伴い愛知県から城址公園化の許可が下りた。これが現在の二ノ丸以内を占める岡崎公園の
原初だ。大正期に公園の改修・拡張や公共施設の設置が行われ、1945年(昭和20年)7月19日には岡崎空襲で被害を出すも、
戦後も整備が続けられてきた。そして1959年(昭和34年)3月30日、鉄筋コンクリート造りで天守が再建完成している。この復興
天守は日本建築の大家・城戸久(きどひさし)名古屋工業大学名誉教授により設計され岡崎城天守の古態を再現したものだが
最上階の高欄は観光用に取り付けたもので、古天守には存在しなかったものである。■■■■■■■■■■■■■■■■■
1962年(昭和37年)6月15日、城址は岡崎市の指定史跡に。1993年(平成5年)3月に大手門が完成。2006年(平成18年)4月6日
財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つに選ばれた。その後も史跡としての評価を高めていき、2007年(平成19年)には
市内材木町で大林寺郭(大外郭)の石垣を検出し、城の敷地が予想以上に広大な距離まで広がっていた事が裏付けられた。
2010年(平成22年)3月に2重2階の東隅櫓が木造で再建竣工、2013年(平成25年)4月に復興天守が岡崎市景観重要建造物の
第1号に指定される。2015年(平成27年)にも乙川河川敷から石垣の一部が発見される等、岡崎市街は“掘れば岡崎城”という
状態のようだ。これを受けてか、翌2016年(平成28年)12月26日に市史跡範囲は拡大されている。2022年(令和4年)8月現在、
史跡面積は9万8908uとなっており申す。なお、発掘調査は毎年のように城域のいずれかで行われ、その都度新たな発見が
続いており、岡崎市と岡崎城は一体不可分な存在となっているようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
移築され現存する建物は、念沸堂赤門が岡崎市内東阿知和町の謁播(あつわ)神社神門に、薬医門形式の北門(二ノ門)が
愛知県西尾市西浅井町にある浄土真宗遠慶山宿縁寺の山門になり、北曲輪門が愛知県額田郡額田町の民家に置かれて
いる。また、岡崎市内下青野町にある浄土真宗撫松山慈光寺には太鼓楼を移築したものと伝わる寺堂がある。■■■■■■
岡崎公園は国道1号線に面し、駐車場も完備しているので車での来訪は非常に簡単。東名高速の岡崎ICは1号線直結なので
インターを降りて西に向かえば、岡崎城へと辿り着ける。半面、公共交通機関利用だと最寄駅はJRではなく名鉄名古屋本線
岡崎公園前駅、或いは愛知環状鉄道の中岡崎駅で、駅から伊賀川を渡って城へ向かう事になろう。そんな両駅からまっすぐ
城へ伸びる道に架かっている伊賀川の橋は「竹千代橋」。なるほど、やっぱり神君家康公は岡崎城に寄り添っている。■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
謁播神社神門(念沸堂赤門)・宿縁寺山門(北門)・某民家家屋(北曲輪門)
慈光寺太鼓楼(伝 岡崎城太鼓楼)




犬山城  清洲城・勝幡城