最近は時代劇でも見かけなくなりましたが…(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
俗に「天下の御意見番」として名高い大久保彦左衛門忠教(ただたか)の陣屋跡。坂崎陣屋とも呼ばれ、構築されたのは
江戸幕府が成立した後の1614年(慶長19年)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
忠教の経歴を紐解くとして先ず大久保氏について遡れば、その出自は下野国(栃木県)宇都宮氏一門の武茂(むも)氏に
辿り着くと言う。宇都宮一党は平安時代からの名族で、鎌倉幕府草創期に基盤を固め、下野国に君臨した。そして南北朝
時代になるや武茂泰藤が南朝方の有力武将として全国各地を転戦、最終的に三河国(愛知県東部)で土着する。■■■
泰藤の孫・泰道の代になって姓を宇都宮(本姓)から宇津に改め、さらにその曾孫である昌忠は三河の国人・松平左京亮
信光に臣従。言わずもがな、信光の後裔が徳川家康であり、大久保一族はこの時以来、三河松平氏の絶対的家臣として
活躍していくのでござる。松平(徳川)譜代家臣の中でも、特に古参の家臣たる宇津(大久保)氏は、信光の本拠であった
岩津城(愛知県岡崎市)の一員として栄誉ある“岩津譜代”と称された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
昌忠の孫・忠茂から大窪(大久保)姓を名乗り、その子・平右衛門忠員(ただかず)は家康創業の宿老として数々の合戦に
参加。そして忠員の長子・七郎右衛門忠世(ただよ)は徳川十六神将にまで数えられ、“家康生涯の大敗”である三方ヶ原
合戦においても、勝利に酔う武田軍へ夜襲を仕掛けた程の剛将。跡を継いだ相模守忠隣(ただちか)は徳川幕府成立期
小田原藩(神奈川県小田原市)祖として4万5000石を領する大名へと昇進している。彦左衛門忠教は忠員の8男、忠隣の
叔父に当たる人物となる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
数々の武勲で徳川覇業の屋台骨となった大久保一族は江戸幕府の誕生時に群を抜いた実力者となっていた。その一方
同じ頃に政務官僚として台頭していたのが佐渡守正信・上野介正純父子率いる本多一族であった。大久保党と本多党の
対立は日に日に激化し遂に1614年1月19日、正信・正純の讒訴によって大久保忠隣は更迭されてしまう。この訴えは根も
葉もない醜聞に過ぎないが武功派として剛毅を旨とする忠隣は何ら弁明せず粛々と主君・家康の命に従って蟄居、他の
大久保一族も軒並み処分を受けている。忠教もまた、それまで3000石を知行されていたが一連の騒動で連座改易に。■
しかし程なく家康の直臣として召し出され、三河国額田郡坂崎に知行1000石を与えられた。斯くして構えられたのがここ
大久保陣屋だったのでござる。武辺の大久保一族らしく忠教は大坂冬の陣で槍奉行を務め上げ、翌1615年(元和元年)
大坂夏の陣でも家康本陣に付き従っている。夏の陣の折、家康本陣を示す旗が敵の攻撃により引き倒されてしまったが
忠教はその不首尾は家康の恥になるとして、頑として「倒れていなかった」と主張した逸話が有名。後年、3代将軍・徳川
家光から崇敬する祖父の戦功を訊ねられた忠教はそうした実戦譚を話して聞かせ大いに喜ばれたという。これが忠教を
“時の将軍に直言できる人物”として「天下の御意見番」に祀り上げた経緯であり、家光の信を得て旗奉行に任じられ、
1624年(寛永元年)には竜泉寺・羽栗・桑谷など近隣の所領1000石を加増された。この頃から三河武士の伝記と言える
「三河物語」を執筆、最晩年にあたる1635年(寛永12年)には常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)でさらに300石を加えられた。
忠教が没したのは1639年(寛永16年)2月29日、80歳であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「宝探し」的に見つける石垣と土塁■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、陣屋跡地は八百富社という小さな神社になっている。周囲の田圃に比べて僅かに隆起した微高台地であり、その
法面を固める陣屋石垣跡がいくらか残存(写真、神社入口の脇)。また、神社の裏手付近には恐らく陣屋遺構と思われる
土塁もある。しかし、言われなければあの“大久保彦左衛門”の居館がここだったとは誰も気付かないでござろう。場所は
幸田町の坂崎地区、坂崎公民館の隣である。陣屋(八百富社)そのものに駐車場は無いが、公民館に少しばかりの駐車
余地があるのでそこに停めさせて頂くのが良いだろう。くれぐれも地域住民の方々に迷惑をかけぬよう、短時間の来訪に
留めるのが吉。ちなみに近年、八百富社のすぐ隣にコンビニエンスストアが開業した。石垣のギリギリ傍まで店の建物が
迫り、石垣の見学がしにくくなっている。あと3m離れてくれれば見易いままだったと思うので少々残念ではある。■■■■
なお、幸田町は“大久保彦左衛門の町”として宣伝し「彦左公園」まである程だが、陣屋跡はそれとは全く違う位置なので
注意すべし。彦左公園は町の最北端部にあるのだが、陣屋はそこから約1.5km南、国道248号線バイパス「弁天」交差点
西北側にある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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