三河国 大久保氏陣屋

大久保氏陣屋址 八百富社

 所在地:愛知県額田郡幸田町坂崎御屋敷・坂崎弁天

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
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最近は時代劇でも見かけなくなりましたが…(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
俗に「天下の御意見番」として名高い大久保彦左衛門忠教(ただたか)の陣屋跡。坂崎陣屋とも呼ばれ、構築されたのは
江戸幕府が成立した後の1614年(慶長19年)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
忠教の経歴を紐解くとして先ず大久保氏について遡れば、その出自は下野国(栃木県)宇都宮氏一門の武茂(むも)氏に
辿り着くと言う。宇都宮一党は平安時代からの名族で、鎌倉幕府草創期に基盤を固め、下野国に君臨した。そして南北朝
時代になるや武茂泰藤が南朝方の有力武将として全国各地を転戦、最終的に三河国(愛知県東部)で土着する。■■■
泰藤の孫・泰道の代になって姓を宇都宮(本姓)から宇津に改め、さらにその曾孫である昌忠は三河の国人・松平左京亮
信光に臣従。言わずもがな、信光の後裔が徳川家康であり、大久保一族はこの時以来、三河松平氏の絶対的家臣として
活躍していくのでござる。松平(徳川)譜代家臣の中でも、特に古参の家臣たる宇津(大久保)氏は、信光の本拠であった
岩津城(愛知県岡崎市)の一員として栄誉ある“岩津譜代”と称された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
昌忠の孫・忠茂から大窪(大久保)姓を名乗り、その子・平右衛門忠員(ただかず)は家康創業の宿老として数々の合戦に
参加。そして忠員の長子・七郎右衛門忠世(ただよ)は徳川十六神将にまで数えられ、“家康生涯の大敗”である三方ヶ原
合戦においても、勝利に酔う武田軍へ夜襲を仕掛けた程の剛将。跡を継いだ相模守忠隣(ただちか)は徳川幕府成立期
小田原藩(神奈川県小田原市)祖として4万5000石を領する大名へと昇進している。彦左衛門忠教は忠員の8男、忠隣の
叔父に当たる人物となる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
数々の武勲で徳川覇業の屋台骨となった大久保一族は江戸幕府の誕生時に群を抜いた実力者となっていた。その一方
同じ頃に政務官僚として台頭していたのが佐渡守正信・上野介正純父子率いる本多一族であった。大久保党と本多党の
対立は日に日に激化し遂に1614年1月19日、正信・正純の讒訴によって大久保忠隣は更迭されてしまう。この訴えは根も
葉もない醜聞に過ぎないが武功派として剛毅を旨とする忠隣は何ら弁明せず粛々と主君・家康の命に従って蟄居、他の
大久保一族も軒並み処分を受けている。忠教もまた、それまで3000石を知行されていたが一連の騒動で連座改易に。
しかし程なく家康の直臣として召し出され、三河国額田郡坂崎に知行1000石を与えられた。斯くして構えられたのがここ
大久保陣屋だったのでござる。武辺の大久保一族らしく忠教は大坂冬の陣で槍奉行を務め上げ、翌1615年(元和元年)
大坂夏の陣でも家康本陣に付き従っている。夏の陣の折、家康本陣を示す旗が敵の攻撃により引き倒されてしまったが
忠教はその不首尾は家康の恥になるとして、頑として「倒れていなかった」と主張した逸話が有名。後年、3代将軍・徳川
家光から崇敬する祖父の戦功を訊ねられた忠教はそうした実戦譚を話して聞かせ大いに喜ばれたという。これが忠教を
“時の将軍に直言できる人物”として「天下の御意見番」に祀り上げた経緯であり、家光の信を得て旗奉行に任じられ、
1624年(寛永元年)には竜泉寺・羽栗・桑谷など近隣の所領1000石を加増された。この頃から三河武士の伝記と言える
「三河物語」を執筆、最晩年にあたる1635年(寛永12年)には常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)でさらに300石を加えられた。
忠教が没したのは1639年(寛永16年)2月29日、80歳であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

「宝探し」的に見つける石垣と土塁■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、陣屋跡地は八百富社という小さな神社になっている。周囲の田圃に比べて僅かに隆起した微高台地であり、その
法面を固める陣屋石垣跡がいくらか残存(写真、神社入口の脇)。また、神社の裏手付近には恐らく陣屋遺構と思われる
土塁もある。しかし、言われなければあの“大久保彦左衛門”の居館がここだったとは誰も気付かないでござろう。場所は
幸田町の坂崎地区、坂崎公民館の隣である。陣屋(八百富社)そのものに駐車場は無いが、公民館に少しばかりの駐車
余地があるのでそこに停めさせて頂くのが良いだろう。くれぐれも地域住民の方々に迷惑をかけぬよう、短時間の来訪に
留めるのが吉。ちなみに近年、八百富社のすぐ隣にコンビニエンスストアが開業した。石垣のギリギリ傍まで店の建物が
迫り、石垣の見学がしにくくなっている。あと3m離れてくれれば見易いままだったと思うので少々残念ではある。■■■■
なお、幸田町は“大久保彦左衛門の町”として宣伝し「彦左公園」まである程だが、陣屋跡はそれとは全く違う位置なので
注意すべし。彦左公園は町の最北端部にあるのだが、陣屋はそこから約1.5km南、国道248号線バイパス「弁天」交差点
西北側にある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

石垣・土塁・郭群等







三河国 坂崎古城

坂崎古城址 切岸遺構?

 所在地:愛知県額田郡幸田町坂崎平蔵脇・坂崎城

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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家康と苦楽を共にした平岩氏の居館址■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三河在住の土豪・平岩氏の城館と伝わる。坂崎城(下記)に対して坂崎「古城」と称されるのだが、どちらが新旧なのかは
不明らしい。幸田町坂崎地区、字平蔵脇〜字城近辺の隆起地形部が城域だったらしいのだが、現在は大半が住宅地と
化しているので、じっくりと城跡の痕跡を見て回るのは難しい。ただ、隆起地形の末端部あたりでは切岸のような状態が
残っており(写真)、また、集落内部にも所々で土塁の残欠が散見できる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平岩氏も、信光時代から松平氏の家臣に加わった一族。ただし、盲目的に従臣した大久保氏とは異なり、時節に応じて
松平氏との関係は変化していたようだ。最終的には平岩主計頭親吉(ちかよし)が家康に臣従、忠勤に励み御三家筆頭
尾張徳川家の附家老にまで抜擢された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平岩氏の元来の姓は弓削氏とされる事から、出自は古代の物部(もののべ)氏一族と考えられている。坂崎に在住した
弓削氏であるが、郷内久保田(現在の愛知県額田郡幸田町久保田字平岩)に「射割石(いわりいし)」と呼ばれる平らな
大岩があった事から、土地の名物に因んで氏重(うじしげ)の代に平岩と改姓した。この氏重こそ、坂崎(古)城主にして
松平信光の臣になった人物であり、親吉の4代祖先にあたる。しかし肝心の射割石は1907年(明治40年)用水池造営に
伴って移設された上、用水路の橋材として削り出された。最終的に残された物は上記した大久保氏陣屋跡の八百富社
境内に移され保存されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁







三河国 坂崎城

坂崎城址(天野氏屋敷跡) 神明社

 所在地:愛知県額田郡幸田町坂崎平蔵脇

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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平岩家の“お隣さん”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松平(徳川)家臣・天野氏累代の邸宅址。天野氏の中で最も有名な人物は家康配下で三河三奉行の1人に数えられた
天野康景(やすかげ)である為、天野康景邸とも称される。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
天野氏の太祖とされるのは伊豆国田方郡天野郷(静岡県伊豆の国市)に在した天野左兵衛尉遠景(とおかげ)である。
遠景は源頼朝が平家打倒の挙兵をして以来、一貫してそれに臣従した事で大功を挙げた人物。天野氏の流派は、この
勲功にて遠江国・尾張国・安芸国・長門国などに分派したのだが、三河天野氏の中に出た縫殿助遠房が松平次郎三郎
清康(家康の祖父)に仕え、以後の代は松平家の家臣となったのでござる。坂崎城、即ち天野氏屋敷が築かれたのは
この遠房の頃、16世紀前半とされる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
遠房の後、甚右衛門景隆―三郎兵衛康景と代を継ぎ、当城を居館にして松平家に忠勤。初名を景能(かげよし)とした
康景は11歳から家康の小姓として近習し、姉川の戦いや三方ヶ原の合戦などで軍功を挙げ申した。その一方、1565年
(永禄8年)からは上記の三河三奉行に高力与左衛門清長(こうりききよなが)・本多作左衛門重次(しげつぐ)と共に
任じられている。三奉行を評して「仏高力、鬼作左、どちへんなきは三郎兵衛」と言われ、寛大な清長や剛毅な重次に
対し天野康景は慎重な人物であった。景能の名から康景に改めたのも、家康から「康」の字を与えられたためであり、
実直な勤務ぶりを高く買われていたようだ。1586年(天正14年)からは甲賀忍者衆を統率、2200貫の所領を与えられて
いる。こうした時期の居館がここ坂崎城でござったが、1590年(天正18年)家康が関東に移封された事に伴い、康景も
下総国香取郡大須賀(現在の千葉県成田市)3000石に移され申した。これによって坂崎城も廃絶となっている。■■■
現在の城址一帯は宅地や畑地になっており、中心部だったと思われる場所には神明社が鎮座する(写真)。この神社
境内に天野邸石碑や解説板が置かれ、ところどころに土塁の残欠?と思しきものが見受けられるが判然としない。が、
地元では大切にされているようで、手作りの看板がしつこい程に(←褒め言葉w)立てられていて好感が持てる。神社の
雰囲気は悪くないので、坂崎古城と共に周囲を散策して見て回るのが良いだろう。■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭







三河国 高力城

高力城址碑

 所在地:愛知県額田郡幸田町高力熊谷

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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地名と石碑に“仏の足跡”を見る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
愛知県道483号線が相見(あいみ)川を渡る地点、熊谷(くまがい)橋の脇に城址碑が建つ古城址。その名の通りに、
「仏高力」と紹介した高力氏の館跡である。橋の名にあると同時に高力城所在地の小字(あざ)名でもある「熊谷」とは
即ち高力氏の本姓。つまり高力氏は源平合戦“青葉の笛”で有名な熊谷次郎直実の後裔とされる。南北朝期、足利
尊氏に軍功を賞された熊谷備中守直鎮(なおしげ、直実の5代後裔)が三河国八名(やな)郡(愛知県新城市周辺)で
領地を与えられて移住した事が三河移転の契機となり、備中守重長(直鎮の9代後裔にあたる分家筋)から高力姓を
名乗るようになっている。直鎮の直系である宇利熊谷氏は松平家に敗れて没落したが、高力氏は松平家に従う事で
家名隆盛の機を掴み申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
高力城の創築は重長の父である熊谷正直の代、15世紀末頃と見られる。重長の孫が「仏高力」の与左衛門清長で、
家康関東移封の1590年に高力家も武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)2万石へ移されている為、およそ100年程
使われた事になる。現状では城の遺構は全く残されておらず、写真の城址碑が置かれているのみだ。ただ、現地に
立てば相見川畔の低台地が館址だったという面影だけは伝わってくる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■







三河国 大草城

大草城址 正楽寺

 所在地:愛知県額田郡幸田町大字大草字寺西

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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もともとは鎌倉武士・大草氏に始まる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国道248号線沿い、「正楽寺西」交差点の目前にある浄土真宗月星山正楽寺の境内が比定地と伝わる城館。上記、
高力城址の説明に用いた熊谷橋からは南南東に僅か700mしか離れていない至近距離にある。大久保氏陣屋跡の
八百富社からも南へ真っ直ぐ、1.4kmほどの位置。この辺りは三河武士の館に溢れている。■■■■■■■■■■
起源を遡ると、この地には鎌倉時代に大草(おおくさ)氏が起こってその館が建てられたとされる。当時の三河国は
足利氏の領国とされており、南北朝動乱の折に大草三郎左衛門公経(きんつね)は足利尊氏に従って従軍、1348年
(正平3年/貞和4年)の四條畷合戦で戦死を遂げた。公経の後、大草氏宗家は歴代足利将軍に仕える奉公衆となり
その後は徳川将軍家にも召し抱えられるようになっている。また、大草氏庶流の大草三郎左衛門公次(きんつぐ)は
室町幕府3代将軍・足利義満に料理人として仕え、大草流庖丁道を確立し饗応料理の調理を担当するようになった。
将軍など高貴な者が口にする料理は毒殺の手段にも成り得た為、正式な調理手法を整える事も当時の武家文化に
必要な素養だった訳だが、いずれにせよ大草一族はこうして京都での活動を主としていき、次第に大草荘とは縁遠く
なっていったようだ。それと入れ替わるように肥前国(現在の佐賀県近辺)から三河守護代として入封した西郷氏が
大草に土着し、現地の実効支配を行うようになっていく。これにより、改めて当地で西郷氏の築いた城館が大草城と
言われてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

松平家と覇を競った西郷家の館に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南北朝の戦いを経て、三河国守護となった仁木修理亮義長(にっきよしなが)は、九州での戦いを勝ち抜き西郷氏を
従えた(西郷氏の出自には諸説あり)。斯くて地元の三河へ凱旋した義長は守護代に西郷氏を入れた訳だが、後に
仁木氏が没落すると西郷氏の守護代職は有耶無耶となるも、そのまま土着し在地国人化している。大草城を根城に
15世紀には西郷弾正左衛門稠頼(つぎより)が龍頭山に砦を築いて勢力を拡大した。この龍頭山の砦こそ、岡崎城
(岡崎市内)の原初でござる。その所領は次代・弾正左衛門頼嗣(よりつぐ)に受け継がれるが、西郷氏の勢力圏は
松平郷(愛知県豊田市)から進出してきた松平氏と接するようになっていく。これに隣国・遠江から伸張する今川家の
脅威も重なり、複雑な様相を呈する中で松平側の攻勢が始まった。時の松平家当主・信光の攻撃に対し、西郷側は
劣勢に陥る。よって頼嗣は信光の5男・紀伊守光重(みつしげ)に自分の娘を嫁がせ家督を譲り、両家の講和とした。
斯くして光重より後の代は大草松平家とされ西郷氏の名跡を継ぐ事になるが、それでも松平宗家との対立は絶えず
大草松平3代・西郷弾正左衛門信貞(光重の次子だが、頼嗣の子と考える説もある)は松平宗家7代・清康と戦った。
しかしこの戦いでも西郷方は敗北、遂に岡崎城を清康に明け渡し大草城へ退去する事になった。また、和議の証に
信貞の娘・於波留(春姫)が清康に嫁いでいる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

西郷家(大草松平家)の没落と、一族のその後■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが今度は清康が落命し松平氏が没落。今川家の三河支配に際し、西郷一族は松平家臣に留まる者もいれば
今川方に臣従する途を選ぶ者もあり、混迷を極めた。徳川家康が岡崎城を回復した後に起きた三河一向一揆では
大草松平4代・七郎昌久が当城を拠点に一向宗側につき、一揆が敗北すると逃亡するに至る。よって家康は大草の
所領を没収。いよいよ西郷氏は浪々の身となった。7代目の松平善兵衛康安(やすやす)がようやく徳川家に帰参、
以後は家康家臣として働くようになるが、最終的に江戸幕府創立後、大草松平家は無嗣断絶で滅んだ。■■■■
こうした経緯の中、恐らく昌久の逃亡時に大草城は廃絶したと見られるが、稠頼は敷地に隣接して西之坊なる寺を
開き西郷家の菩提寺とし、それが正楽寺として今に伝わっており申す。結局、現状では寺でしかないため武家居館と
しての遺構は皆無だが、しかし寺の裏手には川が流れ(濠として機能したのであろう)その土手は急峻に切り立って
堅固な守りの一端を担っていた様子は見て取れよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、西郷一族の中で家康に付き従った者の中には徳川御三家や譜代大名の家臣に組み入れられた人物も居る。
その末裔として最も有名なのが幕末の会津藩家老となった西郷頼母(たのも)だ。一方、三河西郷氏の遠祖を肥前
西郷氏とする説が正しければ、その分流として繋がるのが薩摩の西郷隆盛と言う事になる。奇しくも明治維新の折
徳川家を挟んで敵味方に分かれた2人が元を正せば同じ家系だったなら ――― 歴史の皮肉としか言いようがない。







三河国 深溝城(深溝陣屋)

深溝城址石碑

 所在地:愛知県額田郡幸田町

大字深溝字丸ノ内
大字深溝字城山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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地名は「ふこうず」人名は「ふこうぞ」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鎌倉末期に大場(大庭)氏が築城したと伝わる。正確な築城年は不明で、1231年(寛喜3年)の構築、或いは1332年
(正慶元年)大場朝泰(ともやす)が築いた等の説があるものの、それが正しいとも分からない。朝泰による築城説は
深溝(ふこうず)城に隣接する日蓮宗誉師山長満寺の縁起に基づくもの(長満寺の開基が朝泰である)だ。■■■■
室町時代、大場氏は足利将軍家の被官であった。ここに城を構えたのも、そうした経緯に拠るものだろう。ところが
1465年(寛正6年)額田郡で在地武士団が蜂起し幕府に叛乱を起こした。この額田郡一揆(ぬかだごおりいっき)は
諸説あるものの関東で足利将軍家に対抗していた古河公方(こがくぼう、元来は幕府の東国統治機関で足利分家)
足利成氏(しげうじ)が扇動し、当時の主要幹線たる東海道の往来を妨害させようとした叛乱だったらしく、一揆勢の
主要人物の中に大場次郎左衛門景紀の名がある。幕府は時の三河守護・細川氏に鎮圧を命じ、その細川氏は配下
国人衆である西郷氏(大草城の項で名の出た西郷氏である)や牧野氏らに出陣させるも、なかなか倒せない状況が
続いた。業を煮やした幕府は、政所(まんどころ、幕政中枢を司る部署)執事・伊勢伊勢守貞親(いせさだちか)の
名で追討命令を出し、故に伊勢氏配下だった三河国人の松平氏が5月に出陣。遂に松平勢が大場景紀を敗死させ
一揆は終息に向かったのでござれば、この戦果によって松平家が深溝城を奪取する。景紀を討ち取ったのは五井
松平家(三河国宝飯(ほい)郡五井(愛知県蒲郡市五井町)を本拠とする松平氏の庶流)の松平元心(もとむね)で
あったが、彼は手柄を弟の大炊助忠定(たださだ)に譲った。そのため、松平宗家の当主・信光は忠定に深溝城を
与え、以後は忠定の系統が深溝松平家を創設してこの城を守っていく事になる。これを以って深溝城の創始とする
説もある。なお、城名や地名は「ふこうず」と読むが、深溝松平家は「ふこうぞ」と読む事もあって紛らわしい。■■■

戦国乱世の中で■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、幕府公認の戦で領地を拡大した松平家はこれ以後実力を増し、後に戦国大名化する契機となった。但し
大場氏の深溝城が落とされたのは額田郡一揆の時ではなく1524年(大永4年)の事とする説もある。いずれにせよ
深溝松平家は戦国乱世の中で松平宗家に一貫して従い続け(他の松平諸家は反抗敵対する事もあった)忠定の後
大炊助好景(よしかげ)が家督を継承。松平宗家が「清康の横死〜広忠の早世〜竹千代人質」となる不遇の時代を
支え続け、桶狭間合戦では松平元康手勢として大高城(愛知県名古屋市緑区)撤退戦の殿軍を務めたのみならず
元康独立時の1561年(永禄4年)中島城(愛知県岡崎市中島町)陥落に功を上げ、その城を与えられた武功の将。
好景は勝ち取った中島城に嫡男・主殿助伊忠(これただ)を入れ深溝城へ帰還するが、直後に伊忠は元康の命令で
出陣し、中島城は留守になる。そこを敵対する吉良家の兵が取り囲んだ為、好景が救援に駆け付けるも伏兵に遭い
無念の討死となってしまった。結果、家督は伊忠が継承し、後に吉良家が元康に降伏する事で雪辱は果たされた。
伊忠も父に劣らぬ勇将で、松平元康あらため徳川家康の歴戦に参加。1563年(永禄6年)に甲斐の武田軍が長沢城
(愛知県豊川市)へ寄せるもこれを撃退、三河一向一揆、遠江征服、姉川の戦いや三方ヶ原合戦など数々の戦に
参陣している。惜しくも長篠合戦で戦死。深溝松平家は4代・主殿助家忠(いえただ)の時代を迎える。戦国武士の
一級品史料として知られる家忠日記を記した、あの松平家忠だ。治世にも戦闘にもただならぬ働きをした彼だが、
1590年に徳川家が関東へ移封の折、深溝の城を離れた。家忠の転出先は武蔵国忍(おし、埼玉県行田市)1万石。
徳川家の手を離れた深溝領は、吉田城(愛知県豊川市)の池田家と岡崎城の田中家が分割統治し、深溝城には
池田家の家臣が入っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後、家忠は関ヶ原合戦の前哨戦となる伏見城(京都府京都市伏見区)籠城戦にて玉砕。深溝松平家は嫡男の
主殿頭忠利(ただとし)が継ぎ申した。果たして関ヶ原で大勝した家康は天下の主となり、戦後の大名配置において
忠利は父祖の地である深溝城へ返り咲く事ができた。家康は戦死した家忠の忠義に報いる為、常陸国(茨城県)で
彼に大封を与えようとしたのだが、それを断って深溝の地を望んだと言う。石高は1万石、深溝藩の成立でござる。
忠利は領内の治水に心を配って善政を敷いた。他方、幕府成立後に吉田城を預かった竹谷(たけのや)松平家は
1612年(慶長17年)4月20日に当主の玄蕃頭忠清が没して無嗣断絶となる。この為、吉田領2万石を加増する形で
(合計3万石)忠利に吉田城が与えられた。よって同年11月20日に忠利は吉田へ移転、ここに深溝松平家は伝来の
深溝と別離し、城も廃絶する事になり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

深溝陣屋として復活するも…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1614年(慶長19年)7月、それまで山城国で1000石を領していた幕臣・板倉内膳正重昌(いたくらしげまさ)に深溝領
1230石が加増された。重昌はその後も加増を続け、1624年(寛永元年)合計で1万1800石を有する事になり大名へ
昇進。ここに深溝藩が復活し、政庁として深溝城跡に陣屋が構えられ申した。後に領内再検地を行って、深溝藩は
幕府へ表高1万5000石と報告している。重昌は幕府から有能な官吏と見られていたが、それ故に島原・天草の乱で
幕府上使として現地へ下向。一揆鎮圧の攻を焦り1638年(寛永15年)の元日に大攻勢をかけるが、逆に鉄砲玉の
直撃を受けて戦死してしまう。深溝藩は大混乱に陥り、板倉家の家督相続は大幅に繰り延べされた後、重昌長男・
主水佑重矩が1639年(寛永16年)6月になってようやく継承。その際、藩庁は中島陣屋(上記した松平伊忠の城)へ
移された上、重矩は弟の筑後守重直(しげなお)に5000石を分知(後に3000石を加増)している。■■■■■■■■
以後、深溝陣屋は重直の系譜(板倉筑後守家)が相続する旗本陣屋となり、明治維新時に廃され申した。陣屋の
門だけが移築され現存するものの他の建物は全て破却され敷地も完全に滅失している。部分的に土塁が残るとも
言うが、周辺の景観に紛れて良く分からない状態。特に史跡指定もされていないが、写真の通り立派な石碑だけは
立てられている。往時は敷地面積7000uを数えたと云うが…。場所はJR東海道本線三ヶ根駅のほぼ真北350m程の
静かな住宅街。完全に一般民家が並ぶ中なので、来訪時は御邪魔にならないよう十分配意すべし。■■■■■■■
それにしても、深溝松平家は好景から家忠までの3代、それに加えて板倉重昌と、この城の主は戦死する者ばかり。
そして板倉重昌が討死した島原の地には後年になって深溝松平家の主殿頭忠房(ただふさ、忠利の嫡男)が入封し
途中の国替えがあったものの幕末まで深溝家が統治している。これまた何と皮肉な巡り合わせか ―――。■■■■



移築された遺構として
陣屋門




新城市内諸城郭・田峯城  蒲郡市・豊川市内諸城砦