三河国 山中城

山中城 主郭跡

 所在地:愛知県岡崎市

羽栗町長寄・羽栗町本沢
舞木町城山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★★☆
★☆■■■



三河屈指の山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岡崎市南東部、蒲郡市との境界に近い丘陵上の城郭。別名で羽栗(はぐり)城とも。■■■■■■■■■■■■■■
周囲を田園地帯に囲まれた中で浮かび上がったような小山をほぼ全山に渡って利用し、大規模な城砦を築いている。
名鉄名古屋本線・名電山中駅の前にある国道1号線の山中小学校北交差点から愛知県道324号線を南西方向へ入り
羽栗病院の前を通り過ぎる辺りの右手(病院の西側)にある小山が城跡なのだが、道路上には山中城跡を示す標識が
無いため、気付かないと通り過ぎてしまう。羽栗町集会所(公民館)の裏山、と説明するのが一番分かり易いだろうか。
城山の直近には駐車場が無いのが難点である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
標高196mの山頂に築いた主郭を中心とし、東・東北・西北方面へ伸びる尾根にいくつもの曲輪を展開、愛知県下では
最大級の山城と評価されている。主郭の西側には眺望の開けた二郭、反対に東側へは緩斜面を啓開した広い三郭が
あり、これら主要部だけでもかなりの大きさを誇り、見応えがある。それ以外にも多くの腰曲輪や段曲輪群を附随させ
じっくり見学するなら2時間以上は必要でござろう。城内各所には土塁や堀の遺構が残り、確かに大きな城砦となって
いたようだ。山中小学校北交差点の傍には岡崎市の東部支所があり、そこで城跡の解説資料が配布されているので
事前に入手してから登城するのが良いだろう。城山を貫通するようにハイキングコースが走っているので、登山自体に
難儀する事はないだろうが、直登する訳ではなく大きく回り込んで行かねばならないのでやや手間が掛かる。山麓との
比高は丁度100m程でござる。なお、そのハイキングコースは元来の登城路ではなく、開通させるために一部の遺構を
改変している箇所があるので注意。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

西郷氏の勢力を封じ込めた大久保忠茂の城攻め■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城は戦国時代、時の岡崎城(岡崎市内)主であった西郷松平氏によるもの。正確な構築年は不明である。西郷氏は
岡崎近辺を領有し勢力を築いた一族であるが、3代目・弾正左衛門信貞の時に甥の安祥城(愛知県安城市)主・松平
次郎三郎清康(きよやす)と対立、1524年(大永4年)清康側の攻撃を受け敗北する。その折、山中城は清康配下の将
大久保左衛門五郎忠茂(ただしげ)の風雨を衝いた奇襲により一夜で陥落、岡崎城までも譲り渡す事となった。忠茂の
武功を賞した清康は、彼に領内17箇所の市銭徴収権を与えたのだが、逆に忠茂は市銭を撤廃して楽市としたそうだ。
是が結果的に岡崎繁栄の起爆剤となった為、それを決した1524年5月28日が「岡崎開市」の日とされている。そこから
400年後の1924年(大正13年)5月には岡崎開市400年祭が執り行われている。■■■■■■■■■■■■■■■■
山中城攻略時、清康は弱冠14歳。以後、若き軍略家は西郷氏を配下に従え安祥城から岡崎城へ本拠を移し三河の
統一に向けて邁進した。その武威は隣国の尾張や遠江にまで轟いたのでござる。ところが、清康は1535年(天文4年)
12月5日に「守山崩れ」と呼ばれる事件で家臣に誤殺されてしまい、松平氏の勢力は急激に衰退。清康の跡を継いだ
嫡男・松平次郎三郎広忠は独力で領土を防衛する術を持たず、駿河・遠江の太守であった今川家の庇護を求めた。
この為、広忠の嫡子・竹千代は今川家の人質に取られ、山中城は今川勢が占拠する。これ以後、山中城は今川軍の
西三河進出拠点となり申した。程無く広忠も没し三河国は今川家の属領となってしまうが、1560年(永禄3年)5月19日
桶狭間の戦いで今川家当主・治部大輔義元が戦死すると、今度は今川氏が急激に衰退していく。■■■■■■■■
これを契機に独立の機を得た竹千代、元服して松平蔵人佐元康は岡崎城に帰還した。本拠地たる岡崎近辺の掌握を
急務とした元康は、継父・久松佐渡守俊勝を先陣として今川勢が占拠していた山中城を落城させる。斯くして、当城は
松平家のものに復したのでござった。もうお分かりであろうが、元康とは後の江戸幕府初代将軍・徳川家康だ。1563年
(永禄6年)の三河一向一揆では一時的に一揆勢が占拠したものの、山中城は家康の三河制圧における基地として
重視され、1564年(永禄7年)からは徳川家家老・酒井左衛門尉忠次が山中郷を領有するようになる。現在見られる
城の姿はこの頃に完成されたものと思われ、1590年(天正18年)の徳川家関東移封まで酒井氏による山中城統治が
続いたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡敷地565uは1962年(昭和37年)6月15日、岡崎市史跡に指定されている。写真にある城址碑の揮毫をしたのは
大正時代の子爵・大久保忠言、忠茂の後裔だ。大久保氏は徳川譜代の大名として江戸幕府の創設にも大きな役割を
果たした。そして西郷氏の子女は家康の側室となり、2代将軍・秀忠の生母となっている。山中城をめぐる人間関係は
その後の歴史に実は大きな影響を与えているのだ。山中城と言うとついつい静岡県三島市の山中城を思い浮かべて
しまうが、こちらの山中城もオススメの名城である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








三河国 姫ヶ城

姫ヶ城跡

 所在地:愛知県岡崎市

保母町字栗下
保母町字稲荷下

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★☆■■■
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東名高速の高架を見下ろして■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東名高速道路の美合PA(上り線)からすぐ目の前、岡崎市保母町(ほぼちょう)にある浄土宗保母山胎蔵寺の境内と
その北側に控える小山が城跡。岡崎市の観光文化百選に選ばれている城郭でござる。■■■■■■■■■■■■
平安時代中期、一条天皇の時代(986年(寛和2年)〜1011年(寛弘8年)在位)に三河国司を任じられ当地へ下向した
大江三河守定基(おおえのさだもと)が数年間在住した場所とされ、戦国期には保母松平氏が築城、居城としたのが
城の来歴である。姫ヶ城近辺では多数の河川が合流し、東海道を監視できる要所でもあり、更には上記した山中城と
岡崎城の中間地点である事から、松平氏が勢力を広げる過程においてそれなりに重視されていた拠点であろう事が
予想できる。大江定基はこの地に来て赤阪郷(赤坂宿(愛知県豊川市)の事か)の力寿(りきじゅ)姫と恋仲になったが
姫が急病で亡くなった事を嘆き草庵を建立し、それが松平和泉守信光(三河松平氏3代目当主、徳川家康の6代前)の
子で僧籍にあった念空聖人により寺となったのが胎蔵寺の由来とされ、定基の旧蹟と松平氏の関連が推測されよう。
定基の恋愛遍歴には諸説あってあまり信頼できる話でもないようなのだが、そう云ってしまうと雰囲気ぶち壊しなので
悲恋の伝承があった古城郭、としておくのが歴史浪漫と言うものなのだろう(苦笑)。■■■■■■■■■■■■■■
一部の城郭紹介頁で「胎蔵寺の脇に山への登り口がある」と書かれているが、これが実に分かり難い。寺の門前から
脇へ逸れる道があるので、そこなのかと思って入って行くのは間違い。正解は寺の境内へ入ってから、本堂の裏手へ
回って行くと城山へ登る道が現れるので、そこを進むべし。5分ほど登れば山の上の削平地に出て、そこに小さな祠が
祀られている。よく見ればその一帯が大きく上下2段の曲輪になっている事に気付くだろう。ここが姫ヶ城の主郭部で、
更に土塁だったと推測される上へ出れば、そこが山頂で小さな城址碑(写真)が置かれている。国司の館だったのは
山麓の胎蔵寺境内であろうから、山頂は差し詰め「国を見渡す物見台」といった程度だったのだろうが、戦国期ならば
山頂一帯にも何かしらの建造物を建て、戦に備えた事も十分考えられよう。胎蔵寺門前には東名の高架が覆い被さる
如く塞いでいて圧迫感すら感じる状況なのだが、山頂まで登れば逆に高速を見下ろす(見下だす?)解放感があって
ちょっとした優越気分?を味わえる。山頂は海抜101m、麓との比高は65mほど。■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群等








三河国 勝鬘寺

勝鬘寺本堂と石碑

 所在地:愛知県岡崎市針崎町字朱印地

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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針崎勝鬘寺、要害堅固の地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR岡崎駅の西口から南へ、愛知県道43号線を750mほど行った所にあるのが浄土真宗寂光山勝鬘寺(しょうまんじ)、
“勝鬘寺砦”とも称された三河一向一揆時の一大拠点である。太子山上宮寺(じょうぐうじ、岡崎市内)・雲龍山本證寺
(ほんしょうじ、愛知県安城市)と並んで“三河三ヶ寺”に数えられたこの寺は、北から南へ延びる微高台地の尖端部に
位置し、西〜南〜東の外周部は寺の境内よりも2mほど低い。ごく僅かな隆起ではあるが、砦として切岸を削り込めば
十分に要害性を発揮しただろう。現在も猶この法面は生きていて、寺へ入るには急峻な階段を登る事になり、当時の
堅固な要塞ぶりを想像させてくれる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の創建…と言うのも何なので、寺の来歴を。勝鬘寺公称の歴史では、浄土真宗の開祖である親鸞(しんらん)から
説法を聴き入信した僧侶・信願房了海(しんがんぼうりょうかい)が1258年(正嘉2年)三河国内で初めての浄土真宗
寺院として創建したのが始まりだとされる。ただし、この当時の寺は碧海荘(あおみのしょう)赤渋(あかしぶ)の地に
築かれていた。現在の岡崎市赤渋町付近、今の所在地である針崎町(はりさきちょう)から北西側に当たり、三河の
大河である矢作川の近くだ。南北朝対立という戦乱の時代を経る中、一向宗(浄土真宗)は庶民の信仰を集め寺は
隆盛を極めるが、川の氾濫によって1496年(明応5年)8月に被災し現在地へと移った。先程、現状地が微高台地の
上にあると記したが、こうした経緯を考慮すると元々は水害を避ける為に選ばれた土地だったのだろう。■■■■■

三河一向一揆の主戦場■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時代が戦国乱世に突入して、今川支配から徳川家康が独立しようとする頃になると、この微高台地が思わぬ効果を
発揮する事になり申した。今川家の反攻に備えるべく地固めを急務とした家康は、領内統制を強めようとした過程で
一向宗との対立を引き起こしてしまったのだ。事の発端には諸説あるのだが(家康が一向宗の寺から徴発した等)、
家康との対決を固めた一向宗の各寺と門徒は三河国内で一斉に蜂起し、特に上宮寺・本證寺そしてこの勝鬘寺を
中心として一揆勢が立て籠もった。「一向一揆軍の城」となった勝鬘寺は、件の高低差を以って要害の地の利となし
寄せ手の徳川軍と一進一退の攻防戦を繰り広げる。時に1563年10月の事である。■■■■■■■■■■■■■■
実は、徳川家臣の中にも熱心な一向宗信者が居り、何と彼らは主君への忠義よりも宗旨への信心を選んだ。家康は
宗教勢力や農民のみならず、家臣(武士団)までも敵に回す事となった訳だ。ゆえにこの三河一向一揆は、土一揆の
ような農民戦争としてだけでなく、徳川家中における内乱の側面もあった。こうして、徳川十六神将の1人と数えられる
蜂屋半之丞貞次(はちやさだつぐ)や、「槍の半蔵」として名高い渡辺半蔵守綱(わたなべもりつな)と父・源五左衛門
高綱(たかつな)らがこの勝鬘寺に入り家康方と戦っている。忠勇無比として名高い三河武士が、主君に逆らってまで
信仰に忠節を尽くしたのだから手強い。何より一向宗の門徒は「死ねば極楽」と信じて退く事を知らず、正規の武将が
統率する死兵が籠った寺は正に城そのもの。家康もさぞかし手を焼いた事でござろう。■■■■■■■■■■■■
しかし一方で彼らは主君への忠義を忘れた訳では無かったらしく、蜂屋貞次は寄せ手と戦いながらも家康本人との
対決は避け、家康が引っ込むとまた戦うといった逸話が残されている。また、家康方へと残った義父・大久保新八郎
忠俊(おおくぼただとし、忠茂の嫡子)に義理立てし、一揆方の攻勢がある事を事前に大久保一族へ知らせておいて
一門に被害が及ばないように慮ったと言われている。他方、渡辺高綱は激戦の果てに1564年(永禄7年)1月11日、
上和田の戦い(岡崎市内)で流れ矢を受け勝鬘寺へ退却、同月17日に死去した(11日に戦死とする説も)。そのため
勝鬘寺の一角に高綱の墓がござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

若き家康、統治の難しさを学ぶ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、この1564年1月に起きた各所での戦いによって一揆方の劣勢が確定し、勝鬘寺も同月20日に陥落、伽藍は
焼き払われた。家康は一揆勢と和議を結び、叛乱軍に加担した家臣らも大半が許されて帰参を果たしている。だが
戦闘終結後、改めて家康は一向宗を激しい統制下に置き、三河での一向門徒は再起できぬ程に勢力を削がれた。
後に家康が開く江戸幕府で宗教政策も重視されたのは、この一揆があったからだ。その一方で、いったんは主君を
裏切った家臣に寛容な態度を見せ、以後彼らは家康の為に絶対的な忠義を尽くすようになった。三河一向一揆は
“生みの苦しみ”を独立間もない家康に味わわせたが、結果的に国内統制の強化を成功させた事になる。ちなみに
家康が和議後に一向宗寺院の破却まで命じた際には、大久保忠俊が諫言し門徒の安全を確保したそうな。■■■
ところで勝鬘寺が落とされた際、家康から国外追放とされた住職の了意(りょうい)は信濃国井上へと落ち延びた。
20年以上を経た1585年(天正13年)ようやく許された了意は帰還して寺の復興に着手する。幕藩体制の成立と共に
次第に幕府からの庇護も受けるようになり、現在の本堂は1734年(享保19年)に再再建されたものだそうな。そして
明治期になると廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、神社優遇の国策が裏目に出て仏閣を破却する事に繋がった政策)の
嵐が。これに反対する三河の一向門徒は再び一揆を起こしかねない状態に陥ったようだが、今度は勝鬘寺住職の
厳了(ごんりょう)が決起勢を押さえる側として活躍した。歴史を振り返るのは未来の禍を防ぐためであると、過去の
教訓から学んだ好例でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
寺の境内地5889.51uは1962年(昭和37年)6月15日に岡崎市指定史跡となっており申す。■■■■■■■■■■



現存する遺構

郭群
寺境内は市指定史跡








三河国 西大平藩陣屋

西大平藩陣屋跡 復元門

 所在地:愛知県岡崎市大平町西上野

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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名奉行、大名になる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代中期になって築かれた陣屋跡。その主は名奉行として有名な、あの大岡越前守忠相(ただすけ)に始まり
廃藩置県まで7代に渡って大岡家が継承。復元された陣屋門(写真)には大岡家の家紋である大岡七宝紋が大きく
掲げられてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕府の遠国奉行である要職・伊勢山田奉行での働きが評価されて江戸南町奉行に抜擢された旗本の大岡忠相は
江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の推進する「享保の改革」を強力に補佐し、後に寺社奉行まで昇進した。その功績を
称えられ、1748年(寛延元年)閏10月1日それまでの領地・相模国高座郡堤村(現在の神奈川県茅ヶ崎市北部)など
5920石の石高に加え三河国渥美・宝飯(ほい)・額田(ぬかた)3郡の中で計4080石を与えられ、晴れて1万石の大名
西大平(にしおおひら)藩主に就任した。忠相晩年、72歳の時の話だ。これに伴って、三河国の封領を統治するため
築かれたのがここ西大平藩陣屋。なお、町奉行から大名になったのは江戸期全般を通じて忠相1人のみである。
忠相はわずか3年後の1751年(宝暦元年)12月19日に亡くなり、藩主としての在任期間は短かった。2代藩主に嫡子
忠宣(ただよし)が就任、3代・忠恒(ただつね)―4代・忠與(ただとも)―5代・忠移(ただより)―6代・忠愛(ただよし)
7代・忠敬(ただたか)と継いでいく。大岡家(西大平藩主家)は代々越前守を官職名に名乗り申した。■■■■■■
ここに陣屋が築かれたのは三河国内の所領である宝飯郡5ヶ村、加茂郡・碧海(あおみ)郡7ヶ村、額田郡12ヶ村を
治めるに適当な位置だった点に加え、東海道筋に接して江戸との連絡を取り易かった事が考慮されたのであろう。
しかし大岡家は江戸に常駐する常府大名であり、歴代の菩提寺も堤村にあった為、歴代藩主が西大平の陣屋に
入った事はなかった。故に家臣団の多くは江戸藩邸に居り、陣屋詰めの家臣は多い時期でも郡代1人・郡奉行1人
代官2人・手代3人・郷足軽4〜5人程度しか居なかったという。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
陣屋跡は岡崎市街地の中で東側に位置する大平町に所在。岡崎市役所大平支所や東名高速岡崎ICの傍にある
岡崎市立男川(おとがわ)小学校の隣が敷地。残存する遺構は何も無いが、写真の通り立派な門が復元されており
敷地内には簡単な庭園も再現されている。また、大岡忠相の信仰を受けた大岡稲荷神社も陣屋敷地内にそのまま
建立され、当時の雰囲気を今に伝える。岡崎と言うと神君・徳川家康公…というのが先ず思い浮かぶでござろうが、
西大平藩主にして名奉行の声高い大岡越前も尊重されているようだ。なお、大岡家菩提寺・浄土宗窓月山浄見寺
(じょうけんじ)がある茅ヶ崎市と西大平藩陣屋がある岡崎市は、大岡越前守忠相を繋がりとして1983年(昭和58年)
7月1日に「ゆかりのまち」協定を結ぶに至っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■





小牧城  吉田城