三河屈指の山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岡崎市南東部、蒲郡市との境界に近い丘陵上の城郭。別名で羽栗(はぐり)城とも。■■■■■■■■■■■■■■
周囲を田園地帯に囲まれた中で浮かび上がったような小山をほぼ全山に渡って利用し、大規模な城砦を築いている。
名鉄名古屋本線・名電山中駅の前にある国道1号線の山中小学校北交差点から愛知県道324号線を南西方向へ入り
羽栗病院の前を通り過ぎる辺りの右手(病院の西側)にある小山が城跡なのだが、道路上には山中城跡を示す標識が
無いため、気付かないと通り過ぎてしまう。羽栗町集会所(公民館)の裏山、と説明するのが一番分かり易いだろうか。
城山の直近には駐車場が無いのが難点である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
標高196mの山頂に築いた主郭を中心とし、東・東北・西北方面へ伸びる尾根にいくつもの曲輪を展開、愛知県下では
最大級の山城と評価されている。主郭の西側には眺望の開けた二郭、反対に東側へは緩斜面を啓開した広い三郭が
あり、これら主要部だけでもかなりの大きさを誇り、見応えがある。それ以外にも多くの腰曲輪や段曲輪群を附随させ
じっくり見学するなら2時間以上は必要でござろう。城内各所には土塁や堀の遺構が残り、確かに大きな城砦となって
いたようだ。山中小学校北交差点の傍には岡崎市の東部支所があり、そこで城跡の解説資料が配布されているので
事前に入手してから登城するのが良いだろう。城山を貫通するようにハイキングコースが走っているので、登山自体に
難儀する事はないだろうが、直登する訳ではなく大きく回り込んで行かねばならないのでやや手間が掛かる。山麓との
比高は丁度100m程でござる。なお、そのハイキングコースは元来の登城路ではなく、開通させるために一部の遺構を
改変している箇所があるので注意。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
西郷氏の勢力を封じ込めた大久保忠茂の城攻め■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城は戦国時代、時の岡崎城(岡崎市内)主であった西郷松平氏によるもの。正確な構築年は不明である。西郷氏は
岡崎近辺を領有し勢力を築いた一族であるが、3代目・弾正左衛門信貞の時に甥の安祥城(愛知県安城市)主・松平
次郎三郎清康(きよやす)と対立、1524年(大永4年)清康側の攻撃を受け敗北する。その折、山中城は清康配下の将
大久保左衛門五郎忠茂(ただしげ)の風雨を衝いた奇襲により一夜で陥落、岡崎城までも譲り渡す事となった。忠茂の
武功を賞した清康は、彼に領内17箇所の市銭徴収権を与えたのだが、逆に忠茂は市銭を撤廃して楽市としたそうだ。
是が結果的に岡崎繁栄の起爆剤となった為、それを決した1524年5月28日が「岡崎開市」の日とされている。そこから
400年後の1924年(大正13年)5月には岡崎開市400年祭が執り行われている。■■■■■■■■■■■■■■■■
山中城攻略時、清康は弱冠14歳。以後、若き軍略家は西郷氏を配下に従え安祥城から岡崎城へ本拠を移し三河の
統一に向けて邁進した。その武威は隣国の尾張や遠江にまで轟いたのでござる。ところが、清康は1535年(天文4年)
12月5日に「守山崩れ」と呼ばれる事件で家臣に誤殺されてしまい、松平氏の勢力は急激に衰退。清康の跡を継いだ
嫡男・松平次郎三郎広忠は独力で領土を防衛する術を持たず、駿河・遠江の太守であった今川家の庇護を求めた。
この為、広忠の嫡子・竹千代は今川家の人質に取られ、山中城は今川勢が占拠する。これ以後、山中城は今川軍の
西三河進出拠点となり申した。程無く広忠も没し三河国は今川家の属領となってしまうが、1560年(永禄3年)5月19日
桶狭間の戦いで今川家当主・治部大輔義元が戦死すると、今度は今川氏が急激に衰退していく。■■■■■■■■
これを契機に独立の機を得た竹千代、元服して松平蔵人佐元康は岡崎城に帰還した。本拠地たる岡崎近辺の掌握を
急務とした元康は、継父・久松佐渡守俊勝を先陣として今川勢が占拠していた山中城を落城させる。斯くして、当城は
松平家のものに復したのでござった。もうお分かりであろうが、元康とは後の江戸幕府初代将軍・徳川家康だ。1563年
(永禄6年)の三河一向一揆では一時的に一揆勢が占拠したものの、山中城は家康の三河制圧における基地として
重視され、1564年(永禄7年)からは徳川家家老・酒井左衛門尉忠次が山中郷を領有するようになる。現在見られる
城の姿はこの頃に完成されたものと思われ、1590年(天正18年)の徳川家関東移封まで酒井氏による山中城統治が
続いたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡敷地565uは1962年(昭和37年)6月15日、岡崎市史跡に指定されている。写真にある城址碑の揮毫をしたのは
大正時代の子爵・大久保忠言、忠茂の後裔だ。大久保氏は徳川譜代の大名として江戸幕府の創設にも大きな役割を
果たした。そして西郷氏の子女は家康の側室となり、2代将軍・秀忠の生母となっている。山中城をめぐる人間関係は
その後の歴史に実は大きな影響を与えているのだ。山中城と言うとついつい静岡県三島市の山中城を思い浮かべて
しまうが、こちらの山中城もオススメの名城である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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