三河国 山中城

山中城 主郭跡

 所在地:愛知県岡崎市

羽栗町長寄・羽栗町本沢
舞木町城山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★☆■
★☆■■■



三河屈指の山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岡崎市南東部、蒲郡市との境界に近い丘陵上の城郭。別名で羽栗(はぐり)城とも。■■■■■■■■■■■■■■
周囲を田園地帯に囲まれた中で浮かび上がったような小山をほぼ全山に渡って利用し、大規模な城砦を築いている。
名鉄名古屋本線・名電山中駅の前にある国道1号線の山中小学校北交差点から愛知県道324号線を南西方向へ入り
羽栗病院の前を通り過ぎる辺りの右手(病院の西側)にある小山が城跡だ。羽栗町集会所(公民館)の裏山、と説明
するのが一番分かり易いだろうか。以前は駐車場もなく、道路上には山中城跡を示す標識が無いため、気付かないと
通り過ぎてしまう難点があったものの、近年は324号線沿いに数台が置ける駐車場も作られ、そこから城山への経路
案内も設置されるようになった。また、登城口までで20分ほど掛かるが名電山中駅から歩く事もできるだろう。■■■
標高196mの山頂に築いた主郭を中心とし、東・東北・西北方面へ伸びる尾根にいくつもの曲輪を展開、愛知県下では
最大級の山城と評価されている。主郭の西側には眺望の開けた二郭、反対に東側へは緩斜面を啓開した広い三郭が
あり、これら主要部だけでもかなりの大きさを誇り、見応えがある。それ以外にも多くの腰曲輪や段曲輪群を附随させ
じっくり見学するなら2時間以上は必要でござろう。城内各所には土塁や堀の遺構が残り、確かに大きな城砦となって
いたようだ。山中小学校北交差点の傍には岡崎市の東部支所があり、そこで城跡の解説資料が配布されているため
事前に入手してから登城するのが良いだろう。城山を貫通するようにハイキングコースが走っているので、登山自体に
難儀する事はないだろうが、直登する訳ではなく大きく回り込んで行かねばならないからやや手間が掛かる。山麓との
比高は丁度100m程でござる。なお、そのハイキングコースは元来の登城路ではなく、開通させるために一部の遺構を
改変している箇所があるので注意。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

西郷氏の勢力を封じ込めた大久保忠茂の城攻め■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城は戦国時代、時の岡崎城(岡崎市内)主であった西郷松平氏によるもの。正確な構築年は不明である。西郷氏は
岡崎近辺を領有し勢力を築いた一族であるが、3代目・弾正左衛門信貞の時に甥の安祥城(愛知県安城市)主・松平
次郎三郎清康(きよやす)と対立、1524年(大永4年)清康側の攻撃を受け敗北する。その折、山中城は清康配下の将・
大久保左衛門五郎忠茂(ただしげ)の風雨を衝いた奇襲により一夜で陥落、岡崎城までも譲り渡す事となった。忠茂の
武功を賞した清康は、彼に領内17箇所の市銭徴収権を与えたのだが、逆に忠茂は市銭を撤廃して楽市としたそうだ。
是が結果的に岡崎繁栄の起爆剤となった為、それを決した1524年5月28日が「岡崎開市」の日とされている。そこから
400年後の1924年(大正13年)5月には岡崎開市400年祭が執り行われている。■■■■■■■■■■■■■■■■
山中城攻略時、清康は弱冠14歳。以後、若き軍略家は西郷氏を配下に従え安祥城から岡崎城へ本拠を移し三河の
統一に向けて邁進した。その武威は隣国の尾張や遠江にまで轟いたのでござる。ところが、清康は1535年(天文4年)
12月5日に「守山崩れ」と呼ばれる事件で家臣に誤殺されてしまい、松平氏の勢力は急激に衰退。清康の跡を継いだ
嫡男・松平次郎三郎広忠は独力で領土を防衛する術を持たず、駿河・遠江の太守であった今川家の庇護を求めた。
この為、広忠の嫡子・竹千代は今川家の人質に取られ、山中城は今川勢が占拠する。これ以後、山中城は今川軍の
西三河進出拠点となり申した。程無く広忠も没し三河国は今川家の属領となってしまうが、1560年(永禄3年)5月19日
桶狭間の戦いで今川家当主・治部大輔義元が戦死すると、今度は今川氏が急激に衰退していく。■■■■■■■■
これを契機に独立の機を得た竹千代、元服して松平蔵人佐元康は岡崎城に帰還した。本拠地たる岡崎近辺の掌握を
急務とした元康は、継父・久松佐渡守俊勝を先陣として今川勢が占拠していた山中城を落城させる。斯くして、当城は
松平家のものに復したのでござった。もうお分かりであろうが、元康とは後の江戸幕府初代将軍・徳川家康だ。1563年
(永禄6年)の三河一向一揆では一時的に一揆勢が占拠したものの、山中城は家康の三河制圧における基地として
重視され、1564年(永禄7年)からは徳川家家老・酒井左衛門尉忠次が山中郷を領有するようになる。現在見られる
城の姿はこの頃に完成されたものと思われ、1590年(天正18年)の徳川家関東移封まで酒井氏による山中城統治が
続いたのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡敷地565�uは1962年(昭和37年)6月15日、岡崎市史跡に指定されている。写真にある城址碑の揮毫をしたのは
大正時代の子爵・大久保忠言、忠茂の後裔だ。大久保氏は徳川譜代の大名として江戸幕府の創設にも大きな役割を
果たした。そして西郷氏の子女は家康の側室となり、2代将軍・秀忠の生母となっている。山中城をめぐる人間関係は
その後の歴史に実は大きな影響を与えているのだ。山中城と言うとついつい静岡県三島市の山中城を思い浮かべて
しまうが、こちらの山中城もオススメの名城である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








三河国 姫ヶ城

姫ヶ城跡

 所在地:愛知県岡崎市

保母町字栗下
保母町字稲荷下

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★☆■■■
☆■■■■



東名高速の高架を見下ろして■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東名高速道路の美合PA(上り線)からすぐ目の前、岡崎市保母町(ほぼちょう)にある浄土宗保母山胎蔵寺の境内と
その北側に控える小山が城跡。岡崎市の観光文化百選に選ばれている城郭でござる。■■■■■■■■■■■■
平安時代中期、一条天皇の時代(986年(寛和2年)〜1011年(寛弘8年)在位)に三河国司を任じられ当地へ下向した
大江三河守定基(おおえのさだもと)が数年間在住した場所とされ、戦国期には保母松平氏が築城、居城としたのが
城の来歴である。姫ヶ城近辺では多数の河川が合流し、東海道を監視できる要所でもあり、更には上記した山中城と
岡崎城の中間地点である事から、松平氏が勢力を広げる過程においてそれなりに重視されていた拠点であろう事が
予想できる。大江定基はこの地に来て赤阪郷(赤坂宿(愛知県豊川市)の事か)の力寿(りきじゅ)姫と恋仲になったが
姫が急病で亡くなった事を嘆き草庵を建立し、それが松平和泉守信光(三河松平氏3代目当主、徳川家康の6代前)の
子で僧籍にあった念空聖人により寺となったのが胎蔵寺の由来とされ、定基の旧蹟と松平氏の関連が推測されよう。
定基の恋愛遍歴には諸説あってあまり信頼できる話でもないようなのだが、そう云ってしまうと雰囲気ぶち壊しなので
悲恋の伝承があった古城郭、としておくのが歴史浪漫と言うものなのだろう(苦笑)。■■■■■■■■■■■■■■
一部の城郭紹介頁で「胎蔵寺の脇に山への登り口がある」と書かれているが、これが実に分かり難い。寺の門前から
脇へ逸れる道があるので、そこなのかと思って入って行くのは間違い。正解は寺の境内へ入ってから、本堂の裏手へ
回って行くと城山へ登る道が現れるので、そこを進むべし。5分ほど登れば山の上の削平地に出て、そこに小さな祠が
祀られている。よく見ればその一帯が大きく上下2段の曲輪になっている事に気付くだろう。ここが姫ヶ城の主郭部で、
更に土塁だったと推測される上へ出れば、そこが山頂で小さな城址碑(写真)が置かれている。国司の館だったのは
山麓の胎蔵寺境内であろうから、山頂は差し詰め「国を見渡す物見台」といった程度だったのだろうが、戦国期ならば
山頂一帯にも何かしらの建造物を建て、戦に備えた事も十分考えられよう。胎蔵寺門前には東名の高架が覆い被さる
如く塞いでいて圧迫感すら感じる状況なのだが、山頂まで登れば逆に高速を見下ろす(見下だす?)解放感があって
ちょっとした優越気分?を味わえる。山頂は海抜101m、麓との比高は65mほど。■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群等








三河国 勝鬘寺

勝鬘寺本堂と石碑

 所在地:愛知県岡崎市針崎町字朱印地

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★■■■■
☆■■■■



針崎勝鬘寺、要害堅固の地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR岡崎駅の西口から南へ、愛知県道43号線を750mほど行った所にあるのが浄土真宗寂光山勝鬘寺(しょうまんじ)、
“勝鬘寺砦”とも称された三河一向一揆時の一大拠点である。太子山上宮寺(じょうぐうじ、岡崎市内)・雲龍山本證寺
(ほんしょうじ、愛知県安城市)と並んで“三河三ヶ寺”に数えられたこの寺は、北から南へ延びる微高台地の尖端部に
位置し、西〜南〜東の外周部は寺の境内よりも2mほど低い。ごく僅かな隆起ではあるが、砦として切岸を削り込めば
十分に要害性を発揮しただろう。現在も猶この法面は生きていて、寺へ入るには急峻な階段を登る事になり、当時の
堅固な要塞ぶりを想像させてくれる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の創建…と言うのも何なので、寺の来歴を。勝鬘寺公称の歴史では、浄土真宗の開祖である親鸞(しんらん)から
説法を聴き入信した僧侶・信願房了海(しんがんぼうりょうかい)が1258年(正嘉2年)三河国内で初めての浄土真宗
寺院として創建したのが始まりだとされる。ただし、この当時の寺は碧海荘(あおみのしょう)赤渋(あかしぶ)の地に
築かれていた。現在の岡崎市赤渋町付近、今の所在地である針崎町(はりさきちょう)から北西側に当たり、三河の
大河である矢作川の近くだ。南北朝対立という戦乱の時代を経る中、一向宗(浄土真宗)は庶民の信仰を集め寺は
隆盛を極めるが、川の氾濫によって1496年(明応5年)8月に被災し現在地へと移った。先程、現状地が微高台地の
上にあると記したが、こうした経緯を考慮すると元々は水害を避ける為に選ばれた土地だったのだろう。■■■■■

三河一向一揆の主戦場■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時代が戦国乱世に突入して、今川支配から徳川家康が独立しようとする頃になると、この微高台地が思わぬ効果を
発揮する事になり申した。今川家の反攻に備えるべく地固めを急務とした家康は、領内統制を強めようとした過程で
一向宗との対立を引き起こしてしまったのだ。事の発端には諸説あるのだが(家康が一向宗の寺から徴発した等)、
家康との対決を固めた一向宗の各寺と門徒は三河国内で一斉に蜂起し、特に上宮寺・本證寺そしてこの勝鬘寺を
中心として一揆勢が立て籠もった。「一向一揆軍の城」となった勝鬘寺は、件の高低差を以って要害の地の利となし
寄せ手の徳川軍と一進一退の攻防戦を繰り広げる。時に1563年10月の事である。■■■■■■■■■■■■■■
実は、徳川家臣の中にも熱心な一向宗信者が居り、何と彼らは主君への忠義よりも宗旨への信心を選んだ。家康は
宗教勢力や農民のみならず、家臣(武士団)までも敵に回す事となった訳だ。ゆえにこの三河一向一揆は、土一揆の
ような農民戦争としてだけでなく、徳川家中における内乱の側面もあった。こうして、徳川十六神将の1人と数えられる
蜂屋半之丞貞次(はちやさだつぐ)や、「槍の半蔵」として名高い渡辺半蔵守綱(わたなべもりつな)と父・源五左衛門
高綱(たかつな)らがこの勝鬘寺に入り家康方と戦っている。忠勇無比として名高い三河武士が、主君に逆らってまで
信仰に忠節を尽くしたのだから手強い。何より一向宗の門徒は「死ねば極楽」と信じて退く事を知らず、正規の武将が
統率する死兵が籠った寺は正に城そのもの。家康もさぞかし手を焼いた事でござろう。■■■■■■■■■■■■
しかし一方で彼らは主君への忠義を忘れた訳では無かったらしく、蜂屋貞次は寄せ手と戦いながらも家康本人との
対決は避け、家康が引っ込むとまた戦うといった逸話が残されている。また、家康方へと残った義父・大久保新八郎
忠俊(おおくぼただとし、忠茂の嫡子)に義理立てし、一揆方の攻勢がある事を事前に大久保一族へ知らせておいて
一門に被害が及ばないように慮ったと言われている。他方、渡辺高綱は激戦の果てに1564年1月11日、上和田の
戦い(岡崎市内)で流れ矢を受け勝鬘寺へ退却、同月17日に死去した(11日に戦死とする説も)。そのため勝鬘寺の
一角に高綱の墓がござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

若き家康、統治の難しさを学ぶ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、この1564年1月に起きた各所での戦いによって一揆方の劣勢が確定し、勝鬘寺も同月20日に陥落、伽藍は
焼き払われた。家康は一揆勢と和議を結び、叛乱軍に加担した家臣らも大半が許されて帰参を果たしている。だが
戦闘終結後、改めて家康は一向宗を激しい統制下に置き、三河での一向門徒は再起できぬ程に勢力を削がれた。
後に家康が開く江戸幕府で宗教政策も重視されたのは、この一揆があったからだ。その一方で、いったんは主君を
裏切った家臣に寛容な態度を見せ、以後彼らは家康の為に絶対的な忠義を尽くすようになった。三河一向一揆は
“産みの苦しみ”を独立間もない家康に味わわせたが、結果的に国内統制の強化を成功させた事になる。ちなみに
家康が和議後に一向宗寺院の破却まで命じた際には、大久保忠俊が諫言し門徒の安全を確保したそうな。■■■
ところで勝鬘寺が落とされた際、家康から国外追放とされた住職の了意(りょうい)は信濃国井上へと落ち延びた。
20年以上を経た1585年(天正13年)ようやく許された了意は帰還して寺の復興に着手する。幕藩体制の成立と共に
次第に幕府からの庇護も受けるようになり、現在の本堂は1734年(享保19年)に再再建されたものだそうな。そして
明治期になると廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、神社優遇の国策が裏目に出て仏閣を破却する事に繋がった政策)の
嵐が。これに反対する三河の一向門徒は再び一揆を起こしかねない状態に陥ったようだが、今度は勝鬘寺住職の
厳了(ごんりょう)が決起勢を押さえる側として活躍した。歴史を振り返るのは未来の禍を防ぐためであると、過去の
教訓から学んだ好例でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
寺の境内地5889.51�uは1962年(昭和37年)6月15日に岡崎市指定史跡となっており申す。■■■■■■■■■■



現存する遺構

郭群
寺境内は市指定史跡








三河国 土呂城(本宗寺)

土呂八幡宮内 土呂城址標柱

 所在地:愛知県岡崎市

福岡町字御堂山・福岡町字南御坊山
福岡町字御坊山・福岡町字宮西

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★■■■■
☆■■■■



一向一揆の“司令塔”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
勝鬘寺(上記)の項にて一向一揆の一大拠点となった“三河三ヶ寺”について触れたが、ここ土呂(とろ)にも一向宗
(浄土真宗)の大寺院があった。それが鷲塚山本宗寺(ほんしゅうじ)である。場所は勝鬘寺から真っすぐ南に1.2km
現在は土呂八幡宮の境内となっている一帯。土呂八幡宮は奈良時代末期に京都から下ってきた神官が築いたと
言い、神宮寺(神社に付随する寺)もあって隆盛していたそうだが、室町時代になり1467年(応仁元年)教勢拡大を
目指し全国に布教を行った浄土真宗本願寺派第8世宗主・蓮如(れんにょ)がこの地を訪れ、翌1468年(応仁2年)
土呂御坊を構えた。これが本宗寺の原型である。土呂御坊の初代住職には蓮如の孫(第9世宗主・実如の4男)・
実円が就き、天文年間には蓮如の分骨を寺がある御堂山に埋葬した。蓮如直系の住職が居て分骨まで祀る寺と
なった本宗寺は三河の一向宗を統轄する地位となる。後の一向一揆では“三河三ヶ寺”が強大な抵抗拠点となるが
その上位に君臨したのが本宗寺だったのでござる。本宗寺の寺域(城域)はかなり広範なものが想定されている
ようだが、これは一向宗の本拠である山科本願寺(京都府京都市山科区)や石山本願寺(大阪府大阪市中央区)の
ように寺内町まで内包する環境を考慮したものだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1563年、その三河一向一揆では当然の事ながら一揆衆が立て籠もる城砦となった。この寺には近隣にあった上地
(うえぢ)城(岡崎市上地町宮脇)主の大見藤六(おおみとうろく)なる将が入り、家康の討伐軍と戦ったそうだ。この
藤六、前日まで家康側にあって軍議に参加していたものを、そこから退出するや一揆方に寝返って軍議の内容を
筒抜けにしたと云う食わせ者。忠義者の三河武士は、信仰に基づいて一揆に参加しても主君である家康とは直接
戦いたくないと遠慮した話は良く聞くが、大見藤六は全くその逆で家康を見事に謀ったのである。激怒した家康は
「たとえ儂が討死しても、藤六は討ち取って首級を我が墓前に供えよ」と命じたとか。翌1564年1月3日の戦いにて
藤六は討ち取られ、これに気勢を上げた家康方が大攻勢をかけたため一揆方の敗北が決定的になった。斯くして
本宗寺(や土呂八幡宮)は2月28日に焼亡、ここに三河一向一揆は収束に向かうのであった。■■■■■■■■

石川数正による復興政策■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一揆平定後、本宗寺の再興は許されずこの地には石川与七郎数正が封じられ、家康から築城を命じられた。家康
股肱の臣として知られる、あの石川数正だ。もともと本宗寺は数正の祖先である石川下野権守政康が氏寺として
築いたものが土呂御坊となったもので、代々の石川氏は熱心な一向宗門徒だった。数正の父・右馬允康正は一揆
方に付いていたと言われる(既に死没していたとも)が、家康の側近である数正は改宗してまで家康に付き従い、
忠節に励んだのだ。一族の経緯も含めた上で封じられた数正の築いた城が、土呂城である。一向宗が再び決起
しないよう監視すると共に、広大な寺内町を擁していた土呂の町を復興させる目的で土呂城は築かれたのだろう。
土呂城がいつ築かれ、またいつ廃絶したのかは不明だが、土呂八幡宮は再建され、また寺内町から城下町へと
生まれ変わった福岡村(土呂城の所在地)は大きく隆盛したそうだ。近代になり、明治に岡崎市内線の路面電車が
敷設されると福岡町(村から町へ)はその始発駅となった程だから、かなり大きな集落が復興した事になろう。ただ、
一向門徒により荒らされたため土呂八幡宮の神宮寺は元亀年間(1570年〜1573年)に廃絶した。本宗寺の赦免は
一揆から20年過ぎた1585年12月になってようやく認められた(これも石川一族の尽力)が、元々の場所での再建は
許可されず、移転の地もなかなか決まらず、1611年(慶長6年)になってやっと岡崎市美合町で建立され申した。■
一揆による荒廃は、大きな爪痕を残したのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

大きく変えられた地形■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、写真に掲げた土呂城址の標柱は土呂八幡宮の入口(鳥居の脇)に設置されているのだが、諸々の看板には
土呂城の本丸(=本宗寺の御堂)は「御堂山」にあり、八幡宮のある「御坊山」は二ノ丸だったと記されている。この
御堂山は福岡町を囲うように円弧を描き流れる砂川の内側に当たる部分で、愛知県道43号線が川を渡る玉川橋の
北側に位置する箇所。蓮如の分骨を葬った土呂御墓地もここにあ「った」。わざわざ過去形を強調して書いたのは、
この御墓地はつい最近まで祀られていたのだが、宅地化によって滅失したからだ。明治時代の地図を見てみると、
御堂山は小高い山であり、それが八幡宮の御坊山(ここも周囲より高い丘)と繋がっていた。その地図をよく見れば
御堂山の北麓には山に沿うように細い溝が続き、さながら堀跡だったかの如しと読み解ける程だ。ところが近代化・
宅地化そして道路開削に伴って二つの山は切り離される如く崩されていき、まるで御堂山には山など無かったかの
ように変化していった。そして最後まで残っていた御墓地の一角(比高差5m程あったそうだ)も、2022年(令和4年)
完全に均されてしまい、山の痕跡は消えてしまった。よって、本丸跡がどこだった(どうであった)かは今となっては
想像も付かない。よって、城の跡地として見るべきは土呂八幡宮のある二ノ丸周辺と言う事になろうが、これもまた
城としての明瞭な遺構は無く、起伏のある地形に往時の姿を推測するのみであろう。ところどころに切岸?櫓台?と
思えなくもない箇所があるのだが、果たして…?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その反面、広域地図を見てみれば岡崎城(家康本拠)に対して勝鬘寺そして本宗寺は一直線に並び、一向門徒が
家康に対して南側から多重障壁を構成していた事が良く分かる。また、大見藤六の上地城もすぐ傍に並び、互いに
援護し合う環境だった事も“地図の上では”一目瞭然だ。そうなるとつくづく(上地城ともども)遺構の残らない事が
惜しくもある。と言うか、本宗寺と上地城がこれだけ至近距離にあるのだから(500m程度しか離れていない)藤六は
本宗寺側に付くと予想できなかったのか、家康は?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
余談だが上地城のあった場所(岡崎市福岡町内)には「北藤六」「南藤六」の字(あざ)名が今でも残る。大見家は
代々の当主が藤六を名乗った為、家康を裏切った藤六だけを指す訳では無いようであるが、このように城主の名を
地名に刻んでいるのが、歴史の面白い所でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■






三河国 永井城

永井城跡標柱

 所在地:愛知県岡崎市福岡町字村前

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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こんな所にも山本勘助?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代中期の1740年(元文5年)に成立した三河の地誌「三河国二葉松(ふたばのまつ)」では、ここ永井村に
約70m四方の方形居館があり、城主は山本小次郎であったと記されている。この山本小次郎なる人物、桶狭間の
戦いでは形原(かたのはら)松平家(松平家支流で三河国宝飯郡形原(愛知県蒲郡市形原町)を本拠とした家)の
配下として丸根砦(愛知県名古屋市緑区)攻略戦に働いたそうだが、三河一向一揆では主家(徳川家康)に叛し、
土呂の本宗寺(上記)に入って立て籠もる。その結果、土呂一帯は壊滅し、永井城も滅したと考えられている。■
永井城があったとされている場所は土呂八幡宮から南南西へと約2.2km、愛知県道325号線を北から南へ進み、
広田川を渡る永野橋に差し掛かる少し前(川の北側)の地点。面白い事に愛知県道325号線は新しい直線道路が
開通しているにも関わらず(福岡町荒巻交差点〜永野橋間)、曲がりくねった旧道が県道指定されたままである。
通常、新道が敷設されるとそちらが県道となり、旧道は指定解除(或いは降格)するものだが、ここではそうなって
いない(2026年(令和8年)現在の状況)。今後変更される事があるかもしれないが、永井城跡に面しているのは
旧道のまま県道とされている道沿いで、永野橋に至る手前で2回折れ曲がる直前の位置でござる。周囲に目印と
なるような公共施設が無いのでそれ以上の説明が出来ないのだが、道路の東側路肩に写真の如く立派な標柱と
城址碑が並び立っているので一目瞭然…と言いたいものの、近年、これらは両方とも撤去されてしまったそうだ。
老朽化した訳でも無く、理由は不明。せっかくの目印が勿体ないように思えるのだが…残念。■■■■■■■■
標識が無くなったので場所が分かり難い、と言う事でお分かりかと思うが、遺構らしい遺構は皆無だ。単に田畑が
広がっているだけである。勿論、駐車場も無い。ただ、城址碑のあった場所とは反対側の路肩に山本勘助之墓と
記された石碑(この碑は2000年(平成12年)になってから作られたもの)と、五輪塔が置かれている。山本勘助は
言うまでもなく甲斐国主・武田徳栄軒信玄(大膳大夫晴信)に仕えた隻眼の軍師、山本勘助晴幸の事だ。実際に
勘助がここに葬られている訳では無いだろうから、この五輪塔は供養塔でござろう。では、何故この場所に勘助の
供養塔が?と言うことになるが、どうやら永井城主・山本小次郎を勘助の縁者として関連付けたもののようだ。■
そもそも勘助は実在すら疑わしいとされていた人物で、近年に古文書が相次いで発見された事でようやく存在が
確定的となった訳だが、出自には諸説あり判然としない。武田家の軍記「甲陽軍鑑」の中では三河国宝飯郡牛窪
(愛知県豊川市牛久保町)の出身とされ、彼の地にはそれを表した石碑もあるが、「三河の」「山本氏」と言うならば
永井城にもその可能性がある ――― としたものだろう。あんまり信用できないが、さりとてこういう言い伝えは案外
馬鹿にならない真実が隠れている事も多いので、これはこれで大切にしたいものである。何より、今となっては
この供養塔が「永井城跡に関する一番分かり易い目印」なのだから。■■■■■■■■■■■■■■■■■■






三河国 上和田城

上和田城(大久保氏館)址 石碑

 所在地:愛知県岡崎市上和田町字南屋敷

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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大久保一族発祥の地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
JR東海道本線/愛知環状鉄道の岡崎駅から北北西へ約700m、愛知県道48号線沿いに上和田公民館がある。■■
その敷地内には写真にある大きな石碑が立ち「大久保氏一族發跡地」と刻まれている。この一帯が上和田城の跡で
碑文の通り、大久保一族発祥の地とされている。言わずもがな、徳川(松平)家の覇業を支えた忠臣、先に名の出た
忠茂や忠俊と言った者を生み出した大久保氏の事でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大久保氏の遠祖と伝わるのが関東の名族・宇都宮氏である。その中の支族が下野国武茂(むも)荘(栃木県那須郡
那珂川町)に入った事で武茂氏を名乗り、このうちの左近将監泰藤(やすふじ)が南北朝の戦いで諸国を転戦した後、
三河国上和田郷に住み着いた。泰藤の事績には謎が多く、どこまでが真実かは分からないが、これ以後その系譜が
上和田の居館として用いたのが上和田城だとされている。なお、泰藤が去った武茂荘は彼の弟である氏泰が治め、
南朝方として(泰藤も南朝の重鎮・新田左近衛中将義貞に従い全国を渡り歩いたもの)彼の地を守ったのだが、後に
北朝が優勢になるとその血縁は歴史の波に消えて行く。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武茂泰藤の後は3男の泰綱が継ぎ、その子である泰道の時には姓を宇津に改めた。元来の姓である宇都宮に因み
変えたそうで、そこからは泰昌―昌平―昌忠―忠与と続いていく。この間、南朝方の“残党”だった武茂(宇津)氏は
上和田を追われた事もあったようだが、それを回復し代々の館を守ったとも言われている。三郎右衛門忠与の子が
上記、山中城の項で登場した忠茂で、その後嗣が新八郎忠俊。勝鬘寺の項に名の出た人物だ。忠俊は諸国流浪の
武芸者・大窪藤五郎に見込まれ「我が姓を残すのは忠俊しかいない」と託された。当時の武茂一族は三河松平家に
仕えていた為、主君の清康に伺いを立てたところ「大窪は剛勇の士であるからその望みを認める」とされ、一族揃って
“大窪”に改姓した。ところが後に藤五郎は戦死し、忠俊の枕元に現れるようになった事から、“大久保”とした。ここに
三河松平家の忠臣・大久保氏が誕生するのだが、こうした逸話は上和田城での時代に起きた事とされる。■■■■

一向一揆に対する“最前線”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松平清康が不遇の死を遂げ、孫の元康が勢力を回復するまで不遇の時代を過ごすが、このように松平家が苦境に
ある中でも大久保氏は主家を支え続けた。特に元康、即ち徳川家康が三河に自立する上で避けられなかった一向
一揆との戦いでは、一向宗の教義に従い家康を裏切る家臣が続出し、他の“三河譜代”と言われる各家が家康側や
一揆側に分裂していた状況下、大久保氏だけは一丸となって家康側に留まっている。その反面、大久保氏の本拠地
上和田は家康居城・岡崎城の南を守る要衝とされ、一向一揆の一大拠点である針崎勝鬘寺に対する防波堤となって
激戦の真っ只中に放り込まれる事となった。上和田城から岡崎城までは約2.9kmあるが、上和田城と勝鬘寺の間は
1.4km弱と、むしろ敵陣の方が近い距離関係にある。それまで“土豪の居館”程度だった館は、これを機に本格的な
城砦へと増強された事だろう。家康もまた敵の勢力圏に突出した大久保家を助け、天下人への歩みを踏み出した。
“産みの苦しみ”を経験した家康と、敵の攻勢を耐え抜いた大久保氏の信頼は斯くして醸成される事となったのだが
その家康に大久保忠俊が降伏後の門徒へ寛大な処分を諫言できたのも、そうした経緯があっての事でござろう。■
一揆を平定し三河を統一、更に東海地方の制圧へ進んだ家康は1590年、関白・豊臣秀吉の命によって故郷を去り
江戸城(東京都千代田区)へ居を移さざるを得なくなる。当然、家臣である大久保一族も関東へ移住した為、これで
上和田城も廃絶したと考えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城そして明治の近代化を経てすっかり岡崎市街地の中に取り込まれた城跡では、遺構らしい遺構が全く残らない。
上和田公民館の西南西80mの所には「和田城用心壕跡(原文ママ)」と記された石碑もあるのだが、これも現状では
民家の庭先に石碑があるだけ。昭和40年代頃までは濠の名残りの池があったそうだが…。■■■■■■■■■■
ちなみに、「大久保一族発祥の地」も岡崎市の観光文化百選に選ばれている。姫ヶ城はまだ高台に城らしさもあるが、
ここは石碑があるだけで全く観光地らしさは無い(何と言っても公民館の敷地)のだけれど、良いのか?(爆)■■■
ところで、絶大な信頼関係にあった家康と大久保家だが、江戸幕府が軌道に乗る頃の1613年(慶長18年)小田原城
(神奈川県小田原市)主にして大久保一門の惣領であった相模守忠隣(ただちか、忠茂の曽孫)は突如改易されて
一族全員が辛酸を舐める事となった。改易の理由は諸説あり、また正確な事は分からず謎が多いのだが、或いは
“譜代の名門であっても、幕府の禁忌に触れれば取り潰される”と言う事例を作り、幕府の権威に諸大名を従わせる
「スケープゴート」を演じたのかもしれない。大久保家ほどの実力者でさえも改易されるとあれば、他の大名らは肝を
冷やしたに違いない。見事に汚れ役の大任を果たした大久保家は、後に復権し小田原城主へ返り咲く。その頃には
幕藩体制は盤石なものとなり、大久保氏は明治維新まで家を残した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■






三河国 羽根(羽根西)城

羽根(羽根西)城跡 稲荷神社

 所在地:愛知県岡崎市羽根西

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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上和田城の出城?副首都?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
上和田城から南東へほぼ350m、占部川と言う小さな川の対岸にある稲荷神社とその北側にある羽根西公園の一帯が
羽根城の跡地とされる。羽根には東西2つの城があったので、区別のため羽根西城とも称される(羽根東城もある)。■
羽根東城はここから更に東、東海道本線の線路を越えた辺りだが、全く遺構も無くどこが跡地なのかも不明瞭だ。■■
一方、羽根西城も市街地に埋もれてはいるが、神社の境内なので敷地は確定でき、また境内一帯は周囲の宅地よりも
僅かに高い(1m弱)微高地なので、当時はそれが要害性を持たせていたと推測できよう。当然、城の西面を流れている
占部川も濠として機能していた事だろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城の来歴も、大久保氏によるものとされる。上和田城から眼前の位置にある為、その出城(支城)?とも言われるが
大久保一族の本拠の筈の上和田城は天文年間(1532年〜1555年)に松平三右衛門忠倫(ただとも)が尾張の織田方へ
内通した(当時、清康が没し三河は駿河今川家の統制下に置かれていた)事で奪取されたとも伝わるので、その際には
この羽根西城が大久保氏の拠る城となっていたと考える説がある。忠倫の事績には不明な点も多く、この争奪戦が事実
だったかは分からない。また、叛旗を翻した忠倫も1547年(天文16年)には粛清されたと言われ、これで上和田城は回復
された事だろう。更に、忠倫が攻略したのは上和田城とは別の城だったとの説もあり判然としないが、いずれにしても、
忠倫が攻め落とさずとも上和田城は周辺勢力からの攻勢に晒されていただろうから、この城が大久保氏城郭の副次的
存在として機能したと言える。当時の大久保氏は(後に近世大名となるが)小さな所領を守る家族経営の豪族に過ぎず、
たった350mしか離れていない隣に、しかし占部川を挟んだ対岸に睨みを効かせるため精一杯の努力として羽根西城を
(そして羽根東城も)構えたと想像する所でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
羽根西城の主として名が挙がるのは大久保勘四郎忠員(ただかず、忠茂の次子)やその子・七郎左衛門忠世(ただよ)。
本家筋に当たるのは忠俊の血筋だが、実力を得て江戸時代の小田原藩主の家系となったのは忠員―忠世の系譜で、
上和田城の項で紹介した忠隣は忠世の長男だ。“大久保”の名を興したのは上和田城の家系だが、大久保氏が徳川家
重臣として大成していくのは、羽根西城の家系と言えよう。城跡に現在ある稲荷神社は1524年に忠茂が建立したと言い
長篠合戦に勝利した事を謝して忠世が1585年8月に社殿を造営した、と神社の由緒にある。恐らくは、羽根西城の城内
鎮守として創建された稲荷神社が、次第に規模を大きくしたものと言う事で、廃城後は社だけが独立して存続したと考え
られよう。だとすれば(土塁や堀といった遺構は皆無だが)神社の存在そのものが、城の名残りと言えなくもない。■■■
神社敷地の東面にある鳥居から入れば数台の駐車場(本当は御祓所なのだろう)があるものの、鳥居を潜るには幅が
狭いので、内輪差の大きい車は一旦もう1本東の道へ出て、鳥居の正面から入るべきだろう。御手洗は羽根西公園に。
徒歩ならば岡崎駅西口から300mと言う“超駅近物件”(笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■






三河国 西大平藩陣屋

西大平藩陣屋跡 復元門

 所在地:愛知県岡崎市大平町西上野

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 あり

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名奉行、大名になる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代中期になって築かれた陣屋跡。その主は名奉行として有名な、あの大岡越前守忠相(ただすけ)に始まり
廃藩置県まで7代に渡って大岡家が継承。復元された陣屋門(写真)には大岡家の家紋である大岡七宝紋が大きく
掲げられてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕府の遠国奉行である要職・伊勢山田奉行での働きが評価されて江戸南町奉行に抜擢された旗本の大岡忠相は
江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の推進する「享保の改革」を強力に補佐し、後に寺社奉行まで昇進した。その功績を
称えられ、1748年(寛延元年)閏10月1日それまでの領地・相模国高座郡堤村(現在の神奈川県茅ヶ崎市北部)など
5920石の石高に加え三河国渥美・宝飯(ほい)・額田(ぬかた)3郡の中で計4080石を与えられ、晴れて1万石の大名
西大平(にしおおひら)藩主に就任した。忠相晩年、72歳の時の話だ。これに伴って、三河国の封領を統治するため
築かれたのがここ西大平藩陣屋。なお、町奉行から大名になったのは江戸期全般を通じて忠相1人のみである。■
忠相は僅か3年後の1751年(宝暦元年)12月19日に亡くなり、藩主としての在任期間は短かった。2代藩主に嫡子・
忠宣(ただよし)が就任、3代・忠恒(ただつね)―4代・忠與(ただとも)―5代・忠移(ただより)―6代・忠愛(ただよし)
7代・忠敬(ただたか)と継いでいく。大岡家(西大平藩主家)は代々越前守を官職名に名乗り申した。■■■■■■
ここに陣屋が築かれたのは三河国内の所領である宝飯郡5ヶ村、加茂郡・碧海(あおみ)郡7ヶ村、額田郡12ヶ村を
治めるに適当な位置だった点に加え、東海道筋に接して江戸との連絡を取り易かった事が考慮されたのであろう。
しかし大岡家は江戸に常駐する常府大名であり、累代の菩提寺も堤村にあった為、歴代藩主が西大平の陣屋に
入った事はなかった。故に家臣団の多くは江戸藩邸に居り、陣屋詰めの家臣は多い時期でも郡代1人・郡奉行1人
代官2人・手代3人・郷足軽4〜5人程度しか居なかったという。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
陣屋跡は岡崎市街地の中で東側に位置する大平町に所在。岡崎市役所大平支所や東名高速岡崎ICの傍にある
岡崎市立男川(おとがわ)小学校の隣が敷地。残存する遺構は何も無いが、写真の通り立派な門が復元されており
敷地内には簡単な庭園も再現されている。また、大岡忠相の信仰を受けた大岡稲荷神社も陣屋敷地内にそのまま
建立され、当時の雰囲気を今に伝える。岡崎と言うと神君・徳川家康公…というのが先ず思い浮かぶでござろうが、
西大平藩主にして名奉行の声高い大岡越前も尊重されているようだ。なお、大岡家菩提寺・浄土宗窓月山浄見寺
(じょうけんじ)がある茅ヶ崎市と西大平藩陣屋がある岡崎市は、大岡越前守忠相を繋がりとして1983年(昭和58年)
7月1日に「ゆかりのまち」協定を結ぶに至っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■





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