水野家と松平家、転々とする間柄■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
刈谷は三河国と尾張国の境に面した町で、刈谷城の所在地はまさに目の前が尾張国というギリギリの境界上でござる。
戦国期、三河と尾張の狭間というこの難しい土地を治めたのは水野氏。三河国内最大の勢力であった松平氏、尾張で
日の出の勢いを見せる織田氏、東に遥か遠く控える東海の巨人・今川氏といった大勢力の動向を見据えつつ、それらと
集合離散を繰り返し生き永らえなくてはならない状況にあった。そんな最中の1533年(天文2年)に、水野下野守忠政が
刈谷城を築城。元来、刈谷の地には水野蔵人貞守(忠政の曽祖父)の築いた刈谷古城があったと言うが、それとは別に
新たな刈谷城を築いた忠政は旧来の居城であった緒川城(愛知県知多郡東浦町)は嫡男の下野守信元に任せ、ここを
水野氏の新たな本拠とした。然る後、1541年(天文10年)忠政は今川氏の保護下にあった岡崎城(愛知県岡崎市)主の
松平次郎三郎広忠に娘を嫁がせ、松平氏・今川氏と誼を通じた。この娘こそ徳川家康の生母・伝通院於大の方であり、
婚儀翌年の1542年(天文11年)に松平家嫡男の竹千代(後の徳川家康)が誕生している。■■■■■■■■■■■■
しかし1543年(天文12年)忠政が死去。家督を継いだ於大の方の兄・信元は松平氏・今川氏との盟を破棄して、尾張の
織田氏と通じるようになった。このため於大の方は離縁され、実家である水野家の刈谷城へ送り返されたのでござった。
斯くして水野氏と松平氏は敵対する様になるが、1560年(永禄3年)5月、桶狭間合戦で今川義元が戦死した事を契機に
刈谷城そして水野氏は大きな転機を迎えた。織田方に属していた刈谷城は今川方の敗残兵が襲撃し破壊されてしまう。
この折、信元の弟・十郎左衛門信近(のぶちか)は討ち取られてしまった。水野家にとってこれは痛恨の事態であったが
直後に城の再建を成し遂げている。その一方、良い展開もあった。それまで今川治部大輔義元に従属させられていた
松平氏は今川氏と絶縁。竹千代長じて松平元康は織田信長を盟主に替えた為、松平氏と織田氏は友好関係に転じ、
水野氏も両者の融和に一役買う事になったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、次に訪れたのは水野家の危難。信元は信長の家臣にありつつ元康改め徳川家康とも誼を通じていたものの
それだけではなく、敵対する甲斐武田家への内通をも疑われ1575年(天正3年)に討たれてしまう。これを機に刈谷城は
佐久間右衛門尉信盛が城主となり申した。だがその信盛も1580年(天正8年)信長に追放される処分を受け、信元の弟・
水野和泉守忠重が刈谷城主となった。斯くして水野家は刈谷の地を回復したのでござる。■■■■■■■■■■■■
忠重はもともと徳川家に属しており、此度刈谷領を与えられて織田家へと従うようになったのだが、1582年(天正10年)
本能寺で信長が斃れると再び家康配下として働くようになる。1590年(天正18年)徳川氏の関東移封によって水野家は
主・家康と別れ伊勢国神戸(かんべ、三重県鈴鹿市)へと移されるも、関ヶ原合戦により天下の形勢が徳川家に傾いた
事を受け、1600年(慶長5年)3万石を以って水野家は三たび旧領である刈谷城の主に据えられた。この時、既に忠重は
亡く、当主は忠重の子・日向守勝成になっていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
水野勝成、剛毅を絵に描いたような人物■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
勝成なる人物は若き頃に刃傷沙汰を起こして親元を出奔、諸国を流浪し他の大名に度々仕えるも短期間でまた浪人に
戻るという経歴を繰り返しており申した。悪く言えば居所の定まらぬ風来坊であるが、ひとたび戦になると豪壮無比の
暴れようで敵を粉砕する力を発揮。良くも悪くも豪胆な傑物だった。そんな勝成は、家康の仲介で忠重が死する直前に
親子の復縁を果たし、水野家の家督を継承していたのだ。このため勝成は家康に恩義を感じ、以後、水野氏は徳川の
譜代家臣として忠勇無私な奉公を尽くす。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして刈谷城は勝成の手によって近世城郭へ改修され、家康の故郷である三河国の重要拠点となっていく。勝成が
築いた江戸時代の刈谷城は、多数の河川が合流して海まで繋がる入江となっていた場所に突き出す小山を利用した
平山城(ほぼ平城)で、その姿から別名で亀城(きじょう)と呼ばれている。本丸の東南側に二ノ丸が続き、更に東には
三ノ丸が広がる縄張りで、藩主御殿はその三ノ丸に置かれていた。天守は揚げられず、本丸の北西と南東に二重櫓が
あるのみ。このうち、北西隅櫓が天守代用とされていたようでござる。江戸時代の城絵図には三重櫓や米蔵、武器庫、
番所、作事蔵などの各種建造物が揃っていたことが記されている。曲輪は殆どが土塁で固められ、石垣は一部にしか
使われていなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大坂の陣における論功行賞で1616年(元和2年)勝成は6万石に加増され、大和郡山城(奈良県大和郡山市)へ転封。
ちなみに、その3年後には更なる加増を受け10万石で備後国福山(広島県福山市)へ移転する。福山は周囲を浅野氏
池田氏など強大な外様大名が囲う場所で、徳川幕府がこれらを抑えるために“剛の者”である勝成を送り込んだのだ。
譜代大名が次々と城主に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、勝成に替わって刈谷城主となったのは勝成の弟・隼人正忠清(ただきよ)。上野国小幡(群馬県甘楽郡甘楽町)
1万石からの入封。水野家の分家であり、刈谷の石高は2万石とされた。これ以後、刈谷城は徳川譜代家臣が交代で
城主を務めるようになっていく。以下に列記すると、1632年(寛永9年)8月12日より三河国の吉田(愛知県豊橋市)から
3万石で深溝(ふこうぞ)松平主殿頭忠房が入り、1649年(慶安2年)2月18日には久松松平能登守定政が伊勢国長島
(三重県桑名市)から2万石で封じられる。深溝松平・久松松平ともに将軍家縁者とされた家柄だ。ところが、その2年後
1651年(慶安4年)定政は改易され、一時的に天領となる。同年のうちに越後国三条(新潟県三条市)から2万3000石で
稲垣摂津守重綱(いながきしげつな)が入り、1654年(承応3年)信濃守重昭(しげあき)が継承。この相続時、重昭は
分家に所領を分け与えた為に2万石となった。それを嫡男の和泉守重富が受け継ぐも、1702年(元禄15年)9月7日に
上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)1万5000石へ移されている。入れ替わりで大多喜から来た阿部伊予守正春が
1万6000石で刈谷城主を継承。正春の隠居後は嫡男(正春6男)の正鎮(まさたね)が継いだものの、1710年(宝永7年)
5月25日、上総国佐貫(千葉県富津市)へと移封。本多中務大輔忠良(ただなが)が越後国村上(新潟県村上市)から
5万石で入城し、それが1712年(正徳2年)同石高で下総国古河(茨城県古河市)へ移されていく。今度は2万3000石で
日向国延岡(宮崎県延岡市)から入ってきた三浦壱岐守明敬(あきひろ)が城主となり、備後守明喬(あきたか)そして
志摩守義理(よしさと)と、3代に亘り三浦氏が統治してござる。その義理は1747年(延享4年)2月11日から三河国西尾
(愛知県西尾市)へと転封、最終的に入ったのは西尾から移された土井大隅守利信。石高はやはり2万3000石で、以後
明治維新まで土井氏が8代に渡って城主を務めている。山城守利徳(としなり)―兵庫頭利制(としのり)―伊予守利謙
(としかた)―淡路守利以(としもち)―大隅守利行(としつら)―淡路守利祐(としすけ)―大隅守利善(としよし)―淡路守
利教(としのり)の順であるが、歴代藩主は揃って短命で、養子縁組を繰り返しての相続でござった。■■■■■■■
廃藩置県後、廃城となり建物が破却され敷地が国の所有となった刈谷城。のちに城跡地は旧士族へ払い下げられ、
1936年(昭和11年)からは当時の刈谷町がこれを譲り受け亀城公園として一般公開いたした。しかし、太平洋戦争末期
軍が高射砲陣地を設置するため城跡を接収し、公園は荒れ果ててしまう。戦後は公園を復興すべく整備が進められて
1969年(昭和44年)当時の愛知教育大学教授であった大野元三氏の構想で園内の高台一帯が日本庭園に造成され
申した。こうした経緯があるため城郭としての遺構はほとんど見受けられないが、それでも本丸周辺の土塁や城域を
囲む濠などは現存しているのでござる。濠幅は広く、鉄砲戦も考慮した造りが垣間見える。なお、旧三ノ丸跡地には
刈谷市の郷土資料館が建ち、これは1999年(平成11年)2月17日に国の登録有形文化財となっている。この他、本丸
跡地において南東隅櫓や城門、多聞櫓の復元が計画されており、今後の進展に期待したいものである。■■■■■
刈谷の字は仮谷、刈屋などを充てる事も。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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