三河国 刈谷城

刈谷城本丸址碑

 所在地:愛知県刈谷市城町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★★☆■■



水野家と松平家、転々とする間柄■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
刈谷は三河国と尾張国の境に面した町で、刈谷城の所在地はまさに目の前が尾張国というギリギリの境界上でござる。
戦国期、三河と尾張の狭間というこの難しい土地を治めたのは水野氏。三河国内最大の勢力であった松平氏、尾張で
日の出の勢いを見せる織田氏、東に遥か遠く控える東海の巨人・今川氏といった大勢力の動向を見据えつつ、それらと
集合離散を繰り返し生き永らえなくてはならない状況にあった。そんな最中の1533年(天文2年)に、水野下野守忠政が
刈谷城を築城。元来、刈谷の地には水野蔵人貞守(忠政の曽祖父)の築いた刈谷古城があったと言うが、それとは別に
新たな刈谷城を築いた忠政は旧来の居城であった緒川城(愛知県知多郡東浦町)は嫡男の下野守信元に任せ、ここを
水野氏の新たな本拠とした。然る後、1541年(天文10年)忠政は今川氏の保護下にあった岡崎城(愛知県岡崎市)主の
松平次郎三郎広忠に娘を嫁がせ、松平氏・今川氏と誼を通じた。この娘こそ徳川家康の生母・伝通院於大の方であり、
婚儀翌年の1542年(天文11年)に松平家嫡男の竹千代(後の徳川家康)が誕生している。■■■■■■■■■■■■
しかし1543年(天文12年)忠政が死去。家督を継いだ於大の方の兄・信元は松平氏・今川氏との盟を破棄して、尾張の
織田氏と通じるようになった。このため於大の方は離縁され、実家である水野家の刈谷城へ送り返されたのでござった。
斯くして水野氏と松平氏は敵対する様になるが、1560年(永禄3年)5月、桶狭間合戦で今川義元が戦死した事を契機に
刈谷城そして水野氏は大きな転機を迎えた。織田方に属していた刈谷城は今川方の敗残兵が襲撃し破壊されてしまう。
この折、信元の弟・十郎左衛門信近(のぶちか)は討ち取られてしまった。水野家にとってこれは痛恨の事態であったが
直後に城の再建を成し遂げている。その一方、良い展開もあった。それまで今川治部大輔義元に従属させられていた
松平氏は今川氏と絶縁。竹千代長じて松平元康は織田信長を盟主に替えた為、松平氏と織田氏は友好関係に転じ、
水野氏も両者の融和に一役買う事になったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、次に訪れたのは水野家の危難。信元は信長の家臣にありつつ元康改め徳川家康とも誼を通じていたものの
それだけではなく、敵対する甲斐武田家への内通をも疑われ1575年(天正3年)に討たれてしまう。これを機に刈谷城は
佐久間右衛門尉信盛が城主となり申した。だがその信盛も1580年(天正8年)信長に追放される処分を受け、信元の弟・
水野和泉守忠重が刈谷城主となった。斯くして水野家は刈谷の地を回復したのでござる。■■■■■■■■■■■■
忠重はもともと徳川家に属しており、此度刈谷領を与えられて織田家へと従うようになったのだが、1582年(天正10年)
本能寺で信長が斃れると再び家康配下として働くようになる。1590年(天正18年)徳川氏の関東移封によって水野家は
主・家康と別れ伊勢国神戸(かんべ、三重県鈴鹿市)へと移されるも、関ヶ原合戦により天下の形勢が徳川家に傾いた
事を受け、1600年(慶長5年)3万石を以って水野家は三たび旧領である刈谷城の主に据えられた。この時、既に忠重は
亡く、当主は忠重の子・日向守勝成になっていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

水野勝成、剛毅を絵に描いたような人物■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
勝成なる人物は若き頃に刃傷沙汰を起こして親元を出奔、諸国を流浪し他の大名に度々仕えるも短期間でまた浪人に
戻るという経歴を繰り返しており申した。悪く言えば居所の定まらぬ風来坊であるが、ひとたび戦になると豪壮無比の
暴れようで敵を粉砕する力を発揮。良くも悪くも豪胆な傑物だった。そんな勝成は、家康の仲介で忠重が死する直前に
親子の復縁を果たし、水野家の家督を継承していたのだ。このため勝成は家康に恩義を感じ、以後、水野氏は徳川の
譜代家臣として忠勇無私な奉公を尽くす。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして刈谷城は勝成の手によって近世城郭へ改修され、家康の故郷である三河国の重要拠点となっていく。勝成が
築いた江戸時代の刈谷城は、多数の河川が合流して海まで繋がる入江となっていた場所に突き出す小山を利用した
平山城(ほぼ平城)で、その姿から別名で亀城(きじょう)と呼ばれている。本丸の東南側に二ノ丸が続き、更に東には
三ノ丸が広がる縄張りで、藩主御殿はその三ノ丸に置かれていた。天守は揚げられず、本丸の北西と南東に二重櫓が
あるのみ。このうち、北西隅櫓が天守代用とされていたようでござる。江戸時代の城絵図には三重櫓や米蔵、武器庫、
番所、作事蔵などの各種建造物が揃っていたことが記されている。曲輪は殆どが土塁で固められ、石垣は一部にしか
使われていなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大坂の陣における論功行賞で1616年(元和2年)勝成は6万石に加増され、大和郡山城(奈良県大和郡山市)へ転封。
ちなみに、その3年後には更なる加増を受け10万石で備後国福山(広島県福山市)へ移転する。福山は周囲を浅野氏
池田氏など強大な外様大名が囲う場所で、徳川幕府がこれらを抑えるために“剛の者”である勝成を送り込んだのだ。

譜代大名が次々と城主に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、勝成に替わって刈谷城主となったのは勝成の弟・隼人正忠清(ただきよ)。上野国小幡(群馬県甘楽郡甘楽町)
1万石からの入封。水野家の分家であり、刈谷の石高は2万石とされた。これ以後、刈谷城は徳川譜代家臣が交代で
城主を務めるようになっていく。以下に列記すると、1632年(寛永9年)8月12日より三河国の吉田(愛知県豊橋市)から
3万石で深溝(ふこうぞ)松平主殿頭忠房が入り、1649年(慶安2年)2月18日には久松松平能登守定政が伊勢国長島
(三重県桑名市)から2万石で封じられる。深溝松平・久松松平ともに将軍家縁者とされた家柄だ。ところが、その2年後
1651年(慶安4年)定政は改易され、一時的に天領となる。同年のうちに越後国三条(新潟県三条市)から2万3000石で
稲垣摂津守重綱(いながきしげつな)が入り、1654年(承応3年)信濃守重昭(しげあき)が継承。この相続時、重昭は
分家に所領を分け与えた為に2万石となった。それを嫡男の和泉守重富が受け継ぐも、1702年(元禄15年)9月7日に
上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)1万5000石へ移されている。入れ替わりで大多喜から来た阿部伊予守正春が
1万6000石で刈谷城主を継承。正春の隠居後は嫡男(正春6男)の正鎮(まさたね)が継いだものの、1710年(宝永7年)
5月25日、上総国佐貫(千葉県富津市)へと移封。本多中務大輔忠良(ただなが)が越後国村上(新潟県村上市)から
5万石で入城し、それが1712年(正徳2年)同石高で下総国古河(茨城県古河市)へ移されていく。今度は2万3000石で
日向国延岡(宮崎県延岡市)から入ってきた三浦壱岐守明敬(あきひろ)が城主となり、備後守明喬(あきたか)そして
志摩守義理(よしさと)と、3代に亘り三浦氏が統治してござる。その義理は1747年(延享4年)2月11日から三河国西尾
(愛知県西尾市)へと転封、最終的に入ったのは西尾から移された土井大隅守利信。石高はやはり2万3000石で、以後
明治維新まで土井氏が8代に渡って城主を務めている。山城守利徳(としなり)―兵庫頭利制(としのり)―伊予守利謙
(としかた)―淡路守利以(としもち)―大隅守利行(としつら)―淡路守利祐(としすけ)―大隅守利善(としよし)―淡路守
利教(としのり)の順であるが、歴代藩主は揃って短命で、養子縁組を繰り返しての相続でござった。■■■■■■■
廃藩置県後、廃城となり建物が破却され敷地が国の所有となった刈谷城。のちに城跡地は旧士族へ払い下げられ、
1936年(昭和11年)からは当時の刈谷町がこれを譲り受け亀城公園として一般公開いたした。しかし、太平洋戦争末期
軍が高射砲陣地を設置するため城跡を接収し、公園は荒れ果ててしまう。戦後は公園を復興すべく整備が進められて
1969年(昭和44年)当時の愛知教育大学教授であった大野元三氏の構想で園内の高台一帯が日本庭園に造成され
申した。こうした経緯があるため城郭としての遺構はほとんど見受けられないが、それでも本丸周辺の土塁や城域を
囲む濠などは現存しているのでござる。濠幅は広く、鉄砲戦も考慮した造りが垣間見える。なお、旧三ノ丸跡地には
刈谷市の郷土資料館が建ち、これは1999年(平成11年)2月17日に国の登録有形文化財となっている。この他、本丸
跡地において南東隅櫓や城門、多聞櫓の復元が計画されており、今後の進展に期待したいものである。■■■■■
刈谷の字は仮谷、刈屋などを充てる事も。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等







三河国 安祥古城

安祥古城跡

 所在地:愛知県安城市安城町社口堂

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★☆■■■
■■■■



畠山氏分流・和田氏の城館?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平安時代、この辺りは志貴荘(しきのしょう)と名付けられた荘園となり開拓されていた。志貴荘は平安中期の1032年
(長元5年)時の三河国司・藤原保相(やすすけ)が私領化、更に上位の権力者である摂政関白太政大臣・藤原頼道に
寄進したと言う。この為、荘園を管理する荘官の館として築かれたのが当城の原初だと言う説もあるが、詳細不明。
鎌倉時代には地頭の安藤氏が居館にしたとも言われ、恐らくはその頃から館が用いられるようになったのであろう。
室町時代になると幕府奉公衆の畠山宗基が志貴荘の代官として赴任してきて、和田氏を名乗るようになる。宗基は
源姓畠山氏・畠山修理大夫国清の庶子と見られ、足利将軍家と縁戚に当たる。父・国清は将軍・足利尊氏とその弟
直義の間を渡り歩き、また南朝と北朝を鞍替えする等して時勢を翻弄。一時は幕府の中で重鎮となり河内畠山氏の
祖となった人物だが、後に権勢を失い没落。国清の嫡子である阿波守義清も3代将軍・足利義満に近侍して幕府の
中枢に侍ったものの、父と同じく次第に凋落する運命を辿っていった。その一方で、中央政界からは離れて地方へと
赴任した宗基はこの地に土着し和田氏と改姓。以後、和田家はこの城を本拠として代を紡ぎ、宗基―満平―持平―
政平―親平と5代を経た。しかし親平は1440年(永享12年)新たな城を近隣に築いて居を移す。この新城が安祥城
(下記)で、相対的にそれまでの城は安祥古城とされ申した。新城の構築によって古城は廃されたようであるが、
後に安祥城(新城)の攻防戦が繰り返されると、安祥城の出城として、或いは攻め手の前線基地として古城の跡が
使われたとも伝えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この他、江戸時代後期に編纂された系譜集「干城録(かんじょうろく)」では、安祥古城の築城者として多門縫殿助
重則(おかどしげのり)の名がある。また、酒井左衛門が城主であったとする記録もあるようだが、良く分からない。
場所は名鉄西尾線の南安城駅から南へ約550m、線路西側に密集する住宅街の中。「社口堂ちびっこ広場」と言う
児童公園の隣、社口社という小さな神社(写真)の境内になっている一帯が城址。この辺りだけがごく僅かな台地で
この起伏が当時としては水田地帯に浮かぶ小島のような様態になっていたのだろう。この神社の一角だけは藪や
林に囲まれ、雰囲気はあるのだが、しかし城館としての遺構は不明瞭でそれほど目ぼしい城跡という訳ではない。
「駅近物件」なので徒歩での来訪は楽だが、逆に車を停める場所も無く、わざわざこの城の為にここまで行くのは
無理があるようにも思える。安城市内には多数の城館があるので、他の城と組合わせて来訪するのが良いかと。
とりあえず、この城地だけでも宅地化されずに社として残り、史跡としての案内板が立てられている事に感謝。
1963年(昭和38年)10月1日、安城市の史跡に指定されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群等
城域内は市指定史跡







三河国 安祥城

安祥城址碑

 所在地:愛知県安城市安城町赤塚・安城町城堀

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★☆■■■



天岩戸伝説のような城攻め■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
安城城、森城とも。正確な築城年代は不明なれど、上記の通り1440年に志貴荘地頭代にして足利一門(畠山氏傍流)
和田遠江守親平が築いたと伝承されてござる(他に1438年(永享10年)構築説などもある)。これを1471年(文明3年)頃
岩津城(愛知県岡崎市岩津町)の松平左京亮信光が攻略、落城せしめた。信光は松平氏3代当主。この松平氏、後の
徳川将軍家である。安祥城を攻略するにあたり、信光は計略を以って城を罠に填めたとの伝説が残る。それによれば
城の外でお祭り騒ぎの一団を仕立て、賑やかに踊り騒いでいた処、城兵がそれに釣られて祭りに加わり遊び始めた。
頃合いを見た信光は手薄になった城へ乗り込み、易々と落城させたのだと言う。天岩戸伝説か、はたまた中国古典の
攻城譚にでもありそうな話だが、徳川家康の伝記を基軸にした江戸幕府の史書「東照宮御実紀」にはこの時の城主を
「畠山加賀守某が安祥の城を攻め抜かれ」と記す。和田氏の本姓は畠山氏であり、親平の後裔という事だろうか。■■
事の真偽はさて置いて、以後松平氏の本拠となった安祥城は信光の子、4代・左京亮親忠(ちかただ)が継ぎ、更には
5代・出雲守長親(ながちか)―6代・左近蔵人佐信忠―7代・次郎三郎清康(徳川家康の祖父)へと受け継ぐも、清康が
1524年(大永4年)に岡崎城を手にした事でそちらへ居を移した。このため、安祥城には城代として一門の松平(安祥)
長家が封じられる。長家は5代・長親の弟。安祥城の他、三河国内各地の城郭に一門衆を入れて勢力の拡大を図った
松平氏は若き天才当主・清康が采配し破竹の進撃を続けるが、尾張国守山城(愛知県名古屋市守山区)を攻略中の
1535年(天文4年)12月、その清康が家臣の阿部弥七郎に誤殺される事件が発生。清康の嫡男・広忠は、この時まだ
13歳で事態を収拾する能力は無く、三河太守となりつつあった松平家は一気に勢力を衰退させ、遂には駿河・遠江を
領有する今川家の保護下に置かれるようになってしまう。この混乱を衝いて尾張の織田家が巻き返しを図り、1540年
(天文9年)6月、織田弾正忠信秀(信長の父)は安祥城を陥落させたのでござる。この折、信秀は安祥古城を本陣にし
安祥城の攻撃を行ったと言う。なお、織田家による安祥城落城はその時期に関して諸説あり、後年の事だとする説も
ある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

太原雪斎による大計略■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くて、信秀は長男の大隅守信広(信長の庶兄)を安祥城主に据えて守らせ、東の今川家に対抗する姿勢を整える。
岡崎の西を守る重要拠点を奪われた松平勢は数度に渡り奪還の兵を出すがなかなか落とせない。また、家中不和で
広忠の後見人だった筈の松平蔵人佐信孝(広忠の叔父)は織田家に寝返ってしまい、前線基地となる山崎城(下記)を
安祥城の直近に築いている。ますます衰退する松平家は苦肉の策として広忠の嫡男・竹千代(後の家康)を今川家へ
人質に出して援助を受けようとするものの、護送中に竹千代は事もあろうに信秀に奪われてしまう。旧領である安祥の
地を失い、竹千代まで強奪された松平家は立つ瀬を失い、遂に領国を今川家の属領に差し出すしか生き延びる道が
なくなったのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この為、今川軍は三河まで進駐。織田方に翻弄される事態を打開するべく動いたのは今川家の軍師・太原崇孚雪斎
(たいげんすうふせっさい)であった。松平広忠までが家臣に殺される事件が起こった1549年(天文18年)3月、混乱する
三河国内を抑えるために出陣。粘り強い駆け引きを演じた後、この年の11月に安祥城を落とし城主・信広を捕らえた。
この信広を切り札として織田家と交渉した雪斎は同月中に竹千代と信広の人質交換に成功。竹千代は本来あるべき
今川家への服属を為し得たのだった。今川方は奪取した安祥城の城代として天野安芸守景泰や井伊内匠助直盛らを
入れている(何れも今川氏従属下の遠江国人衆)。この後、1560年5月19日に今川義元が桶狭間合戦で敗死、今川の
呪縛から逃れた竹千代改め松平元康は晴れて三河領有を回復し独立した大名となっている。これに伴って安祥城は
廃城とされ申した。廃城時期は1562年(永禄5年)頃か?しかし1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いで、領内の
防備を固めるため徳川家康が安祥城を再整備したという説も残り、正確な廃城時期は不明だ。■■■■■■■■■
江戸時代中期の1792年(寛政4年)安祥城主郭跡に浄土宗安祥山大乗寺了雲院が移転して来て、現在に至っている。
恐らく往時は田園地帯であった平野部の中、単独でそびえる台地が城跡。主郭であったその台地の頂部には今なお
大乗寺があり、そこから一段下った中腹の段が二ノ丸、麓の周辺部が三ノ丸となっていた。現状、これらの台地遺構は
それほど荒らされず残っており、三ノ丸部分には安城市歴史博物館が建てられ、城跡全域が安祥城址公園として整備
されてござる。博物館利用者のために大きな駐車場も用意されているので、訪城も楽であろう。公園も良く整えられた
都市公園でありながら主郭部だった小丘部は下手に崩されたりもしていないので、城の規模はひと目で推し量れる。
「険峻」とまではいかないまでも、結構傾斜がきつい斜面は城として用いるのに適している感じだ。いかんせん、戦国
前期の古い城郭なので、そもそも華やかさや遺構の明瞭さに欠けるのが惜しいものではある (^^;■■■■■■■
写真は大乗寺前に立てられた安祥城址の標柱。1961年(昭和36年)10月1日、安城市の史跡に指定されてござる。



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡







三河国 桜井城

桜井城址碑

 所在地:愛知県安城市桜井町城阿原

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

■■■■
■■■■



桜井松平家、宗家の地位を狙う■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
創築年は不明なれど、当地の豪族・小浦喜平次忠重が屋敷を構えたのが始まり。近隣の安祥城が1471年、松平信光に
落とされた事に伴って、桜井の地も松平氏の領地に組み込まれた。1520年(永正17年)、松平氏4代当主・親忠が3男の
親房を桜井城主に据えたものの、彼には嗣子ができず、後に5代・長親の3男・内膳正信定を後継に迎える。この信定が
桜井城を整備し、桜井松平氏の祖とされたのである。当時の松平宗家当主は7代・清康。実は清康と信定は犬猿の仲で
あった。それというのも、信定は長兄・信忠に代わって松平家の家督を奪おうと常々敵意を剥き出しにし、信忠が隠居し
1523年(大永3年)末に清康が当主となった時もそれを追い落とそうと家督を巡って争った経緯があったのだ。■■■■
若年ながら清康は天才的采配で戦いの主導権を握り信定を屈服させたが、それでも信定は内心では常に反乱を企み、
事ある毎に清康へ不服従の態度を見せていた。1529年(享禄2年)の尾張攻めでは清康に従い戦功を挙げ、落城させた
尾張・品野城(愛知県瀬戸市)の領有を認められた信定であったが、その後の経緯で再び仲違いして、1535年に清康が
家臣に誤殺された“守山崩れ”と言う事件も、一説には裏で信定が糸を引いていたのではないかとの憶測が飛んでいる。
清康嫡男で8代当主となるべき広忠は、当時まだ13歳。自力で事態を収拾する能力が無いのは明らかだったが、それに
加えて宗家の地位を狙う信定が広忠の動きを妨害した事もあり、松平家は一気に弱体化。宗家本拠の城たる岡崎城を
広忠が1年半に渡って放棄せねばならない所まで追い詰められたのも、信定の圧力に因るものが大きかったようだ。
さて、そんな松平家が駿河・遠江の太守である今川家へ臣従する状態になる中、信定は1538年(天文7年)11月27日に
死去。父・信定と共に品野城攻めに功あった桜井松平氏2代の内膳正清定も1543年(天文12年)10月3日に没し、宗家
8代の広忠までもが1549年3月6日に殺害された。次々と一族の不幸が重なる松平家は、逆にそれを糧として結束を堅く
するようになり、1558年(永禄元年)尾張織田軍の侵攻に対しては桜井松平家3代の監物丞家次が品野城の防衛を成し
遂げる。1560年5月19日に今川義元が桶狭間合戦で戦死、松平元康(徳川家康)が所領回復し三河一向一揆の問題も
解決した後は桜井松平家も宗家へ心服するようになり(一向一揆では家次は一揆側に付いている)4代・与一郎忠正は
掛川攻略戦・姉川の戦い・野田城の戦い・長篠の戦いなど家康が率いた歴戦に参加し戦功を挙げたのでござった。
1577年(天正5年)閏7月20日に忠正が死すと、嫡子・家広がまだ幼少だった為5代目の家督を忠正の弟・与次郎忠吉が
相続、1581年(天正9年)の高天神城攻略戦に参陣している。その忠吉が没した後は晴れて内膳正家広が6代目家督を
継いだが、それまでの間、常に桜井松平家の本拠は桜井城であり続けたのでござる。■■■■■■■■■■■■■
1590年に豊臣秀吉が全国の統一を成し遂げると、徳川家康は東海から関東へと移封され、それに伴って徳川一門や
家臣団も関東へ移る。桜井松平家広は桜井城を離れ、武蔵国松山城(埼玉県比企郡吉見町)主として1万石の領地を
与えられたが、主の居なくなった桜井城はこれを機に廃城とされ、6代約70年に渡る歴史を閉じた。■■■■■■■■
ちなみに桜井松平家は江戸時代を通じて家を存続させ、明治維新まで残っている。■■■■■■■■■■■■■■
現状、桜井城址は本丸の一部が公園となっており申す。所々に土塁法面かと思える斜面が散見されるものの、明瞭な
遺構ではない。本来の城域はこの公園に留まらずもっと広大な敷地だったらしいが、今やそれらは全て市街地化されて
しまい、これまた遺構を残してはいない。公園の一角に桜井松平家の墓地があり、それだけが唯一、城跡のよすがを
残している感じでござる。公園入口に簡素な冠木門が建てられているが、これは後世の復元。まるで中世から残って
いそうな風格が漂うのだが、本来の古建築物でないのが惜しい…。城山公園は名鉄西尾線・桜井駅から北東へ丁度
500mの位置。愛知県道44号線沿いにあり、車での来訪も簡単だが駐車場は2台分程度しかないので注意。■■■■
城跡は1965年(昭和40年)11月3日、安城市指定史跡とされている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群
城域内は市指定史跡







三河国 藤井城

藤井城址碑

 所在地:愛知県安城市藤井町本郷

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■



こちらは宗家に協力的だった藤井松平家■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
名鉄西尾線・米津駅から東へ約2.1km、安城市の藤井町公民館の向かいに写真の城址碑があり、その一帯が藤井城の
跡と伝わるが、遺構らしいものは皆無。そもそも藤井町公民館が表通りから奥まった路地裏にある為、探すのも難しい。
ただ、遺構が無いとは言えこの城跡も1968年(昭和43年)4月1日に安城市の史跡に指定されてござる。■■■■■■■
築城の時期は定かでなく、おおよそ永正年間(1504年〜1521年)の事と見られている。安祥城を手にした松平氏が、周辺
地域に勢力を広げるべく築いた城で、松平宗家5代・長親の5男である利長が構築。以来、ここに根付いた利長の系統は
藤井松平氏を名乗るようになった。現在、藤井町は安城市の南端に位置し、すぐ目と鼻の先から西尾市域になる訳だが
つまり戦国時代には安祥松平氏の勢力圏と、西尾すなわち吉良郷の吉良氏勢力圏が接する位置にあった事を意味し、
藤井松平家は吉良家に対する備えを重視されていたと云う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
藤井松平彦四郎利長は戦に長けた猛将で、1540年の安祥城攻防戦では織田軍に対する備えとして働き、一時は信秀を
撃退する戦果を挙げている。松平宗家が今川氏配下に組み込まれた後も縦横に動いて、1560年の桶狭間合戦に於いて
今川勢の丸根砦(愛知県名古屋市緑区)攻撃隊に従軍、そこで戦死して果てたと言う(諸説あり生還説もある)。彼の長男
勘四郎信一(のぶかず)が藤井松平2代目となり、彼もまた歴戦の勇士として活躍。三河一向一揆(詳細下記)では宗家の
徳川家康に従い、一揆勢と激闘を展開。織田信長の上洛戦、姉川の戦い、長篠合戦など名だたる戦闘に参加したのだが
1590年の徳川家関東移封によって、信一も下総国相馬郡布川(ふかわ、茨城県北相馬郡利根町)5000石へと転居した。
こうして藤井城は主を失い、廃城になる。他方、藤井の地を離れた藤井松平家は時に養子を迎え入れながら家系を繋ぎ
明治維新まで続いていった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
余談であるが桜井城にせよ藤井城にせよ安城市内には「井」の付く地名が多い。これは石井・古井・桜井・藤井と、4つの
名水の湧く井戸があった事に由来すると言い、三河国の四井と賞されているそうだ。桜井なら桜舞い散る井戸、藤井は
藤の花の如き澄んだ井戸、と言った具合か。何とも風流な話である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

城域内は市指定史跡







三河国 木戸城

木戸城跡 春日神社鳥居と土塁

 所在地:愛知県安城市木戸町東屋敷

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★■■■
■■■■



石川氏?成瀬氏?いずれにせよ松平家の忠臣が城主■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
安城市木戸町東屋敷、矢作川の河畔にある春日神社の境内が城地とされ申す。藤井城からは東へ約560mという指呼の
距離である。縄張としては単郭方形居館と見られ、春日神社社殿の周囲に土塁を構築、その外周が切岸状になり周辺の
平坦地よりも微妙な高さを稼いでいる。神社本殿は堀の土橋として掘り残された位置に建っているそうだ。■■■■■■
築城の時期は不明、元々は石川式部や石川太郎五郎の居館だったとされる。石川氏は河内源氏の流れを汲む一族で、
河内国石川郡石川荘(大阪府南河内郡河南町周辺)を拠点とした事から石川姓を名乗るようになり、室町期に蓮如上人
(浄土真宗中興の祖)に付き従って三河へ流れ着き土着、諸家を広げた。最も有名なのが徳川家康家臣で西三河筆頭と
された石川伯耆守数正(かずまさ)であるが、石川式部や太郎五郎なる者もこの血族の一員であった事だろう。彼らは
室町幕府内の名家・一色氏の被官であったようだが、詳細は良く分からない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この後、松平信光が安祥城を奪ってからは松平家臣の成瀬氏が木戸城主に任じられた。成瀬藤五郎直庸(なおつね)が
入城、これを以って木戸城の築城とする説もある。直庸以降、国平―国重―正頼―正義―正一と代を継いだ成瀬氏だが
国平は領内に影山(六名)城(愛知県岡崎市)も築いており、歴代の当主は木戸城と影山城とを行ったり来たりする形で
居城にしていたようだ。又太郎正頼は織田信秀の安祥城攻撃の際に討死、その子・藤蔵正義は三方ヶ原の戦いで家康の
身代わりとなって戦死。家督は正義の弟である吉右衛門正一に受け継がれ申した。■■■■■■■■■■■■■■■
1590年に徳川家が関東へ移される事になると、正一は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)代に転任。これを以って木戸城は
廃城になったと見られる。それまで春日神社は現在地の北東300mの位置にあり、城主・成瀬家の崇敬を受けていたが
木戸城が廃された後、その跡地に遷座したと云う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城のすぐ南側には矢作川が流れているが、その流路は江戸期の河川整備によるものなので城が現役であった当時
“川を背にした要害”となっていた訳ではないようだ。当時の矢作川は現在の矢作古川に相当するので、むしろ木戸城の
目の前で大きく流れが逸れて行くような状態だったと言える。とは言え、矢作川堤防工事のおかげで2000年(平成12年)
春日神社の発掘調査が行われ、戦国時代の土塁・堀を確認。土塁の基底部は幅10.3m×高さ1.7mを検測し、この土塁に
沿って幅5.5mの溝が掘られていた。土塁断面には改修痕があり、出土土器から城の存在期間は15世紀後半と推測され
安祥松平氏成立後に成瀬氏が入ったという伝承に一致する。ただ、廃絶期には疑問が残る形になろう。調査区画からは
掘立柱建物の痕跡も検出された他、古墳時代後期〜奈良時代にかけての竪穴式住居跡も見つかり、川沿いの台地ゆえ
古代から人々が生活した好立地である事も裏付けられた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
木戸城跡(春日神社境内としてではない)は1974年(昭和49年)2月13日、安城市指定史跡となっている。■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡








三河国 山崎城

山崎城跡

 所在地:愛知県安城市山崎町城跡

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★■■■
■■■■



三ツ木松平信孝、松平広忠の恩人だった筈が…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1543年に三木(みつぎ)松平蔵人佐信孝が築いたという説と、1547年(天文16年)に織田信秀が築いたとの説がある。
いずれにせよこの城は両者が共同で用いた前線城郭である事は間違いなさそうだ。■■■■■■■■■■■■■■
事の経緯は松平清康が殺された守山崩れに始まる。清康と家督を争った桜井松平信定は松平家乗っ取りを目論んで
松平家の本拠である岡崎城を占拠し、本来家督を継ぐべき立場にある清康の嫡男・広忠を放逐してしまった。これを
良しとしない清康の弟・与十郎信孝は広忠を擁護し復権に尽力、遂に信定の野望を排除して広忠を岡崎城へと迎え
入れる事に成功した。以後、信孝は広忠の後見人として勢力を広げるものの、次第に専横の振る舞いを見せ、広忠の
立場を危うくするようになって行くのでござる。信孝の家系を「三木松平家」と称するのも、元々は信孝の弟・十郎三郎
康孝の所領であった碧海郡三木郷(愛知県岡崎市上三ツ木町)を押領した事による。■■■■■■■■■■■■■
この状況を危惧した広忠の近臣らは謀議し、松平家の外交使者として信孝を駿河今川家へ派遣、その留守中に彼の
所領である三ツ木城を没収してしまった。信孝は岩津松平家の所領も押領しており、同族の領地を奪う程なのだから
いずれは宗家も乗っ取り、桜井松平信定と同じ行いをするだろうと疑われたのだ。これに怒り狂った信孝は松平家を
裏切り、敵国であった尾張の織田家を頼ったのでござった。信秀は松平家の内情を知る信孝を手駒として迎え入れ、
三河切り崩しの端緒として利用しようと考える。この戦略に基づいて山崎城が築かれ、松平信孝が城主に収まったと
云う。この頃、既に近隣の安祥城は織田方の手に落ちており、織田信広の安祥城と松平信孝の山崎城が共同戦線を
張り、岡崎城と睨み合っていたのでござる。安祥城から北東1.2kmの位置に山崎城、両者は相互補完する密接な位置
関係にあった。他方、岡崎城は山崎城から東に4.7km。岡崎勢が安祥城へ向かうには山崎城が邪魔になり、山崎城を
落とそうとすればすかさず織田勢が動ける状況となっていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし1548年(天文17年)4月15日に松平信孝は岡崎城の軍勢と単独で戦って討死、翌1549年には松平広忠死後の
混乱を収拾するために今川家の軍師・太原崇孚雪斎が出陣してきて、織田信広を生け捕り安祥城は陥落。同様に
山崎城も落城し、以後は廃城となり申した。とは言え、この城も安祥城と同じく小牧・長久手合戦時に家康の改修を
受けたという説があり、現在に残る遺構もその頃のものではないかという考えが有力だ。■■■■■■■■■■■

見事な堀が残るも、本来はもっと大きな城だった■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
往時の規模は東西100m×南北90mの方形館形式。この敷地を囲うように幅15m×高さ3.5mの土塁が廻らされ、敷地
北東端には隅櫓があった。その外周をぐるりと大掛かりな空堀が囲んでいたのである。堀まで含めた敷地の大きさは
東西145m×南北125mあったのではないかと1966年(昭和41年)の測量によって推測されている。■■■■■■■■
さて、現状の山崎城址には神明社なる神社が建立されており(写真)一見では単なる神社の境内でしかない。されど
この社殿、実は土塁の上に建てられており、立地は僅かながら隆起している。更に神社裏手へ回ると、想像もせぬ程
見事な堀と土塁の遺構が!住宅地と農地が織り交ぜられる近隣状況にあって、部分的とは言えこんなにしっかりした
城郭遺構が残っているのは奇跡にしか感じられないくらいだ。よって1965年10月1日、安城市指定史跡とされている。
さりとて、1967年(昭和42年)から1968年に発掘調査が行われたものの、特段城郭としての遺構は検出されず、鍋の
破片などが出て来ただけだったそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、松平信孝戦死の報を聞いた松平広忠は号泣して“後見人だった男”の死を嘆いたと云う。しかし、広忠の
凡庸ぶりを知る後世の人間としては随分と甘い感傷のようにも思える。血で血を洗う戦国の世、特に同族相争う程
一族で対立の激しかった三河松平氏にあって専横の行い激しかった信孝を生かしておくのは危険極まりない。よく
“三河武士は忠節無私”と称されるが、それもこうした経緯あっての結果なのであり、むしろ信孝が広忠重臣団から
嫌われた事で後の徳川譜代家臣が強固に結束したと言えよう。信定ほどに表立った敵愾心は無く、本当に信孝は
広忠の後見人として権勢を振るいたかっただけだったのかもしれないが、結果的には彼が死ぬ事によってそれは
果たされた…と考えるのは酷でござろうか。仮に信孝が広忠の後見人であり続けたとしても、それでは徳川家康の
征夷大将軍就任には辿り着かなくなるだろうから、松平家の運命は大きく暗転したに違いない。■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭
城域内は市指定史跡







三河国 本證寺

本證寺鼓楼

 所在地:愛知県安城市野寺町野寺

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★☆■■■



野寺本證寺、三河一向門徒を束ねる空誓の“居城”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
雲籠山(うんろうざん)本證寺は太子山上宮寺(じょうぐうじ)・寂光山勝鬘寺(しょうまんじ、両寺とも愛知県岡崎市)と
並んで“三河三ヶ寺”と称された浄土真宗の寺だ。鎌倉時代の1206年(建永元年)頃に、親鸞の直弟子であった慶円
(けいえん)の開基と伝わる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
日本は現代でこそ政教分離が進み、宗教勢力が政治介入や武力闘争をすることはないが、中世では多数の信者を
抱える強大な自治団体であり、僧兵などの軍事組織を有し盛んに政治介入を行っていた。延暦寺や興福寺の僧兵と
言えば京都や奈良に圧力を加えて、時の権力を影から左右させる実力を持っていた事で有名でござるな。そういった
宗教勢力が数々ある中、浄土真宗(一向宗)は極楽への往生を約束し、現世利益の追求を教義としたため爆発的に
信者を獲得、自己の権益保持のため盛んに武力闘争を行っていた。戦国期には戦国大名からの武力的階層支配を
打破するため一向一揆を頻発させ、特に北陸地方や石山本願寺(現在の大阪城、大阪府大阪市中央区)周辺、伊勢
北部での活動が目立っていたが、三河国もまた一向宗徒が多い地域であり申した。それというのも、浄土真宗は宗派
中興の祖と呼ばれる蓮如(れんにょ)が自分の子息を全国各地に派遣し布教活動に務めており、三河国…それもこの
本證寺に蓮如の孫(曾孫とも)の空誓(くうせい)が送り込まれていたからだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■

三河一向一揆勃発、その中心地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、桶狭間合戦の後に三河国を回復する立場にあった松平元康改め徳川家康は尾張との同盟を結び、駿河・遠江
方面への外征を行う前の地固めが要求されていた。三河諸勢力を服属させて、一刻も早く国内を平定せねばならな
かったのだ。この渦中、家康家臣の菅沼定顕が兵糧米と軍資金を確保すべく上宮寺からの糧秣供出を行おうとする。
当然、現世利益を追求する真宗側は自分らの食料が奪われる事を断固拒否。本證寺10世・空誓は門徒に檄を飛ばし
武家勢力の駆逐を目指した蜂起を促したのでござった。斯くして1563年(永禄6年)10月、三河で大規模な一向一揆が
三河三ヶ寺を拠点にして勃発する。家康は従来寺社に認められていた不入権(ふにゅうのけん、税徴収の免除)など
特権を廃止する目的もあって、この一揆との対決を決意し派兵を行う。こうして大規模な争乱へと発展した三河一向
一揆、その中心拠点となったのがここ本證寺でござった。名前は寺だが、この当時の寺社は宗教闘争などにおける
戦略拠点であり、実質的には城郭である。本證寺は境内の外部に2重の堀を巡らし、敷地を土塁で囲う防備を調え、
手兵である一向門徒の出撃拠点としていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
堅固な城郭たる本證寺の攻略は難航したのみならず、それ以上に家康を困らせたのが配下武将の数名が一揆方に
加担した事であった。三河武士といえば愚直なまでに忠義を大切にする忠誠心の塊として良く知られているが、その
篤き心は寺社への信仰にも同じく燃え盛り、一向門徒であった武将らが主君である家康よりも神仏の加護を求めて
空誓の指示に従ったのである。堅い城郭伽藍、絶える事なき一向門徒の攻勢、それに家臣の離反、どれをとっても
家康に不利な事ばかりで、国内平定どころか逆に統治力の減退を招きかねなくなった事態に窮するようになった為
ある程度の打撃を与えた所で彼は一向宗との和議を選択したのでござる。戦闘は1564年(永禄7年)2月に終結し、
一度は離反した家康の家臣らも大半が帰参、三河国はようやく平静を取り戻す。■■■■■■■■■■■■■■■
一向宗の武力を痛感した家康は、この後は政治力で圧力をかけるように路線変更し、宗派の“手兵”である門徒の
改宗を迫る政策を施すと共に主要な寺院を破却させた。本證寺も廃寺とされ、以後約20年に渡り宗門禁止となる。
空誓は本證寺破却の前に逃亡、しかし信教の自由を主張し、刈谷城主・水野忠政の娘である妙春尼を通じ家康に
「一向宗を敵に回す事は無意味」と説き、1583年(天正11年)ようやく本證寺は再建され禁制が解かれた。この後、
家康は真宗との融和政策に傾き、本證寺以下諸寺は徳川家からの保護を受けるようになり申した。江戸時代には
伽藍が再整備され、堂宇や門、それに鼓楼、鐘楼と言った櫓類が建てられている。このうち、いくつかの建築物は
現在にまで残り、愛知県や安城市から文化財指定を受けている。また、境内そのものも1959年(昭和34年)10月8日
愛知県指定史跡となった上、2015年(平成27年)3月10からは国史跡に。加えて、寺所有の聖徳太子絵伝は国の
重要文化財でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

広大な寺内町=堅固な曲輪を重ねた城塞寺院■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本證寺を巡っては最近史跡調査や補修工事が行われ、当時の実態がより一層解明されつつある。中でも、2005年
(平成17年)に寺北側の堀と土塁が発掘調査され申した。その結果、明治時代に改変を受けた上層の土塁は版築
(はんちく)工法(何層もの土や粘土を突き固めて重ねていく方法)で盛られ江戸時代末期に生成された事が判明。
その土塁の下に埋没していた下層の堀は幅が3.3〜3.6m、深さ約1.5mと見られ、それと時期を同じくする土塁との
比高差は4mもあったとする結果が出ている。調査前は1945年(昭和20年)1月に発生した三河地震で排出された
瓦礫に埋もれていた土塁が脚光を浴びたのである。更に2006年(平成18年)9月1日からは写真にある鼓楼の解体
修理に着手。用いられていた建材を分析した結果では、破風は後世に追加されたものと判明し、鯱瓦からは1760年
(宝暦10年)製作の銘が確認されている。一方、化粧棟木からは1710年(宝永7年)の記載があり、棟札には1857年
(安政4年)の記入が。当時は古材を再利用する事が多く、どこまでがこの鼓楼に関する記載かは慎重に判断せねば
ならないが、それでもこの建物の建築年代がいつなのかを特定する貴重な史料になりそうだ。どうやら、化粧棟木の
記載が本證寺住職の名前と合致するので、宝永期のような気がするが…。詳しい調査結果が出るのを楽しみに
したい。ちなみに、この鼓楼(鐘楼・経蔵・裏門も)は2005年11月3日に安城市の指定文化財となってござる。■■■■
何はともあれ、寺の現状は(江戸時代に再整備されたものではあるものの)写真の通りまるっきり城郭そのものという
感じで非常に驚かされる。たかが寺、と甘く見ていた拙者はこの光景を見て思わず叫んでしまった (^^;■■■■■
一向一揆全盛の時代とは違うものの、城郭を模した構造は一見の価値あり。一国一城令で幕府が城郭創築に厳しい
監視をしている時代、この寺を非常時の城郭として用いようとする藩主の意向が働いていたのだろうか?しかも、境内
裏手には戦国期の土塁や堀が残っているのだから二重の驚き。現在の境内はほぼ長方形をした敷地になっているが
最盛期、城郭伽藍として機能していた頃はこの境内が南北2つの曲輪として分かれ、即ち主郭と副郭となっていた上
その東西南北それぞれの方面に外側の曲輪が附随、それを大規模な外堀が一周して取り囲んでいた強大な縄張り。
往時の規模は東西320m×南北310mを数え、現在の野寺町野寺とされる町域総てが寺の境内として使われていた。
城郭伽藍の類型を良く表した見本として評価したいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

本堂《県指定文化財》
鼓楼・鐘楼・経蔵・裏門《以上市指定文化財》
堀・土塁・郭群
寺境内は国指定史跡
境内イブキ樹は県指定天然記念物







三河国 保科正直邸

保科正直邸址 正法寺

 所在地:愛知県安城市山崎町大手

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■



保科弾正、国を捨て家康に救われる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国最強の騎馬軍団を擁した事で知られる甲斐武田氏、その武田信玄家中において「三弾正」と称された3人の名将が
“逃げ弾正”慎重な用兵で進退を心得た高坂弾正忠昌信(こうさかまさのぶ)、“攻め弾正”攻め時を見極めるのに長けた
真田弾正忠幸隆(さなだゆきたか)、それに“槍弾正”苛烈な攻撃で敵を一蹴した保科弾正忠正俊(ほしなまさとし)だ。
その正俊の嫡男で、弾正忠を継いだ人物が保科弾正忠正直(まさなお)でござる。■■■■■■■■■■■■■■■
信玄の没後、武田家の家督を継承した勝頼は家を傾けてしまい、1582年織田弾正忠信長(これまた弾正である)に攻め
滅ぼされた。保科氏は高遠城(長野県伊那市)で織田軍に抗するも、敵わずに逃亡。正俊は奥信濃へ落ち延び、正直は
上州へ逃れている。この直後、本能寺の変で信長も没し旧武田領が無主の国となると、保科一族は当初関東の大勢力
小田原後北条氏を頼ったが、徳川家康が信濃併合に成功するとそちらに鞍替えする事となる。ただ、後北条氏を裏切る
形になった事で小田原へ人質に出されていた正直の妻子らは処刑されてしまったと云う。これも戦国の悲話であろうが
正直を哀れんだ家康は1584年、彼に山崎村の所領を与えた。これによって作られた正直の居館が当屋敷でござる。
正俊・正直父子は情勢定まらぬ信濃国内で徳川領防衛に尽力し、一説には2万5000石を与えられていたという。しかし、
徳川家が豊臣秀吉の全国統一によって関東へ移されると、保科家もそれに従い下総国多胡(千葉県香取郡多古町)へ
居を移す。恐らくこの折に保科邸は用済みとなったのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状、館跡は浄土真宗雲松山正法寺の境内となっている。ただこの寺、誰も手入する人が居ないのか相当な荒れ寺。
土壁は崩れ、周囲もガサ藪、まぁむしろ“古城の雰囲気”と言うには丁度良い位ではあるが、本当にこれで良いの…?と
余計なお世話とは言え心配になってくる。ちょっと立ち入るのが憚られる感じだ。とりあえずここは「保科正直邸址」として
1965年10月1日、安城市の史跡となっている。安城市教育委員会の解説板には「郷土の文化財を大切にしましょう」とw
場所は愛知県道286号線を跨ぐJR東海道本線の線路橋「弁天架道橋」から東へと400m。山崎城址である神明社からは
西北西へ320m程の位置。ただ、正法寺へ至る道は集落の細路地しか繋がっていないので赴くには難儀するのが必定。
写真にある正法寺山門は敷地の東側にあるが、非常に分かりづらい。迷いながら探して頂きたい(苦笑)■■■■■■



現存する遺構

城域内は市指定史跡







三河国 安城陣屋

安城陣屋跡

 所在地:愛知県安城市安城町道上

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■



江戸時代になってからの陣屋跡がひっそりと■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さてここまで戦国期の城館を記してきたが、こちらは江戸時代になってからの陣屋跡。1698年(元禄11年)旗本の久永
信豊に三河国碧海郡安城村・米津村、加茂郡加納村・三箇村など計4354石が与えられた。久永氏はもともと石見国に
土着していた一族(彼の地に久永の地名がある)だが、室町時代に三河国額田郡へ移り、後に松平(徳川)家臣として
働くようになった。徳川幕府成立後、久永重章が3代将軍・家光の近臣に取立てられ武蔵国や安房国に4000石を得て
寄合旗本(上級旗本)とされ、それを相続した信豊が元禄期に知行替えとなり、上記の所領へ移されたのでござる。
こうして、久永内記信豊の入封によって統治陣屋が構えられた。これが安城陣屋であるが、創建当初は現在地よりも
もっと南にあったとされ、後にここへ移ったものだとか。信豊系の久永家はこの所領が明治維新まで変わる事無く続き
陣屋も廃藩置県までは存在していたそうだが、現在は住宅地の中に残された原っぱのような状態(写真)で、路地裏に
ひっそりと佇む陣屋案内板だけが頼り。ただ、この敷地だけは周囲より3mほど高くなっており、陣屋を構えるに適した
立地だった様子だけは良く分かる。愛知県道286号線「安城町宮地」交差点のすぐ南側に子安地蔵尊なる小さな祠が
建っているが、その地蔵堂の1区画西側に陣屋跡地が残されている。と説明したものの、拙者も訪れる際には迷い、
しばらくウロウロと探し回った覚えが。住宅地の真ん真ん中なので、かなり不審者だったかと…すいません。■■■■
陣屋跡地は1968年4月1日、安城市指定史跡になっている。さりとて、往時の陣屋敷地はこの小さな場所だけではなく
もう少し広範囲に及んでいた筈なので、どこまでが本来の跡地なのかは良く分かり申さず (^ ^;;;■■■■■■■■
ところで久永信豊という人物、忠臣蔵事件の際に大石内蔵助良雄(よしたか)へ切腹を命じる幕府の上使として派遣
された者なんだとか。斬首を覚悟していた内蔵助は切腹の処分に感激し、深々と頭を下げたとか何とか…まぁ拙者は
アンチ赤穂派なんで、どうでも良い話なのだが(爆)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁・郭群
陣屋域内は市指定史跡





清洲城・勝幡城  桶狭間合戦関連諸城砦