尾張国 名古屋(那古野)城

名古屋城 大天守・小天守那古野城址石碑


  所在地:愛知県名古屋市中区本丸 ほか

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★★★



戦国時代の「那古野」城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
名古屋城の歴史は大きく2期に分けることができる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最初にここへ築城したのは大永年間(1521年〜1528年)の頃、尾張へ侵攻した駿河・遠江守護の今川修理大夫氏親
(うじちか、治部大輔義元の父)の手に拠るものでござる。当初は柳ノ丸、後に那古野(なごや)城と呼ばれた。城主は
今川左馬助氏豊(うじとよ)なる人物で、従来は氏親の末子(義元の弟)と考えられてきたが諸説あり、今川家傍流の
生まれとも、或いは尾張今川家に養子入りした系譜(これが氏親によって成されたとする)とも言われている。■■■
この那古野城は現在の名古屋城二ノ丸付近を中心とし(写真右)今川勢力最西端の橋頭堡であったのだが、1532年
(亨禄5年)3月に尾張守護代・織田大和守達勝(たつかつ、みちかつとも)の配下である織田弾正忠信秀(信長の父)に
より奪われた。信秀は予め好誼を通じるフリをして氏豊に接近、連歌の会を催すとして那古野城へ招かれると精鋭の
手勢を紛れ込ませ城内を制圧、氏豊は追放されたと伝わる。なお、この奪取劇は1538年(天文7年)とする説もある。
「器用の仁」と呼ばれた信秀は次第に勢力を伸ばし、尾張第一の実力者として主家の達勝や尾張守護・斯波氏をも
凌駕していった。彼は古渡城(愛知県名古屋市中区)を居城とした為、那古野城主には誕生直後(!)の信長を任命。
信長はこの城で養育され(那古野城で生まれたとする説もある)、1555年(弘治元年)に清洲城(愛知県清洲市)へと
移った。代わって那古野城には織田孫三郎信光(信秀の弟)が城主として入るも、半年ほど後の11月26日に死去。
これに伴って那古野城は廃されたのでござる。ここまでが“那古野”城としての経歴だ。■■■■■■■■■■■■
城の所在地は所謂「名古屋台地」の北端に当たる。この台地は南北に細長く、周辺地域に比べて2m〜3m程度高い
極めて高低差の少ない微高地に過ぎぬものだが、しかしその僅かな高さの差が城を築くに重要な要件だと言える。
現代社会では(特に大都市の市街地では)地盤の造成が完璧に行われ、移動手段も自動車や鉄道など機械化され
このような僅少の高低差を実感するのは難しいものであるが、自然の地形が剥き出しで、かつ徒歩という自力での
行動が大原則であった中世においては、その少しの高さの差で戦略的な優位が成立するものだったのである。なお
名古屋台地の南端に該当するのが古渡城である為、織田家は台地の南北両端を確保していた事になる。これこそ
織田家発展の軍事的原動力(経済的には熱田湊・津島湊を確保した点)になったと言え、那古野城の存在意義が
実証されている訳だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

徳川家康の新城開発■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時は移り、1600年(慶長5年)9月5日に関ヶ原合戦で徳川家康が勝利すると尾張国は家康4男・松平下野守忠吉が
治めるようになる。忠吉は入国当初、清洲城を居城としたものの多くの河川に囲まれた地形が防備に不十分な上
水害の危険性が高く、これ以上城下町を発展させるのが難しいと判断した家康が那古野城の跡地に新城の建築を
計画。この頃すでに那古野の地は人の手が入らずに荒れ果て、家康の鷹狩り場となっていたそうだが、だからこそ
元来の地形に基づく要害性・後の経済発展余地などが目に入ったのだろう。台地北端にある事で、西〜北〜東の
3方向は低地で隔絶している。特に当時、この3方向は全て湿地帯となっていたため敵勢の侵入は不可能であり、
だからこそ“微高台地”ですら険要地形たり得た(余談だが水辺なればこそ微少でも高低差は判り易かろう)のだ。
目を転じ陸続きの南側には広大な城下町を啓開でき、将来の発展性は抜群という事になる。台地上ならば水害に
襲われる危険性も少なく、近世城郭の構築にこれほど適した立地は無かろう。1607年(慶長12年)3月5日に忠吉は
病没してしまうが、尾張領と新城計画は徳川右兵衛督義直(よしなお、家康9男)に引き継がれ申した。■■■■■
1609年(慶長14年)11月、家康の命令によって名古屋新城の建築が決定。翌1610年(慶長15年)から着工されたが
清洲の城下町を丸ごと移転させる形で名古屋の計画都市が造成される(これを「清洲越し」と言う)。城そのものも
西国諸大名を動員する天下普請で工事が進み、1612年(慶長17年)に本丸完成。当時、将軍の居城である江戸城
(東京都千代田区)と双璧を為す巨大城郭で、これほど大規模な城が作られたのは徳川幕府の権威を見せ付けて
普請に動員した諸大名の勢力を削ぐと同時に、東海道の要所・名古屋を押さえ大坂城(大阪府大阪市中央区)の
豊臣氏へ圧力をかける狙いだった。豊臣家が西国大名を糾合し江戸へ進軍する可能性があった場合、幕府方は
二条城(京都府京都市)・丹波篠山城・(兵庫県篠山市)・伊賀上野城(三重県伊賀市)・彦根城(滋賀県彦根市)等
関西圏の幕府方城郭群で第一防衛線を構えて時間を稼いで、その間に整えた兵力を名古屋城に結集させ、第二
防衛線とする考えだったと言われる。所謂“豊臣包囲網”だ。こうした使用目的に基づいて、大兵力を収容できる
巨大な城郭が求められたのである。また、天空に輝く金の鯱鉾も“徳川将軍家の城”たる名古屋城の威容を誇る
宣伝装置だった訳だ。賦役に駆り出された豊臣恩顧の大名・福島左衛門大夫正則は、労苦に耐えかねて同輩の
加藤主計頭清正に「将軍や大御所の城なら兎も角、なぜ息子の城を築かねばならんのだ!」と不満を漏らしたが、
清正は「嫌ならば国元へ帰って戦の支度でもしろ(逆らっても無駄な事だ)」と嗜めたそうである。もはや豊臣から
徳川に時代が移り、築城の役務で財力・軍事力を消費させられただけでなく、築いている城は天下無双の堅城で
この城を落とす事など不可能だと彼らは自ずと悟らされていたのだ。よく、天下普請では築いている城の中身が
敵対する大名へ筒抜けになると危惧されるのだが、むしろ「絶対に落とせない城」を築いていると気付かせれば
そもそも攻め込んですら来ない、と言うのが天下普請の“真の意味”なのだと説く専門家もいる。清正の言葉は、
それを如実に表していよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

御三家筆頭・尾張徳川家の居城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして名古屋の町は義直を初代藩主とした御三家筆頭・尾張藩62万石の首府として繁栄していく。それに応じて
名古屋城も順次整備されていき、1630年(寛永7年)頃にようやく全域が完成。ただし、当初の予定にあった総構え
(町全体を囲むような最大外郭防御線)の構築は豊臣家滅亡で不要とされ中止になった。1634年(寛永11年)7月
上洛途上の3代将軍・家光が名古屋城本丸御殿を宿舎とした為、以後本丸御殿は将軍の御成御殿、二ノ丸御殿が
藩主の居館とされてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
歴代の尾張藩主、つまり名古屋城主は義直の後に2代・右近衛権中将光友(みつとも)―3代・右近衛権中将綱誠
(つななり)―4代・右兵衛督吉通(よしみち)―5代・五郎太と続く。その五郎太は夭折した為、6代目は吉通の弟の
左近衛権少将継友(つぐとも)が継ぐものの彼もまた嗣子なく没し、更に弟の主計頭宗春が7代に就く。この宗春は
8代将軍・徳川吉宗の享保の改革を痛烈に批判した人物として知られ、為に名古屋繁栄の大功労者でありながら
幕府から蟄居謹慎を命じられた。吉宗の怒りは宗春からの家督相続を許さず、尾張家8代目当主・左近衛権少将
宗勝(むねかつ、尾張家分家・高須松平家からの入嗣)はいったん幕府に召し上げられた尾張藩を与え直す形で
継承する事になってござる。宗勝の後は9代・左近衛権中将宗睦(むねちか、むねよしとも)―10代・右近衛権中将
斉朝(なりとも)―11代・左近衛権中将斉温(なりはる)―12代・権中納言斉荘(なりたか)―13代・右兵衛督慶臧
(よしつぐ)―14代・掃部頭慶恕(よしくみ)と相続。この間、名古屋城は1755年(宝暦5年)に大改修を行い、大天守
2層目〜4層目の屋根を本瓦葺きから銅板葺きへと変更。瓦葺きでは建物重量が非常に重く、石垣にその荷重が
かかっていて建物が傾斜、天守台崩壊へと及ぶ可能性があった為である。同時に屋根からの雨水排水対策とし
銅板樋も設置され申した。現状の復元天守でもこの形式で再建されており、ともすると雨水樋は昭和の設置物と
勘違いされがちだが、この構造物も江戸期から存在していた事に間違いない。宝暦改修では本丸御殿の屋根も
柿(こけら)葺きから耐久性に優れた瓦葺きに変え、金鯱に至っては江戸時代を通じて3回も鋳造し直している。
これは尾張藩の財政悪化に伴い、金鯱の品位を落としそれによって発生した余剰金を使い回したもの。改鋳に
次ぐ改鋳で明らかに金鯱は劣化した為、それを隠すべく金網を掛け、名目上は「鳥除け」「防犯の為」としている。
この様子がまるで鯱を檻に閉じ込めたようだったので、城下の民からはすこぶる不評であった。■■■■■■■■

日本城郭の恩人・中村重遠大佐の建言■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末になると尾張藩は政治の表舞台に立たされる。14代藩主・慶恕は安政の大獄で失脚し、15代・左近衛権少将
茂徳(もちなが、慶恕の弟)へ強制的に家督を譲らされた。しかし大獄を行った大老・井伊掃部頭直弼(なおすけ)が
桜田門外の変で没すると、茂徳は藩主を辞し慶恕の実子・左近衛権中将義宜(よしのり)が16代となる。とは言え、
この時まだ義宜は幼少だった為、実権は父の(慶恕あらため)慶勝が握る事になったのである。このような情勢下、
幕府と長州藩との対立が激しくなった事から慶勝は第1次長州征伐の大都督に任ぜられた。征伐は一応の成功を
みたものの、国内の争乱が愚である事を悟った慶勝は幕府と朝廷の融和に奔走。朝廷内で倒幕派が優勢となるや
いち早く恭順の姿勢を見せたのでござる。慶勝の説得によって大政奉還が行なわれ、大規模内戦も回避された。
この功績によって明治維新後も名古屋城は破却されることなく存城し、陸軍鎮台として接収された。■■■■■■
ちなみに慶勝は維持費のかかる名古屋城の廃絶を新政府に申し出たが、ドイツ公使・マックス=フォン=ブラントと
日本陸軍の工兵大佐・中村重遠(しげとお)が伝統文化の継承・保護を訴えた事で保全が決定されたのでござる。
このため大小天守・本丸御殿・各櫓・門などが数多く残された。半面、城主の私邸と言える二ノ丸部分は大半が
破却され鎮台設営に伴う兵舎・練兵場へと変貌したが、他ならぬ廃絶を訴えた慶勝が写真撮影を趣味としており
失われた建物の古写真がいくつも残されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1891年(明治24年)10月28日に濃尾大地震が発生、修復不能となった本丸多聞櫓は惜しくも撤去されたが、それ
以外の建物は修理・復旧されている。1893年(明治26年)本丸部分は陸軍省から宮内省に移管され名古屋離宮と
なり、1906年(明治39年)離宮は1日だけ特別公開され申した。1910年(明治43年)には小天守と隅櫓に江戸城の
青銅鯱を移設し、1911年(明治44年)に旧江戸城蓮池門を西ノ丸の榎多門跡へ移築して城の正門とする。1930年
(昭和5年)離宮は廃止されて、名古屋市に下賜された。これにより本丸が公園整備され一般開放されると共に、
同年12月11日に天守ほか24の建造物が国宝(旧国宝)に指定された。さらに1936年(昭和11年)に猿面茶室が、
1942年(昭和17年)6月26日には本丸御殿障壁画345面が追加で指定となったが、1945年(昭和20年)1月3日に
空襲で猿面茶室が焼失、同年5月14日の名古屋大空襲では本丸のほぼ全域が失われてしまった。江戸城から
移した旧蓮池門も同様に焼け落ちている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

戦禍を乗り越えた遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現存する建築物は東南隅櫓・西南隅櫓・西北隅櫓の櫓3基、本丸表二ノ門・二ノ丸東二ノ門・二ノ丸大手二ノ門の
門3棟と疎開していた本丸御殿障壁画の一部だけである。桝形を成す各門の一ノ門は戦災焼失。本丸東南隅櫓と
西南隅櫓は共に2重3階の本瓦葺き、ほぼ同じ大きさだが破風や出窓の意匠が異なっており特徴的。西北隅櫓は
3重3階で同じく本瓦葺き。「清洲越し」の際に清洲城から移築されたとの伝承があり「清洲櫓」の通称を有すのだが
詳細調査の結果、この移築説には否定的見解が為されるようになった。なお、東南隅櫓には棟札も残っており、
文化財指定にはこれも附(つけたり)指定されてござる。本丸表二ノ門は両脇を袖塀に組み込まれた本瓦葺きの
高麗門で、櫓3基と同時に旧国宝指定されたもの。いずれも現行法制下では重要文化財となっている。■■■■
二ノ丸東二ノ門は解体保存されていたものが現在では本丸の東二ノ門跡に移築され申した。本瓦葺きの巨大な
高麗門で、同形式の二ノ丸大手二ノ門と共に1975年(昭和50年)6月23日に国の重要文化財となっている。■■
障壁画は戦災焼失した分を差し引き、逆に未指定であった現存分(襖絵や杉戸絵、天井画なども含む)が追加で
文化財指定を受け、名古屋城事務所の公式見解では附指定も含め1047面が重文(現存点数は総計1049面)だ。
城址そのものは1932年(昭和7年)12月12日に国の史跡指定、1935年(昭和10年)5月15日に追加指定を受けた後
1952年(昭和27年)3月29日からは特別史跡になった。二ノ丸庭園は1953年(昭和28年)3月31日に国名勝指定。
なお、二ノ丸の北辺部には南蛮たたき塀(日本古来のセメント技術である三和土(たたき)を用いた塀)が残る。
さて、そんな名古屋城の敷地は直線を基調とする縄張となっている。本丸を中心に、南東側に二ノ丸、南西側に
西ノ丸、北西側に御深井(おふけ)丸が連結。北東側は塩蔵構と言う帯曲輪状の小郭が取り巻くが、この方角は
元来、泥湿地が広がっていたためにそれ以上の防備は不要だった。二ノ丸〜西ノ丸の南側には広大な三ノ丸が
広がり(重臣屋敷群や名古屋東照宮になっていた)、そのさらに南側が城下町となる。■■■■■■■■■■■
本丸の南(大手側)出入口は角馬出で塞がれ(現在は堀が埋められ形状が確認できない)門という門は全て桝形
虎口になっていた鉄壁の守り。直線的縄張は横矢懸かりなど戦術的戦闘に不向きではあるが、そもそも将軍家の
「兵力集中拠点」となる名古屋城は籠城戦の為の城ではなく出撃拠点であるのだから問題はないし、集められた
兵員(つまり名古屋に常駐している訳ではない部隊)にとってはややこしい迷路状の縄張りは却って不要でしか
ない。内部に居る部隊が使用し易い形状である事が求められた構造は「究極の攻撃的城郭」なのである。況や
当時の技術力を鑑みれば、最初からこの城を落とせる戦略や軍備など存在しなかったのである。■■■■■■

名古屋の誇り、金鯱輝く大天守■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
5層5階+地下1階の層塔型大天守は濃尾平野を睥睨しつつ、壁面の内部には欅板を鎧状に塗り込めていたため
大砲弾の直撃にも耐えられる。その高さは江戸城寛永度天守・徳川大坂城天守に次ぐ史上3位の高さを誇り、
延床面積は(1階・2階が同大である為)それらを抜いて日本一の面積という巨大さだ。南側に連結した小天守は
大天守へと入る関門であり、桝形虎口と同じ機能を果たすようになっていた。築城計画上では大天守の西にも
もう一つ小天守を構える予定になっていて更に防備を固める筈だったのだが、さすがに強力すぎて不要とされ、
西小天守は幻となった。しかし大天守台西面には連結予定だった通路を埋め戻した痕跡が残っている。それだけ
強烈な武装を持ちながらも、壁面を漆喰で白く塗り隠し外観はあくまで優美華麗。金の鯱鉾は“徳川の天下”を
あまねく知らしめる地上の太陽で、この城は「戦をする為」ではなく「戦をさせない為」に存在した“平和の象徴”
だったのだ。その願いは太平洋戦争後も名古屋の町に継承され、1959年(昭和34年)市民の熱意で大小天守が
復元されて(写真左)本丸御殿障壁画などを展示する史料館として一般公開となった。鉄筋コンクリート造での
再建は、当時の建築基準法と合致させる必要に因るものではあったが、「もう二度と燃えない城を」という切実な
意味も込められている。空襲で燃え崩れる天守の記憶がまだ生々しい頃の逸話でござる。■■■■■■■■■
現在の名古屋城跡は名城公園として整備され名古屋随一の観光名所となっている。二ノ丸庭園は国の名勝、
西ノ丸の榧(かや)の木は樹齢600年以上の天然記念物。見るべき場所は多いが、やはり名古屋城の代名詞と
言えるのは金鯱であろう。3度の改鋳が為されても金鯱そのものが廃されることはなく名古屋の民の誇りとして
大天守の大棟に輝き、江戸城・大坂城の天守が次々と焼失した後でも健在だった名古屋城の金鯱は、民謡に
「尾張名古屋は城でもつ」と謳われた程でござる。戦後の天守再建でも復元され(ただし質量は異なる)1984年
(昭和59年)の名古屋城博覧会や2005年(平成17年)の新世紀・名古屋城博では地上に降ろされて目玉展示と
なった。名古屋城には別名も多いが、金城・金鱗(きんりん)城・金鯱城といった金の鯱鉾に因んだ名前が目を
引くのも納得だ。その他の別名としては、蓬左(ほうさ)城・楊柳(やなぎ・ようりゅう)城・柳が城・亀尾城・鶴が城
などがある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
更に現在では戦災焼失した本丸御殿の復元工事が完了。2009年(平成21年)1月19日から始まったこの工事は
2013年(平成25年)5月29日に玄関・表書院・溜之間(第一期工事区画)の公開が開始され、2016年(平成28年)
6月1日からは対面所・下御膳所(第二期工事区画)も公開開始、そして2018年(平成30年)6月に第三期工事も
完成し同月8日から公開され申した。慶長期城郭御殿の最高傑作と言える本丸御殿は戦災焼失前の実測図や
豊富な古写真が残り、桃山文化を再現した絢爛豪華な建物が復活している。なお、屋根は慶長創建時に遡って
柿葺きで葺かれているので、宝暦改修後(焼失時の姿)とは異なる(と言うか、更に豪華な格式となっている)。
加えて名古屋市では、現在は鉄筋コンクリート製になっている大小天守も将来的に木造再現する事を計画して
おり、刻々と変化していく名古屋城は城郭復元の最先端を行くものとして注目が集まっている。■■■■■■■
2006年(平成18年)4月6日、日本城郭協会による日本百名城の一つにも選出。■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

本丸東南隅櫓・本丸西南隅櫓・深井丸西北隅櫓
本丸表二ノ門・二ノ丸東二ノ門《以上国指定重文》
南蛮たたき塀・井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定特別史跡
二ノ丸庭園は国名勝
西ノ丸榧の木は国指定天然記念物

移築された遺構として
本丸東二ノ門(旧二ノ丸大手二ノ門)・旧本丸御殿障壁画《以上国指定重文》




森町周辺諸城郭  犬山城