三河国 西尾城

西尾城復元本丸丑寅櫓

 所在地:愛知県西尾市錦城町・山下町・下町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★■■



西条吉良氏が築いた城に始まる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鎌倉時代前期の創築とされる古い歴史を有する城。初名は西条城でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1221年(承久3年)勃発した承久の乱において鎌倉幕府方は朝廷方を撃破、これにより武家政権は磐石なものとなっていく。
この戦いで戦功を挙げた足利左馬頭義氏は幕府から三河国守護に任じられ入国、西条城を築いたとされる。義氏の子のうち
左馬四郎義継は東条の地に入り、もう1人の子・上総介長氏は西条へと入った。東条・西条ともに三河国幡豆郡吉良荘の中、
矢作古川の東西でそれを分かった区域でござる。以後、両者は姓を郷名から吉良と改め、東条吉良氏と西条吉良氏に分流。
西条城は歴代西条吉良氏の城として受け継がれていったものである。言わずもがな、吉良荘というのは現在の西尾市域だ。
ちなみに吉良の「きら」という読み方は、吉良荘が雲母を産出する事で「雲母→きら(ら)→吉良」と呼ばれるようになった事に
由来するという。また、江戸時代の忠臣蔵事件で敵役とされた吉良上野介義央(よしひさ)が、この西条吉良氏の末裔である
事も忘れてはならない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、西条城は西条吉良氏の居城として時代を下るも、戦国期になると三河国は松平郷(現在の愛知県豊田市山岳部)から
岡崎へ進出して国内最大勢力を有するに至った松平氏と、駿河国・遠江国から西へと領土拡大を狙う名門大名・今川氏が
激しい戦塵を巻き起こすようになり、吉良氏もこの争乱に飲み込まれた。松平氏は当主が相次いで落命する不幸が重なって
一時衰退してしまうが、今度はそれに突け入るように尾張国から織田氏が勢力を広げて来て、織田氏と今川氏が三河国内で
戦うようになる。この渦中で東条吉良氏は断絶してしまう(詳細下記)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さらに1560年(永禄3年)5月、桶狭間合戦で今川氏当主の治部大輔義元が落命すると三河松平氏が復活、若き天才・松平
蔵人佐元康(後の徳川家康)は瞬く間に岡崎周辺の旧領を掌握し、今川家に対する反抗作戦に出たのでござれば、この年
西条吉良氏を支援するため今川方の武将・牧野民部丞成定が入っていた西条城は松平方の攻略標的とされ申した。結果、
成定と西条吉良氏はその勢いに敵わず、1561年(永禄4年)西条城が落城して降伏するに至る。このため、西条城には家康
配下の将である酒井雅楽頭正親(まさちか)が入り、正親が1576年(天正4年)6月6日に没すると、その嫡男・与四郎重忠が
相続。家康はその後、領国再編の必要に迫られて1585年(天正13年)に西条城の改修を命じた。その時に城名が西尾城と
改められたとか(改名には諸説あり、徳川家が占拠する以前と考える向きもある)。この改修時、二ノ丸天守が構築されたと
考えられている(天守については後記)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがその5年後の1590年(天正18年)に豊臣秀吉が天下を平定、家康は家臣ともども関東へと移封されてしまう。重忠も
関東へ去り、西尾周辺地域は岡崎城(愛知県岡崎市)主になった田中筑後守吉政の封とされる。吉政は西尾城を岡崎城の
支城として用い、城の拡張工事を施す。その際に西尾城には三ノ丸が増設され、門や櫓が建てられたのでござる。■■■■

江戸時代、譜代大名が次々と入れ替わる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが田中氏の統治も長く続かず、関ヶ原合戦後の1601年(慶長6年)下総国小篠(こざさ)郷(千葉県匝瑳市)から移った本多
縫殿助康俊が2万石を与えられ西尾城主に。田中吉政は筑後国主とされ、柳川(福岡県柳川市)32万石の大大名になった。
本多氏は徳川譜代家臣。徳川政権の成立に伴い、江戸から名古屋へ繋がる東海地域には軒並み徳川譜代の家が封じられ
江戸までの街道を守り、幕府の安泰を図る大名配置が慣例化していくのである。よってこの後、西尾城主の座は目まぐるしく
交代していくが、いずれも徳川家の譜代家臣ばかりが務めている。順を追って示すと、1617年(元和3年)10月に下野国板橋
(栃木県日光市)から同じく2万石を与えられて大給(おぎゅう)松平成重が入封、次いで1621年(元和7年)7月に近江国膳所
(ぜぜ、滋賀県大津市)から3万5000石で本多下総守俊次(康俊の子)が入り申した。その俊次は1636年(寛永13年)6月23日
5万石に加増されて伊勢国亀山(三重県亀山市)へ転封、西尾は幕府天領になり代官として烏山牛之助と鈴木八右衛門が
入った。1638年(寛永15年)4月24日、今度は太田備中守資宗(すけむね)が下野国山川(栃木県足利市)から3万5000石で
新たな西尾城主に任じられている。資宗は入城と同時に西尾城総構の構築に着手。総構は城下町全体を堀で囲うのだが
それだけに大規模な工事で、この作業は彼の代だけでは終わらなかった。結局、1644年(正保元年)2月28日に工事半ばで
資宗は遠江国浜松(静岡県浜松市)へ移封。西尾はまたも天領となり先述の烏山・鈴木両名が代官として西尾城に入った。
翌1645年(正保2年)6月23日、今度は井伊兵部少輔直好が3万5000石を与えられ上野国安中(群馬県安中市)から入封。
井伊氏の治世時代、1655年(明暦元年)にようやく総構の工事が終了した。1659年(万治2年)1月28日に直好は遠江国掛川
(静岡県掛川市)へ移って、2月3日からは2万石で増山弾正少弼正利が西尾城主になる。1662年(寛文2年)9月、甥に当たる
増山兵部少輔正弥が相続し、その翌年の1663年(寛文3年)7月11日に土井兵庫頭利長が2万3000石で西尾城に入る。■■
以後、しばらくは土井氏が西尾城主を継いでいき、1681年(延宝9年)式部少輔利意(としもと)―1724年(享保9年)淡路守
利庸(としつね)―1734年(享保19年)伊予守利信(としのぶ)が相続している。1747年(延享4年)2月11日、三浦主計頭義理
(よしさと)が三河国刈谷(愛知県刈谷市)から2万3000石で新たな西尾城主となり、1756年(宝暦6年)志摩守明次が継承。
1764年(明和元年)6月21日、出羽国山形(山形県山形市)から6万石で大給松平和泉守乗佑(のりすけ)が西尾藩主に着任、
こののちは明治維新まで大給松平氏が西尾城主であった。なお、成重と乗佑は同じ大給松平氏ではあるが別家である。■■
1769年(明和6年)乗完(のりさだ)―1793年(寛政5年)乗寛(のりひろ)―1839年(天保10年)乗全(のりやす)と継ぎ、1862年
(文久2年)に相続した乗秩(のりつね)が最後の城主となったのでござる。いずれも官途名は和泉守だ。■■■■■■■■

近世城郭としての縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さてそんな西尾城の縄張りであるが、城域の南西端に方形の本丸を置いて、そこから北東の方向に向かって二ノ丸・北の丸
(小の丸)・三ノ丸が連なる。また、本丸の東側へ出ると姫の丸(中の丸)・東の丸が続く。このうち北の丸と東の丸は地続きで
繋がっており、三ノ丸は両者を覆う形で広がる広大な敷地を有していた。他方、城の西側一帯は水濠を隔ててすべて水田や
沼地となっていて、こちらからの敵兵侵入は難しい。内陸部にある城郭でありながら、矢作川から得られる水利を上手く活用し
さながら水城にも思える防備を展開していたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、西尾城最大の特徴と言えるのが、天守が二ノ丸に築かれていた点であろう。通常の城郭は、戦時の最終防衛拠点と
なる本丸に天守を築くものであるが、西尾城は然に非ず、二ノ丸北西隅に三重櫓形式の天守が置かれていた。城主の居館と
なる御殿もまた同じく二ノ丸に建てられており、本丸は四隅に櫓こそ置いていたものの、内部は八幡社が祀られているのみで
ほぼ空白の敷地だった。名古屋城(愛知県名古屋市中区)や古河城(茨城県古河市)など、本丸を通常的に使用せず二ノ丸を
実質的な本拠とする例は幾つか見られるが、天守まで本丸に置かず二ノ丸に設置するのはかなり珍しい。立地上の制約で
徳島城(徳島県徳島市)等にこの例があるものの、それらはいずれも山城・平山城ゆえに本丸での大規模建築が不可能だと
いう理由なので、平城たる西尾城(つまり地形的制約がない)で二ノ丸に天守を揚げたのは誠に以って不可解至極というべき
ものなのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
明治維新後、西尾城の諸建築物は全て破却された。本丸の八幡社だけが御劔八幡宮として存続している。曲輪を区分けして
いた堀も殆どが埋め立てられ、城域はほぼ消滅。今や周囲は学校・住宅が建並び往時の面影は見るべくも無いが、それでも
中枢部である本丸と二ノ丸の一部だけ奇跡的に残され、西尾市歴史公園となっている。この公園の片隅、本丸と南東側の
水濠を挟んだ位置(旧姫の丸敷地)に1977年(昭和52年)8月、城郭風建築の西尾市資料館が建てられ、内部には故・杉浦
喜之助氏(元西尾市長)から寄付された西尾市内の歴史資料が展示されてござる。この資料館は入館無料。■■■■■■
更には城跡で数次に渡る発掘調査が行われ、二ノ丸や東の丸の跡から中世西尾城(西条城時代)の遺構と見られる堀跡や
丸馬出しの痕跡が検出された。近世西尾城には丸馬出しが存在しない事から、田中吉政や太田資宗による城郭拡張工事が
どのように行われ、城が変化していったかが窺えたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

徐々に再生していく西尾城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした発掘調査の結果を踏まえて史跡整備事業に着手した西尾市は、1996年(平成8年)に本丸丑寅櫓(写真)と、二ノ丸
大手門に相当する鍮石(ちゅうじゃく)門の再建を行った。いずれの建物も正確な指図が残っていないために推定復元だが、
本格木造再建なので好感が持てる。丑寅櫓は3重3階で高さ約10m。1階と2階は同大の3間2尺四方、3階は2間2尺四方の
面積で作られている。本丸にあった他の3つの櫓は全て2重櫓だったが、この櫓だけは3重であったのが特徴である。本丸の
丑寅(北東隅)は二ノ丸に続く通路と姫の丸に続く通路の両方を監視する位置なので、防備の観点から3重櫓になったものと
思われる。本丸部分の石垣は殆んどが明治維新後に崩されてしまっていたが、八幡社を存続させる目的からか丑寅櫓の
基台部分だけは手付かずのまま残されたため再建が可能だった。この櫓台石垣は高さが約6m。櫓の再建工事に先立って
行われた調査によれば、櫓の直下にある上層石垣は櫓の重さを直接支える構造になっているものの、裾野になる下層の
石垣は単に傾斜面に石を貼り付けたような乱雑な構造なので、石垣としての強度を保つ目的で築かれてはいなかったようだ。
堀底から石垣が立ち上がっているように「見せる」目的で、櫓をより一層高く思わせる視覚効果を演出していたのである。■■
一方、鍮石門は間口4間半、高さ2丈2尺5寸の楼門式城門。往時は大手門・新門に次ぐ規模を誇っており、古くは玄関前門や
中柵門と呼ばれていた。鍮石門と呼称されるようになったのは大給松平氏入封以後で、藩主の御殿があった二ノ丸の玄関で
あるこの門を飾り立てるため真鍮の装飾が施されたからではないかと考えられているが、それを確認する史料は残らない
ので、詳細はよく分からない。ともあれ、木造建築で復元された櫓や門が建つ事で西尾城址は江戸時代の威容を取り戻した
感がある。さらに二ノ丸跡地には1995年(平成7年)3月に京都から移築された旧近衛家邸宅があって歴史公園としての趣を
深くしている。さながらかつての藩主御殿が生まれ変わったようでもあり、西尾城址は見物するに“飽きない”場所。■■■■
更に更に、2020年(令和2年)6月26日には二の丸丑寅櫓と土塀の復元工事も完了し、城址の新たな見どころになっている。
土塀は往時の折邪(おれひずみ、鉄砲射撃用に出窓のような折れ曲がった構造)も備えており、近世城郭と言えど戦闘面に
配慮していた状況を再現していて分かり易い。このように、西尾城は日々進化を続けていて将来的には天守再建の動きも
あるらしく、今後も注目したい城跡の一つでござるな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は市指定史跡。別名で鶴城。他に鶴ヶ城・錦丘城など。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は市指定史跡







三河国 今川城

今川城址 史跡標柱

 所在地:愛知県西尾市今川町土井堀

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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足利が絶えれば吉良が継ぎ 吉良が絶えれば■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
西尾市立西尾中学校の南側、畑の中に忽然と石碑が立つ一角がある。その石碑に記された文字は「今川氏發跡地」。
そう、ここが東海屈指の戦国大名となった今川氏が発祥した地、今川城(今川館)址なのである(写真)。今川氏と言えば
駿河府中(静岡県静岡市)を本拠として遠江国を従えた大大名である為、すっかり静岡県が伝来の地と思われがちだが
“今川”の故地はここ西尾市なのだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
西条吉良家の始祖・長氏は長子の上総介三郎満氏(みつうじ)に吉良荘を継がせて跡継ぎとする一方で2男の四郎国氏
(くにうじ)に今川荘3箇村を分知、その地の地頭職とした。元来、今川荘は長氏の少年時代に父・義氏(国氏の祖父)から
装束料として与えられた地と言われる。長氏は義氏の長男でありながら、生母の出自が低かった為に足利宗家を継げず
吉良家を興す事になったのだが、それを不憫に思った義氏は源氏累代の宝刀である龍丸も長氏に譲ったそうな。後年、
国氏が長氏所縁の今川荘に入封して館を築き(これが今川城でござる)今川姓を名乗るようになると、龍丸も今川家へと
受け継がれた。これに因んで今川家歴代当主の嫡男は「龍王丸」を幼名とする習慣になり、龍丸を受け継ぐ事が源氏
正嫡に匹敵する家格の証となる。「足利が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と、足利将軍家の継承に
大きな影響力を今川家が有するように伝えられる事となったのは、今川荘と龍丸の相続に端を発しているようでござる。
(ただし、今川家に譲られた宝刀は別のものとする説もあり必ずしもこの伝承が正しいとは限らない)■■■■■■■■
さて、最初はたった3箇村を有するのみに始まった今川の家だが、国氏は多くの子を生して今川の分家を派生させていき
これが後代、駿遠太守となった今川家を支える一門衆として大きな力を作る事になる。国氏の長男・太郎基氏は今川荘と
家督を継承、彼は遠江国引間(曳馬)荘(静岡県浜松市)にも所領を獲得し、その地へと本拠を移し申した。2男・常氏は
関口家、3男・俊氏は入野家、4男・政氏は木田家を興した。後に徳川家康の正室となる築山殿(つきやまどの)の初名は
関口瀬名(せな)、即ち今川関口家の出自であり、それは今川常氏から発生した家の息女でござる。また、これ以外にも
国氏には子が居り、それぞれ今川支流の家を立てている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、今川家2代・基氏が遠江へと進出した事で今川荘は次第に忘れられた地と化し、3代・五郎範国(のりくに)は
室町幕府の成立に伴って駿河守護職を獲得し、駿河国へと移っていった。範国の長男・五郎範氏(のりうじ)以降、今川
宗家は駿河に定着し確固たる地位を築く一方、これとは別に範国の2男である左京亮貞世(さだよ)は幕府の九州探題
(九州地方の統括官)に任じられ、九州のみならず西日本のほぼ全域に影響力を及ぼす程になる。あまりに絶大過ぎる
権勢は時の将軍・足利義満から疑われる程で、後に貞世は官職を辞して隠棲。今川家勃興期における最盛期を築いた
今川了俊(りょうしゅん)とは彼の事である。江戸時代中期の1745年(延享2年)了俊の事績を顕彰し、今川館跡に彼の
供養墓が建立され現在に至るも、それ以外に館跡を偲ぶ遺構は何も無い。ただし、戦国の巨頭として名高い今川氏の
発祥地は地元にとって重要なものと言え、ここは西尾市の指定史跡となってござる。■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

城域内は市指定史跡







三河国 岡山陣屋

岡山陣屋址

 所在地:愛知県西尾市吉良町岡山殿町
 (旧 愛知県幡豆郡吉良町岡山殿町)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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吉良家の系譜■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
吉良陣屋とも。江戸時代の高家(こうけ)吉良氏の采地陣屋でござる。高家とは徳川幕府の儀式典礼を掌る役職で、主に
名門の旧家から選ばれている。吉良家は上記した通り足利家に連なる家格であると共に、徳川家康の縁者でもあるため
高家の中でも筆頭格とされていた。以下、吉良家と岡山陣屋について記載する。■■■■■■■■■■■■■■■■■
西尾城の項で記した如く、足利義氏以降東条家と西条家に分流した吉良家であるが、義継流東条家は後に奥州へ下向、
世田谷吉良家(世田谷城(東京都世田谷区)の項を参照)となる。そのため南北朝時代、西条家の中から中務大輔尊義
(たかよし)が分流して新たな東条家が成立し、西尾(西条)城に西条吉良家、東条城(下記)に尊義流東条吉良家が居を
構えるようになった。更に戦国時代になると、西条吉良家の左兵衛佐義堯(よしたか)は長男・左兵衛佐義郷(よしさと)、
2男・上野介義安(よしやす)、3男・義昭の3子を儲けた。このうち、長男の義郷が西条家の家督を継ぎ、ちょうどその頃に
継嗣が絶えた東条家へ義安を入れる事としたが、義郷が早世したため義昭が左兵衛佐の官途名と西条家を受け継いだ。
同時期、三河国では松平家が没落しており松平三郎広忠の嫡男・竹千代は今川家の人質にされる始末。強大な支配者が
消えた三河には東から“海道一の弓取り”今川義元が侵攻し、西からは“器用の仁”織田弾正忠信秀(信長の父)が勢力を
拡大。これに伴い、西条吉良家と東条吉良家はそれぞれ今川氏と織田氏の支配下に置かれてしまうのでござる。織田家に
協力的であった東条吉良は逆に義元からの攻撃を受け、義安は俘虜の身となり駿府(静岡県静岡市)に軟禁されてしまう。
義元は義昭に東条吉良家の家督も与え、これによって東西吉良家は合一される事になる。一方で義安は駿府で竹千代と
共に暮らす事となり、両者は親交を深めた。この竹千代こそ、長じて松平次郎三郎元康つまり後の徳川家康である。■■
ところが数年を経て、信秀没後に織田家を継いだ上総守信長は今川義元を敗死に至らしめる。有名な桶狭間の戦いだ。
故に、今川家は急激に没落。元康も三河を回復した。三河統一に邁進する元康は、今川残党の掃討に取り掛かり義昭を
服属させる。それでも三河一向一揆(家康に反抗する一向宗門徒の大蜂起)に乗じて勢力回復を目論んだ義昭であるが、
集権体制を確立した徳川の軍勢は一揆を鎮圧、義昭は国を追われた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

岡山陣屋の創建■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結果的に残ったのは家康と懇意であった義安である。その義安も程なく没したのだが、家康は遺児・上野介義定に吉良郷
瀬戸・岡山200石(他に鳥羽郷300石)を与えて西条吉良家の再興を許した。義安の妻は家康の祖父・次郎三郎清康の娘で
義定と家康は従兄弟同士という関係にあった事も幸いしたのだろう。こうして、義定の陣屋として構えられたのがこの岡山
陣屋だ。正確な築城年代は不明であるものの、天正年間(1573年〜1592年)なのは間違いなかろう。巷説によれば1579年
(天正7年)頃、夫亡き後に閉塞していた義安の妻(俊継尼と伝わる)が鷹狩で通りがかった家康に拝謁、義定の取り立てを
頼んだとされる。井伊万千代(長じて修理大夫直政)の召し抱えでもそんな話があったような…まぁ、それは脱線として。
1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦では、義定の嫡男・左兵衛督義弥(よしみつ)が東軍として従軍。この時、義弥は
15歳で、徳川秀忠が幼少期に用いた鎧兜を下賜され、それを身に着けていた。戦後、吉良郷を安堵の上3000石に加増。
斯くして高家吉良家が成立し、義弥の後は若狭守義冬(よしふゆ)―上野介義央と継承され申した。以後の系譜としては
義央の嫡男(長男・綱憲は上杉家養子となったため2男)である三郎は夭折、嫡孫(綱憲2男)の左兵衛義周(よしまさ)に
家督が譲られている。が、この時期“松の廊下”事件が発生、更に赤穂浪士の討ち入りとなって吉良家は断絶してしまう。
1703年(元禄16年)2月4日に改易された吉良家に代わり、1705年(宝永2年)からは旗本・津田正房が岡山陣屋を継承。
石高は3000石。津田家は正明―正春―正安―正良―正応―正信―桂次郎と続き明治維新に至ってござる。■■■■■
現状、陣屋跡は畑作地や住宅地となっており遺構らしきものは全く無い。但し、史跡活用として陣屋の模擬門(写真)が
建てられて、傍らには案内板がある。その奥に控えるのは上野介義央の銅像。旧吉良町では義央を名君として讃え、
地域の誇りにしており、陣屋近隣には吉良家の菩提寺などもあって一体的な観光誘致を行っている。拙者も吉良地域を
訪れてみて、真摯に史跡保全を行う姿勢に感服致した。岡山陣屋だけでは物足りないが、こうした「吉良公の町」全体を
見て回れば、必ずや歴史の奥深さ、郷土愛が溢れる史跡整備に感激できる筈だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■







三河国 東条城

東条城址 復元門と井楼櫓

 所在地:愛知県西尾市吉良町駮馬城山
 (旧 愛知県幡豆郡吉良町駮馬城山)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★☆■■



戦国乱世の吉良家■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
吉良東条城。東条古城とも。東条吉良氏が用いた中世城郭でござる。吉良氏における東条氏の分流については上記の
通りであり、この城の構築も吉良義継が東条吉良家を創始した頃(1222年(貞応元年)か?)の事と見られている。以来、
義継流東条吉良氏は式部丞経氏―上総介経家―右京大夫貞家と代を紡ぐが、この貞家は奥州探題の任を与えられて
東下、東条吉良家転じて奥州吉良家になっていく。その系譜が最終的には武蔵国世田谷郷へと土着し世田谷吉良家に
なる訳だが、これによって空いた東条の地は中務大輔尊義が領し、改めて尊義流東条吉良氏のものとなったのである。
尊義が東条城に入った時代は、南北朝動乱期。西条吉良家は南朝方に属していたが、足利尊氏による北朝政権樹立
即ち室町幕府の開闢は全国の武士団を糾合するに十分な求心力を持っており、南朝方は軍事的劣勢に追い込まれる
ようになっていく。吉良家臣団はこの風潮を読み取って、北朝方に転じる主君を奉戴すべく、西条家から袂を分かつ形で
尊義を東条城に据え、新たな東条吉良家を作り上げたのだ。言うまでもないが、尊義の「尊」の字は将軍・足利尊氏から
与えられた片諱でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
西条家は南朝方、東条家は北朝方に属した事からわかるように、両家は互いに吉良家嫡流を争う仲になっていった。
尊義の後、東条吉良家の家督つまり東条城主の座は右兵衛督朝氏(ともうじ)―持長(もちなが)―持助(もちすけ)―
右兵衛督義藤(よしふじ)と受け継がれた。結局、南北朝の争乱は南朝の敗北に終わり、西条吉良家も北朝へ服属する
事となったのだが、今度は応仁の乱で西条家と東条家は戦うようになり、西軍に就いた義藤は東軍方の西条吉良軍に
東条城を攻め落とされている(東条家が西軍、西条家が東軍でややこしい話だがw)。さりとて、応仁の大乱は勝者無き
終戦で泥沼化するだけに終わり、室町体制は崩壊し戦国時代に突入。東条城を回復した東条吉良家は、義藤の後に
右京亮義春(よしはる)―左京大夫持清(もちきよ)―左兵衛佐持広(もちひろ)と続くのだが(当主継承には諸説あり)、
三河国は織田・今川両家の板挟みになっていたので、在地豪族に過ぎなかった東条・西条の両吉良家は没落の一途を
辿る。結局、持広は西条家との和睦を欲し、継嗣が居なかった事から西条吉良義堯の2男・上野介義安を養子に迎え
入れたのは先述の通り。同時に持広は、三河の盟主となっていた松平清康へ臣従するようになり、義安に清康の娘を
娶らす事を成功させ申した。これが俊継尼である事も、先に記した通りだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

徳川家に従属し■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今川義元に攻められた義安が駿府へ移送され、代わって義昭が東条家の家督も有し吉良家合一が成った後、今度は
義元の敗死で義昭は逆風に立たされる。三河に独立した徳川家康は今川に近しい義昭を攻略目標と定めて、1561年に
東条城は徳川勢の攻撃を受け落城。義昭は岡崎へ送られたが、1563年(永禄6年)に発生した一向一揆に乗じ東条城で
再起を図るのでござる。されどこれまた徳川軍により攻め落とされ、行き場を失った義昭は近江国(滋賀県)へと逃亡、
後に摂津国芥川(大阪府高槻市)での戦いで戦死する。これにより東条吉良家は滅亡、徳川のものとなった東条城には
家康家臣の松井忠次ならびに松平甚太郎家忠が入り申した。この松平家忠は東条松平氏を名乗る家柄となるのだが、
徳川家中の詳細記録「家忠日記」で知られる松平主殿助家忠とは同名の別人。(主殿助家忠は深溝(ふこうぞ)松平家)
東条城主となった甚太郎家忠は若年であった為、補佐として付けられたのが左近将監忠次だ。■■■■■■■■■■
この後、家忠は姉川の戦いや長篠の戦いなど家康の歴戦に参戦しているが、惜しくも1581年(天正9年)11月1日、東条
城内にて26歳の若さで病没してしまった。東条松平家は名跡である為、これを惜しんだ家康は自身の4男・忠康に家督を
継がせ申した。忠康は後に忠吉と改名、井伊の赤鬼こと井伊直政の娘を娶る事になる人物だが、とりあえずこの折には
1万石で東条城主として迎えられている。その翌年、1582年(天正10年)に忠康は駿河国沼津(静岡県沼津市)4万石へ
移封。徳川家そのものも豊臣秀吉の命により1590年関東へ移されたので、恐らくこの頃に東条城は廃城とされ申した。

中世城郭としての復元事業■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
東条城は湿地帯に突出した舌状丘陵を利用した平山城(丘城)で、標高28mの最高所を主郭として梯郭式に2郭〜5郭が
連結した縄張りだ。眼下の水田地帯を流れる矢崎川が天然の濠を成し、特に城山の西側に眺望が開けている。主郭と
西面低湿地部との比高は25mほどあり、東条城が仮想敵とする西条吉良家の戦闘正面を固めるに適した地形だろう。
尤も、家康が攻め立てた時には比高差だけでは覆せない程の兵力差で攻略された訳であり、自ずと“在地豪族の城”の
限界が垣間見えよう。ともあれ、城内は空堀や切岸で区画されて、それなりに遺構の保存状態も良い。現状では3郭が
八幡社となっている他、主郭近辺も1989年(平成元年)ふるさと創生資金1億円を投入し城址公園として整備されたので
来訪しやすい城跡となっている。公園整備に伴い、主郭の大手櫓門と井楼櫓(写真)が建てられたが、模擬櫓とは言えど
中世城郭らしい形で再現され、非常に好感が持てた。昭和末期には天守も無い城に白亜の天守を建てたり、小砦なのに
近世城郭並みの巨大櫓を置くような“史跡破壊”の公園整備が行われる城跡も多かった中、東条城は中世城郭を中世
城郭のままに甦らせた訳で、関係者の慧眼には頭が下がる思いだ。ただ、建立から30年を経過した2023年(令和5年)
朽ちた櫓は崩壊の危険性があるとして門と井楼櫓は取り壊されてしまった。のみならず、残る柵列も痛みが相当に激しく
いつまで維持されるか分からない状況。“史跡整備”後の“管理保全”が如何に難しいかという問題提議を見せた東条城。
当城には戦国時代前期、歌人公卿の冷泉為和(れいぜいためかず)が訪れ連歌の会を催したと伝わる。家康や信長も
鷹狩の折に来訪し寛いだと言われ、由緒ある城をこのまま上手く後世に残し活用して頂きたいと切に願うばかりだ。■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群







三河国 小牧陣屋

吉良小牧陣屋跡

 所在地:愛知県西尾市吉良町小牧郷中・吉良町小牧郷後
 (旧 愛知県幡豆郡吉良町小牧郷中・小牧郷後)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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東条城攻めの本陣に始まり■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
元々は1561年時に徳川軍が東条城を攻めた際の本陣、小牧砦とされていたもの。正確に言えば小牧砦の位置は小牧
陣屋から僅かに西隣の占地となる浄土宗精明山宝泉寺の近辺だったと云う。吉良領から見て北側の岡崎から進出した
徳川方は、吉良家に従っていた荒川甲斐守義広を寝返らせて荒川城(西尾市八ツ面町麓)を手中にし、次いで西条城
(上記の西尾城)牧野成定を服属させ、更に東条城へ肉薄する位置であるこの地に小牧砦を築いたのである。その折、
同時に津平(つひら)砦(西尾市吉良町津平)や友国砦(西尾市吉良町友国)も構えて東条城包囲網を一気に狭めた。
東条城から見て小牧砦は南西1.1kmの近距離。同じく津平砦は南南東へ1km弱の指呼の間。城の南側へ回り込まれた
吉良勢は、もはや後詰の来援も望めなくなり落城、吉良義昭は家康に降伏するのであった。■■■■■■■■■■■
小牧砦を築いたのは徳川譜代の家臣・本多豊後守広孝(ひろたか)。東条城総攻めの際には、家康も小牧砦に入って
本陣とされたそうである。斯くて東条城攻略に功績大であった広孝は、恩賞として東条吉良家の家老・富永伴五郎忠元
(とみながただもと)の旧領だった室(むろ)城(西尾市室町)一帯を与えられた。なお、富永忠元は東条城落城に先立つ
藤波畷の戦いで広孝に討ち取られており、彼が死んだ事で敵味方とも「これで東条城の落城は近い」と噂したそうな。
室から小牧にかけての所領を得た本多家は、小牧砦の跡地に役宅を建て地頭役人を配置していた。三河一向一揆に
乗じて吉良義昭が再起した時にも本多広孝は東条城攻略に働き、以後も家康麾下として縦横に戦ったものの1590年
徳川家は関東へ移り、本多家も上野国白井(群馬県渋川市)2万石へと去っていく。■■■■■■■■■■■■■■■

近世陣屋として復活■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが徳川家康が関ヶ原合戦に勝利し、天下の主となった事で小牧郷は徳川家臣・大河内(おおこうち)氏の所領に
配分された。旗本・大河内金兵衛秀綱(ひでつな)は元々東条吉良家の家臣。三河一向一揆で主君・吉良義昭に従い
家康と戦った者であるが、義昭が近江国へ逃亡した後は家康に臣従し、以来能吏として徳川家の租税事務を司った。
切れ者の血筋か、徳川3代将軍・家光の懐刀となる“知恵伊豆”こと老中・松平伊豆守信綱(長沢松平家へ養子入り)は
彼の孫であり、また秀綱の2男は松平姓を許され大河内松平家(伊豆守信綱系と区別して大河内松平宗家とされる)を
興し、松平右衛門大夫正綱と名乗り大名に昇進。その正綱の孫・備後守正久は1703年2月10日、奇しくも吉良家改易の
直後に上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)2万石の藩主となり、ここ吉良小牧郷はその飛び地所領に加えられた。
東条城攻防戦に於いては籠城側だった大河内氏が、攻め手側の小牧砦跡を得ると言うのも何だか因縁めいた話だが
ともあれ大河内松平宗家はここに陣屋を構え、采地支配を行うようになった。これが小牧陣屋である。大河内家は以後
幕末まで大多喜藩を継承し、小牧陣屋も明治維新まで用いられた。大多喜藩の所領は後に加増され2万7500石にまで
増加したが、そのうち小牧領は1万3000石あったと言われ、大河内家の石高の約半分を賄っている。故に、この陣屋は
采地陣屋としてはかなり大規模な部類に属するそうで、敷地内には役宅・米蔵・土蔵をはじめ調練場や撃剣場、築山
(庭園)を眺める御殿を備えていた。ただし、あくまでも統治陣屋であるため然程の防御は構えられておらず、敷地の
北半分だけに土塁、南側は矢来柵、西側は塀が1重に囲んでいるだけ。出入口も虎口のような構造ではなく、外周は
少しばかり川に面した部分がある程度で堀などは掘られていなかった。このように簡易な構えであった事から、維新後
陣屋が廃絶すると敷地は造成されてしまい、移築された長屋門が1棟別の場所に残るのみで遺構は皆無である。■■
場所は旧吉良町の小牧公民館があるすぐ隣の住宅街。宅地の一角にごく僅かな面積の公園が作られ、そこに小牧
陣屋跡地として模擬門や案内板が設置されてござる(写真)。この公園は陣屋の搦手口跡だった位置に当たり、本来
その南東側一帯に敷地が広がっていた。ちなみに公園の敷地(搦手口)だけは吉良町小牧郷後地区に入っているが
大半の敷地部分は吉良町小牧郷中の区分に含まれる。明治の近代化により、旧時代の象徴だった陣屋は跡形も
無く消え失せてしまったが、それでも現在は往時を偲ぶべく僅かに公園を造り、案内板は丁寧に歴史を綴っている。
こうした姿勢に、旧吉良町の史跡整備は非常に優れていると太鼓判を押したい。■■■■■■■■■■■■■■■■







三河国 赤羽根城

赤羽根城跡 親宣寺

 所在地:愛知県西尾市一色町赤羽上郷中
 (旧 愛知県幡豆郡一色町赤羽上郷中)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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伊勢平氏庶流・鷲尾氏による築城?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
築城の時期は不明だが、平安末期には創建されていたとされ、伊勢平氏庶流の鷲尾遠衡(わしおとおひら)が城主で
あったとの記録がある。遠衡が当地を治めたのが1159年(平治元年)、室町時代初期に成立した系図集「尊卑分脈」で
桓武平氏について「遠衡 住三川国吉良」とあり、江戸時代前期の1656年(明暦2年)に記された西尾藩周辺の地誌書
「西尾草創伝(西尾城故老伝)」に「平遠衡ハ赤羽之城主也ト云」と書かれている。但し、いずれの史料も後世になって
編纂された物なので信憑性は薄いと思われるが、他方、尊卑分脈では遠衡を平貞国の子としており、出自を汲み取る
事ができる。それに拠れば貞国は現在の愛知県豊川市御津町(みとちょう)に在住、地名の御津から渡津(わたむつ)
五郎貞国を名乗っていた。その貞国が勢力を広げて幡豆郡の赤羽郷まで子息を送り込んだと云うならば、当時の権勢
並ぶ者なき平氏(時代は平氏政権全盛の頃であった)が三河湾の東から西まで制圧していった状況を物語っていよう。
然るにその後、遠衡が鷲尾姓へと改めたのは平家の権力が没落し源氏が幕府を開く世の中に変わり、堂々と平姓を
使う事が憚られるようになったからだと推測する向きもあり、これまた時代の流れが如実に反映された例と言えよう。
ちなみに、吉良荘の吉良氏については上記の各城で来歴を示したが、足利分流の吉良氏が入部する以前の段階で
ある平安末期〜鎌倉初期(まさしく鷲尾遠衡の時代)での記録(鎌倉幕府公式文書「吾妻鑑」など)で「木良」「吉良」を
称する者が散見され、実は源姓吉良氏(足利吉良氏)の前に平姓吉良氏が存在していたのでは?とも考えられる為
吉良荘と隣接する赤羽郷の平氏とどのように関連したのかも、今後の研究に期待したいものでござる。■■■■■■

鷲尾氏の没落と吉良郷の転変■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鷲尾氏は鎌倉期を通じてこの地を治めたとされるが、5代目・時秀は鎌倉幕府再興運動である中先代の乱において
北条氏に加勢して行軍するも、敗退して赤羽郷を退去し多米(ため)城(愛知県豊橋市多米東町)へ閉塞。以後、姓を
多米と改め、更に戦国期になると多米権兵衛元益は縁あって伊勢新九郎盛時の家臣に加わる。誰あろう新九郎とは
戦国大名の嚆矢である北条早雲の事だ。伊勢氏も元を正せば伊勢平氏、多米(鷲尾)氏と同族で繋がるというのが
歴史の面白い所であろう。新九郎が関東で旗を挙げると多米氏も相模国内で所領を得る…とか、しかも伊勢一門が
後北条氏と改姓して、中先代の乱で北条氏に従った多米氏が再び名義上で北条家臣に…とかいう話になって行って
止め処無くなってしまうのだが、これ以上は赤羽根城と関係なくなるので割愛。■■■■■■■■■■■■■■■■
鷲尾時秀が戦死し、その子・時助が多米村へ去った後、赤羽郷には吉良家の力が及んで吉良左京大夫満義の2男
四郎有義(ありよし)が入った。有義は東条吉良家を再興した吉良尊義の次兄だ。長兄・左兵衛佐満貞(みつさだ)は
西条吉良家を継ぎ、東西吉良家が拮抗する中、かつて一色氏(足利家分流、室町時代の四職に数えられる名族)の
創立した地である一色邑を領する事になった有義は、その由緒にあやかり改姓、一色左京亮有義と名乗った。故に
赤羽根城は一色有義の城と紹介されるのが一般的でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

戦国乱世、複雑に絡み合う血縁■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし有義以降、一色吉良氏の動向は不明。子孫がどうなったのかも良く分からない。先に示した「西尾草創伝」に
「一色村ニ宗北ト云者ノ屋敷跡アリ」とある位で、この宗北なる者が有義の後裔と推測されるのみでござる。さりとて
この地が吉良氏の支配下にあった事は確かなようで1414年(応永21年)吉良家臣・高橋四郎高宗が城主になった。
高橋氏は三河国挙母(ころも)高橋(現在の愛知県豊田市高橋町)の出自と言い、吉良家中で激戦を戦い抜く事に
なった。高宗以降、累代の高橋氏は赤羽根城を維持したが、徳川家康が三河回復後の1561年に東条吉良家は討伐
されるに至り、赤羽根高橋氏4代・出羽守政信も西条城の酒井正親に赤羽根城を攻められた。これにより城は炎上、
落城して廃絶。政信は敗死したと言う。後年、政信の子で出家した洞山祖誕(そたん)上人が一族の菩提を弔う為に
城址東南隅で瑞雲庵を建立、これが現在は浄土宗北城山瑞雲寺となっている。この祖誕上人、父は高橋政信だが
母は刈谷城主・水野下野守忠政の娘だとされる。つまり祖誕上人の母は徳川家康の生母・於大の方と姉妹、家康と
祖誕上人は従兄弟同士だった事になる。この系図がどこまで正確なのかは分からぬが、赤羽根城の落城で親族を
亡くした幼い頃の祖誕上人は伯母である於大の方に養育されたとか…。戦国乱世の痛烈な血縁関係である。■■■
現状、城址敷地の東半分は愛知県立一色高等学校の敷地に、もう半分は浄土真宗赤羽別院親宣(しんせん)寺の
境内になっている。瑞雲寺は一色高校の脇に隠れるように建ち、辺り一面は住宅地。もともと、矢作古川の河口部で
三河湾に突き出た(現在は干拓が進んで一面の平地)半島状の堆積地突端を城地としており、かつては周囲を川と
海に囲まれた水城の様相で防御を固めていたのだろうが、平城である為に現在では全くの更地で遺構は何もない。
それでも彼の地の歴史を知る重要な史跡として、1983年(昭和58年)6月21日に当時の一色町指定史跡とされ、今は
市町村合併後の西尾市指定史跡になってござる。写真は親宣寺の巨大な山門で、この脇に城址案内板がある。■■



現存する遺構

城域は市指定史跡







三河国 寺部城

幡豆寺部城跡土塁

 所在地:愛知県西尾市寺部町堂前
 (旧 愛知県幡豆郡幡豆町寺部堂前)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★☆■■
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海を望む小高い丘に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幡豆寺部(てらべ)城。名鉄蒲郡線西幡豆駅の南東、三河湾を望む丘陵地に築かれた台地城。細かく場所を示せば
幡豆図書館に隣接する真言宗粟嶋山太山寺の南西側に盛り上がった山の西端部。城から海岸までは300m弱しか
無く、主郭部からは海を進く船が望める。城地の最高所は標高29.7m、そこを主郭とし2郭・3郭・4郭が南側傾斜面に
梯郭式の連なりを見せ、その北側に5郭が出曲輪状に連結しており申す。城域の西〜南は海岸の平野部、北は城山
山塊の終端となる傾斜面となっていて比高差を生み出しているが、東側は尾根続きの高さを維持した地形。この為、
城山の東側は大きく堀切で分断し、その堀切はそれぞれ南北に落ちる竪堀となってござる。現在、登城口として整備
されているのはこの竪堀から堀切へと繋がる堀底道で、中世城郭に慣れた人ならば一目見ただけで「城に入った」と
感じられる状況になっている。一応、公園整備の手が入って登城路も歩きやすいものになっているが、然程大規模な
改変は行われておらず、遺構破壊と言うような事はなく城郭愛好家の目から見ても安心して散策できる城跡だ。車は
幡豆図書館の駐車場の停められ、西幡豆駅からも歩いて行ける距離なので交通の便も良い(道は分かり難いが)。
往時、海上交通を管制する城は逆に海からも目立つ存在だった事だろう。と同時に、城内には土塁遺構が主に北側
(陸側)に向けて構築されている事などから、陸戦にも対処する構えだったと考えられる。このあたりに、単に海賊城
(水軍拠点の港湾城郭)だけではない寺部城の存在意義を考えさせられる。城山の西には小野ヶ谷川が流れていて
天然の外濠として機能してござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

2系統あった幡豆小笠原氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の起源は不明である。記録に出てくるのは1514年(永正11年)早川三郎の持城であったこの城を、小笠原定政が
落として城主になったというのが初出。早川三郎なる人物の来歴は不明だが、小笠原定政の方は信濃守護である
小笠原氏に連なる者だ。小笠原氏の始祖とされている平安末期の武士・小笠原長清(ながきよ)は、長子として長経
(ながつね)を儲け鎌倉幕府の御家人と為し、これが信濃守護家に繋がっている。しかし長経は庶子であり、嫡男と
されたのはその弟である時長(ときなが)でござった。時長は伴野(ともの)姓を名乗り東信濃の有力豪族になるが、
鎌倉幕府内での権力闘争で没落してしまう。然るに時長の玄孫にあたる伴野泰房(やすふさ)の代になって、三河国
幡豆郡へ移り小笠原姓に復姓。これが幡豆小笠原氏の始まりでござった。戦国時代になると幡豆小笠原氏は磯城
(欠(かけ)城とも。寺部城の西800mの位置にある小城)に居を構えており、範安―安元―康次―広勝―広信と代を
重ねている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で寺部城を手にした安芸守定政の系譜は広政―重広―信元―信重とあり代々の寺部城主になるが、定政は
時の信濃守護・小笠原右馬助定朝(さだとも、貞朝とも)の子が三河にて土着したものとされる為、磯城小笠原氏と
寺部城小笠原氏は別系統という事になろう(諸説あって詳細不明)。もっとも、同族の誼で両家は協力関係にあり、
安元の娘は重広に嫁いでいる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

徳川家臣として生き残る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当時の幡豆郡と言えば、上級支配者に吉良氏が居り、その上の階級で織田氏と今川氏が勢力を争っていた時代。
小笠原氏は吉良氏、ひいては今川氏の支配に従うも、徳川家康が三河の覇権を確立すると攻略され、その配下に
組み込まれてござる。1560年頃、寺部城は徳川軍に落とされた模様だ。以後、磯城小笠原氏と寺部城小笠原氏は
共に徳川軍の中で歴戦に参加し、姉川合戦や長篠合戦に槍働きを見せたが、こうした戦いにおいて当主の子息や
血縁者を数多く戦死させており、小豪族が軍功を挙げる苦労を忍ばせている。しかし一方では、信濃守護家という
名族との繋がりは大きなものがあり、武田信玄によって信濃を追われた小笠原右近大夫貞慶(さだよし)が同族の
縁を頼って一時期徳川家に寄宿している。これにより小笠原家は江戸幕府成立後、譜代大名として扱われている。
ともあれ、寺部城のその後であるが1590年、家康の関東移封により幡豆小笠原氏もこの地を去り、一門は上総国
周准(すす、周淮(すゑ)とも)郡(千葉県富津市・君津市の近辺)に新たな封を得た。これにて寺部城は自然廃城と
なったようでござる。ちなみに、幡豆小笠原氏は三河湾に勢力を築いた水軍の家柄でもあった為(とても山国である
信濃守護家の縁者とは思えない能力だがw)徳川氏の関東移封後も水軍を組織して功を挙げた。江戸(東京)湾を
守る船手組となったのは勿論、秀吉の朝鮮出兵時にも水軍を動かし、さらに関ヶ原合戦時では西軍へ与した海賊
大名・九鬼(くき)氏の伊勢水軍を封じ敵の船を乗っ取る大活躍を演じている。大坂の陣の時には三浦半島の警戒
任務に就いたと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
主の去った寺部城跡は、幡豆町(現在は西尾市)の史跡となってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■

小笠原諸島に名を残し■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、幡豆小笠原家について最大の話題と言えるのが小笠原諸島の発見伝説である。寺部城に寄寓してた小笠原
民部少輔貞頼(さだより)は、関東に移封された後の1592年(文禄元年)朝鮮出兵から帰陣する際、主君・家康から
「発見した島は獲って良い」と許可を得たために南海へ渡航、小笠原諸島に辿り着いたというものである。この話が
「巽無人島記(たつみぶにんとうき)」という書物に纏められ、それを根拠として貞頼の子孫は累代にわたって小笠原
諸島への渡航を江戸幕府に申請した。また、小笠原父島には貞頼を祀る小笠原神社が建てられている。■■■■
されど、江戸から遥かに1000kmも離れた孤島に、いくら水軍の将とは言え当時の航海術で到達できるのかはかなり
疑問である上、そもそも貞頼という人物の来歴自体が不明確。この為、幕府は審議を行った末に「巽無人島記」は
偽書との採決を下した。現在の研究でも小笠原諸島を発見したのは江戸時代中期の漂流民とされ、貞頼の功績は
否定的だ。しかし、この伝承が元となり、幕末に太平洋周辺への植民地進出を図る西洋列強に対し小笠原諸島は
日本固有の領土であると認めさせる根拠となった。何よりも、島嶼群の名が「小笠原」諸島となっているのは貞頼の
発見説を採用しているからに他ならない。果たして貞頼なる者の働きは真実か否か、今となっては分からぬ話だが
三河湾を望む寺部城の将が、南洋にまで足掛かりを作った壮大さには何かしら清々しさを感じずにはいられない。



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は市指定史跡




名古屋市内諸城郭  知多郡諸城郭