西条吉良氏が築いた城に始まる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鎌倉時代前期の創築とされる古い歴史を有する城。初名は西条城でござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1221年(承久3年)勃発した承久の乱において鎌倉幕府方は朝廷方を撃破、これにより武家政権は磐石なものとなっていく。
この戦いで戦功を挙げた足利左馬頭義氏は幕府から三河国守護に任じられ入国、西条城を築いたとされる。義氏の子のうち
左馬四郎義継は東条の地に入り、もう1人の子・上総介長氏は西条へと入った。東条・西条ともに三河国幡豆郡吉良荘の中、
矢作古川の東西でそれを分かった区域でござる。以後、両者は姓を郷名から吉良と改め、東条吉良氏と西条吉良氏に分流。
西条城は歴代西条吉良氏の城として受け継がれていったものである。言わずもがな、吉良荘というのは現在の西尾市域だ。
ちなみに吉良の「きら」という読み方は、吉良荘が雲母を産出する事で「雲母→きら(ら)→吉良」と呼ばれるようになった事に
由来するという。また、江戸時代の忠臣蔵事件で敵役とされた吉良上野介義央(よしひさ)が、この西条吉良氏の末裔である
事も忘れてはならない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、西条城は西条吉良氏の居城として時代を下るも、戦国期になると三河国は松平郷(現在の愛知県豊田市山岳部)から
岡崎へ進出して国内最大勢力を有するに至った松平氏と、駿河国・遠江国から西へと領土拡大を狙う名門大名・今川氏が
激しい戦塵を巻き起こすようになり、吉良氏もこの争乱に飲み込まれた。松平氏は当主が相次いで落命する不幸が重なって
一時衰退してしまうが、今度はそれに突け入るように尾張国から織田氏が勢力を広げて来て、織田氏と今川氏が三河国内で
戦うようになる。この渦中で東条吉良氏は断絶してしまう(詳細下記)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さらに1560年(永禄3年)5月、桶狭間合戦で今川氏当主の治部大輔義元が落命すると三河松平氏が復活、若き天才・松平
蔵人佐元康(後の徳川家康)は瞬く間に岡崎周辺の旧領を掌握し、今川家に対する反抗作戦に出たのでござれば、この年
西条吉良氏を支援するため今川方の武将・牧野民部丞成定が入っていた西条城は松平方の攻略標的とされ申した。結果、
成定と西条吉良氏はその勢いに敵わず、1561年(永禄4年)西条城が落城して降伏するに至る。このため、西条城には家康
配下の将である酒井雅楽頭正親(まさちか)が入り、正親が1576年(天正4年)6月6日に没すると、その嫡男・与四郎重忠が
相続。家康はその後、領国再編の必要に迫られて1585年(天正13年)に西条城の改修を命じた。その時に城名が西尾城と
改められたとか(改名には諸説あり、徳川家が占拠する以前と考える向きもある)。この改修時、二ノ丸天守が構築されたと
考えられている(天守については後記)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがその5年後の1590年(天正18年)に豊臣秀吉が天下を平定、家康は家臣ともども関東へと移封されてしまう。重忠も
関東へ去り、西尾周辺地域は岡崎城(愛知県岡崎市)主になった田中筑後守吉政の封とされる。吉政は西尾城を岡崎城の
支城として用い、城の拡張工事を施す。その際に西尾城には三ノ丸が増設され、門や櫓が建てられたのでござる。■■■■
江戸時代、譜代大名が次々と入れ替わる■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが田中氏の統治も長く続かず、関ヶ原合戦後の1601年(慶長6年)下総国小篠(こざさ)郷(千葉県匝瑳市)から移った本多
縫殿助康俊が2万石を与えられ西尾城主に。田中吉政は筑後国主とされ、柳川(福岡県柳川市)32万石の大大名になった。
本多氏は徳川譜代家臣。徳川政権の成立に伴い、江戸から名古屋へ繋がる東海地域には軒並み徳川譜代の家が封じられ
江戸までの街道を守り、幕府の安泰を図る大名配置が慣例化していくのである。よってこの後、西尾城主の座は目まぐるしく
交代していくが、いずれも徳川家の譜代家臣ばかりが務めている。順を追って示すと、1617年(元和3年)10月に下野国板橋
(栃木県日光市)から同じく2万石を与えられて大給(おぎゅう)松平成重が入封、次いで1621年(元和7年)7月に近江国膳所
(ぜぜ、滋賀県大津市)から3万5000石で本多下総守俊次(康俊の子)が入り申した。その俊次は1636年(寛永13年)6月23日
5万石に加増されて伊勢国亀山(三重県亀山市)へ転封、西尾は幕府天領になり代官として烏山牛之助と鈴木八右衛門が
入った。1638年(寛永15年)4月24日、今度は太田備中守資宗(すけむね)が下野国山川(栃木県足利市)から3万5000石で
新たな西尾城主に任じられている。資宗は入城と同時に西尾城総構の構築に着手。総構は城下町全体を堀で囲うのだが
それだけに大規模な工事で、この作業は彼の代だけでは終わらなかった。結局、1644年(正保元年)2月28日に工事半ばで
資宗は遠江国浜松(静岡県浜松市)へ移封。西尾はまたも天領となり先述の烏山・鈴木両名が代官として西尾城に入った。
翌1645年(正保2年)6月23日、今度は井伊兵部少輔直好が3万5000石を与えられ上野国安中(群馬県安中市)から入封。■
井伊氏の治世時代、1655年(明暦元年)にようやく総構の工事が終了した。1659年(万治2年)1月28日に直好は遠江国掛川
(静岡県掛川市)へ移って、2月3日からは2万石で増山弾正少弼正利が西尾城主になる。1662年(寛文2年)9月、甥に当たる
増山兵部少輔正弥が相続し、その翌年の1663年(寛文3年)7月11日に土井兵庫頭利長が2万3000石で西尾城に入る。■■
以後、しばらくは土井氏が西尾城主を継いでいき、1681年(延宝9年)式部少輔利意(としもと)―1724年(享保9年)淡路守
利庸(としつね)―1734年(享保19年)伊予守利信(としのぶ)が相続している。1747年(延享4年)2月11日、三浦主計頭義理
(よしさと)が三河国刈谷(愛知県刈谷市)から2万3000石で新たな西尾城主となり、1756年(宝暦6年)志摩守明次が継承。■
1764年(明和元年)6月21日、出羽国山形(山形県山形市)から6万石で大給松平和泉守乗佑(のりすけ)が西尾藩主に着任、
こののちは明治維新まで大給松平氏が西尾城主であった。なお、成重と乗佑は同じ大給松平氏ではあるが別家である。■■
1769年(明和6年)乗完(のりさだ)―1793年(寛政5年)乗寛(のりひろ)―1839年(天保10年)乗全(のりやす)と継ぎ、1862年
(文久2年)に相続した乗秩(のりつね)が最後の城主となったのでござる。いずれも官途名は和泉守だ。■■■■■■■■
近世城郭としての縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さてそんな西尾城の縄張りであるが、城域の南西端に方形の本丸を置いて、そこから北東の方向に向かって二ノ丸・北の丸
(小の丸)・三ノ丸が連なる。また、本丸の東側へ出ると姫の丸(中の丸)・東の丸が続く。このうち北の丸と東の丸は地続きで
繋がっており、三ノ丸は両者を覆う形で広がる広大な敷地を有していた。他方、城の西側一帯は水濠を隔ててすべて水田や
沼地となっていて、こちらからの敵兵侵入は難しい。内陸部にある城郭でありながら、矢作川から得られる水利を上手く活用し
さながら水城にも思える防備を展開していたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、西尾城最大の特徴と言えるのが、天守が二ノ丸に築かれていた点であろう。通常の城郭は、戦時の最終防衛拠点と
なる本丸に天守を築くものであるが、西尾城は然に非ず、二ノ丸北西隅に三重櫓形式の天守が置かれていた。城主の居館と
なる御殿もまた同じく二ノ丸に建てられており、本丸は四隅に櫓こそ置いていたものの、内部は八幡社が祀られているのみで
ほぼ空白の敷地だった。名古屋城(愛知県名古屋市中区)や古河城(茨城県古河市)など、本丸を通常的に使用せず二ノ丸を
実質的な本拠とする例は幾つか見られるが、天守まで本丸に置かず二ノ丸に設置するのはかなり珍しい。立地上の制約で
徳島城(徳島県徳島市)等にこの例があるものの、それらはいずれも山城・平山城ゆえに本丸での大規模建築が不可能だと
いう理由なので、平城たる西尾城(つまり地形的制約がない)で二ノ丸に天守を揚げたのは誠に以って不可解至極というべき
ものなのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
明治維新後、西尾城の諸建築物は全て破却された。本丸の八幡社だけが御劔八幡宮として存続している。曲輪を区分けして
いた堀も殆どが埋め立てられ、城域はほぼ消滅。今や周囲は学校・住宅が建並び往時の面影は見るべくも無いが、それでも
中枢部である本丸と二ノ丸の一部だけ奇跡的に残され、西尾市歴史公園となっている。この公園の片隅、本丸と南東側の
水濠を挟んだ位置(旧姫の丸敷地)に1977年(昭和52年)8月、城郭風建築の西尾市資料館が建てられ、内部には故・杉浦
喜之助氏(元西尾市長)から寄付された西尾市内の歴史資料が展示されてござる。この資料館は入館無料。■■■■■■
更には城跡で数次に渡る発掘調査が行われ、二ノ丸や東の丸の跡から中世西尾城(西条城時代)の遺構と見られる堀跡や
丸馬出しの痕跡が検出された。近世西尾城には丸馬出しが存在しない事から、田中吉政や太田資宗による城郭拡張工事が
どのように行われ、城が変化していったかが窺えたようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
徐々に再生していく西尾城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした発掘調査の結果を踏まえて史跡整備事業に着手した西尾市は、1996年(平成8年)に本丸丑寅櫓(写真)と、二ノ丸
大手門に相当する鍮石(ちゅうじゃく)門の再建を行った。いずれの建物も正確な指図が残っていないために推定復元だが、
本格木造再建なので好感が持てる。丑寅櫓は3重3階で高さ約10m。1階と2階は同大の3間2尺四方、3階は2間2尺四方の
面積で作られている。本丸にあった他の3つの櫓は全て2重櫓だったが、この櫓だけは3重であったのが特徴である。本丸の
丑寅(北東隅)は二ノ丸に続く通路と姫の丸に続く通路の両方を監視する位置なので、防備の観点から3重櫓になったものと
思われる。本丸部分の石垣は殆んどが明治維新後に崩されてしまっていたが、八幡社を存続させる目的からか丑寅櫓の
基台部分だけは手付かずのまま残されたため再建が可能だった。この櫓台石垣は高さが約6m。櫓の再建工事に先立って
行われた調査によれば、櫓の直下にある上層石垣は櫓の重さを直接支える構造になっているものの、裾野になる下層の
石垣は単に傾斜面に石を貼り付けたような乱雑な構造なので、石垣としての強度を保つ目的で築かれてはいなかったようだ。
堀底から石垣が立ち上がっているように「見せる」目的で、櫓をより一層高く思わせる視覚効果を演出していたのである。■■
一方、鍮石門は間口4間半、高さ2丈2尺5寸の楼門式城門。往時は大手門・新門に次ぐ規模を誇っており、古くは玄関前門や
中柵門と呼ばれていた。鍮石門と呼称されるようになったのは大給松平氏入封以後で、藩主の御殿があった二ノ丸の玄関で
あるこの門を飾り立てるため真鍮の装飾が施されたからではないかと考えられているが、それを確認する史料は残らない
ので、詳細はよく分からない。ともあれ、木造建築で復元された櫓や門が建つ事で西尾城址は江戸時代の威容を取り戻した
感がある。さらに二ノ丸跡地には1995年(平成7年)3月に京都から移築された旧近衛家邸宅があって歴史公園としての趣を
深くしている。さながらかつての藩主御殿が生まれ変わったようでもあり、西尾城址は見物するに“飽きない”場所。■■■■
更に更に、2020年(令和2年)6月26日には二の丸丑寅櫓と土塀の復元工事も完了し、城址の新たな見どころになっている。■
土塀は往時の折邪(おれひずみ、鉄砲射撃用に出窓のような折れ曲がった構造)も備えており、近世城郭と言えど戦闘面に
配慮していた状況を再現していて分かり易い。このように、西尾城は日々進化を続けていて将来的には天守再建の動きも
あるらしく、今後も注目したい城跡の一つでござるな。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は市指定史跡。別名で鶴城。他に鶴ヶ城・錦丘城など。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
|