2015年2月 敵半地オフ
旅行期間:2015年2月28日(土)
主な滞在地
2月28日(土):
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須藤家・河村城跡・丸山城址公園・田代城址・三増峠古戦場
津久井城址・谷村陣屋跡・谷村城跡・勝山城址
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ある日の事。城友の某氏と軽く出かけるでオフ会を。
特に「ここ!」と行き先を決めた訳でも無く、何となく成り行きで進路を考える感じだったのですが
とりあえず、某氏から行ってみたいとリクエストされた場所があったので
まずはそこへと直行。少々分かりにくい場所、しかもあんまり馴染みのない道だったのですが
それでも無事に辿り着いたのがここ、神奈川県道77号線の傍にある―――一般のお宅 ?!

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須藤家の門
須藤さんと言う普通のお宅の門。
え、何で見ず知らずの方の家に用があるの?と言う感じですが
城関係となれば超絶的な知識をお持ちの某氏曰く
この門…いや、この門の「扉」が、小田原城二ノ丸の
幸田口(こうだぐち)門から移設したものだそうで。
ほえー、よくそんな細かい事まで知ってるなぁ!(驚愕)
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廃城で小田原城の建物が取り壊される際(明治初期の話ね)
当時の須藤家御当主・須藤米三郎さんが扉を買い取って、自宅の門に使ったという話です。
昔は由緒ある建物の部材(それどころか建物丸ごとと言う例も)を買い受け自分のものにするのは
「ウチはこんだけのモノを買い取れるんだゼ」と言う感じで、一種のステイタスの証になる事でした。
(ボロい古材を使い回す貧乏くさい事、っていうワケじゃないのね)
豪農だった須藤家は、しかも門扉をバラす事なくそのまま筏に載せて小田原の浜から海を渡り
周囲の村人が総出でここまで運んだんだとか。つまり、それだけの人を動かせる財力があったんですね。スゲー!
普通の家の玄関口で写真を撮るのもどうかとは思ったんですが、一応その場には
中井町教育委員会が設置した来歴看板も立っていたので、まぁ一般的に周知されているものなんだろう…と。
騒いだり荒らしたりはせず、もちろん敷地内には入らず、外側から静かに撮影だけさせて頂き、そそくさと退散しました (^ ^;
で、次は?と言うと全くのノープラン(爆)
まぁ神奈川県の西部まで来たので、ここから一番近くて有名な城跡は?と考えれば
必然的にここへ向かう事になりまして、246(国道246号線)を通って山北町へ…

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神奈川県史跡 河村城址
神奈川県内の山城としては屈指の遺構を残す河村城。
当時、某氏はまだ来た事が無いとのお話でしたので
満を持して(?)お誘いしました。堀底に仕切り土手を作る
畝堀(うねぼり)が見事…のみならず、偶然にもこの日は
雨上がりだった事もあって、畝の中に水が溜まっていて
畝堀に貯水機能があった事が実証されていました!
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河村城主郭からの眺め
河村城の主郭からはこんな眺めが。
赤い鉄橋は東名高速。この道の向こうに繋がるのは静岡県、つまり駿河国。
その奥にある山の彼方には山梨県、すなわち甲斐国が。
河村城は相模の西域を守る要衝だったと言う事が
風景から感じ取れる、そんな冬の一日です。
それにしても…山が花粉で赤いぞ (T_T)
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河村城では城を真っ二つに分けるような大きな堀切があるのですけれど
城址整備で、その堀切を迂回した巨大なダム堤のような歩道が作られたばかり。
堀切を塞ぐコンクリ堤防が出来た事で、城マニアからは非難囂々だったんですけど
個人的には、堀切を眺められる形で安全な道を確保するのだから
むしろこの形が正解なんじゃない?と、そんな話を色々と…。
その堀切から先、城域の東半分はまだそれほど整備されていなかった頃のお話です。
もっとも、オイラが初めて河村城へ来た頃には殆んど整備の手も入っていなかったから
それに比べれば全然良くなっていたんですけどねwww
さて、246沿いで新たに整備された城がもう一つあったので、次はそこへ行ってみる事に。
丸山城址公園からの眺め
糟屋城、或いは糟屋館と呼ぶのが本来の名前だと思うのですが
公園として整備されたのは丸山城址公園ですので、とりあえずその名で。
246で分断されているんですが、国道の北が城で南が館?なのかも。
兎にも角にも、公園となったエリアは綺麗に整えられ、僅かながらも
土塁や切岸も保存されているんですが、その切岸から北を眺めると
おや?何やら巨大なコンクリートの塊がいくつも並べられている…。
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実はこれ、建設途中の新東名高速道路。厚木南ICから西へ延び、伊勢原JCTに繋がる直前の部分です。
工事現場の向こうには東名高速のガードも見えますよね。
コンクリの塊は橋脚で、この上に橋状の道路が乗っかる予定です。
以前、長篠城へ行った時にも山の向こうに新東名が作られている様子を垣間見ましたが
こちらはもっと手近な所で工事をやっていて、定点観測でもしていたら面白そうな感じでした。
現在ではもう完成しているので、ぜひ今の姿とこの写真を見比べてみて下さい。
河村城→丸山城と、西から東へ戻って来るコースを辿って来たので、ここからは北へ転じます。
丹沢山塊に沿って走って来ましたから、そのまま山に沿って進む訳です。
田代城址
現在は中学校の敷地となっている場所が田代城址。
校庭の淵にこの案内板が立っているのですが、
こうして見れば、城の切岸…のようにも見えます(笑)
まぁ、実際にはもう少し山の中が本来の城跡だと思いますが
こうして看板があるだけでも、歴史の現場だと感じられます。
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三増(みませ)合戦城跡石碑
田代城址の案内板からちょっと離れた所(直線距離で700m程)に
広場があって、その中にこの石碑があります。これ、何と読むかと言うと
「みませ」合戦場。向こうにある山を越える峠が三増峠で、戦国時代
その峠を抜けて甲斐へ帰還しようとした武田信玄の軍勢を、小田原の
後北条氏が追撃し、このあたりで大乱戦になった、という戦いの跡。
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田代城があり、そして三増の合戦史跡と、この近辺は後北条氏と武田氏がバチバチに争った緊迫の現場。
戦国最強の大名と謳われる武田信玄が、それまで同盟を組んでいた後北条氏と決裂し小田原城へちょっかいを出し
国へ引き上げると見せかけて、追撃してきた後北条の軍勢を返り討ちにして黙らせた…と言う戦いなんですけれど
実は武田軍の中でも有力武将が何人か戦死した激戦で、もう少しタイミングが変われば、或いは何か別の要因が加われば
信玄自身が討死していたかも?しれないと言う混戦だったんですよね、三増合戦って。
神奈川県民としては、後北条推しなので…是非そうあって欲しかったんですがねぇ(個人的感想)
実際、三増峠での戦いというのは全国でも例が無い山岳戦だったそうで
何が起きてもおかしくはない、って事だったのかも。戦国時代だから山だろうと何処だろうと
手あたり次第に戦っていたようなイメージですけど、実際には時と場所を選んで戦っていた訳で
かの武田信玄と言えど、結果的に勝ったとは言え、未経験の戦いで勝つには何かしら秘策が必要だったんじゃ?
三増まで来たから、そのまま北へ進んで次に訪れたのが津久井城跡。
神奈川県で屈指の…と言うか、一番の山城だと思うのですがね。ここまで来たらここを見ないと。
いや、一番の山城だからこそ登るのも結構キツい山なんですが、上まで登れば

手持ちの望遠レンズで、目一杯狙ってみたんですが横浜ランドマークタワーがバッチリ見える!
そこから左に振ってみれば、東京都庁も!!そして霞みつつ東京スカイツリーまで!!!
って事は、相模にあるこの城から武蔵の様子が覗えるし、都庁つまり新宿とは甲州街道を使えば
ほぼ一直線に繋がっている場所なので、それを容易に活用できる立地という事も分かります。
いや、スカイツリーから向こう側(隅田川の対岸)は下総国なんで、房総方面まで見晴らせたって事?
やっぱり城郭って練りに練った場所を選んで作られていたんだなぁ、と実感。
城山ダム
横浜や東京を向いていた立ち位置から後ろを振り返れば大きな湖が。
こちら、津久井湖…その名も城山ダムで堰き止められた人造湖なので
城があった当時は、むしろこちらは谷底だったんですよね。と言う事は
見晴らしが良くて、絶壁で守られた城…そりゃ理想の山城だわwww
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ちなみに、津久井城を守っていたのは内藤氏という国人。相模の人間なので、一応は後北条氏の配下なんだけど
ひと山越えればそこは甲斐、強大な武田家の領国。と言う訳で、実は内藤氏と言うのは武田家にも通じていて
後北条にも武田にも従属する“両属”で家を維持していたそうな。内藤氏の勢力圏、津久井周辺は
武田にとっても後北条にとっても、半分味方で半分敵…つまり“敵半地”と呼ばれる地域に当たるんですが
今日のオフ会は何となくその周りをぐるっと回っているコースですな。
えぇ、もちろん三増合戦で内藤氏はどっち付かずの不参戦。武田信玄が目の前を通り過ぎていくのに
内藤氏は城に閉じこもったまま出てこず、曲がりなりにも後北条家臣にあるまじき振る舞い…。
後北条推しとしては、コイツがまともに働けば―――とも思うのですが、いやむしろこれが信玄の秘策、
内藤氏に内応させ、手出しさせない約束を取り付けていたって所が正解なんだろうなぁ。
ここまで来たんだから、いっそ甲斐まで攻め入ってみようかと思い
津久井の城山を下りた後、一足飛びに都留市へ。郡内地方と呼ばれる都留や大月は小山田氏の領地で
こちらは表向きは武田家臣、しかし独立勢力として動く事もあるクセ者。一応、相模に隣接した土地なので
武田と後北条の“取次ぎ役”ではあるのですが、それって半分通じているって事でもあり
武田側から見て“敵半地”と呼べなくもない勢力なんですわな。都留市役所の目の前(と言うか、もうその敷地)が
かつての谷村(やむら)城や谷村陣屋の跡なんですが、それぞれ石碑が1本立っているだけなので
そこはサクっと見る程度に訪問しました。それにしても、静かで良い町ですね谷村は。

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谷村にて
陣屋の並びにあった公園には、今どき珍しい電話ボックスが。
城下町にちなんで、城っぽい建物。これ、今でもあるのかなぁ?(苦笑)
それにしても、市の中心部なのに誰もいない…本当に静かだ (^ ^;
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わざわざ都留までやって来たのは、石碑を撮るため―――ではなく、むしろ市役所の裏山。
この山が勝山城の跡でして、是非この城を某氏に見せたい!と思ったから。
夕暮れ迫る時間だったので、暗くなるまでに山を登って降りて来なければならないのですが
駐車場に車を入れ、一目散に登城します。実はこの城、戦国期に始まる山城ながら
近世まで使われたので、それに相応しい規模と構造を持っているんです。その一番の遺構が石垣。
以前来た時、土に埋もれた石材がちょっとだけ顔を出していたのでそれを紹介しようと意気込んでやって来たら―――
こんなにハッキリと!!! Σ( ̄□ ̄;
何とこの時、発掘整備されたばかりだったようで、こんなに明瞭に石垣が露出しておりました!
薄っすらと石の断片が見える程度だろうと思っていたので、これは予期せぬ幸い!
これなら、明らかに石垣の跡だと言う事が分かります。いやぁ、何の気なしに訪問しましたが大正解でした (^-^)
そして頂上(本丸)まで登って景色を眺めれば

少しずつ灯かりが点り始めた都留の町の向こうに、頭を見せる富士山さんが。そして後ろ側の風景には
リニアモーターカーの山梨実験線が見えました。都留って、大月から富士吉田へ抜ける街道沿いに
発展した町なんだと、改めて再確認できる眺めですねー。
駆け足であっちこっちの曲輪を見渡して、とりあえず満足できた所で下山開始。
いくら市役所の目の前とは言え、この山は城跡、ナメていたら大怪我しますから
絶対に暗くなる前に駐車場まで戻らねばなりません。名残惜しい城跡で、ふと上を見上げると
夕陽に染まり、オレンジ色の飛行機雲が延びていきました… 
いやぁ、行き当たりばったりでしたが“敵半地”を回るオフ会、良い締めくくりを迎えました。満足満足〜♪ \(^o^)/
◆◇◆ 敵味方 探り探られ 敵半地 いずれにしても 深い味わい ◆◇◆
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