小田原城の“源流”と言える古城館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小田原城の源流と言える古い城館。足柄街道の脇、小田原市城山に所在する浄土宗花岳山月光院城源寺の境内がその跡地と
伝わる。何より、寺の名前が“城の源”である事からも良く分かる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
相模西部の中心都市である小田原に城館が築かれたのは諸説ありハッキリしない。一説には鎌倉時代初期に土肥筑後守遠平
(といとおひら)が館を築いたとの伝承が伝わるものの(小早川氏の館という説もある)確証はなく、通説では室町時代に大森氏が
小田原を含む西相模に封を得た事に始まるとされている。元来、大森氏は鎌倉幕府執権・北条氏の被官で、その本領は駿河国
駿東郡(現在の静岡県御殿場市〜沼津市にかけての一帯)にあった。鎌倉幕府が倒れた後、足利尊氏が新たな幕府を立てるも
政情は安定せず、南北朝が対立する中で北朝つまり足利氏内部でも兄・尊氏と弟・直義(ただよし)の争いも発生、特に東国では
諸勢力が入り乱れた混戦模様になっていく。こうした中で大森氏は実力を開花させ、室町幕府の東国統治機構である鎌倉府に
大きな影響力を与えるようになったのである。時の大森氏当主・安楽斎頼春(よりはる)は伊豆府中の関所を預かるようになると
同時に、箱根権現別当に弟の證実を就任させ、伊豆・箱根地方での交通と信仰を掌握する地位に就く。当時の信仰は現代とは
違って庶民(つまり信者)を動員する事で一大勢力を築く事が可能であり、また東西交通の要衝である箱根の通行権を管掌して
莫大な経済的収入を得るようにもなった。これが大森氏の力をさらに増大させる事になる。■■■■■■■■■■■■■■■
(室町時代の関所は、監視目的である江戸時代の関所と異なり通行料を徴収する為にあった)■■■■■■■■■■■■■
そして1416年(応永23年)鎌倉府の内訌である上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱が起きると、時の鎌倉公方(鎌倉府の長)・足利持氏
(もちうじ)は鎌倉を脱出し箱根山中を経て駿河へと逃げ延びているが、この際に大森頼春・證実兄弟は持氏の逃避行に大きく
尽力。何かと仲違いする足利将軍家(宗家)と鎌倉公方であるが、この時は共同して反乱者の禅秀を討伐したため、大森氏の
活躍は鎌倉公方のみならず将軍家にも認められるようになった。斯くして、乱後の1417年(応永24年)恩賞として信濃守頼春と
伊豆守憲頼(のりより)父子は持氏から西相模の所領も与えられるようになる。これが大森氏が小田原に進出した経緯だ。■■
さて城源寺に話を戻すのだが、寺伝によれば開基は鎌倉時代とされ、開山の道蓮社大誉上人は1325年(正中2年)6月12日に
没したとある。そして花岳城を築いたのは大森信濃守頼顕とされ、この頼顕は頼春の曽祖父である。年代的に考えれば、寺の
開基と築城はほぼ同時期であり、大森氏が西相模を領有する「前」に城が築かれた事になってしまう。これでは順序に矛盾が
生じてしまう訳だが、そこで花岳城がどのようなものだったかを考えてみよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小田原への“足がかり”として食い込んだ館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城源寺があるのは小田原市城山の地。現在の小田原市役所から南南西に500m弱の地点で、周囲には民家が密集。しかし良く
見てみれば、かつての小田原城大外郭(詳細は下記)の北端部から一歩だけ内側に入った場所である。このあたりの大外郭は
自然地形をそのまま活用した部分なので、当時もこうした起伏が囲む位置だった事であろう。特に城源寺の一帯は谷津地形の
窪地にあたり、かつ寺の境内だけが極僅かに隆起した独立丘になってござる。要するに鎌倉武家の方形居館を置くに相応しい
地形であり、駿河に本拠を構える頼顕が鎌倉に出府する道すがらに構えた別宅?という感じで築いた居館だったと推測できる。
つまり花岳城とは、ごく小規模な方形居館だったのだろう。当時この辺りを領したのは、土肥氏や土屋氏と伝わる為、あくまでも
“間借りの館”として目立たぬ館を置いたのかもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし逆に言えば、頼顕が小田原に館を構えたのは、本領である駿東郡から箱根山塊を跨いで反対側のこの地に何かしらの
根拠地を用意し、いずれ勢力拡大の機を見て動こうという魂胆もあったのだろう。鎌倉後期、元寇により全国の武士が疲弊し、
或いは権力闘争で互いを追い落とす事が当然だった時勢である。結果としてそれは鎌倉幕府の倒幕という形になり、室町時代
初期の混迷を利用し、頼顕の野望は曾孫の頼春が成し遂げたという事であろうか?故地である花岳城(館)を用いて大森氏の
西相模統治が開始されたと考える事は何ら不自然ではなく、これを以って花岳城を古小田原城と比定する説がある。一方で、
頼春が1418年(応永25年)に築いたとされる小田原城は、後に後北条氏が奪取・利用する八幡山古郭の城というのが一般的な
説でもあり、なかなか不透明な部分があるのも確かでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、箱根を東西から挟んだ地域を領有する事になった大森氏。箱根と言えば“天下の険”、即ち駿河と相模、東海と関東、
大きく見れば西国と東国の分断線として捉える事が当たり前だが、その箱根をぐるりと取り囲んで一つの勢力圏として考えると
かなり別の見え方になってくる。東海の東端、関東の西端という“隅っこ”であるが故に上級権力者から目の届かない位置にあり
大森氏はこの“隅っこを合わせた”領域で独立勢力として君臨していくのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後に鎌倉公方は衰退、下総国古河(茨城県古河市)に落ちて古河公方と名乗る。空白地となった相模国は上杉氏の領国となり
大森氏はその配下に位置付けられるが、ほぼ国人領主としての自治権力は維持し続けたようだ。その大森氏も、頼春没後には
総領の地位を巡って内紛が起きたが、憲頼とその子・成頼は没落し、代わって信濃守氏頼(うじより、憲頼の兄)が権力を掌握。
氏頼は上杉氏の家宰・太田道灌と並ぶ名将と賞せられ、ここに大森氏は全盛期を迎える。彼は三浦半島の実力者・三浦氏とも
血縁関係を結び相模国内での地位を磐石なものとし、その勢力範囲は現在の平塚市近辺まで及ぶに至ったのでござる。しかし
氏頼の没後、跡を継いだ藤頼(ふじより)の代になると憲頼の残党らが蜂起、支配体制に蔭りが見えるようになってくる。■■■■
北条早雲こと伊勢新九郎盛時(もりとき)が小田原城を奪取するのは、この筑前守藤頼が城主の時である。■■■■■■■■■
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