今川と松平の挟間で■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
野田という地名を他国と区別する為に三河野田城とも称す。根古屋城とも。■■■■■■■■■■■■■■■
兎にも角にも、武田信玄最期の城として有名な城。歴代城主は菅沼氏でござる。菅沼氏は三河東部に一族を
分流させており、野田城の菅沼氏はその名も野田菅沼氏となる訳だが、始祖とされるのは新八郎定則。元来
野田の辺りを治めていたのは富永氏という氏族であるが、これに後嗣が無かった為に田峯(だみね)菅沼氏の
定忠が3男・竹千代を養子に出した。富永家中では格下にあたる田峯菅沼氏からの入嗣に異論も多く、この
家督相続劇は素直に受け入れられなかったようだが、ようやく富永館に入った竹千代は元服して定則となり、
遺恨ある富永姓を廃し新たな菅沼家となる野田菅沼家を立てた訳である。■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして1506年(永正3年)富永館は野田館と転じるが、戦国争乱に対応すべくより堅固な城を新たに構築。■■
これが1508年(永正5年)築城の野田城でござった。築城工事は足かけ8年にも及び、1517年(永正14年)完成と
伝わるが戦国時代の城郭としては異例の長期間工事と言えよう。それもその筈、築城を進めつつ定則は周辺
各地に転戦を重ね、ある時は駿遠の太守・今川氏に従い、またある時は三河の新興勢力・松平清康と呼応した。
清康は徳川家康の祖父である。中小豪族の悲哀であるが定則は巧みな感覚で乱世を乗り切り、次代・定村に
所領を残した。この頃になると今川氏の力は強大なものになり、一方で松平氏は没落。定村は今川家への帰属を
決し、父同様に各地を転戦。1556年(弘治2年)近隣の豪族・奥平氏や田峯菅沼氏が共に尾張織田家の調略で
今川氏に反旗を翻した時も、定村は同調せずむしろ今川の先鋒として戦いに赴いた程だ。しかしこれが仇となり
8月4日の戦いで戦死してしまう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当主の急死に瀕した野田菅沼氏の家督は定村の子・定盈(さだみつ)が相続。相変わらず今川家に従う日々を
過ごしたが、1560年(永禄3年)5月19日に桶狭間合戦で今川義元が討死するや、三河で独立した松平元康への
臣従に切り替えた。元康とは勿論徳川家康の事。後の天下人を見極めるとは、定盈の慧眼たるや大したもので
ある。しかし、その決断は野田城にとっては早すぎるものだったと言えよう。1561年(永禄4年)7月、裏切りを処断
すべく大原肥前守資良(すけよし)を主将とする今川の大軍が野田城を包囲。衆寡敵せず、防戦不能と判断した
定盈は開城したが、それでも徳川への忠節を尽くすべく今川へは復帰せず雌伏する。そして翌1562年(永禄5年)
6月2日、定盈は今川方の城代・稲垣半六郎氏俊が守る野田城に夜襲を掛けこれを落とした。氏俊は戦死、見事
城は定盈の手に復したのである。とは言え、連戦により野田城は荒廃。大掛かりな改修を必要とした為、定盈は
一時的に近隣の大野田城(新城市野田幹徳)へ本拠を移し、野田城の修復工事を行っている。■■■■■■■
武田と徳川の挟間で■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、その後の歴史は周知の通り今川が衰退し徳川の勢力が伸張。三河のみならず遠江も支配下に置かれた。
一方で駿河は武田氏のものとなり、いよいよ武田対徳川の戦いが本格化するのでござる。だがこの時点において
両勢力の差は歴然であり、徳川は武田に押され、遠江が侵食されるのみならず三河へも侵攻を許すようになる。
そして1572年(元亀3年)自らの余命を省みつつ満を持して武田信玄は上洛作戦を開始。12月22日、家康の居城・
浜松城下を余裕の行進で通過すると見せかけ、熟練の技で徳川軍をおびき寄せ痛打を浴びせる三方ヶ原合戦を
展開。これで大敗した家康はそれ以上の継戦が不可能となる。徳川軍を沈黙させた信玄は更に西へ進んで年を
越すが、明けて1573年(元亀4年改元して天正元年)1月に徳川方の拠点であったこの野田城の攻城戦を開始した。
徳川の家伝である軍記「三河物語」では野田城を「藪のうちに小城あり」と記す程であったが、武田軍は城攻めに
1ヶ月をかけ2月まで長引いている。この間、援軍に訪れた設楽越中守貞通(したらさだみち、定盈の娘婿)らと共に
定盈は籠城に徹した。城を包囲した武田軍は3万、籠城側は500の兵力であったと言われる。圧倒的な兵力差、
しかも「藪の小城」ならば力攻めしても良さそうなものだが、信玄はわざわざ金掘衆(金鉱採掘の専門集団)を
呼び寄せ、城内の井戸を切って水源を絶つ作戦を採っている。これでは籠城できなくなり、2月15日に開城して
定盈ら城兵は武田方に捕らわれた。野田城を抜いた事で、いよいよ武田軍は三河横断を進め上洛を果たすかと
思われたが、予想に反して信濃方面への撤収を開始する。そして3月10日に武田・徳川間で捕虜交換が成立、
定盈は帰参を成し遂げたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後に織田信長は、信玄を1ヶ月足止めし落城してもなお徳川への生還を遂げた定盈を楠木正成にも劣らぬ功臣で
あると賞賛したそうだ。しかし武田軍が野田城を落としてからなぜ引き返してしまったかと言えば、信玄が病没
したからである。野田城攻撃で強襲をせず調略に頼ったのも、信玄の病状に鑑みて無理を避けたと見られよう。
あるいは菅沼氏の寝返りを誘い、三河国人衆を手懐ける作戦だったのかもしれない。■■■■■■■■■■■
信玄狙撃伝説■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
いずれにせよ信玄上洛の夢は、この城を最後に消えてしまった訳である。その一方で、野田城の周辺では奇異な
伝承が現在まで語り継がれている。曰く、信玄は暗殺されたと。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田軍に包囲され明日をも知れない野田城では、夜な夜な笛の音が聞こえていた。これに気付いた信玄は毎夜
その調べに耳を傾けるようになったが、ある夜、静寂を破り銃撃の爆音が轟いた。その夜を境に、信玄は姿を
消したのだ。笛に誘われた信玄を狙い定盈の家臣・鳥居三左衛門が城中から鉄砲を放ち見事命中、葬り去ったと
いう伝説である。野田城址では“信玄の狙撃地点”とされる場所が明示され、新城市設楽原歴史資料館には
その狙撃に使われたという火縄銃の銃身が展示されている。信玄は長らく結核を患っていたが、甲斐から長駆
三河まで遠征するほどで、しかも京都を目指していたのだから病状はそれほど切迫せず野田城の攻防で力
尽きるのは不自然…とするのも暗殺説に信憑性を与える一因だ。そうは言っても、野田城の現場に立ってみれば
果たしてここから一撃必中で(しかも夜に)信玄本人に当てる事が可能だとはとても思えないのだが、真偽の程は
どうであろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
定盈が復帰した野田城であるが、1575年(天正3年)武田勝頼によって再び攻められ、大野田城ともども破壊し
尽されたと言う。従前、これは信玄来寇以前である1571年(元亀2年)の事と言われていたが、史料の再評価が
近年行われて長篠合戦の前哨戦と考えられるようになったのでござる。しかし定盈はやはり武田に屈せず、長篠の
戦いでも武功を挙げ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
静かに残る戦国城郭跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年(天正18年)豊臣秀吉の全国統一で徳川家康は関東へ移封。菅沼定盈もそれに従って上野国阿保(あぼ)
1万石へ移る。野田周辺は池田三左衛門輝政の領地になり、この段階で城は廃されて現在は山林と化している。
一部、開発により破壊された部分もあるが空堀・土橋・櫓台・井戸跡などの遺構は明瞭に残り、保存状態は決して
悪くない。1958年(昭和33年)4月1日、新城市指定史跡になってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
城地は豊川の河岸段丘として突き出した小さな半島状地形を利用している。最南端、段丘の突先になる部分が
本丸となり、そこから半島の根元(つまり北西方向)に向かって二郭・三郭・侍屋敷の曲輪が順番に繋がる連郭式の
縄張り。各曲輪間は空堀で分断され三郭の外(大手に当たる位置)には三日月堀を穿っていたと見られる。さらに
半島状地形の北側は桑渕、南側は龍渕と呼ばれる沼で挟まれていた。城内はほぼ平坦で、それに限れば平城と
言えなくも無いが、崖を下って渕の外周部との比高差は最大15m程度あるため段丘を利用した崖端城という事に
なろう。本丸内には大井戸があり、信玄の金掘衆は二郭南側直下の法面から穴を掘り、この井戸を枯らしたと
考えられている。現在では河川改修により桑渕は杉川という小河川(豊川支流)に、龍渕も姿を消してござるが
両端の傾斜地形はそのまま残されている為、城の全体像は容易に把握できよう。なお、龍渕を挟んだ対岸の丘に
曹洞宗龍谷山法性(ほっしょう)寺なる寺があり、そこに信玄狙撃地点が比定されている。そして法性寺の山門は
野田城の城門を移築した物と伝承されており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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