三河国 野田城

野田城跡 空堀・土橋・櫓台

 所在地:愛知県新城市豊島本城・豊島竜谷・豊島外畑

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★☆■■
★☆■■■



今川と松平の挟間で■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
野田という地名を他国と区別する為に三河野田城とも称す。根古屋城とも。■■■■■■■■■■■■■■■
兎にも角にも、武田信玄最期の城として有名な城。歴代城主は菅沼氏でござる。菅沼氏は三河東部に一族を
分流させており、野田城の菅沼氏はその名も野田菅沼氏となる訳だが、始祖とされるのは新八郎定則。元来
野田の辺りを治めていたのは富永氏という氏族であるが、これに後嗣が無かった為に田峯(だみね)菅沼氏の
定忠が3男・竹千代を養子に出した。富永家中では格下にあたる田峯菅沼氏からの入嗣に異論も多く、この
家督相続劇は素直に受け入れられなかったようだが、ようやく富永館に入った竹千代は元服して定則となり、
遺恨ある富永姓を廃し新たな菅沼家となる野田菅沼家を立てた訳である。■■■■■■■■■■■■■■■
斯くして1506年(永正3年)富永館は野田館と転じるが、戦国争乱に対応すべくより堅固な城を新たに構築。■■
これが1508年(永正5年)築城の野田城でござった。築城工事は足かけ8年にも及び、1517年(永正14年)完成と
伝わるが戦国時代の城郭としては異例の長期間工事と言えよう。それもその筈、築城を進めつつ定則は周辺
各地に転戦を重ね、ある時は駿遠の太守・今川氏に従い、またある時は三河の新興勢力・松平清康と呼応した。
清康は徳川家康の祖父である。中小豪族の悲哀であるが定則は巧みな感覚で乱世を乗り切り、次代・定村に
所領を残した。この頃になると今川氏の力は強大なものになり、一方で松平氏は没落。定村は今川家への帰属を
決し、父同様に各地を転戦。1556年(弘治2年)近隣の豪族・奥平氏や田峯菅沼氏が共に尾張織田家の調略で
今川氏に反旗を翻した時も、定村は同調せずむしろ今川の先鋒として戦いに赴いた程だ。しかしこれが仇となり
8月4日の戦いで戦死してしまう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当主の急死に瀕した野田菅沼氏の家督は定村の子・定盈(さだみつ)が相続。相変わらず今川家に従う日々を
過ごしたが、1560年(永禄3年)5月19日に桶狭間合戦で今川義元が討死するや、三河で独立した松平元康への
臣従に切り替えた。元康とは勿論徳川家康の事。後の天下人を見極めるとは、定盈の慧眼たるや大したもので
ある。しかし、その決断は野田城にとっては早すぎるものだったと言えよう。1561年(永禄4年)7月、裏切りを処断
すべく大原肥前守資良(すけよし)を主将とする今川の大軍が野田城を包囲。衆寡敵せず、防戦不能と判断した
定盈は開城したが、それでも徳川への忠節を尽くすべく今川へは復帰せず雌伏する。そして翌1562年(永禄5年)
6月2日、定盈は今川方の城代・稲垣半六郎氏俊が守る野田城に夜襲を掛けこれを落とした。氏俊は戦死、見事
城は定盈の手に復したのである。とは言え、連戦により野田城は荒廃。大掛かりな改修を必要とした為、定盈は
一時的に近隣の大野田城(新城市野田幹徳)へ本拠を移し、野田城の修復工事を行っている。■■■■■■■

武田と徳川の挟間で■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、その後の歴史は周知の通り今川が衰退し徳川の勢力が伸張。三河のみならず遠江も支配下に置かれた。
一方で駿河は武田氏のものとなり、いよいよ武田対徳川の戦いが本格化するのでござる。だがこの時点において
両勢力の差は歴然であり、徳川は武田に押され、遠江が侵食されるのみならず三河へも侵攻を許すようになる。
そして1572年(元亀3年)自らの余命を省みつつ満を持して武田信玄は上洛作戦を開始。12月22日、家康の居城・
浜松城下を余裕の行進で通過すると見せかけ、熟練の技で徳川軍をおびき寄せ痛打を浴びせる三方ヶ原合戦を
展開。これで大敗した家康はそれ以上の継戦が不可能となる。徳川軍を沈黙させた信玄は更に西へ進んで年を
越すが、明けて1573年(元亀4年改元して天正元年)1月に徳川方の拠点であったこの野田城の攻城戦を開始した。
徳川の家伝である軍記「三河物語」では野田城を「藪のうちに小城あり」と記す程であったが、武田軍は城攻めに
1ヶ月をかけ2月まで長引いている。この間、援軍に訪れた設楽越中守貞通(したらさだみち、定盈の娘婿)らと共に
定盈は籠城に徹した。城を包囲した武田軍は3万、籠城側は500の兵力であったと言われる。圧倒的な兵力差、
しかも「藪の小城」ならば力攻めしても良さそうなものだが、信玄はわざわざ金掘衆(金鉱採掘の専門集団)を
呼び寄せ、城内の井戸を切って水源を絶つ作戦を採っている。これでは籠城できなくなり、2月15日に開城して
定盈ら城兵は武田方に捕らわれた。野田城を抜いた事で、いよいよ武田軍は三河横断を進め上洛を果たすかと
思われたが、予想に反して信濃方面への撤収を開始する。そして3月10日に武田・徳川間で捕虜交換が成立、
定盈は帰参を成し遂げたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後に織田信長は、信玄を1ヶ月足止めし落城してもなお徳川への生還を遂げた定盈を楠木正成にも劣らぬ功臣で
あると賞賛したそうだ。しかし武田軍が野田城を落としてからなぜ引き返してしまったかと言えば、信玄が病没
したからである。野田城攻撃で強襲をせず調略に頼ったのも、信玄の病状に鑑みて無理を避けたと見られよう。
あるいは菅沼氏の寝返りを誘い、三河国人衆を手懐ける作戦だったのかもしれない。■■■■■■■■■■■

信玄狙撃伝説■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
いずれにせよ信玄上洛の夢は、この城を最後に消えてしまった訳である。その一方で、野田城の周辺では奇異な
伝承が現在まで語り継がれている。曰く、信玄は暗殺されたと。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
武田軍に包囲され明日をも知れない野田城では、夜な夜な笛の音が聞こえていた。これに気付いた信玄は毎夜
その調べに耳を傾けるようになったが、ある夜、静寂を破り銃撃の爆音が轟いた。その夜を境に、信玄は姿を
消したのだ。笛に誘われた信玄を狙い定盈の家臣・鳥居三左衛門が城中から鉄砲を放ち見事命中、葬り去ったと
いう伝説である。野田城址では“信玄の狙撃地点”とされる場所が明示され、新城市設楽原歴史資料館には
その狙撃に使われたという火縄銃の銃身が展示されている。信玄は長らく結核を患っていたが、甲斐から長駆
三河まで遠征するほどで、しかも京都を目指していたのだから病状はそれほど切迫せず野田城の攻防で力
尽きるのは不自然…とするのも暗殺説に信憑性を与える一因だ。そうは言っても、野田城の現場に立ってみれば
果たしてここから一撃必中で(しかも夜に)信玄本人に当てる事が可能だとはとても思えないのだが、真偽の程は
どうであろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
定盈が復帰した野田城であるが、1575年(天正3年)武田勝頼によって再び攻められ、大野田城ともども破壊し
尽されたと言う。従前、これは信玄来寇以前である1571年(元亀2年)の事と言われていたが、史料の再評価が
近年行われて長篠合戦の前哨戦と考えられるようになったのでござる。しかし定盈はやはり武田に屈せず、長篠の
戦いでも武功を挙げ申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

静かに残る戦国城郭跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1590年(天正18年)豊臣秀吉の全国統一で徳川家康は関東へ移封。菅沼定盈もそれに従って上野国阿保(あぼ)
1万石へ移る。野田周辺は池田三左衛門輝政の領地になり、この段階で城は廃されて現在は山林と化している。
一部、開発により破壊された部分もあるが空堀・土橋・櫓台・井戸跡などの遺構は明瞭に残り、保存状態は決して
悪くない。1958年(昭和33年)4月1日、新城市指定史跡になってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■
城地は豊川の河岸段丘として突き出した小さな半島状地形を利用している。最南端、段丘の突先になる部分が
本丸となり、そこから半島の根元(つまり北西方向)に向かって二郭・三郭・侍屋敷の曲輪が順番に繋がる連郭式の
縄張り。各曲輪間は空堀で分断され三郭の外(大手に当たる位置)には三日月堀を穿っていたと見られる。さらに
半島状地形の北側は桑渕、南側は龍渕と呼ばれる沼で挟まれていた。城内はほぼ平坦で、それに限れば平城と
言えなくも無いが、崖を下って渕の外周部との比高差は最大15m程度あるため段丘を利用した崖端城という事に
なろう。本丸内には大井戸があり、信玄の金掘衆は二郭南側直下の法面から穴を掘り、この井戸を枯らしたと
考えられている。現在では河川改修により桑渕は杉川という小河川(豊川支流)に、龍渕も姿を消してござるが
両端の傾斜地形はそのまま残されている為、城の全体像は容易に把握できよう。なお、龍渕を挟んだ対岸の丘に
曹洞宗龍谷山法性(ほっしょう)寺なる寺があり、そこに信玄狙撃地点が比定されている。そして法性寺の山門は
野田城の城門を移築した物と伝承されており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡

移築された遺構として
法性寺山門(来歴不詳、伝野田城門)







三河国 野田館

野田館跡

 所在地:愛知県新城市

野田入畑・野田薬師堂
野田川原畑・野田貴船・豊島東

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
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平安期以来の在地支配館跡だが■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新城市内、豊川を渡る海倉橋の北岸辺りに写真の案内板が立ち、その周辺一帯が館跡と伝わる。案内板の
概略図から推測するに、如何にも中世の方形居館と言った縄張で、しかも背後を豊川の大河が洗う後堅固な
好立地でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現地案内板の説明を元に解説すると、11世紀の終わり頃に藤原季兼(すえかね)は稲木(いなぎ、新城市内)に
あった依田(よりた)氏を滅ぼし勢力を拡大、千秋(ちあき)氏の祖になった。この季兼、当時の三河国司であった
藤原季綱(すえつな)の兄にあたる者で、季綱から三河国内の領地を譲り受け開拓領主になり額田(ぬかた)郷
(現在の愛知県岡崎市東部)周辺を領有。季兼の子・藤原季範(すえのり)は額田冠者と名乗る程に勢力を増し
熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)の大宮司職も継承する神官になっていく。季範の子である範忠(のりただ)が
その大宮司職を継ぎ中央政界と深く関わりを持つ一方、範忠の次子・清季(きよすえ)が在地豪族としての立場を
深め、ここ千歳野(せんざいの)に居館を築いた。これが野田館である。以後、千秋氏は朝季―朝氏―清氏―
行氏―朝重―範重の6代238年に渡って野田館が用いられた。支流の杉川が豊川に合流する地勢にて、川から
引いた水を巡らせ濠を成し、その内部は土塁で囲われた複数の館が構えられる複雑堅固な構造になっていたと
考えられている。また、水運のみならず信州往還が通る陸路の要衝でもあった事で、周囲に集落が形成されて
繁盛したという。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが南北朝時代になると千秋氏は没落、その支配は終焉を迎えた。代わってこの辺りを押さえる地位に
収まったのが三河富永氏の富永隠岐守直郷でござった。富永氏は遡ると古代大和政権の名族・大伴氏に行き
当り、応天門の変で主犯とされた大納言・伴善男(とものよしお)の末裔とされている。そんな富永氏は源頼朝に
従い鎌倉幕府御家人となり、直郷の代になると足利尊氏から三河国設楽荘の荘司に任じられた。直郷が領した
設楽荘は現在の新城市〜北設楽郡の大半と、三河国の東半分に相当する広大な地域で、富永氏の権力基盤を
支えた為に富永荘と呼ばれる程に隆盛。直郷は野田館に入ってこの所領を統治する一方で、詰めの城として
大野田城を築いて防備を固めた。斯くして富永氏は直郷以降、直兼―高兼―資貞―信資―富資―久兼と7代
175年に及んでいくが、久兼の子・千若丸が夭折したので直系が断絶してしまう。既にこの頃、富永氏の権勢も
衰退し、元来は家臣筋であった筈の田峯菅沼氏が富永荘を横領・侵食するようになっていた。この為、上記の
野田城で記した通り菅沼定則が富永家を掌握するようになるのであった。結果、野田城へと居城が移されて
この野田館は廃絶したと見られてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで余談だが、“額田冠者”藤原季範の娘が由良御前。彼女は源義朝の正室となり、頼朝を産んでいる。
つまり範忠と義朝は義兄弟に当たるのだが、平治の乱において範忠は義朝に与せず、それどころか由良御前が
産んだ義朝の5男・希義(まれよし、頼朝の同母弟)を捕らえて平氏方に差し出している。その千秋氏が頼朝の
御家人であった富永氏に打倒されたと云うのは…何かの因果と言うべきか、それとも単なる偶然か?■■■■







三河国 長篠城

長篠城本丸址

 所在地:愛知県新城市

長篠市場・長篠矢貝津
長篠殿薮・長篠岩代
 (旧 愛知県南設楽郡鳳来町長篠 各所)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★☆■■



「一大銃撃戦」を誘引させた“導火線”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
歴史の通説では戦国合戦形態を一変させたとされる長篠・設楽ヶ原合戦の誘因となった城。■■■■■■■■
1508年、菅沼満成の子・菅沼元成が築城。以後、満成を初代として後裔は長篠菅沼氏となる。菅沼宗家に当る
田峯菅沼氏、作手(つくで、旧愛知県南設楽郡作手村)の古豪・奥平氏と長篠菅沼氏は奥三河の去就を固める
重要な3氏として見做され、山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれるようになるが、この長篠城の歴史と
三方衆の動きは密接に繋がっていくのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長篠菅沼家の成立時期は、駿遠の大大名・今川家の勢力が伸張していた時代である。元成以後、3代・俊則や
4代・元直は今川家に従属していたが、1560年の桶狭間合戦で今川義元が戦死した後は今川支配から脱却する
ようになって、5代・貞景からは徳川家康に与した。そして6代・正貞の頃になると武田信玄の遠江・三河侵攻が
本格化する。1571年、武田方の降誘に乗り、田峯菅沼氏と奥平氏は徳川家から離反。長篠菅沼正貞は、一端
これを拒否するも、武田軍の部将・天野宮内右衛門尉景貫(あまのかげつら)に攻められてしまう。更に、武田
二十四将にも数えられる名将・秋山伯耆守信友が再度の降誘を持ちかけた為、遂に屈し山家三方衆は揃って
武田方に臣従し、徳川家に対する最前線を担う事になった。そうして信玄の西上作戦が開始されるのである。
三方ヶ原の合戦で大敗した家康に信玄を打倒する余力はなく、野田城(上記)も奪われてしまい絶望の際へと
追い込まれた訳だが、その直後に信玄は没してしまい、武田軍の脅威は奇跡的に霧消となったのである。■■
戦国の巨星が堕ちた事を知るや、家康は即座に反撃を開始する。その目標となったのが正貞の守る長篠城で
あった。1573年7月末、徳川軍は長篠城を包囲。信濃へ引き上げた武田軍の救援は期待できず、8月に正貞は
開城して逃亡した。ところが実際には武田軍の後詰が近くまで来ていた為、城を捨てた正貞の行いは武田方に
とって利敵行為と映った。もともと、山家三方衆が武田に就いた際も長篠菅沼家は徳川方に残るつもりだった
事から、武田家中では正貞を内通者と見做し、為に彼は武田領内の小諸城(長野県小諸市)に幽閉され申した。
巨大勢力に挟まれた在地豪族の悲劇であろう。家康は長篠城に城代として五井松平太郎左衛門景忠を入れ、
城の整備拡張を行わせている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

迫る武田勝頼、粘る奥平貞昌、走る鳥居勝商…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、徳川のものとなった長篠城。同時期、信玄の死で早くも武田を見限る者も現れた。三方衆の1家、奥平氏で
ある。信玄の天才的用兵を恐れて武田に与したが、その信玄亡くばもはや武田に従う義理はないと考えた奥平
監物丞貞能(さだよし)・美作守貞昌(後の信昌)父子は再び徳川へ臣従すべく、作手の亀山城を棄てて家康の
下に参じたのだ。喜んだ家康は貞昌に自らの長女・亀姫を娶わせ、一門に列する厚遇ぶり。加えて、奪還した
長篠城を奥平家に与えたのである。一方、武田家に差し出されていた奥平一門の人質は裏切りの代償として
悉く処刑されてしまう。もはや武田家とは相容れない関係になった奥平氏は、家康に絶対的な忠誠を誓うしか
生き延びる道がなくなった訳である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
然るに信玄の跡を継いだ勝頼は、1575年4月に2万(諸説あり)と言われる大軍を発し、翌5月に仇敵・奥平氏の
守る長篠城を包囲した。城に籠もる兵は500程度に過ぎず、圧倒的兵力差では防戦も敵わぬ情勢であったが、
武田に屈する事ができない貞能・貞昌は徹底抗戦を選択。5月8日から武田軍にじりじりと攻め込まれ、外側の
曲輪から順に陥落し、挙句の果てには13日に兵糧蔵までもが焼かれてしまう。もはや継戦の望みは絶たれたと
思われる中、14日の夜に城内の足軽・鳥居強右衛門勝商(すねえもんかつあき)が1人城を脱し、家康と信長に
援軍を求めひた走るのである。15日、岡崎城に到着した強右衛門は家康に面会、信長の軍と併せて一両日中に
長篠へ向かうと告げられる。家康は労をねぎらい、岡崎城での休息を勧めるが吉報をいち早く長篠城へ伝えんと
する彼は固辞して帰路に就いたのである。ところが16日、長篠城まであと僅かという所で武田軍に捕まってしまう。
勝頼の前に引き出され「援軍は来ない」と告げ、城兵を諦めさせよと命じられる強右衛門。城兵らが見守る中、
引きずり出された彼は叫んだ。「あと2〜3日の辛抱、御味方じきに到来!」 ――― 勝頼は激怒し、命令に背いた
強右衛門を城の眼前で磔刑に処してしまう。ところが逆に城方はこれで奮起し、命を賭して城を救わんとした
彼の遺志を無駄にせぬよう、壮絶な防戦を展開する。斯くして家康・信長の援軍が近隣の設楽ヶ原に到着、
城攻めをいったん中止した勝頼は21日、鉄砲隊へ騎馬隊が挑む設楽ヶ原決戦に逸り、大敗を喫したのでござる。
この結果、長篠城は紙一重のところで陥落を免れた。天下無敵を誇った武田騎馬隊を壊滅させる原動力となった
長篠城攻防戦は信長・家康から大きく賞賛される事になり、城を守りきった貞昌は信長から直々に名を与えられ
信昌と改名(信昌の信は信長の信)。家康も褒賞として名刀・大般若長光(だいはんにゃながみつ、現在国宝)を
信昌に与えている。その一方、武田に攻め立てられた長篠城は大きく荒廃。翌1576年(天正4年)信昌は新たに
新城城を近隣の郷ノ原に築き居を移した。これにより長篠城は廃城となった。■■■■■■■■■■■■■■

2つの川に頼った防御構造は百名城の栄誉に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城は豊川上流部、宇連(うれ)川と寒狭(かんさ)川が合流する地点に築かれた。2つの川に挟まれた三角形の
地形を利用、さらに城の中心を矢沢川が流れ東西に二分している構造。最奥の突端部を本丸・野牛曲輪とし、
同心円状に二郭・弾正郭、その外を三郭・服部曲輪が塞ぐ縄張り。言わずもがな、背後を川で守る後ろ堅固の
城でござる。各曲輪の間は空堀・土塁で隔絶させ、しかも横矢が掛かる工夫を凝らしている実戦城郭だ。■■
さらに、城の大手を出た所には伊那街道が走っており、この城は水陸両面で三河と信濃を繋ぐ交通の要衝で
あった事が良く分かる。徳川にとっても武田にとっても、相手を牽制する為に必要不可欠な城郭だった訳だが、
しかし構造的には中世の旧態然としてもので、武田勝頼が城を落とせずに終わったと言うのが、素直には
信じられないものがござる。敢えてゆっくりと攻め、許されざる者・奥平氏を弄るつもりだったのだろうか?■■
それにしては強右衛門を磔刑にしてからも攻城に手間取っている感があり、やはり城兵の粘り勝ちなのか?
信長の鉄砲戦術、武田騎馬隊の真相など、長篠合戦にまつわる話はどれもこれも近年に再考が必要であると
されており、長篠城攻防戦も“伝説”が先走っているのかもしれない。■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、1923年(大正12年)2月1日に鳳来寺鉄道(現在のJR飯田線)が開通する。この線路は長篠城内、本丸と
野牛曲輪の間を分断するように敷設された。さらに宅地開発なども進み、現在では明瞭な保存状態が維持
されているのは本丸とそこに隣接する部分だけである。だが歴史的価値が大きく評価され、1929年(昭和4年)
12月17日に国指定史跡とされ申した。2013年(平成25年)現在、史跡指定面積は3万5506.24uを数える。更に
2006年(平成18年)4月6日、財団法人日本城郭協会選定の日本百名城に入選している。個人的には、遺構の
残り具合は「普通の史跡としては良い」としても「百名城に入る程のモノか?」と懐疑的ではあるのだが… (^ ^;
まぁ、これはあくまで個人的意見という事でwww■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とりあえず、帯曲輪跡にある新城市立長篠城址史跡保存館ではこの城と長篠合戦についての展示が為されて
いるので、ここで資料を調達して見学するのが良うござろう。城だけでなく、設楽ヶ原の合戦場も含めて総合的に
考察する方が、より実情を把握できると思われる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で末広城・扇城など。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・井戸跡・郭群等
城域内は国指定史跡







三河国 天王山陣所

天王山陣所址 「武田勝頼公指揮の地」石碑

 所在地:愛知県新城市八束穂

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
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三河国 徳川家康本陣

徳川家康本陣跡 八剱神社

 所在地:愛知県新城市竹広

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★☆■■■
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現存する遺構

土塁・郭群





三河国 岡崎信康本陣

岡崎信康本陣跡 松尾神社

 所在地:愛知県新城市富永松尾

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★☆■■■
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現存する遺構

土塁・郭群





三河国 織田信長戦時本陣

織田信長戦時本陣跡

 所在地:愛知県新城市牛倉城山・富永上野

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★☆■■■
★★★★



現存する遺構

土塁・郭群





三河国 北畠信雄本陣

北畠信雄本陣跡

 所在地:愛知県新城市矢部上ノ川

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
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現存する遺構

土塁・郭群





三河国 織田信忠本陣

織田信忠本陣跡 野辺神社

 所在地:愛知県新城市富永西田

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★☆■■■
■■■■



現存する遺構

土塁・郭群



設楽ヶ原戦地、各部将の布陣■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1575年5月21日の設楽ヶ原決戦において、武田軍と織田・徳川連合軍は設楽ヶ原平原の中を北から南へと
貫通する連吾(れんご)川を挟んで対峙した。川の西側に連合軍、東側に武田軍が展開し、各軍の部将が
それぞれに陣所を築いて攻撃を行った訳だが、これらの陣所は臨時の占地とは言え、十分に陣城としての
立地と構造を有している。以下、代表的な陣所をいくつか“陣城”同等として紹介したい。■■■■■■■■
現在、設楽ヶ原合戦場の中心地には新城市立設楽原歴史資料館が建てられている。こちらの資料館では
大規模鉄砲戦が行われた事に因んでさまざまな鉄砲が展示されていたり、長篠・設楽ヶ原合戦の歴史的
経緯などが紹介されているが、その北側には小高い丘に市立東郷中こども園と言う保育園が建っている。
このこども園の裏手、連吾川を望む高台一帯が天王山陣所だ。設楽ヶ原合戦の際、ここは武田方の部将・
内藤修理亮昌豊が陣取った。そもそも連吾川の東側は南北に細長い一連の台地になっており、武田勢は
この大きな台地上の各所に陣を置いた状態。その台地上でもひときわ小高い部分が天王山陣所で、眼下に
連吾川と、対岸にあった連合軍陣地が一望できる場所。勝頼は設楽ヶ原における開戦後、ここを訪れて
昌豊と共に武田全軍を指揮したとされてござれば、現在この地には「武田勝頼公指揮の地」石碑が立つ。
写真にある石碑がそれだが、内容的には武田家滅亡に至る説明で、あまり合戦について触れてはいない
ようだが…ともあれ、この場所からは(史実で語られている通りならば)武田の騎馬隊が連合軍の鉄砲で
大敗する様が手に取るように分かる筈だ。この戦況を見て、勝頼が本当に無謀な突撃を繰り返させたとは
思えないので、実は「勝者である織田・徳川に都合の良い史実」が作り上げられたようにも疑いたくなる。
が、武田軍が大敗したのは事実で、天王山陣所の傍には内藤昌豊や横田備中守綱松(武田部将)らの
墓(供養碑)が点在している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

戦列最前線に立った徳川勢■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
天王山陣所から南西に770mほど、東郷中学校の裏にある小高い山が徳川家康本陣跡。連吾川を挟んだ
この山は麓からの比高20mもある急峻な法面で囲まれており、戦時のものとは言えなかなかに難攻不落な
要害地形である。現在ここには八剱神社が鎮座する(写真)が、一直線に登る神社参道が屹立する山を
際立たせており、仮に武田騎馬隊が連吾川を突破したとて、簡単には攻め上がれない環境である事を
証明してござろう。家康本陣跡である弾正山は武田方の天王山よりも急崖になっており、織田・徳川軍が
いち早く築城好所を確保し、自身に有利な戦況を作り上げようとしていた様子が垣間見えよう。■■■■■
八剱神社の更に西500m程の位置にあるのが岡崎三郎信康(徳川信康、家康長男)の陣所。家康陣所との
間には大宮川が流れており、この位置は交戦地である連吾川から更にもう一段の防衛線を隔てた場所と
言う事になろう。松尾山と呼ばれる信康陣所も現在は松尾神社という社が鎮座しており、八剱神社と同様
急峻な坂を登る小山になっている。比高は15mほどだ。自軍の長篠城が攻められ、信長に応援を頼んだ
家康は自ら最前線に立つ事となった訳だが、この時は嫡男とされていた信康を後方に留め置いたのは
仮に自分が戦死しても徳川家を残す配慮だったのか、或いは信長本陣(下記)の直衛に当たらせ信長の
心象を良くしようと考えた政治的意図なのか?しかしその信康は後年、信長の外交圧力で父・家康から
自刃を命じられる運命になるのだから皮肉なものである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

“高見の見物”信長本陣はPAに■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方、信長が陣地を構えたのが茶臼山公園。尾張から遠征してきた信長は局面ごとに陣を置き直したが
この茶臼山が交戦時の本陣となる。茶臼山は他の陣城群とは異なり独立丘陵ではなく、作手山塊の南端で
平野部に突出する舌状台地である。陣所(茶臼山山頂)の標高は143m、麓(直下の谷戸)は93mなので、
比高は50mもある十分な山城だ。その山麓から登ると(登山道はあるので困難ではない)かなりの登り坂で
一筋縄ではいかないが、2012年(平成24年)4月14日に新東名高速道路が開通、茶臼山のすぐ隣に長篠
設楽原PA(下り線)が開業した事で状況は一変した。何と、ほぼ同一の標高に造成されたPAから遊歩道が
通じ、誰でも気軽に信長本陣を訪れる事が可能になったのでござる。もっとも、それほど明瞭な遺構は
存在していないので何も知らずPAから散策に来た観光客にはあまりよく分からんかもしれないが(苦笑)
信長の嫡男・信忠、2男の北畠信雄(のぶかつ)が陣を構えたのは更に後方。まず信雄の陣地だが、新城
東高校から北へ200m程の所にある老人保健施設「サマリヤの丘」(写真の建物)の敷地一帯がそうで、
周囲から僅かに高い台地という地形。この建物の西側には土塁の残欠?と思しき土堤があるが、それが
陣址の構造物なのかは良く分からない。一応、サマリヤの丘の南西側斜面には「北畠信雄本陣地」の
立て看板が置かれているので場所に間違いはないのだろうが、この看板が斜面の中腹にあるので、
上手く写真に収める事が出来ないのが困りもの…比高10m強の緩斜面だが、馬鹿にはできない(爆)
信忠本陣は信雄陣所から北東へ約250m、野辺神社のある舌状台地先端の小丘陵。ここにも神社があり
雰囲気的には家康本陣や信康本陣と似た感じだが、野辺神社は北に長く、更にそれが西へと延びて
信雄本陣の丘陵が延長する根元で連結している地形。つまり、信忠・信雄兄弟の陣所は南に開いた
谷戸を挟んで繋がる馬蹄型の台地となっている訳だ。この丘陵は連合軍部将の各陣地の中で最も
西側、つまり前線から最も離れた位置になっている。ここで陣を構えても参戦部隊とはならず、兄弟は
後詰として待機していたのか?それとも信長が息子可愛さに後ろへ留め置いたか?或いは戦闘能力を
疑われ(一説には信忠は凡将、信雄は愚将とも…)アテにされていなかったのか?■■■■■■■■■
以上、設楽ヶ原決戦における有名武将の陣所を並べてみたが、いずれの陣所も平野部の中に屹立する
丘陵を活用した陣城として構築されている。歴史の教科書で書かれる長篠合戦と言うと、開けた平野部に
武田騎馬隊をおびき出し、連合軍が馬防柵の後ろから鉄砲で一斉に射撃した ――― とのイメージだが、
実際に戦場を見学してみると、全然「開けた平野部」などはなく、至る所に島のように浮かぶ小山が散在し
ここを騎馬隊が我武者羅に突撃したという地形ではない。むしろ山々に各部将が陣取って、“陣地戦”を
繰り広げていた訳で、通説通りの合戦様態だったかどうか再検証が必要であろうと考え直させられる光景が
広がってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







三河国 海老陣屋

海老陣屋址 石垣

 所在地:愛知県新城市海老字正法寺
 (旧 愛知県南設楽郡鳳来町海老字正法寺)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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江戸時代の旗本陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
時は移って江戸時代。設楽郡(当時)海老(えび)の地は1648年(慶安元年)から菅沼定賞(さだよし)が3000石を
以って治めるようになる。不屈の闘士・菅沼定盈の孫が定賞だ。定盈は上野国へ移封された後、2男の志摩守
定仍(さだより)に家督を承継、伊勢国長島(三重県桑名市)2万石へと移された。その定仍には嗣子がなく、弟の
織部正定芳(さだよし、定盈6男)が養子として跡を継いだ。この定芳の5男が定賞でござる。定芳が没し、彼の
嫡男・左近将監定昭(さだあきら)が跡目を継いだ際、定賞にも1100石が分与されたのだが、その定昭が後嗣なく
早世した為、菅沼宗家は改易、一時断絶となる。さりとて、何があろうと決して武田家へなびかず家康に忠義を
尽くした定盈の事績に鑑みて幕府は菅沼家の再興を許可。定昭の弟、定芳2男である摂津守定実(さだざね)が
1万石の大名として取り立てられる事になったのだが、定実は7000石のみを受け交代寄合旗本となり、残りの
3000石を定賞に譲ったのである。これが1648年の事で、定賞以降の家系は旗本海老菅沼氏として明治維新まで
存続してゆく。定賞の入封当時は石田陣屋(新城市内)を置き今泉忠左衛門が代官として統治。定賞の後には
定辰―定好―定賢―定寛―定侯―定敬―賞治と続いた海老菅沼氏の歴史の中、1826年(文政9年)に定敬が
石田村にあった陣屋を海老村正法寺の地に移転させる。こうして築かれたのが海老陣屋である。■■■■■■
元々、ここには佐野入道なる者が居住した館があったと云う。「海老村古屋敷」と称される佐野入道の館は戦国
時代の天文年間(1532年〜1555年)或いは弘治年間(1555年〜1558年)に築かれたとされるが、詳細は不明。
定敬がここに陣屋を建てるにあたり、山吉田村の伊平次・小野村の周蔵・身平橋村の次右衛門が大工に選ばれ
(いずれも菅沼家所領内の村)工事が行われた。また、普請中の仮役所を山形屋金十の屋敷に置いている。
代官は菅谷丹蔵らが勤めた。しかし海老陣屋での統治期間は飢饉が多発した時代であり、百姓の生活は困窮。
これに対し領主である海老菅沼家では打つ手なく、1853年(嘉永6年)遂に百姓騒動が勃発した。領主の苛政に
百姓らは幕府の出先機関である赤坂代官所(愛知県豊川市)へ訴え出んとしたが、これを収めるため菅沼宗家
(定実の後継である新城菅沼家)が動き、新城村の曹洞宗和秀山桃牛(とうぎゅう)寺に参集した領民472人の
事情聴取を行ったとの事。その結果、海老菅沼家は海老陣屋を放棄し統治実務を新城菅沼家へ託し申した。
このため海老陣屋は破却され、その歴史は30年弱と短命に終わったのだった。■■■■■■■■■■■■■■

令和まで残っていた石垣■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
陣屋廃絶後、建物は取り壊されて無くなり石垣だけが残された。場所は海老川に面した河岸段丘上、見晴らしは
非常に良い。鳳来海老郵便局の北北西およそ110m程の位置、稲荷神社の小さな社があってその周辺に陣屋の
石垣遺構(写真)が並んでいた。陣屋敷地は殆どが耕作地になっているものの、こうした石垣が段々畑の土留と
しても転用されて残存しており、なかなかに壮観なものであった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ここまでは良かったのだが ――― 写真の石垣も今はもう無い。陣屋の前には愛知県道32号線、即ちかつての
伊那街道(中馬街道)が南北に走っており、海老の地もその街道宿場町として繁栄していたものだ。元々1つの
海老村であったものが1615年(元和元年)に東海老村と西海老村に分割され、陣屋はその中心として築かれ、
維新後の1878年(明治11年)東西海老村は再び合併し海老村となったのだが、ここに1929年(昭和4年)5月22日
鳳来寺口駅(現在のJR飯田線本長篠駅)から通じる田口鉄道が開通。三河海老駅が開業し、交通の要衝である
事に変わりがない様子を見せた。田口鉄道は後に三河田口駅まで延伸、豊橋鉄道田口線へと転化するのだが
太平洋戦争後は過疎化の波に飲み込まれ、更には度重なる水害の被害を受けて1968年(昭和43年)9月1日に
廃止されてしまう。県道32号線はこの田口線の廃線跡を転用しており、この地域の生活道路となっている。だが
道幅は狭く、予てから改修の必要があった為、令和になってから「長篠東栄線海老バイパス」拡幅工事が進み、
その工事によって陣屋敷地の東面が削り取られており、写真の石垣法面がちょうど工事区域の境界線となって
いたのだ。石垣が残されるのか、それとも壊されてしまうのか…結果として石垣は撤去され、海老陣屋は見事な
遺構を失ってしまった。現状で残るのは畑の土留に転用された断片的な石組みのみ。実に惜しい話である。■■



現存する遺構

石垣・郭群等







三河国 田峯城

田峯城 復元諸建築

 所在地:愛知県北設楽郡設楽町田峯字城

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★☆■■



険阻な山間地の“街道監視哨”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新城市との境界線から僅かに設楽町側へ入った地点、断崖上から豊川の渓谷を見下ろす山の上に築かれた
山城が田峯城。山裾、川に面した部分は険峻な崖で切り立っているが、山の上は比較的なだらかな「高原」の
雰囲気があり、集落も含めて城郭を構成していたようだ。勿論、城の主郭部は集落よりも更に一段高い山と
なっているので、容易に攻め寄せる事はできない。東側に豊川、西側に栗島川が流れ、その2つの川が城山の
南で合流しており、3方を川に囲まれた地形はまさに築城好地と言えよう。現在、豊川沿いには国道257号線が
走っているものの、当時の道は城山の尾根伝いを通っていたらしく、この城は河川交通を見下しながら街道は
直接封鎖できる、奥三河の要地だった訳でござる。この豊川、往時の寒狭川を下れば長篠城へと至り、上流へ
遡れば三信国境に到達。つまり、武田軍が徳川家を攻める為の攻略路を中継する地点がこの地点なのだ。
標高383mを数える山頂を削平し主郭(本丸)とし、そこから斜面を数段の段曲輪に造成し、大手口の前には
しっかりと堀を削り込んで主要部の独立性を確保した縄張り。集落と主郭の比高は20m程、城の敷地は東西
約220m×南北およそ150mの楕円形をした小山で、地方領主の城としては手頃な大きさであろう。とは言え、
田峯の集落そのものが山上集落であり、そこから豊川の河畔まで下れば比高160mを越えるので、この城は
集落に近づく事自体が困難な地形に守られていると見るべきであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■
言うまでも無く、田峯城は田峯菅沼氏の城でござる。その起源は1470年(文明2年)菅沼定信が築城した事が
創始と云う。源氏の名門・土岐氏の流れを汲む土岐定直が三河国額田郡菅沼郷(愛知県新城市作手菅沼)に
移住した事で菅沼定直を名乗るようになったのが菅沼氏の興りとされ、そこから代を重ねて領地を拡張しつつ
諸家を枝分けして定信の代に至るようだ。この刑部少輔定信の孫に当たるのが、冒頭に記した野田城の項で
登場する新八郎定則である。話を戻すと、定信の後は大膳亮定忠―大膳亮定広(定則の兄)―大膳亮定継と
田峯菅沼氏は続くが、当然、この地域の国人らは周辺大名の動向に振り回される状況にあった。田峯菅沼4代
定継は1556年、亀山城(愛知県新城市)主の奥平監物貞勝(定継の妹婿)に加担して駿河今川家と敵対する。
この時期、尾張の織田上総介信長が今川家と対抗しており、そちらへ靡いた結果だ。しかし田峯菅沼の家中は
これに反し、今川家へと与した。その為、孤立した定継の目論見は破れて自害に追い込まれる。田峯城も攻め
落とされ、そこから逃れようとした定継の遺児・小法師は捕らえられた。如何に田峯城が険阻な山の上にあった
とて、家中の叛乱とあっては占拠されるのも当然の事だろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

不運の将・田峯菅沼定忠■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
結局、田峯菅沼家中は今川家に臣従する形で平定され、幼い小法師はそうした家臣らに担がれる形で跡目を
継承し成長する事になる。この小法師が長じたのが悲劇の将・刑部少輔定忠(さだただ、定吉とも)でござる。
父・定継は強大な今川家に圧殺されたが、その直後に桶狭間合戦で今川治部大輔義元が討死、急激に今川は
衰退を始める。岡崎では徳川家康が独立、田峯でもどちらの勢力に就くか再考の時であった。当初、定忠は
家康から所領安堵を受けていたが、後に甲斐の武田信玄が迫って来ると家臣らに諭されてそちらへ鞍替え。
三方ヶ原の戦いや野田城攻略において、武田方として田峯菅沼勢は出陣している。然るに信玄が没した後、
勝頼にも従った定忠は長篠の戦いに参戦。結果は御存知の通り、武田軍の大敗に終わり、僅かな供回りのみ
連れた勝頼は領国・甲斐へと逃げ戻る羽目になる。この時に随身したのが定忠で、落ち延びる主君をせめて
自身の城でもてなそうとして田峯城へと向かったのだが、留守を預かっていた家老の今泉孫右衛門道善や、
一族の菅沼弥三右衛門定直らはいち早く武田の凋落を感じ取り入城を拒否した。彼らの寝返りに身の危険を
感じた勝頼と定忠は慌てて田峯城下から離脱、更に武節(ぶせつ)城(愛知県豊田市)までの逃避行を余儀なく
される。勝頼の眼前で家臣の離反に遭った定忠は面目丸潰れ、それどころか危うく討たれそうになった怨みは
骨髄に達し、復讐の念に燃えた彼は逃亡先の信濃から報復の軍を率いて翌1576年7月14日、早朝に田峯城を
急襲した。老若男女問わず、城内に居た者96名を撫斬りにし、特に雪辱の矛先である今泉道善と菅沼定直は
生け捕りにした挙句に鋸挽きの刑に処して屈辱を晴らしたのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが、長い目で見れば道善や定直の選択が正しかったと言うもの。1582年(天正10年)武田家が滅亡した事で
その後の定忠の去就には諸説あり、徳川軍と戦って戦死したとか、はたまた捕らえられ、降伏を認められずに
道善や定直の如く刑死したとか…。家臣に従って武田に与したのに家臣に裏切られ、一念を以って意趣返しを
果たしたかと思えばそれが裏目に出て徳川へ帰参が許されず、遂に露と消えた定忠。考えてみれば田峯城を
締め出されたとしても機を見て道善や定直に通じて取り成しを願えば徳川の支配下で生き延びられたか、更に
言えば勝頼を田峯城で歓待すると見せかけて首を取っていれば、信長や家康から大金星を讃えられたかも?
いや、落ち征く主君の寝首を掻くようでは(後の小山田出羽守信茂のように)却って信長から切腹を命じられる
可能性もあったかと思うが、何れにせよ、父の非業の死から自身の落命まで、不幸の星の下に産まれたとしか
言えない人物だ。ならば道善や定直を首挽に出来ただけまだマシなのかもしれないが、兎にも角にも激変の
1582年を以って田峯城も廃城になったと考えられている。また、豊臣政権下において三河を治めた池田輝政の
家臣・土井弥八郎がその後も使い続けたとする説もあるのだが、少なくとも江戸時代に入る迄には用いられなく
なった事だろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
定忠の死没によって田峯菅沼氏は滅亡し、菅沼宗家の地位は定盈の系譜である野田菅沼氏、江戸時代には
新城菅沼氏という形で引き継がれる。但し、田峯菅沼氏は定忠に殺された定直の子(諸説あり)・小大膳定利に
よって再興された。武田を見限って徳川へ靡こうとした定直に報いんとした因果であろうか?■■■■■■■

“城興しの公園”となった田峯城址■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて現在の田峯城には、往時の主殿(居館)や物見櫓、門などが再現され建てられている。これは発掘調査や
文献史料に基づくものではなく、あくまでも“雰囲気を表現した”建物に過ぎず、確たる裏付けがあるものでは
ござらぬ。確かに、主殿の中には畳が敷かれ(恐らく戦国期の居館は板張りのみ)贅沢に過ぎる感があるし、
内装の飾り金具などは平安様式の物としか思えない部材があると思うのだが、さりとてこれは武家の主殿が
平安時代の寝殿造り居館を源流とした物と解釈した上での建築である事を理由としているので、是認すべきで
あろう。何より、下手な模擬天守を挙げるでもなく、丁寧な木造再現であるため(写真)それほど違和感はない。
主殿の大きさは梁間6間×桁行8間、色代(式台)付き板葺入母屋造り。上段の間・下段の間はそれぞれ18畳、
公卿の間が6畳、鑓の間が12畳、廊下も畳敷で4畳という内部構成。2畳の上々段の間には床の間と付書院も。
板張りではなく畳敷にしたおかげで地域の集会所としても活用でき、そういう意味では“実用的な摸擬建築”と
なっている。大手口から主殿を見上げれば、なかなかに風格のある建物でもあり写真映えする感じだ。摸擬
建築(「復元建築」とは言えない引け目かw)による城興しを標榜して、城址は「田峯歴史の里」と称している。
まぁ、そのおかげで“入城料”を払わねば入れない有料施設になっているのだが… (- -;■■■■■■■■
別名は田嶺城・田峰城・蛇頭(じゃずが)城・龍ノ城など様々。蛇行する寒狭川の頭上に鎮座する城の姿を模し
蛇頭城とか龍ノ城といった雅称が付けられたらしい。1968年(昭和43年)2月1日、設楽町史跡に指定された。



現存する遺構

堀・土塁・郭群等




奥殿陣屋・岩津城  幸田町内諸城館