相模国 荻野山中陣屋

荻野山中陣屋址 山中城址石碑

所在地:神奈川県厚木市下荻野

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★■■■■



江戸時代、小田原藩主大久保氏から分家した荻野山中藩の陣屋。
1783年(天明3年)の構築。周囲を水田が広く覆う平坦な耕作地帯の中で、
ごくわずかに隆起している低台地上に築かれた小城でござる。
荻野山中藩の誕生は1698年(元禄11年)の事。江戸幕府成立時、小田原藩主に任じられた
大久保氏は1619年(元和5年)に転封され、小田原城は阿部氏・稲葉氏と主を代え
時に幕領となった事もあったが、1686年(貞享3年)に再び大久保氏が城主に帰り咲いた。
斯くして、10万3000石を以って小田原藩主となった大久保忠朝(ただとも)は
上記した1698年に隠居、嫡男の忠増(ただます)に家督を継がせ
小田原藩11万3000石を相続せしめ、次男の教寛(のりひろ)には
相模国足柄郡・駿河国駿東郡の6000石を分与したのでござった。
教寛によって新たに立てられた大久保氏の分家が荻野山中藩の始まりである。
1706年(宝永3年)には駿河国駿東郡と富士郡に5000石を加増され1万1000石の大名となり
更に1718年(享保3年)、相模国高座郡・大住郡・愛甲郡で5000石を追加され申した。
この頃、藩の屋敷は駿東郡松永村(現在の静岡県沼津市)に構えられていた。
松永村の藩主屋敷は松永陣屋と呼ばれる。
教寛以降、2代・教端(のりまさ)、3代・教起(のりおき)、4代・教倫(のりみち)、
5代・教翅(のりのぶ)、6代・教孝(のりたか)、7代・教義(のりよし)と続く。
この間、教端の時代に3000石を弟に分けたため1万3000石となった。然るのち、
教翅が藩主となった時期の1783年、松永村よりも江戸に近い場所へ陣屋を移す事となり
建築されたのがこの荻野山中陣屋でござる。山中陣屋の敷地面積は約1.5ha、
北から南へと舌状に伸びる低台地の南端に構築され申した。
西・南・東の三方は台地を利用した土塁で周辺と隔絶するようになっていたため
必然的に大手口(正面となる出入口)は北側に用意される事となる。
縄張りの中心に御殿を置き、そのすぐ北側に鎮守となる稲荷社を建立。その稲荷社から
10mほど隔てた陣屋敷地東端の土塁付近には用水となる湧水(しみず)が湧出しており
山中陣屋が水利に恵まれた場所を選んで築かれた事を証明している。
御殿の西側には南北に長く貫く馬場を構え、矢場も併設。武芸の訓練場とした。
とは言え、江戸時代中期〜後期の構築となるこの陣屋はそれほど実戦的な作りではなく
農耕地の一端に構えられた事もあり、石垣などは使用されなかった。
建築以後およそ80年、平穏なままに過ぎた山中陣屋であったが
幕末動乱の時代を迎えた時、事件は訪れた。倒幕運動の一環として、
1867年(慶応3年)12月に倒幕派浪士隊が襲撃をかけ焼き討ちされたのである。
当時、幕府との開戦を狙っていた倒幕派は
江戸周辺で焼き討ち等の狼藉を働いて江戸幕府を挑発。
幕府首脳を怒らせ「幕府軍が先に戦端を開く」という状況に持ち込もうとしていたのだ。
こうして翌1868年(明治元年)に鳥羽・伏見の戦いが勃発、戊辰戦争が開始され
幕府方は「戦争を引き起こした逆賊」の汚名を着せられ、朝敵とされたのでござる。
その結果、幕府が倒れ明治維新となったのはご存知の通りである。
さて、1871年(明治4年)7月の廃藩置県により山中藩領は山中県となり
同年12月の府県再編で足柄県へと合併、さらに神奈川県へと整理される。
この過程で陣屋は民間へと払い下げられ、長きに渡る歴史に幕を下ろしたのでござった。
建物などは全て解体され、往時をうかがわせるものは何も残らないが
土塁や敷地そのものはほとんど手付かずだったため、1970年(昭和45年)7月15日に厚木市の
厚木市の史跡に指定されたのでござる。また、これに先立つ1933年(昭和8年)には
旧荻野村民によって城跡を記念する「山中城址」の石碑(写真)が建立されている。
厚木市中心部から国道412号線の新道を愛甲郡方面へと進むと、「山中城跡」の信号があり
その手前右手にあるのが山中陣屋跡。現在は厚木市が管理する史跡公園になっているが
ほぼ児童公園?のような状態。しかし湧水は健在で今なお滾々と水が噴出し、
稲荷社も建てられて僅かながらにかつての姿を偲ばせてくれる。
なお、7代藩主・教義の長男・忠良(ただよし)は小田原大久保家の養子となり本家を相続、
小田原藩主となっている。そのため、荻野山中大久保家8代当主となったのは
教義の2男・教正(のりまさ)であった。当然、9代・10代当主は
教正の子・孫にあたる教尚(のりひさ)・教道(のりみち)でござる。


現存する遺構

湧水・土塁
城域は市指定史跡








相模国 愛甲城

愛甲城跡 西嶺山円光寺

所在地:神奈川県厚木市愛甲東

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■





相模国 愛甲三郎季隆居館

愛甲三郎季隆居館跡

所在地:神奈川県厚木市愛甲西

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



平安期〜鎌倉期、当地に勢力を築いた愛甲氏、とりわけ愛甲三郎季隆(すえたか)の
居城・居館と伝わる。愛甲氏は武蔵七党の一つ・横山党の流れを汲む一族でござる。
元来、愛甲庄に根ざしていたのは愛甲内記平大夫(あいこうないきたいらのたいふ)なる
人物であったが、領地争いにより横山一族の横山(山口)兼隆がこれを殺害。1113年
(永久元年)3月4日の事である。朝廷は横山党追討の宣旨を下し、相模・上野・上総
下総・常陸5ヶ国の国司ならびに秩父氏・三浦氏・鎌倉氏(鎌倉権五郎景政)らが動く。
ところが横山党は3年に渡って抵抗、しかも源氏棟梁・源為義の配下にあった事もあり
遂に討伐を脱するに至った。これにより旧来の愛甲氏残余は横山党に屈服、横山氏が
愛甲氏の名跡と領地を継承したのだ。この後数十年を経て、山口五郎季兼(すえかね)の3男
三郎季隆が愛甲に入り愛甲姓を称した。なお、季隆の長兄・小太郎義久も愛甲姓となる。
季隆は弓の名手、とりわけ騎射に優れた人物と言われ、源頼朝の直臣に取り立てられた。
儀式の際に弓矢をもって供奉する調度懸(ちょうどがけ)の役を勤め、1180年(治承4年)
12月、鎌倉の頼朝邸が落成した祝いの“弓はじめ”儀式で一番目の射手を任せられた。
この後「吾妻鏡(鎌倉幕府による正式史書)」には、将軍の随兵や神事、狩り、毎年正月の
御弓始めなどに活躍した記録が残る。特に1193年(建久4年)5月の富士巻狩りで
16日、頼朝嫡男の頼家(後の鎌倉幕府2代将軍)が鹿を初めて射止めた際に付き従って
いたのが季隆であったとされる。また、頼朝没後の1205年(元久2年)に起きた畠山
重忠の乱においては、二俣川(神奈川県横浜市旭区)の戦いで武勇の誉れ高い重忠を
見事に射止めており、季隆の武名は一円に轟いたと言う。このように高名な武将であった
季隆の居城・居館であったのが、愛甲城ならびに愛甲館なのでござる。
ところが季隆は館をめぐって頼朝の妻・北条政子との対立が勃発していた。
頼朝存命中の事だが、頼朝の愛妾・丹後局が懐妊し安産祈願の為に
日向(ひなた)薬師(伊勢原市内の古刹)へ詣でた。この時、季隆は丹後局の
案内役として同行していたが、嫉妬に狂った正妻・政子はその行動に怒り、
丹後局への制裁として兵1000騎を派遣、季隆の館を焼き討ちしたのである。
急報を聞いて季隆が館へ戻るも、時既に遅く焼失した後であった。これを怨んだ
季隆は、政子ならびにその実家である北条氏との断絶を決意。北条氏は幕府執権として
勢力を拡大、他氏排斥に動き1213年(建保元年)和田義盛(幕府重鎮)と戦ったが
北条氏への遺恨がある季隆は、当然の如く和田方に味方した。しかし衆寡敵せず、
和田義盛は敗死。季隆ならびに愛甲一族もまた、歴史上から抹殺されたのである。
これにより城館は廃絶したと見られ、以後は史料上に登場しなくなる。
さて、小田急小田原線愛甲石田駅の北東にある臨済宗西嶺山円光寺周辺が愛甲城址、
逆に駅から西へと進み東名高速を跨ぐ陸橋・愛甲橋の傍にある神明神社・甲稲荷あたりが
愛甲館の跡と言われる。神明神社・甲稲荷は、上愛甲公民館の敷地内にある。
諸々の城郭研究書ごとに、城と館が並立していた説を採ったり、
片側だけが比定地でもう一方は誤りだとしている場合があるため
いずれが正しいのかは判然としない。平時の館と戦時の詰城を別々に構えたか、
または1つだけであったのか、という争論は往々にしてどこの居館址でもある話なので
ここで拙速に結論を出す事はできないだろう。真相の程は置いておくとして、
地勢的に円光寺の近辺は台地の端部となっており、確かに鎌倉武士が籠もる
城砦としてはうってつけだ。円光寺の隣、大巖寺(ここも城地に含まれる)との
間には空堀と思しき起伏があり、丘陵部から南側への眺望はそれなりに良い。
何より、円光寺へ至る道はかなりの傾斜角を有する急坂。住宅街の中、まるで絶壁を
登るかのような登坂を強いられるのには驚かされる。城を作る為にあるような地形と
言っても過言ではない。なお、円光寺境内には季隆の墓とされる宝筐印塔がある。
他方、愛甲館の跡地は現在大半が農地化されていて明瞭な遺構は確認できないが
往時は四周を土塁が囲い、瓦なども出土したという。明治の頃までは東〜南〜西を
取り巻く空堀も残っており、この付近は「御屋敷添(おやしきぞえ)」などの地名、
「縁切橋(季隆が北条氏と絶縁した事を由来とする)」といった橋があった。
急ぎ帰った季隆が、政子の手の者によって燃える館を目にしたのが
縁切橋のあたりだったという伝承が残る。また、神明神社の北側にある愛甲山
宝積寺にも季隆の墓とされる五輪塔があり(ここも館の敷地であったという事か?)
その北には玉川なる小河川が天然の濠を形成してござる(だから空堀が北にはない)。
そもそも神明神社の所在地は館の南虎口であったとされ、具体的根拠に乏しい
愛甲城跡(円光寺)よりも城館が存在した信憑性は高かろう。







相模国 波多野城

波多野城址碑

所在地:神奈川県秦野市寺山

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



江戸時代に編纂された地誌書「新編相模国風土記稿」の記載において、
寺山村には平安末期から鎌倉時代における当地の有力武士・波多野氏の城館が
建てられていたとされており、伝承ではそうした館が
この「波多野城址」と呼ばれる場所にあったのではないかと言われ続けてきた。
藤原秀郷の後裔・佐伯経範は、母方の姓を冠して波多野氏と改姓。
これが波多野氏の起こりと言われ、経範を波多野氏の始祖とする説が定着している。
波多野という姓は、即ちこの地域の地名を意味している事から
(恐らくは波多野→秦野と変化)波多野氏は秦野周辺の開発を行い知行とし
相模西部の有力武士へと成長したものと考えられよう。当時の関東武士は
大半が源氏の臣下となっており、波多野一門も同様であった。このため、
経範は源頼義・義家親子に従って奥州安倍氏討伐の軍勢に参加、現在の岩手県にある
黄海(きのみ)の戦いで討死したという。その後も波多野氏は源氏の配下として活躍し
保元・平治の乱では、経範の子孫にあたる波多野義通が源義朝の軍に加わっている。
ところが1180年に源頼朝が伊豆で旗挙げを行った際には、当時の波多野氏当主
義常が頼朝方への参加を拒み、頼朝に敵対する平氏方の武将・大庭景親に与して
石橋山の合戦で頼朝軍を打ち破った。しかし直後に頼朝は軍勢を立て直し
瞬く間に関東地方を掌握したため、義常は松田館(神奈川県足柄上郡松田町)で
自害に追い込まれたのでござった。結局、波多野氏は再び源氏への臣従を誓い
相模国の武士として鎌倉幕府設立に尽力し、有力御家人の一人に数えられるようになる。
この頃の波多野氏が構えた居館を上記のように波多野城と呼び、
寺山の地がその場所だったのではないかと伝えられてきたのでござる。
近隣の東田原には波多野忠綱が鎌倉幕府3代将軍・源実朝の菩提寺となる
金剛寺を開基している事からも、波多野城の存在に信憑性を与えてきた。
こうした伝承に基づき、秦野市教育委員会は1987年(昭和62年)3月から
1990年(平成2年)3月にかけ、この場所を7次に渡って発掘調査を行う。
が、残念な事に武士の居館と思われる痕跡の発見には至らなかった。
しかし、空堀跡と伝えられていた場所からは大量の馬歯が出土、
雨乞いなど古代宗教儀式の祭事が執り行われた場所である事が確認され申した。
こうした古代宗教儀式が行われた所は、古くから集落が成立し
後に領主の城砦へと進化する事例がままあるため、波多野城址が
本当に城館であった可能性は完全には否定できないと考えられる。
とりあえず、現状では写真の通り「波多野城址」の石碑が建てられており
周辺地形は土塁や堀跡ではないか?と思わせる場所が多々あるので
城郭愛好家としては、ここが伝説の波多野城跡である事を願いたいものでござる。
ちなみに、鎌倉幕府御家人となった波多野氏は、鎌倉幕府によって
備前国(現在の岡山県東部)に知行を与えられたため、一部が備前へと移住。
同様に、伯耆国(鳥取県西部)などにも波多野氏は移っている。
これが派生して、室町幕府被官の波多野氏や、丹波(京都府内陸部)国主として
織田信長と戦った丹波波多野一族へと広がったとも言われる。
また、秦野から松田へと領地を広げた分家は松田氏を名乗るようになり
南北朝動乱期に活躍し、これまた備前へと進出し室町幕府重鎮としての地位を得た。
この松田氏は後に室町幕府の命により再び相模国へと戻り、戦国時代になると
小田原後北条氏が台頭するに伴い、その家老職となって一大勢力を築いた。
畿内や中国地方、そして本拠である相模国など、全国各地に
秦野の波多野氏、松田の松田氏は血脈を広げていった訳だが、
その源流となる地こそ、ここ波多野城址だったのかもしれない。







相模国 糟屋城

糟屋城址 高部屋神社

所在地:神奈川県伊勢原市下糟屋

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:★★☆■■



伊勢原市下糟屋、高部屋(たかべや)神社から東海大学病院近辺を敷地とした城館。
別名で糟屋館とも。1933年刊行「延喜式内社高部屋神社小誌」では千鳥ヶ城と称す。
また、この辺りの小字名が明治時代に「殿ノ窪」から「丸山」に変更された経緯から
丸山城と呼ぶ傾向がある。2010年(平成22年)5月1日、
高部屋神社から国道246号線を挟んだ位置に城址公園が開園したが、
この公園の名は丸山城址公園となってござる。
平安末期、糟屋荘の荘官であった糟屋氏の館を起源とする。糟屋氏は藤原北家
良方流の後裔。摂政・藤原良房の弟であった藤原良方、その良方の子・庄大夫元方が
糟屋郷に土着した事で糟屋氏が発生している。元方の後、久季(ひさすえ)・家忠
義忠・光綱・盛久と代を重ねていき、糟屋城(当時は館)を築いたのは盛久の子
藤太左衛門尉有季(ありすえ)の代と見られている。「新編相模国風土記稿」には
「西北の方にて、八幡境内(現在の高部屋神社)より社領の地に係り、東西百余間
南北百十余間、其辺を殿ノ窪と字せり、四面の堀の遺形あり、(中略)
按ずるに、此地有季の居跡とのみ云う」と糟屋館の概説が残っている。
糟屋盛久は石橋山合戦で源頼朝追討の軍を発したが、後に頼朝幕下に加わった人物。
有季も同様に源氏旗下に入り、源義経指揮下で木曽義仲討伐に従軍し
宇治川合戦に参戦している。平氏滅亡後、義経が頼朝から追捕されるようになると
有季は義経の郎党である佐藤忠信・堀景光を捕らえ、さらに頼朝の奥州征伐にも参加。
鎌倉幕府の有力者・比企氏と縁戚関係を結んだ事もあり、鎌倉幕府草創期における
有力御家人の一人に数えられている。しかしこれが裏目に出て、幕府重鎮・北条氏が
政敵排除に動き出すや、1203年(建仁3年)比企能員(ひきよしかず)の乱に巻き込まれ
北条義時の大軍と戦って敗死してしまう。遺された有季の子、有久・有長・久季兄弟は
糟屋の地を棄てて上洛、後鳥羽上皇に仕える道を選んだのでござる。恐らくこれにより
糟屋館は放棄されたと見られる。なお、高部屋神社は元々糟屋館の鎮守として
祀られた社が発展したもの。館は廃絶しても、社だけは現在にまで残った訳である。
この後、1221年(承久3年)に鎌倉幕府と後鳥羽上皇率いる朝廷が武力衝突する
承久の乱が勃発、糟屋兄弟は揃って上皇方に与して幕府軍と戦ったため
いずれも戦死したと伝わる。ここに糟屋氏嫡流は断絶したが、諸流が細々と残り
鎌倉幕府滅亡時、幕府方として参戦した記録が残されている。
さて、鎌倉幕府滅亡後に成立した室町幕府体制において、関東は足利将軍家分流の
鎌倉公方が統治する地となり、その実質的政務は関東管領の職務を代々継承する
上杉家が担うようになる。この上杉家も、本家筋にあたる山内(やまのうち)上杉家と
分家の扇谷(おうぎがやつ)上杉家に分かれており、室町期を通じて勢力の集合離散が
絶えなかった。相模国は大半が扇谷上杉家の領地であり、何より扇谷上杉家の居館が
置かれていたのが、ここ糟屋郷だったのでござる。現在、上杉氏の館と推定される地が
2箇所あり、一つは伊勢原市上糟屋にある伝上杉氏館跡、もう一つがここ、糟屋城である。
伝上杉氏館跡か、糟屋城址か、どちらが扇谷上杉氏の居館であったかの論争は長く続き
現在に至るも決着はついていないが、近年の発掘調査の結果に基づくと、糟屋城址が
やや有力になってきているようである。仮に糟屋城址が上杉氏の本拠であったなら
この城は室町時代前期の相模国守護所であった事になろう。
ところで、扇谷上杉氏が糟屋郷に構えた居館…として最も有名な話題は
太田道灌の謀殺であろう。室町幕府成立から1世紀後、関東は麻の如く乱れ
鎌倉公方転じた古河(こが)公方、幕府から新たに派遣された堀越公方、
山内・扇谷両上杉氏、加えて各地に根付く国人や守護大名らが独自の権益を守り
互いに相争う状況が当たり前になっていたのである。ところがここに、そうした争いを
ことごとく解決する英雄が現れる。扇谷上杉家の家宰であった太田道灌である。
道灌は江戸城や河越(川越)城など、地域拠点となる名城を次々と構えて諸勢力に
睨みを利かせ、いざ戦いとなるや巧みな用兵術で連戦連勝、外交や文化振興にも
才能を開花させる“切れ者中の切れ者”であった。その働きにより関東の秩序は
回復傾向に転じ、主家である扇谷上杉家の名声も上がりつつあった。ところが、
切れ者過ぎる道灌の活躍は嫉みの的にもなり、道灌自身の勢力拡大を恐れた
彼の主人・扇谷上杉定正は、糟屋の館に道灌を呼び出して暗殺したのである。
時に1486年(文明18年)7月26日、道灌享年55歳。最期の断末魔は「当方滅亡」で
あったと言う。その言葉通り、柱石を亡くした扇谷上杉家は斜陽に転じ、道灌没後
急速に勢力を減退させていく。1488年(長享2年)2月5日、山内上杉軍1000騎が
糟屋郷へ来襲、扇谷上杉方は辛くもこの軍を退けるも、折りしも南から
小田原後北条氏が伸張を始めており、扇谷上杉家が領する相模・武蔵の領土は
あっという間に削られていったのでござる。斯くして糟屋城も後北条氏の城となる。
糟屋城は当時の矢倉沢街道や大山道を押さえる交通の要所であり、恐らく後北条時代も
整備・維持されていたと推測できる。1551年(天文20年)後北条氏配下の将
渡辺石見守により高部屋神社が再建された記録があり、さらに1581年(天正9年)
後北条家臣の重鎮・上田能登守長則(武蔵松山城主)が糟屋の禁制を発し
糟屋郷の重要性が少なからず認識されていたと言えよう。なお、「小田原旧記」に
後北条氏の馬廻りとして糟屋藤十郎なる人物の名が残っており、糟屋氏の末裔?
或いは旧跡を継いだ者?と考えられる。平安期以来、戦国時代まで糟屋氏の
名跡は継承され、糟屋城も受け継がれていたのだろう。廃城の時期は不明だが
1590年(天正18年)豊臣秀吉により小田原後北条氏が滅亡した頃と思われる。
以来、約4世紀に渡って城跡は眠りにつき、農地や宅地に転用されていった。
往時の矢倉沢街道は国道246号線となり城地を東西に横切り、西端部には
東海大学病院が建設された。城の東端は普済寺となり、周囲は住宅が建ち並ぶ。
かろうじて残された中央部(畑になっていた)については、1998年(平成10年)
城跡公園建設事業が開始され、用地買収や発掘調査を経た後の2010年に
丸山城址公園として一般開放されている。これに前後して、伊勢原市教育委員会や
財団法人かながわ考古学財団、玉川文化財研究所、開発事業者である独立行政法人
都市再生機構東日本支社などがそれぞれ発掘を行い、数々の痕跡を検出している。
最も初期の発掘は1984年(昭和59年)〜1985年(昭和60年)、以後1987年、
2006年(平成18年)〜2009年(平成21年)と断続的な調査が続けられ、弥生時代から
古墳時代にかけての竪穴式住居痕・土器欠片などをはじめ、奈良〜平安期の須恵器の蓋
土師器坏・甕の破片・管状土錘(かんじょうどすい)、中世(年代特定できず)の
土塁痕・堀跡・掘立柱建物跡、室町時代の陶器・かわらけ・瓦・井戸跡・排水溝痕
土盛(版築遺構)・道路跡・土坑など、あらゆる年代の様々な遺物が出土してござる。
土塁と通路の構成は、曲輪の出入口を屈曲させて虎口を成しており、この場所が
戦国期の城郭であった事を如実に物語っている。そんな中、特に城郭遺構として
注目できるのは堀の遺構で、箱薬研(はこやげん)堀の断面を為し、高部屋神社を
囲う位置の内堀では幅6m、深さ3mの規模があった。一方「大堀」と呼ばれる堀では
幅16m程度、深さ7.5m、堀底に土堤を有する畝堀となっている。これらの堀は
扇谷上杉時代・後北条時代による差異があると考えられるが、何より特筆すべきは
畝の存在であろう。城郭研究における通説では、畝を多用するのは後北条氏の特徴と
されてきたが、近年の再考によりこの説は払拭され、上杉氏による時代から構築され
それを後北条氏が発展改良させたと考えられるようになってきている。糟屋城における
畝堀の検出は、まさにこれを証明するものと言って良さそうであるが、一方で糟屋城の
畝は、畝堀を有する他の城郭(伊豆山中城・中世小田原城・河村城など)とは異なって
不規則に畝が並ぶ形態であるため、城郭研究でさらに一石を投じる結果になりそうだ。
ともあれ、こうした発掘で検出された遺構は再び埋め戻されて埋設保存された。
他方、表土上に残されたごく僅かな遺構としては土塁が見受けられる。丸山城址
公園内の土塁は高さ2mほどある上、高部屋神社の周囲にも散見されてござる。
これらの情報を総合して考えると、糟屋城址の範囲は東西1km×南北400mと
中世城郭としてはかなりの規模を誇る。その内部は、高部屋神社近辺を主郭とし
丸山城址公園が二郭、これらを帯曲輪がいくつか取り囲みつつ東西に外郭が連結する
縄張りだったと考えられる。二郭の西端には横矢掛かりと思しき切欠もある。
規模の大きさ、堀や土塁の活用方法などからみて、ここを室町期
相模守護所の有力候補地とするのも頷けるものであろう。
(上糟屋の比定地では、これほどの発掘結果を出していない)
しかし、従来の説では上糟屋を上杉氏居館とし糟屋城はその出城と見ている為
さらに詳細な検証が必要であろう。なお、糟屋有季時代の城館は
高部屋神社境内を敷地とした方形館であったと考えられている。
ちなみに、丸山城址公園の面積は2.4ha。段状であった糟屋城二郭を模し
雛段状の敷地になっている。総事業費は約22億200万円だそうな。
伊勢原市役所の北東、国道246号線下糟屋信号近辺に高部屋神社・城址公園がある。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等






小机城・茅ヶ崎城  玉縄城関連城砦群