相模国 荻野山中陣屋

荻野山中陣屋址 山中城址石碑

 所在地:神奈川県厚木市下荻野

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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江戸時代中期に作られた、小田原藩の支藩陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸中期、小田原藩(神奈川県小田原市)から分れた支藩・荻野山中藩の陣屋。現地の石碑には「山中城」と表記されている。
1783年(天明3年)の構築。周囲を水田が広く覆う平坦な耕作地帯の中、ごく僅かに隆起している低台地上に築かれた小城。
荻野山中藩の誕生は1698年(元禄11年)の事。江戸幕府の成立時、小田原藩主に任じられた大久保氏は1619年(元和5年)に
転封され、小田原城は阿部氏・稲葉氏と主を代え、時に幕領となった事もあったが、1686年(貞享3年)再び大久保氏が城主に
帰り咲いた。斯くして、10万3000石を以って小田原藩主となった大久保加賀守忠朝(ただとも)は上記した1698年に隠居、嫡男・
加賀守忠増(ただます)に家督を継がせ小田原藩11万3000石を相続せしめ、2男の長門守教寛(のりひろ)には相模国足柄郡・
愛甲郡・高座郡の6000石を分与したのでござった。教寛によって新たに立てられた大久保氏の分家(支藩)が、荻野山中藩の
始まりである。1706年(宝永3年)には駿河国駿東郡と富士郡に5000石を加増されて都合1万1000石の大名となり、更に1718年
(享保3年)相模国高座郡・大住郡・愛甲郡で5000石を追加された。ただし、この頃(藩の成立当初)その屋敷は駿東郡松長村
(現在の静岡県沼津市松長)に構えられていた為、その名は松長藩であった。松長村の藩主屋敷は松長陣屋と言う。■■■
教寛以降、2代・筑後守教端(のりまさ)―3代・長門守教起(のりおき)―4代・長門守教倫(のりみち)―5代・中務大輔教翅
(のりのぶ)―6代・出雲守教孝(のりたか)―7代・中務大輔教義(のりよし)と続く。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この間、教端の時代に3000石を弟の江七兵衛教平(のりひら)に分けたため1万3000石となった。然る後、教翅が藩主となった
時期の1783年、松長村よりも江戸に近い場所へ陣屋を移す事となり建築されたのがこの荻野山中陣屋である。居館と江戸の
距離を縮め、参勤交代にかかる費用を少なくする目的があったと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山中陣屋の敷地面積は約1.5ha、北から南へと舌状に伸びる低台地の南端に構築された。西・南・東の三方は台地を利用した
土塁で周辺と隔絶するようになっていたため、必然的に大手口(正面となる出入口)は北側に用意される事となる。■■■■■
縄張りの中心に御殿を置き、そのすぐ北側に鎮守となる稲荷社を建立。その稲荷社から10mほど隔てた陣屋敷地東端の土塁
付近には用水となる湧水(しみず)が湧出しており、山中陣屋が水利に恵まれた場所を選んで築かれた事を証明している。
御殿の西側には南北に長く貫く馬場を構え、矢場も併設。武芸の訓練場とした。とは言え、江戸時代中期〜後期の構築となる
この陣屋はそれほど実戦的な作りではなく農耕地の一端に構えられた事もあり、石垣などは使用されなかった。■■■■■■

幕末動乱に巻き込まれた、稀有な「実戦経験陣屋」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
創建以後およそ80年、平穏なままに過ぎていた山中陣屋であったが幕末動乱の時代を迎えた時、事件は訪れた。倒幕運動の
一環として、1867年(慶応3年)12月15日に薩摩藩士・鯉渕四郎の率いる倒幕派浪士隊が夜襲をかけ焼き討ちされたのである。
この攻撃で陣屋の役人2名が即日死亡、他2名も数日内に亡くなり、手負いの者も多数出たとか。江戸時代の陣屋は大概が
「統治の為の役所」に過ぎず、実戦を想定しているものは稀であり、ましてや実際に攻撃を受ける例など皆無であったが、ここ
荻野山中陣屋はそのような戦闘を経験する希少な場となってしまった。浪士隊は陣屋を襲撃した後、近隣の豪農に押し入って
“戦費調達”と称して金品を略奪する行為にも及び、山中藩の支配地域では恐慌に陥ったと言う。■■■■■■■■■■■■
当時、幕府との開戦を狙っていた倒幕派は江戸周辺で焼き討ち等の狼藉を働いて江戸幕府を挑発した。幕府首脳を怒らせて
「幕府軍が先に戦端を開く」という状況に持ち込もうとしていたのだ。山中陣屋襲撃もそうした挑発の一つであった。こうして、翌
1868年(明治元年)に鳥羽・伏見の戦いが勃発、戊辰戦争が開始され、幕府方は「戦争を引き起こした逆賊」の汚名を着せられ
朝敵とされたのである。その結果、幕府が倒れ明治維新となったのはご存知の通りでござる。■■■■■■■■■■■■■■
なお、7代藩主・教義の長男・加賀守忠良(ただよし)は小田原大久保家の養子となり本家を相続し、小田原城主となっている。
その為、荻野山中大久保家8代当主となったのは教義の2男・教正(のりまさ)であった。当然、9代・10代当主は教正の子・孫に
あたる教尚(のりひさ)・教道(のりみち)だが、これは廃藩置県より後の話なので蛇足。■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、1871年(明治4年)7月の廃藩置県により山中藩領は山中県となり、同年12月の府県再編で足柄県へと合併、更に1876年
(明治9年)神奈川県へと整理される。この過程で陣屋は民間へと払い下げられ、長きに渡る歴史に幕を下ろしたのであった。
建物などは全て解体され、往時をうかがわせるものは何も残らないが、土塁や敷地そのものはほとんど手付かずだったため、
1970年(昭和45年)7月15日に厚木市の史跡に指定されている。また、これに先立つ1933年(昭和8年)には旧荻野村民により
城跡を記念する「山中城址」の石碑(写真)が建立されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

今も水が湧く「生きている史跡」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
厚木市中心部から国道412号線の新道を愛甲郡方面へと進むと、「山中城跡」の信号があり、その手前右手にあるのが荻野
山中陣屋跡。現在は厚木市が管理する史跡公園になっているが、ほぼ児童公園?の如き状態。とは言え、公園開設に先立ち
発掘調査も行われ、園内には往時の陣屋を表した解説板なども用意されている。公園敷地は陣屋跡のうち3300uに過ぎず、
それ以外の場所には民家が建ち並んでいる状態だが、駐車場もあるので来訪は比較的簡単。ただ、その駐車場へ入るには
国道の「上り車線(愛甲郡から厚木市へ向かう方向)」側からしか入れない(車道に中央分離帯がある為)ので御注意を。■■
移築された遺構としては、厚木市内(王子1丁目)にある曹洞宗堅国山福伝寺の山門が、陣屋裏門を移したものだとの伝承が
ある。柱の太い立派な四脚門で、確かに陣屋にあって良さそうな雰囲気だが、果たしてこの伝承は真実なのか否かは不明。
ちなみに、この山門は1989年(平成元年)に大改修が行われ、屋根が銅板葺きに改められた。陣屋現役当時の姿は、果たして
如何なるものだったのだろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
子供の遊び場になっている山中陣屋跡史跡公園だが、個人的にはお薦めの陣屋跡。陣屋当時からの由緒を引き継ぐ稲荷社が
今も建てられており、整備されたものとは言え曲輪端の切岸から望む高さはかなりの迫力がある。そして湧水は健在で現在なお
滾々と水が噴出し、この場所が“今でも生きている史跡”だと懸命に主張しているかの如くだ。この湧き水を当時の武士も使って
いたのかと言う共有感を追体験して頂きたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

湧水・土塁
城域は市指定史跡

移築された遺構として
福伝寺山門(伝陣屋裏門)








相模国 厚木陣屋

厚木陣屋址碑

 所在地:神奈川県厚木市厚木町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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烏山藩の飛地陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正式な名は烏山藩厚木役所。江戸時代中期、下野国烏山城(栃木県那須烏山市)一帯を治めた烏山藩が相模国に飛地を持つ
事となり、その支配を行う為に築かれた役所でござる。烏山藩の詳しい来歴は烏山城の項を御覧頂くとして、1725年(享保10年)
10月18日、大久保佐渡守常春(つねはる)が2万石で烏山藩主に封じられた処から話を始める。この常春、大久保姓から分かる
ように、こちらも小田原藩主・大久保家の分家である(荻野山中大久保家とは別家)。三河譜代の名門である大久保家ゆえに、
分家と言えど常春は1728年(享保13年)老中に任じられ1万石を加増された。この加増分1万石と言うのが相模国内で用意され、
内訳は鎌倉郡9ヶ村、高座郡13ヶ村、大住郡7ヶ村、愛甲郡10ヶ村の合計39ヶ村であった。後に鎌倉郡の所領で変動があったが
他3郡での領地は明治まで維持される事になる。こうした飛地支配のために愛甲郡厚木村に築かれたのが厚木役所、即ち厚木
陣屋で、恐らくは1729年(享保14年)頃に構築されたと見られている。陣屋には代官の他に役人3名が常駐して年貢徴収や幕府
からの御触れを通達する等の統治実務を担った。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸後期に鎌倉郡渡内(わたうち)村(現在の神奈川県藤沢市渡内)の名主・福原高峰が編纂した地誌「相中留恩記略」の中に
厚木村の図があり、その中に厚木陣屋の概略が描かれている。それに拠れば門と塀に囲まれた敷地の中、草葺の建物が数棟
あり、その場所は天王社の北側で、川縁に面し1艘の船が横付けされる様子となっている。川と言うのは相州第一の大河である
相模川で、天王社があるのは矢倉沢往還(現在の大山街道、神奈川県道40号線に相当)の通過する場所でもあり、陣屋が水陸
両面に利便性を有する所へ置かれた事を指し示す。明治初年に作成された地租改正図には、陣屋跡地が東西約27間(49m)×
南北約14間(25m)、敷地面積およそ1反2畝17歩(約1245u)だったと記される。かなり小規模な陣屋である上、建物も草葺とは
実に貧相であるが、それもその筈、烏山藩は極貧の藩で、あの農政家・二宮尊徳(金次郎)が農村復興事業を行っても財政再建
「できなかった」藩なのだ。半面、厚木村は街道の宿場町にして川湊を有する商都である。相模川は厚木村の先で本流と中津川
(支流)に枝分かれする。相模川本流を遡れば田名・橋本(いずれも神奈川県相模原市緑区)を経て八王子に通じるし、中津川の
上流には半原(神奈川県愛甲郡愛川町)がある。当時の八王子は“桑都(そうと)”として絹織物の一大生産地であり、そこから
橋本へ通じる道は“絹の道”、南関東のシルクロードとして物流の大幹線であった。また、半原も同様に養蚕で有名な町である為
相模川・中津川の合流地点にある厚木湊は(陸路である大山街道とも交換し)大きな収益を上げていた。近代に入っても厚木は
神奈川県央地域の中心都市として捉えられ(近年は海老名にその座を奪われつつあるがw)、国鉄(現JR)の「厚木駅」や海上
自衛隊・米海軍共用の「厚木基地(創始は旧海軍の「厚木飛行場」)」などは厚木市内に存在しないのに、地名の知名度を優先し
「厚木」を名乗っている程だから、往時の繁栄ぶりが窺えよう。本領では大赤字の烏山藩は厚木宿場町からの運上金を目当てに
重税を課していたと伝わり、田原藩家老にして江戸後期の知識人として有名な渡辺崋山の紀行文「游相(ゆうそう)日記」の中で
「政事甚苛刻、人情皆怨怒ヲフクム」と、厚木の町に苛政の怨嗟が満ちていた様子が認められている。もっとも、游相日記には
御用金を課す烏山藩に対して「一挙二千両ヲ出スモ唯厚木ノミ」と、それでも景気良く2000両の金子を供出した厚木の裕福さも
書かれているのだから大したものだ。こうした税務収納を執り行っていたのが、この陣屋でござった。■■■■■■■■■■■

役所としての歴史が終わり、現在は史跡碑が立つのみ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
幕末の1867年、厚木に大火が起こり陣屋も延焼する。建物は再建されるが、程なく明治維新となり幕藩体制は消滅。厚木陣屋は
烏山藩を引き継いだ烏山県の出張役場になるが、すぐに府県統合が行われこの地は足柄県の領域に編入された。よって県庁
機能は不要のものとなり、1872年(明治5年)郷学校の成思館として利用される事に。1878年(明治11年)に学校は西側の敷地へ
移され(これが現在の厚木市立厚木小学校になる)旧陣屋は厚木町役場に転用された。ところが厚木では1884年(明治17年)・
1897年(明治30年)の2度に亘り大火事が発生し、役場はその都度建て直されたが、後に愛甲郡役場となる時代を経て、戦後の
1955年(昭和30年)2月1日、近隣の村と大合併して厚木市が発足、厚木町は廃された。市制施行に伴って旧町役場が市役所に
なるも、1971年(昭和46年)建て替えのため市庁舎が移転、烏山藩領となって以来250年ちかくも行政の本拠であった陣屋跡は
元の空き地に戻ったのである。この後、敷地の大部分はマンションとして再開発される事になったが、それに先立って発掘調査が
1985年(昭和60年)6月に行われ、それによると1867年の火災層の下に建物基礎となる礎石や敷石が見られ、江戸時代後期の
陶磁器類が出土した。また、埋設された直径40cm程の木桶が2つあり、これは陣屋の便所として用いられた遺構と見られる。
江戸後期の厚木役所〜昭和期の厚木町役場まで、連綿と繋がる厚木の中心地として認知された陣屋跡は、1977年(昭和52年)
7月1日に厚木市の史跡に指定されている。ただ、その場所には写真の標柱と記念碑があるのみで遺構らしいものは何も無い。
先に記した県道40号線が相模川を渡る「相模大橋」の直近南側、厚木神社との間にこの記念碑が立つ。ちなみに、厚木神社は
相中留恩記略に描かれた天王社が現代に引き継がれた姿でござる。厚木神社境内にこの石碑がある訳では無いので注意。



現存する遺構

陣屋址は市指定史跡








相模国 愛甲城

愛甲城跡 西嶺山円光寺

 所在地:神奈川県厚木市愛甲東

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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相模国 愛甲三郎季隆居館

愛甲三郎季隆居館跡

 所在地:神奈川県厚木市愛甲西

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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鎌倉武勇の武士・愛甲季隆■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平安期〜鎌倉期、当地に勢力を築いた愛甲氏、とりわけ愛甲三郎季隆(すえたか)の居城・居館と伝わる。■■■■■■■■
愛甲氏は武蔵七党の一つ・横山党の流れを汲む一族でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
元来、愛甲庄に根ざしていたのは愛甲内記平大夫(あいこうないきたいらのたいふ)なる人物だったが、領地争いで横山一族の
横山(山口)兼隆が彼を殺害。1113年(永久元年)3月4日の事である。朝廷は横山党追討の宣旨を下し、相模・上野・上総・下総・
常陸5ヶ国の国司ならびに秩父氏・三浦氏・鎌倉氏(鎌倉権五郎景政)らが動く。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが横山党は3年に渡って抵抗、しかも源氏棟梁・源為義の配下にあった事もあり、遂に討伐を脱するに至った。これにより
旧来の愛甲氏残余は横山党に屈服、横山氏が愛甲氏の名跡と領地を継承したのである。この後、数十年を経て山口五郎季兼
(すえかね)の3男・三郎季隆が愛甲に入り愛甲姓を称した。なお、季隆の長兄・小太郎義久も愛甲姓となる。■■■■■■■■
季隆は弓の名手、とりわけ騎射に優れた人物と言われ、源頼朝の直臣に取り立てられた。儀式の際に弓矢を以って供奉する
調度懸(ちょうどがけ)の役を勤め、1180年(治承4年)12月、鎌倉の頼朝邸が落成した祝いの“弓はじめ”儀式で一番目の射手を
任せられた。この後「吾妻鏡(鎌倉幕府による正式史書)」には、将軍の随兵や神事、狩り、毎年正月の御弓始めなどに活躍した
記録が残る。特に1193年(建久4年)5月の富士巻狩りで16日、頼朝嫡男の頼家(後の鎌倉幕府2代将軍)が鹿を初めて射止めた
際に付き従っていたのが季隆であったとされる。また、頼朝没後の1205年(元久2年)に起きた畠山重忠の乱においては、二俣川
(神奈川県横浜市旭区)の戦いで武勇の誉れ高い畠山次郎重忠を見事に射止めており、季隆の武名は一円に轟いたと言う。
このように高名な武将であった季隆の居城・居館であったのが、愛甲城ならびに愛甲館なのでござる。■■■■■■■■■■■

北条氏との“絶縁”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが季隆は館をめぐって頼朝の妻・北条政子との対立が勃発していた。頼朝存命中の事だが、頼朝の愛妾・丹後局が懐妊し
安産祈願のために日向(ひなた)薬師(伊勢原市内の古刹)へと詣でた。この時に季隆は丹後局の案内役として同行していたが、
嫉妬に狂った正妻・政子はその行動に怒り、丹後局への制裁として兵1000騎を派遣、季隆の館を焼き討ちしたのである。急報を
聞いて季隆が館へ戻るものの、時既に遅く焼失した後であった。これを怨んだ季隆は、政子ならびにその実家である北条氏との
断絶を決意。北条氏は幕府執権として勢力を拡大、他氏排斥に動き1213年(建保元年)和田左衛門尉義盛(幕府重鎮)と戦うが
北条氏への遺恨がある季隆は、当然の如く和田方に味方した。しかし衆寡敵せず、和田義盛は敗死。季隆ならびに愛甲一族も
歴史上から抹殺されたのである。これにより城館は廃絶したと見られ、以後は史料上に登場しなくなる。■■■■■■■■■■
政子が焼き討ちを命じたのは、もしかして和田氏と愛甲氏をまとめて排除する為の布石だった…というのは邪推し過ぎか?■■
なお、政子の執拗な嫌がらせから避難すべく鎌倉を落ち延びた丹後局が逃避行の途上で産んだ子が、後の薩摩島津氏初代と
なる島津左兵衛尉忠久だとの伝承もあるが、その真偽は詳らかで無い。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

現在の城址・居館址は■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、小田急小田原線愛甲石田駅の北東にある臨済宗西嶺山円光寺周辺が愛甲城址、逆に駅から西へと進み東名高速を跨ぐ
陸橋・愛甲橋の傍にある神明神社・甲稲荷付近が愛甲館の跡と言われる。神明神社・甲稲荷は上愛甲公民館の敷地内にある。
諸々の城郭研究書ごとに、城と館が並立していた説を採ったり、片側だけが比定地でもう一方は誤りだとしている場合がある為
いずれが正しいのかは判然としない。平時の館と戦時の詰城を別々に構えたのか、または1つだけであったのか、という論争は
往々にしてどの居館址でもある話なので、ここで拙速に結論を出す事はできないだろう。真相の程は置いておくとして、地勢的に
円光寺の近辺は台地の端部となっており、確かに鎌倉武士が籠もる城砦としてはうってつけだろう。円光寺の隣、曹洞宗中海山
大巖寺(ここも城地に含まれる)との間には空堀と思しき起伏があり、丘陵部から南側への眺望はそれなりに良い。そして何より、
円光寺へ至る道はかなりの傾斜角を有する急坂。住宅街の中、まるで絶壁を登るかの如き登坂を強いられるのには驚かされる。
城を作る為にあるような地形と言っても過言ではない。なお、円光寺境内には季隆の墓とされる宝筐印塔がある。■■■■■■
他方、愛甲館の跡地は現在大半が農地化されていて明瞭な遺構は確認できないが、往時は四周を土塁が囲って、瓦なども出土
したという。明治の頃までは東〜南〜西を取り巻く空堀も残っており、この付近は「御屋敷添(おやしきぞえ)」等の地名で呼ばれ、
「縁切橋(季隆が北条氏と絶縁した事を由来とする)」といった橋もあった。急ぎ帰った季隆が、政子の手の者によって燃える館を
目にしたのが縁切橋のあたりだったという伝承が残る。また、神明神社の北側にある曹洞宗(元々は真言宗)愛甲山宝積寺にも
季隆の墓とされる五輪塔があり(ここも館の敷地であったという事か?)その北には玉川なる小河川が天然の濠を形成している。
また、宝積寺と神明神社の間も河岸段丘の段丘崖で隔絶しており(だから空堀が北には無い)、これが防御の要となっていた
様子が地形から類推できよう。そもそも神明神社の所在地は館の南虎口だったとされ、具体的根拠に乏しい愛甲城跡(円光寺)
よりも城館が存在した信憑性は高かろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







相模国 波多野城

波多野城址碑

 所在地:神奈川県秦野市寺山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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相模の有力武士・波多野氏の城館跡…なのか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代に編纂された地誌書「新編相模国風土記稿」の記載において、寺山村には平安末期から鎌倉時代における当地の
有力武士である波多野(はたの)氏の城館が建てられていたとされており、伝承ではそうした館が「波多野城址」と呼ばれる
この場所にあったのではないかと言われ続けてきた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
藤原秀郷の後裔・佐伯右馬助経範(さえきつねのり)は、母方の姓を冠して波多野と改姓。これが波多野氏の起こりと言われ
経範を波多野氏の始祖とする説が定着している。波多野という姓は、即ちこの地域の名を意味している事から、波多野氏は
秦野(恐らくは波多野→秦野(はだの)と変化)周辺の開発を行い知行とし、相模西部の有力武士団へと成長したものと考え
られよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当時の関東武士は大半が源氏の臣下となっており、波多野一門も同様であった。この為、経範は源頼義・義家親子に従って
奥州安倍氏討伐の軍勢に参加、現在の岩手県一関市にある黄海(きのみ)の戦いで討死したという。以後も波多野氏は源氏
配下として活躍し、保元・平治の乱では経範の子孫にあたる波多野小二郎義通(よしみち)が源義朝の軍に加わっている。
されど1180年に源頼朝が伊豆で旗挙げを行った際には、当時の波多野氏当主・右馬允義常(よしつね)が頼朝方への参加を
拒み、頼朝に敵対する平氏方の武将・大庭三郎景親(おおばかげちか)に与して石橋山の合戦で頼朝軍を打ち破った。しかし
直後に頼朝は軍勢を立て、直し瞬く間に関東地方を掌握したため、義常は松田館(神奈川県足柄上郡松田町)で自害に追い
込まれたのだった。結局、波多野氏は再び源氏への臣従を誓い、相模国の武士として鎌倉幕府設立に尽力し有力御家人の
1人に数えられるようになる。この頃の波多野氏が構えた居館を上記のように波多野城と呼び、寺山の地がその場所だったの
ではないかと伝えられてきたのである。近隣の東田原には波多野中務丞忠綱(ただつな、義常の弟)が鎌倉幕府3代将軍・源
実朝の菩提寺となる臨済宗大聖山金剛寺を開基している事からも、波多野城の存在に信憑性を与えてきた。■■■■■■■

城の痕跡は見えないが、波多野氏や松田氏は全国に伝播■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした伝承に基づき、秦野市教育委員会は1987年(昭和62年)3月から1990年(平成2年)3月にかけ、この場所を7次に渡って
発掘調査を行う。が、残念な事に武士の居館と思われる痕跡の発見には至らなかった。しかし、空堀の跡だと伝えられていた
場所からは大量の馬の歯が出土、雨乞いなど古代宗教儀式の祭事が執り行われた場所である事が確認され申した。こうした
古代祭祀が行われた所は、古くから集落が成立し、後に領主の城砦へと進化する事例がままあるため、波多野城址が本当に
城館であった可能性は完全には否定できないと考えられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とりあえず、現状では写真の通り「波多野城址」の石碑が建てられており、周辺地形には土塁や堀跡ではないか?と思わせる
場所が多々あるので、城郭愛好家としてはここが伝説の波多野城跡である事を願いたいものでござる。■■■■■■■■■
ちなみに、鎌倉幕府御家人となった波多野氏は幕府により備前国(現在の岡山県東部)で知行を与えられた為、一部が備前へ
移住した。同様に、伯耆国(鳥取県西部)等にも波多野氏は移っている。これが派生して、室町幕府被官の波多野氏や、丹波
(京都府内陸部)国主として織田信長と戦った丹波波多野一族へと広がったとも言われる(諸説あり)。また、秦野から松田へと
領地を広げた分家は松田氏を名乗るようになり南北朝動乱期に活躍し、これまた備前へと進出し室町幕府重鎮としての地位を
得た。この松田氏は後に室町幕府の命により再び相模国へと戻り、戦国時代になると小田原後北条氏が台頭するに伴い、その
家老職となって一大勢力を築いている。畿内や中国地方、そして本拠である相模国など、全国各地に秦野の波多野氏、松田の
松田氏は血脈を広げていった訳だが、その源流となる地こそ、ここ波多野城址だったのかもしれない。■■■■■■■■■■
その場所は秦野市立秦野小中学校の西隣。耕地の中に写真の石碑がぽつんと置かれている。駐車場などは無いので注意。







相模国 糟屋城

糟屋城址 高部屋神社

 所在地:神奈川県伊勢原市下糟屋

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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★★☆■■



鎌倉時代の「糟屋氏」の館跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
伊勢原市下糟屋、高部屋(たかべや)神社から東海大学附属病院近辺を敷地とした城館。別名で糟屋館とも。1933年刊行の
「延喜式内社高部屋神社小誌」では千鳥ヶ城と称す。また、この辺りの小字名が明治時代に「殿ノ窪」から「丸山」に変更された
経緯から、丸山城と呼ぶ傾向がある。2010年(平成22年)5月1日、高部屋神社から国道246号線を挟んだ位置に城址公園が
開園したが、この公園の名は丸山城址公園となってござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平安末期、糟屋荘の荘官であった糟屋氏の館を起源とする。糟屋氏は藤原北家良方流の後裔。摂政・藤原良房の弟であった
藤原良方、その良方の子・庄大夫元方が糟屋郷に土着した事で糟屋氏が発生している。元方の後、久季(ひさすえ)―家忠―
義忠―光綱―盛久(代数・人名には諸説あり)と代を重ねていき、糟屋城(当時は館)を築いたのは盛久の子・藤太左衛門尉
有季(ありすえ)の代と見られている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「新編相模国風土記稿」に「西北の方にて、八幡境内(現在の高部屋神社)より社領の地に係り、東西百余間、南北百十余間、
 其辺を殿ノ窪と字せり、四面の堀の遺形あり、(中略)按ずるに、此地有季の居跡とのみ云う」と糟屋館の概説が残っている。
糟屋盛久は石橋山合戦で源頼朝追討の軍を発したが、後に頼朝幕下に加わった人物。有季も同様に源氏旗下に入り、九郎
義経の指揮下で木曽義仲討伐に従軍し、宇治川合戦に参戦している。平氏滅亡後、義経が頼朝から追捕されるようになると
有季は義経の郎党である佐藤四郎兵衛尉忠信・堀弥太郎景光を捕らえ、更に頼朝の奥州征伐にも参加。鎌倉幕府の有力者・
比企氏と縁戚関係を結んだ事もあり、鎌倉幕府草創期における有力御家人の一人に数えられている。だがこれが裏目に出て、
幕府重鎮・北条氏が政敵排除に動き出すや1203年(建仁3年)比企能員(ひきよしかず)の乱に巻き込まれ、北条小四郎義時の
大軍と戦って敗死してしまう。遺された有季の子、左衛門尉有久・乙石左衛門有長・四郎左衛門尉久季の3兄弟は糟屋の地を
棄てて上洛、後鳥羽上皇に仕える道を選んだのである。恐らくこれにより糟屋館は放棄されたと見られる。なお、高部屋神社は
元々糟屋館の鎮守として祀られた社が発展したもの。館は廃絶しても、社だけは現在にまで残った訳でござる。■■■■■■
この後、1221年(承久3年)鎌倉幕府と後鳥羽上皇率いる朝廷が武力衝突する承久の乱が勃発、糟屋兄弟は揃って上皇方に
与して幕府軍と戦った為いずれも戦死したと伝わる。ここに糟屋氏嫡流は断絶したが、諸流が細々と残り、鎌倉幕府滅亡時に
幕府方として参戦した記録が残されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

室町時代には扇谷上杉氏の本拠…「当方滅亡!」はここでの出来事?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、鎌倉幕府滅亡後に成立した室町幕府において、関東は足利将軍家分流の鎌倉公方が統治する地となり、その実質的
政務は関東管領の職務を代々継承する上杉家が担うようになる。この上杉家も、本家筋にあたる山内(やまのうち)上杉家と
分家の扇谷(おうぎがやつ)上杉家に分かれており、室町期を通じて勢力の集合離散が絶えなかった。相模国は大半が扇谷
上杉家の領地であり、その扇谷上杉家の居館が置かれていたのが、ここ糟屋郷だったのでござる。現在、上杉氏の館と推定
される地が2箇所あり、一つは伊勢原市上糟屋にある伝上杉氏館跡、もう一つがここ、糟屋城である。■■■■■■■■■■
伝上杉氏館跡か、糟屋城址か、どちらが扇谷上杉氏の居館であったかの論争は長く続き現在に至るも決着はついていないが
近年の発掘調査の結果に基づくと、糟屋城址がやや有力になってきているようである。仮に糟屋城址が上杉氏の本拠であった
ならば、この城は室町時代前期の相模国守護所であった事になろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところで、扇谷上杉氏が糟屋郷に構えた居館…として最も有名な話題は太田道灌の謀殺であろう。室町幕府成立から1世紀後、
関東は麻の如く乱れ、鎌倉公方が転じた古河(こが)公方、幕府から新たに派遣された堀越公方、山内・扇谷両上杉氏、加えて
各地に根付く国人や守護大名らが独自の権益を守り互いに相争う状況が当り前になっていた。ところがここに、そうした争いを
ことごとく解決する英雄が現れる。扇谷上杉家の家宰であった太田道灌である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
道灌は江戸城(東京都千代田区)や河越(川越)城(埼玉県川越市)など、地域拠点となる名城を次々と構えて諸勢力に睨みを
利かせ、いざ戦いとなるや巧みな用兵術で連戦連勝、外交や文化振興にも才能を開花させる“切れ者中の切れ者”であった。
その働きにより関東の秩序は回復傾向に転じ、主家である扇谷上杉家の名声も上がりつつあった。ところが、切れ者に過ぎる
道灌の活躍は嫉みの的にもなり、道灌自身の勢力拡大を恐れた彼の主人・扇谷上杉修理大夫定正は糟屋の館に道灌を呼び
出して暗殺したのである。時に1486年(文明18年)7月26日、道灌享年55歳。最期の断末魔は「当方滅亡」であったと言う。■■

戦国の終焉と共に廃絶■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その言葉通り、柱石を亡くした扇谷上杉家は斜陽に転じ、道灌没後急速に勢力を減退させていく。1488年(長享2年)2月5日、
山内上杉軍1000騎が糟屋郷へ来襲、扇谷上杉方は辛くもこの軍を退けるも、折りしも南から小田原後北条氏が伸張を始めて
おり、扇谷上杉家が領する相模・武蔵の領土はあっという間に削られていったのである。斯くして糟屋城も後北条氏の城となる。
糟屋城は当時の矢倉沢街道や大山道を押さえる交通の要所であり、恐らく後北条時代も整備・維持されていたと推測できる。
1551年(天文20年)後北条氏配下の将・渡辺石見守により高部屋神社が再建された記録があり、さらに1581年(天正9年)には
後北条家臣の重鎮・上田能登守長則(武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)主)が糟屋の禁制を発していて、糟屋郷の重要性が
少なからず認識されていたと言えよう。なお、後北条家臣団名簿である「小田原旧記」には後北条氏の馬廻りとして糟屋藤十郎
なる人物の名が残っており、糟屋氏の末裔?或いは旧跡を継いだ者?と考えられる。平安時代以来、戦国時代まで糟屋氏の
名跡は継承され、糟屋城も受け継がれていたのだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
糟屋城の廃城時期は不明だが1590年(天正18年)豊臣秀吉により小田原後北条氏が滅亡した頃と思われる。以来、約4世紀に
渡り城跡は眠りにつき、農地や宅地に転用されていった。往時の矢倉沢街道は国道246号線となり城地を東西に横切り、西端
部分には東海大学附属病院が建設されている。城の東端は臨済宗千秋山普済寺となり、周囲は住宅が建ち並ぶ。かろうじて
残された中央部(畑になっていた)については、1998年(平成10年)城跡公園建設事業が開始され、用地買収や発掘調査を経た
後の2010年に丸山城址公園として一般開放された。これに前後して、伊勢原市教育委員会や財団法人かながわ考古学財団、
玉川文化財研究所、開発事業者である独立行政法人都市再生機構東日本支社などがそれぞれ発掘を行って、数々の痕跡を
検出してござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

発掘結果と城址公園開園■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最も初期の発掘は1984年(昭和59年)〜1985年(昭和60年)、以後1987年、2006年(平成18年)〜2009年(平成21年)と断続的
調査が続けられ、弥生時代から古墳時代にかけての竪穴式住居痕・土器欠片などをはじめ、奈良〜平安時代の須恵器の蓋・
土師器坏・甕の破片・管状土錘(かんじょうどすい)、中世(年代特定できず)の土塁痕・堀跡・掘立柱建物跡、室町時代の陶器・
かわらけ・瓦・井戸跡・排水溝痕・土盛(版築遺構)・道路跡・土坑など、あらゆる年代の様々な遺物が出土している。■■■■■
土塁と通路の構成は、曲輪の出入口を屈曲させて虎口を成しており、この場所が戦国時代の城郭であった事を如実に物語る。
そんな中、特に城郭の遺構として注目できるのは堀の遺構で、箱薬研(はこやげん)堀の断面を為し、高部屋神社を囲う位置の
内堀では幅6m×深さ3mの規模があった。一方、「大堀」と呼ばれる堀では幅16m程度×深さ7.5m、堀底に土堤を有する障子堀と
なっている。これらの堀は扇谷上杉時代・後北条時代による差異があると考えられるが、何よりも特筆すべきは堀障子の存在で
あろう。城郭研究における通説では、障子堀を多用するのは後北条氏の特徴とされてきたが、近年の再考によりこの説は払拭
され、上杉氏による時代から構築されそれを後北条氏が発展改良させたと考えられるようになってきている。糟屋城における
障子堀の検出は、まさにこれを証明するものと言って良さそうであるが、一方で糟屋城の堀障子は、障子堀を有する他の城郭
(豆州山中城(静岡県三島市)・中世小田原城・河村城(神奈川県足柄上郡山北町)など)とは異なって不規則に堀障子が並ぶ
形態であるため、城郭研究でさらに一石を投じる結果になりそうだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、こうした発掘で検出された遺構は再び埋め戻され埋設保存された。他方、表土上に残されたごく僅かな遺構としては
土塁が見受けられる。丸山城址公園内の土塁は高さ2mほどある上、高部屋神社の周囲にも散見されている。これらの情報を
総合して考えると、糟屋城址の範囲は東西1km×南北400mと、中世城郭としては相当な規模を誇る。その内部は、高部屋神社
近辺を主郭とし丸山城址公園が二郭、これらを帯曲輪がいくつか取囲みつつ東西に外郭が連結する縄張りだったと考えられる。
二郭の西端には横矢掛かりと思しき切欠もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
規模の大きさ、堀や土塁の活用方法などからみて、ここを室町期相模守護所の有力候補地とするのも頷けるものであろう。■■
(上糟屋の比定地では、これほどの発掘結果を出していない)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし、従来の説では上糟屋を上杉氏居館とし糟屋城はその出城と見ている為、さらに詳細な検証が必要であろう。なお、糟屋
有季時代の城館は高部屋神社境内を敷地とした方形館であったと考えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ちなみに、丸山城址公園の面積は2.4ha。段状であった糟屋城二郭を模し、雛段状の敷地になっている。公園造成の総事業費は
約22億200万円だそうな。伊勢原市役所の北東、国道246号線下糟屋信号近辺に高部屋神社・城址公園がある。城址公園には
10台程度停められる駐車場もあるので車での来訪も簡単。但し、246から直接は乗り入れられず、一旦住宅街の中を回り込んで
駐車場へ入るようになるので御注意を。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等






小机城・茅ヶ崎城  玉縄城関連城砦群