江戸時代中期に作られた、小田原藩の支藩陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸中期、小田原藩(神奈川県小田原市)から分れた支藩・荻野山中藩の陣屋。現地の石碑には「山中城」と表記されている。
1783年(天明3年)の構築。周囲を水田が広く覆う平坦な耕作地帯の中、ごく僅かに隆起している低台地上に築かれた小城。■
荻野山中藩の誕生は1698年(元禄11年)の事。江戸幕府の成立時、小田原藩主に任じられた大久保氏は1619年(元和5年)に
転封され、小田原城は阿部氏・稲葉氏と主を代え、時に幕領となった事もあったが、1686年(貞享3年)再び大久保氏が城主に
帰り咲いた。斯くして、10万3000石を以って小田原藩主となった大久保加賀守忠朝(ただとも)は上記した1698年に隠居、嫡男・
加賀守忠増(ただます)に家督を継がせ小田原藩11万3000石を相続せしめ、2男の長門守教寛(のりひろ)には相模国足柄郡・
愛甲郡・高座郡の6000石を分与したのでござった。教寛によって新たに立てられた大久保氏の分家(支藩)が、荻野山中藩の
始まりである。1706年(宝永3年)には駿河国駿東郡と富士郡に5000石を加増されて都合1万1000石の大名となり、更に1718年
(享保3年)相模国高座郡・大住郡・愛甲郡で5000石を追加された。ただし、この頃(藩の成立当初)その屋敷は駿東郡松長村
(現在の静岡県沼津市松長)に構えられていた為、その名は松長藩であった。松長村の藩主屋敷は松長陣屋と言う。■■■
教寛以降、2代・筑後守教端(のりまさ)―3代・長門守教起(のりおき)―4代・長門守教倫(のりみち)―5代・中務大輔教翅
(のりのぶ)―6代・出雲守教孝(のりたか)―7代・中務大輔教義(のりよし)と続く。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この間、教端の時代に3000石を弟の江七兵衛教平(のりひら)に分けたため1万3000石となった。然る後、教翅が藩主となった
時期の1783年、松長村よりも江戸に近い場所へ陣屋を移す事となり建築されたのがこの荻野山中陣屋である。居館と江戸の
距離を縮め、参勤交代にかかる費用を少なくする目的があったと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山中陣屋の敷地面積は約1.5ha、北から南へと舌状に伸びる低台地の南端に構築された。西・南・東の三方は台地を利用した
土塁で周辺と隔絶するようになっていたため、必然的に大手口(正面となる出入口)は北側に用意される事となる。■■■■■
縄張りの中心に御殿を置き、そのすぐ北側に鎮守となる稲荷社を建立。その稲荷社から10mほど隔てた陣屋敷地東端の土塁
付近には用水となる湧水(しみず)が湧出しており、山中陣屋が水利に恵まれた場所を選んで築かれた事を証明している。■
御殿の西側には南北に長く貫く馬場を構え、矢場も併設。武芸の訓練場とした。とは言え、江戸時代中期〜後期の構築となる
この陣屋はそれほど実戦的な作りではなく農耕地の一端に構えられた事もあり、石垣などは使用されなかった。■■■■■■
幕末動乱に巻き込まれた、稀有な「実戦経験陣屋」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
創建以後およそ80年、平穏なままに過ぎていた山中陣屋であったが幕末動乱の時代を迎えた時、事件は訪れた。倒幕運動の
一環として、1867年(慶応3年)12月15日に薩摩藩士・鯉渕四郎の率いる倒幕派浪士隊が夜襲をかけ焼き討ちされたのである。
この攻撃で陣屋の役人2名が即日死亡、他2名も数日内に亡くなり、手負いの者も多数出たとか。江戸時代の陣屋は大概が
「統治の為の役所」に過ぎず、実戦を想定しているものは稀であり、ましてや実際に攻撃を受ける例など皆無であったが、ここ
荻野山中陣屋はそのような戦闘を経験する希少な場となってしまった。浪士隊は陣屋を襲撃した後、近隣の豪農に押し入って
“戦費調達”と称して金品を略奪する行為にも及び、山中藩の支配地域では恐慌に陥ったと言う。■■■■■■■■■■■■
当時、幕府との開戦を狙っていた倒幕派は江戸周辺で焼き討ち等の狼藉を働いて江戸幕府を挑発した。幕府首脳を怒らせて
「幕府軍が先に戦端を開く」という状況に持ち込もうとしていたのだ。山中陣屋襲撃もそうした挑発の一つであった。こうして、翌
1868年(明治元年)に鳥羽・伏見の戦いが勃発、戊辰戦争が開始され、幕府方は「戦争を引き起こした逆賊」の汚名を着せられ
朝敵とされたのである。その結果、幕府が倒れ明治維新となったのはご存知の通りでござる。■■■■■■■■■■■■■■
なお、7代藩主・教義の長男・加賀守忠良(ただよし)は小田原大久保家の養子となり本家を相続し、小田原城主となっている。
その為、荻野山中大久保家8代当主となったのは教義の2男・教正(のりまさ)であった。当然、9代・10代当主は教正の子・孫に
あたる教尚(のりひさ)・教道(のりみち)だが、これは廃藩置県より後の話なので蛇足。■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、1871年(明治4年)7月の廃藩置県により山中藩領は山中県となり、同年12月の府県再編で足柄県へと合併、更に1876年
(明治9年)神奈川県へと整理される。この過程で陣屋は民間へと払い下げられ、長きに渡る歴史に幕を下ろしたのであった。
建物などは全て解体され、往時をうかがわせるものは何も残らないが、土塁や敷地そのものはほとんど手付かずだったため、
1970年(昭和45年)7月15日に厚木市の史跡に指定されている。また、これに先立つ1933年(昭和8年)には旧荻野村民により
城跡を記念する「山中城址」の石碑(写真)が建立されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
今も水が湧く「生きている史跡」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
厚木市中心部から国道412号線の新道を愛甲郡方面へと進むと、「山中城跡」の信号があり、その手前右手にあるのが荻野
山中陣屋跡。現在は厚木市が管理する史跡公園になっているが、ほぼ児童公園?の如き状態。とは言え、公園開設に先立ち
発掘調査も行われ、園内には往時の陣屋を表した解説板なども用意されている。公園敷地は陣屋跡のうち3300uに過ぎず、
それ以外の場所には民家が建ち並んでいる状態だが、駐車場もあるので来訪は比較的簡単。ただ、その駐車場へ入るには
国道の「上り車線(愛甲郡から厚木市へ向かう方向)」側からしか入れない(車道に中央分離帯がある為)ので御注意を。■■
移築された遺構としては、厚木市内(王子1丁目)にある曹洞宗堅国山福伝寺の山門が、陣屋裏門を移したものだとの伝承が
ある。柱の太い立派な四脚門で、確かに陣屋にあって良さそうな雰囲気だが、果たしてこの伝承は真実なのか否かは不明。■
ちなみに、この山門は1989年(平成元年)に大改修が行われ、屋根が銅板葺きに改められた。陣屋現役当時の姿は、果たして
如何なるものだったのだろうか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
子供の遊び場になっている山中陣屋跡史跡公園だが、個人的にはお薦めの陣屋跡。陣屋当時からの由緒を引き継ぐ稲荷社が
今も建てられており、整備されたものとは言え曲輪端の切岸から望む高さはかなりの迫力がある。そして湧水は健在で現在なお
滾々と水が噴出し、この場所が“今でも生きている史跡”だと懸命に主張しているかの如くだ。この湧き水を当時の武士も使って
いたのかと言う共有感を追体験して頂きたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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