相模国 細野城

細野城跡標識

所在地:神奈川県愛甲郡愛川町半原

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■


現存する遺構

堀・土塁・郭群等



相模国 
田代城

田代城跡標識

所在地:神奈川県愛甲郡愛川町田代

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■


現存する遺構

堀・土塁・郭群等



愛川町役場半原出張所の裏手、国道412号線がカーブを描くあたりが細野城。
神奈川県道54号線が貫通する愛川トンネルの真上、と言うべきか。
細野城の北東側直下には中津川が流れており、その対岸にある山が田代城。
愛川中学校の敷地、ならびにその裏手山林が城跡である。2つの城の距離は
中津川を挟んで直線400m程度しかない。この両城は、甲相駿三国同盟破綻後
甲斐の武田軍が後北条氏の小田原城を襲撃したのち甲府へ引き上げる途中
後北条軍と交戦におよんだ三増(みませ)峠合戦場にほど近い城跡でござる。
永禄年間(1558年〜1570年)後北条氏家臣である内藤下野守秀勝・三郎兵衛秀行
父子が築いた山城とされ申す。内藤氏は半原・田代・隅田(角田)・小曽郷
箕輪下村・坂本・五坊・磯辺(いずれも愛川町周辺の地名)を領し、1557年
(弘治3年)から津久井衆(津久井城(下記)隷下にある後北条氏の軍団)に
配属されていた一族。後北条氏の軍役帳「小田原衆所領役帳」によれば
内藤氏の貫高は上記の所領で137貫となっている。
ここで三増合戦の経緯について記そう。甲斐の武田信玄・相模の北条氏康
駿河の今川義元は、互いに強敵と認め合い3方相互の不可侵同盟を結んでいた。
これがいわゆる甲相駿三国同盟である。富士山を頂点とし、互いの領土を接する
3国は、この同盟により後背地を気にせず各々の敵を攻略する事に専念できた。
信玄は信濃・越後方面、氏康は関東制覇、義元は上洛の途である。
ところが1560年(永禄3年)今川義元は織田信長との戦いで非業の死を遂げた。
有名な桶狭間合戦でござる。義元の後嗣である氏真は文弱の将で、強権の当主を
失った今川家は急激に衰退。三河で松平元康(後の徳川家康)の独立を許し
その侵略に歯止めを掛けられなくなっていく。事ここに至り、もはや今川家が
後ろを任せるに足る同盟者ではないと判断した信玄は、1568年(永禄11年)秋
三国同盟を一方的に破棄して駿河国内への侵略を開始したのである。
弱体化した今川家にこれを阻止する力はなく、もう1人の同盟者である氏康に
救援を依頼。氏康もまた、信玄の独走を止める必要性に駆られてそれを受諾し
武田軍と後北条軍が駿河国内で対峙する構図となったのでござる。
昔日の栄光なき今川軍は恐れるに足らずとも、関東の大大名となっていた
後北条方の存在は危険なものだと考えた信玄は、いったん駿河から撤兵し
氏康との決戦を企図した。1569年(永禄12年)8月24日、本拠地の甲府を進発した
武田軍は、碓氷峠(信濃・上野国境)から関東へ侵入し南下。9月中に関東各地の
後北条方拠点を攻撃しつつ、10月1日に氏康の本城・小田原城を囲んだのである。
ところが小田原は音に聞こえた堅城。後北条軍は小田原防衛に結集しており
さしもの信玄とて容易に攻略できるものではなかった。このまま城攻めを続けても
自軍の兵糧が持たず損耗が増えるだけと観念、籠城戦はわずか3日で終了し
4日、武田軍は甲府への帰還を始めた。ここで退却経路となるのが三増峠である。
後北条軍のうち、戦意旺盛な滝山城主・北条氏照(氏康の2男)らは滝山衆を率い
峠の隘路で武田軍の待ち伏せ攻撃を図る。一方、歴戦の強兵である信玄も
それは察知していた。もともと武田軍は後北条方を叩く為に遠征したのだから
戦いは望むところである。斯くして10月7日、三増峠付近で氏照・信玄軍は会敵し
血で血を洗う激戦が繰り広げられた。開戦当初、地の利に有利な氏照軍が攻勢をかけ
武田方部将・浅利信種が戦死。計画ではここに小田原から氏康の本隊が追撃し
氏照の軍と共同で武田軍を挟撃するはずであった。しかし戦巧者の信玄は
見事な用兵で軍を動かし、氏照軍を翻弄。頼みとした氏康軍も間に合わず、
遂に武田軍は氏照軍を撃破、後北条方に痛烈な一撃を加えて見事甲府へ帰還した。
戦後、氏照は他国への手紙に「惜しくも信玄入道を取り逃がした」と記して
悔しがっている。とは言え、信玄の鮮烈な作戦展開に舌をまいた後北条方は
この戦い以後、武田軍との正面対決を避けるようになった。結果、信玄の目標は
達成され、駿河併合も滞り無く進められる事となったのである。数年の後、
武田氏と後北条氏は再び同盟を結ぶに至ったが、両家にとって重大な転機が
三増合戦だったと言えよう。
この戦いの折、当然ながら近隣にある細野・田代両城も何らかの影響を
受けていただろう。記録には残されていないが、言い伝えでは2つの城とも
武田軍先鋒の攻撃を受け、落城したとされてござる。
細野城は内藤氏戦時の城砦として築かれたと言われ、標高170mの山を縦横に使って
堀や土塁が構えられていた。城の敷地は東西130m×南北240mとの事。
一方、田代城は内藤氏の居館であったようで、山頂には烽火台、山麓部には
館が置かれていて、城域は23300uにおよんだ。このため、田代城の近辺には
「うまや」「仕置場」と言った地名が残っていた。
現在、細野城址には某会社社宅のビルが建ち、かつての堀跡と思しき空間も
国道412号線が通され、遺構らしきものは殆ど見受けられない。山頂から中津川
河畔へと至る傾斜地の中に僅かながら切岸などを発見するのみでござろう。
山麓から山頂へ登る登山道の入口が「木戸口」となっており、この近辺が
最も城址遺構らしい場所?と言えるのではないだろうか。
かつては礎石などもあったそうだが、国道敷設工事で消されてしまった。
田代城も上記の通り居館部が中学校敷地となっており、遺構らしい遺構は殆どない。
案内板によれば、城館の鎮守とされていた八幡社が現在まである上、
石塁も残されているとの事だが、果たして…?
どちらにせよ、これらの城は遺構を楽しむよりも“距離感”を感じる場所だろう。
2つの城の連動、三増主戦場との位置関係、地域拠点である津久井城との連絡に
後北条軍・武田軍が織り成した虚々実々の駆け引き…。こういう城の見方も
時にはアリなのではないだろうか。







相模国 小沢古城

小沢古城跡 諏訪神社

所在地:神奈川県愛甲郡愛川町角田

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■


現存する遺構

堀・土塁・郭群等



相模国 
小沢城

小沢城跡標識

所在地:神奈川県愛甲郡愛川町角田

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■


現存する遺構

堀・土塁・郭群等



小沢は「こさわ」と読み申す。相模川中流域、現在は高田橋が架かる
かつての小沢船渡場を監視する位置にある山城が小沢古城で、現在は山麓に
諏訪神社(写真)や還浄寺がござる。小沢古城から南へ500mほど行った山が小沢城。
これまた、城址からは北側(相模川方面)の展望が開ける立地にござる。
時代的に言うと、名前の通り小沢古城が最初の構築。伝承に拠れば平安時代末期から
鎌倉時代にかけて、八王子に勢力を築いていた横山党(武蔵七党の一つ)のうち
小沢氏がここへ土着、館を築いたものとされている。横山党は小沢氏以外にも
田名氏が相模川の対岸・田名の地(相模原市中央区田名)に、小倉氏がここよりも
相模川上流にあたる小倉(相模原市緑区小倉)に入り勢力を拡大していた。
相模川流域の肥沃な土地を開墾し、河岸丘陵を利用した城郭で守りを固めたのだ。
小沢古城の敷地面積は6800uとされる。現地案内板にある説明では「東方は
断崖をもって相模川にのぞみ、西方は沢の渓流に接し、北方は三栗山の峰に連なり、
南方は展望を良くしていた。館への入口は西方の渓流に橋を架け、そこから
登坂して正門に至ったという」と記載され、なかなかの堅城だった事が窺えよう。
城を築いて後、鎌倉幕府が成立するも1213年(建保元年)小沢氏はじめ横山党は
和田義盛の乱に従って敗戦、没落していく。小沢氏の支配力が弱まった後、
この地の支配は大江氏の手に移るが、さらに室町時代となってから新たに
築かれたのが小沢城とされてござる。小沢城は中津原台地の北東隅突端を用いた
山城で、5700uの敷地を有す。城主は金子掃部助(かもんのすけ)。金子氏は
関東管領(室町体制における関東の統治実務者)上杉氏の家宰・長尾氏の配下に
あった一族だ。この長尾氏の動向が、金子氏の運命を左右する事になる。
時は室町中期、1476年(文明8年)。上杉家家宰を継ぐものと自認していた
長尾景春(かげはる)は、主家である山内(やまのうち)上杉氏当主・上杉
顕定(あきさだ)の裁定により、家宰職を与えられなかった。これに不満を抱いた
景春は、この年の6月に武蔵国鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)で挙兵、上杉家に
叛旗を翻したのでござる。この反乱は関東各地の将が顕定方・景春方に分かれ
入り乱れた戦況を醸成していく。長尾氏の配下にあった掃部助は、当然ながら
景春方に与して小沢城で守りを固めた。なお、研究者によってはこの時掃部助が
利用したのは要害性に優れた小沢古城の方であると見る向きがあったり
小沢古城・小沢城の両方を使用したとする説もある。ともあれ、景春に味方した
掃部助に対し、反乱勃発の翌年である1477年(文明9年)顕定の命を受けた
太田道灌の軍勢が攻勢を仕掛けた。道灌は江戸城を築いたあの名将である。
1月頃?と言われる攻城開始から1ヶ月以上(諸説あり。2ヶ月とも3ヶ月とも)
籠城戦は継続され掃部助は良く城を守ったが、4月18日?遂に落城してしまう。
これは、同じく景春方であった小机城(神奈川県横浜市港北区)が道灌により
落とされた為、江戸から小沢城へ至る道灌軍の勢いが増した事によると言う。
落城に際し、身重であった掃部助の妻は城を落ち延びたものの逃亡途中に産気づき
出産はしたが亡くなったとされる。また、掃部助の娘は城の断崖から相模川に身を投げ
その身が大蛇に変貌したと言う伝説が残る。掃部助自身は戦死してしまったが、
城を落ちて翌1478年(文明10年)再起を期して再挙兵したという説もある。
小沢城は落城後も残り、後に小田原後北条氏が相模全土を制圧した時その支配下に
組み込まれたようだ。後北条氏の軍役帳「小田原衆所領役帳」には金子新五郎なる者が
小沢を領した記録があり、金子氏は掃部助以後も命脈を繋いだと見られる。
廃城時期は不明だが、豊臣秀吉による小田原征伐後か?
現状、小沢古城・小沢城ともに山林として放置され、部分的に土塁や空堀などの
遺構が見られる反面、ほとんどの城域は宅地開発などで改変を受けている。
小沢城周辺にはかつて「城坂」「城の内」「馬つくろい場」などの小字名が
あったというが、それも最近では使われなくなったようでござる。
写真にある、愛川町設置の案内板だけが城の跡である事を明示しているのみだ。







相模国 津久井城

津久井城址 本丸跡

所在地:神奈川県相模原市緑区根小屋・太井・小倉
(旧 神奈川県津久井郡城山町根小屋・太井・小倉)

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★■■■
公園整備度:★★☆■■■



筑井(築井)城とも表記する。他に根小屋城とも言われるが、これは明らかに
根小屋式城郭(山上に詰城部を擁し、山麓に駐在武士の長屋群を配置する形式)故に
呼ばれるようになった城名でござろう。宝ヶ峰の山名も。神奈川県北部、津久井湖の
畔にある一大山城。ただし津久井湖は城山ダムによる昭和の人造湖であるため
当時は無く、相模川上流域の深い峡谷上に屹立した城だったと見なければならない。
城の起源は鎌倉初期にまで遡り、鎌倉武士の名門・三浦氏庶流である筑井(津久井)為行
(筑井太郎二郎義胤(よしたね))が館を置いたものに求められる。鎌倉幕府成立期の
三浦氏当主・三浦義明の弟が為行の父・三郎義行(つまり義明の甥が為行)とされるが
一方で津久井氏を大江(毛利)氏(これまた鎌倉幕府の重鎮・大江広元の系譜)一族とする
説もあるため、確定的な事は言えない。いずれにせよ、為行は宝ヶ峰の頂に館を構え
(これが後世の詰城部に発展していく)鎮守として八幡社を構えたという。
ただし、この頃の津久井城に関する記載は城内にある「築井古城碑」(後記)だけで
他の文献には見受けられない。一説には、長尾景春の乱において景春方に味方した
海老名氏・本間氏らが津久井城に籠もり太田道灌の軍勢に攻め落とされたと見る向きも
あるが、推測の域を出ず確証は無い。やはり、城郭として機能するようになったのは
戦国期になってからでござろう。相模国北端、武蔵国や甲斐国と隣接する位置にある
城は、小田原後北条氏の拠点城郭にして、甲斐武田氏との抗争に深い関わりを持つ。
後北条氏の地方軍制で津久井城主隷下に57将の“津久井衆”という軍団が編成されたが
確定的に戦国時代の津久井城主として名が出るのは内藤氏であろう。この内藤氏に関し、
文献上の初出は「光明寺文書」にある内藤大和入道で、1524年(大永4年)に
寄進を行ったというものである。また、甲斐国内の記録である「妙法寺記」で翌1525年
(大永5年)甲斐国主・武田信虎が軍を率いて相模国を侵犯したが津久井の城は
落ちなかった、とある。恐らくこの戦いにおいて、内藤大和は後北条方に与して
城を守りきったのであろう。こうした経緯から、内藤氏は北条早雲が津久井城の
守将として派遣した者であると見る向きもあるが(この論によると、早雲が遣わした者は
内藤左近将監景定とされている)しかし内藤氏の出自を紐解けば鎌倉時代の御家人にまで
遡る事ができる。他の関東武士と同様、藤原秀郷の後裔とされる内藤氏は、平安時代末期の
1187年(文治3年)京都の治安維持に働いた内藤四郎の家人・内藤権頭親家から続く
一族とされる。親家は鎌倉の雪ノ下(鶴岡八幡宮の近辺)に館を与えられ鎌倉幕府に
仕えたが、子孫は室町時代になると鎌倉公方足利氏に従い、さらに関東管領・上杉氏の
配下に組み込まれた。即ち、内藤大和が津久井に居したのは後北条氏時代よりも前、
相模国主が扇谷(おうぎがやつ)上杉氏であった頃からと見るべきであろう。
小田原から後北条氏の勢力が伸張するに及び、内藤氏はその支配下に入ったのである。
以後、文献を見てみれば津久井城主内藤氏の系譜は朝行─康行─綱秀─直行と続く。
しかし、内藤氏は必ずしも完全に後北条氏の支配体制に組み込まれた訳ではない。
当時まだ上杉氏との抗争は活発であり、甲斐武田氏も西から虎視眈々と侵略の機会を
覗っていた。このため、例えば北条氏綱(後北条氏2代当主)が鎌倉鶴岡八幡宮の
社殿再建を行った際に、内藤氏は費用の拠出を拒否している。当時の世俗において、
寺社の建立を行う事は治世者の徳を示す重要な政治施策であり、後北条氏が
伝統ある鶴岡八幡宮を建て直す事は相模国、ひいては関東武家社会の統率者となった事を
明確にする意味があった訳だが、内藤氏がそれに従わなかったのは暗に旧主
上杉氏の意向を受けていた状況を示唆しよう。また、小仏峠を越えた西側つまり
甲斐郡内地方に近接する地勢により津久井の国人衆は郡内領主・小山田氏
(甲斐武田氏の重要な将)の影響を大きく受けており、津久井近辺は「敵半所」または
「敵知行半所務」などとされていた。つまり、内藤氏はじめ津久井周辺勢力は
後北条氏に従う一方で他勢力とも通じ独自の支配体制を堅持していたのでござる。
このあたりは、必ずしも“裏切り”的な意味で敵に通じていたというだけでなく
“相手との相互安全保障”として絶妙な外交バランスを維持していた可能性もあろう。
津久井の周辺では、南北に延びる八王子街道(相模〜武蔵〜上野方面の幹線道路)や
東西方向の甲州往還(武蔵〜相模〜甲斐を繋ぐ経路)、さらに甲斐から相模へ流れる
相模川の水運交通が結束しており、それらは後北条・上杉・武田3家の勢力圏へ
通じさせる要衝なのだ。逆説的に言えば内藤氏が3家の脅威に晒されていた事になる。
後北条氏の軍役帳「小田原衆所領役帳」に1559年(永禄2年)津久井内藤氏の貫高は
1200貫というかなり高い数値を示した上、内藤氏には独自の文書発給が許される程の
権力が与えられていた事から、内藤氏は後北条氏地方支配における最上位重臣と
位置づけられているが、実情は“自治権を与えて統治を放任する”ような
形態だったのだろう。細野城・田代城の項で記した田代内藤氏は津久井内藤氏の
一門ではあるが、彼らとて津久井衆に編入されたのはようやく1557年(既に戦国時代中期)に
なってからの事であり、この地域の統治体制がいかに流動的であったかが窺える。
扇谷上杉氏は次第に没落、後北条氏の軍事力が増大するにつれ内藤氏率いる
津久井衆は後北条氏への依存度を深める事にはなるが、郡内小山田氏との関係は
継続した状況のままであった。甲相駿三国同盟中はそれでも良かったが、
「敵半所」のまま同盟が破綻し、三増合戦を迎えたのでござる。
三増峠合戦に至る経緯は細野城・田代城の項(上記)をご覧頂くとして、
この戦いで、武田方の将である小幡尾張守信貞(信定)や加藤丹後の兵12000に
封殺され、津久井城主・内藤周防(これが左近将監景定か?)は城から討って出る事が
できなかったと言われている。武田家の記録「甲陽軍鑑」では加藤丹後により
内藤周防は討ち取られたとまで記録されているが、かなり疑問である。
三増合戦で後北条軍の主力となったのは北条氏照と氏邦(氏康の3男)であるが
彼らはそれぞれ滝山城(東京都八王子市)主・鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)主で、
滝山(八王子)衆・鉢形衆を率いて三増へと出陣している。つまり、氏照と氏邦は
北の武蔵国から津久井城下を通過して南の三増へ至っているのに、その間
津久井城が何ら呼応しないというのは不自然でしかない。実の所「敵半所」である
津久井衆は、甲斐武田家との騒乱を忌避して参戦しなかったと見るべきだ。
中立を保つ事で津久井衆は合戦後も後背地である甲斐との関係を維持しようとした。
しかし後北条氏としては明確な離反行為に当たるわけで、氏照は戦後に津久井衆を
指弾している。何より、三増峠から3kmしか離れていない津久井城の軍勢が
積極的に動かなかった事は、合戦の勝敗を大きく左右したであろう。
三増合戦は一大山岳戦である。山間盆地を舞台とした桶狭間合戦、台地を利用した
国府台(こうのだい)合戦や三方ヶ原合戦、坂道を競り合った小豆坂合戦など
傾斜地における合戦は色々ある。また、小規模軍勢が小競り合いを行う山岳戦も
無い事はなかった。しかし、大大名同士の“万単位”での軍勢が峠でぶつかり合う
巨大合戦は、当時非常に稀な例であった。況や、そこには国主である武田信玄が
在陣していたのだから、万が一にも討ち取られていたら戦国史が激変する重大な
合戦だったのである。歴史に「もし」は禁句だが、仮に津久井衆も後北条方として
武田軍の足止めを担い北条氏康本隊との挟撃を成功させたならば、或いは
後北条氏が関東のみならず甲信地方まで併呑する結果になったかもしれない。
(武田氏滅亡後、後北条軍は一時的ながら甲信地方のほぼ全域に戦力展開している)
しかし現実は津久井衆の不参戦により氏照・氏邦軍が独力で対処せざるを得なくなり
山県昌景(武田四名臣の一人)の側面攻撃で後北条方が苦戦、信玄の脱出を許した。
このように、後北条軍としては珍しく足並みの乱れた三増合戦であったが
戦いの翌年、1570(元亀元年)津久井城は修築工事を受けた事が記録に残り
内藤氏も引き続き城主であり続けている。最終的に今川領国が消滅した事で
後北条・武田の間には再同盟の機運が高まり、甲相同盟が復活。以後、津久井城は
比較的平穏な時代を過ごしたのでござる。されどその時期は戦国史上では
激変の頃であり、甲斐武田氏の滅亡・豊臣秀吉の台頭を経ていく。
1590年(天正18年)天下統一に王手をかけた秀吉は後北条氏を最後の敵と定め、
全国の大名に命じて小田原征伐を発動した。記録に残る津久井城主・内藤大和守
景豊は小田原城へと参集した為、城は老臣ら150騎が守る事となる。これに対し
秀吉の命を受けた本多忠勝・平岩親吉(ちかよし)・鳥居元忠・戸田忠次・松平康貞ら
徳川勢1万1000が攻城を開始、多勢に無勢で6月25日に開城したのでござる。直後、
小田原本城も城を開いて降伏、後北条氏は滅亡に至った。内藤氏は没落し、徳川家臣
阿部氏の配下に加えられ後に備後福山藩士になったという説も残るが、詳細は不明。
後北条氏の遺領である関東地方は国替えで徳川家康の領地となり、津久井城は廃城。
近世大名へと進化していた家康にとって山深き津久井城は不要のものだったようで
1608年(慶長13年)旧城の麓に代官所が置かれ、近世の支配が行われたに過ぎない。
宝ヶ峰、城山最高所の標高は375m。南西側山麓に広がる根小屋部の標高が180m前後なので
比高は200m近くに達する。北側は津久井湖であるが、上記の通りかつては相模川の
断崖になっていたため、こちら側からの攻略はほぼ不可能である。津久井城を攻めるなら
南西側根小屋部を蹂躙した後、北の山へ向かって進撃するしかない。その山上部は、
最高所から東南に向かって山頂尾根が一列に延びており、ここに曲輪を設定する
連郭式の縄張りだ。山頂の本城曲輪(主郭、写真)から順に太鼓曲輪、飯縄曲輪、
鷹射場という大きく4つの曲輪に分けられ、各曲輪の間は明確な堀切で隔てられている。
太鼓曲輪には家老屋敷、飯綱曲輪にはみはらしという腰曲輪が付属する他、それぞれの
曲輪は何重かの帯曲輪に囲まれている。また、飯縄曲輪の傍らには宝ヶ池という井戸があり
水が涸れた事はないという。山城の生命線は水脈であり、津久井城はこの池で命脈を
繋いでいたと言っても過言ではない。そして肝心の本城曲輪からは西方の視界が開け
如何にも甲斐方面に備えた城作りである事が感じられる。尾根の北西に最高所がある
宝ヶ峰、まさに武田軍に対する築城好地と言え申そう。その本城曲輪は長辺20mほどの
大きさで、南辺に土塁が連なる。この土塁の最端部には、江戸後期に根小屋村名主の
島崎得太郎律直(さだなお)が5万両もの大金で建立した築井古城碑が建ってござる。
律直は従兄弟の国学者・小山田与清(ともきよ)を通じて幕府老中・松平定信に
題字を依頼。撰文は幕府儒者の林大学頭衡(たいら)、書は幕府奥祐筆の
屋代弘賢(ひろかた)が行い、それを当代随一の石刻家であった広瀬群鶴(ぐんかく)が
刻字するという錚々たる顔ぶれでござった。撰文は1816年(文化13年)11月28日。
高さ約150cm、幅は80cm、厚さ20cmという巨大な根府川石の一枚板を用いた石碑で、
津久井城の沿革や内藤氏の経歴が記されている。
島崎律直は内藤家臣の末裔ゆえにこの碑を築いたとか。
山上部(詰城部)の構成は天然地形を上手く利用しており、要所ごとに長大な竪堀が
山麓まで延び、攻城者の行く手を阻む。山の傾斜はかなり急峻で、比高もあるため
登山は実に大変である。個人的には八王子城の城山と同等の険峻さだと思う。
山麓から詰城部へ登る道はかつての登城路を踏襲した男坂と山腹をぐるりと迂回して
傾斜を緩くした女坂が用意されているが、足に自信のない人は迷わず女坂を選ぶべき。
一方、山腹にはそれほど目立つ遺構がない。南側山麓付近にようやく段曲輪があり
その下が根小屋地区である。現在、根小屋周辺は神奈川県立津久井城山公園として
綺麗に整備されており、ここだけ見る限り、城址ではなく完全に市民の憩いの場と
なっているほどだ。公園化に伴い、園地内にパークセンター(案内施設)や駐車場、
遊具、遊歩道などが用意されている。城郭初心者でもこの区画は簡単に散策できよう。
根小屋地区の北端には根小屋神社が鎮座し、その脇にも「築井城址碑」がある。
山頂の古碑とは別物だが、題字の迫力に圧倒され見栄え的にはこちらの方が良い(笑)
なお、公園管理棟のあたりが近世陣屋のあった場所でござる。
城址全域で発掘調査が数次に渡って行われ、根小屋地区からは建物跡や煙硝蔵跡
空堀や土塁が発見されている。これらは駐在武士の家のみならず、城主・内藤氏の
邸宅もそこにあった事を示していよう。また、山上部では石敷き遺構や要所の石垣、
建物跡が検出されている。険しい山である津久井城山において、敷地や法面を固める
石敷きや石垣は必須のものだったのだろう。更にこうした遺構の中には雨水の排水溝も
あり、津久井城が極めて緻密な設計思想の上に成り立っていた事を窺わせる。何より
注目すべきは最近発見された山上の建物跡で、それまで駐在武士は根小屋だけに
寝泊りし詰城部には居なかったと思われていた学説を覆し、山上でもそれなりに
居住が行われた可能性を提議するものでござった。これは今後の研究成果が期待される。
非常に高度な土木技法が使用されていた津久井城。しかし一方で、縄張り自体は
極めて“一般的”な根小屋式山城でしかなく、畝堀や比高二重土塁の使用、曲輪同士の
相互補完など後北条氏特有の技法はほとんど使われていない。近年の城郭研究において
“後北条流築城術”という概念は否定されつつあるが、それにしても津久井城の
“後北条らしからぬ作り”は度を越えている感がある。相模国内の城、という事は
後北条氏の領土拡大経歴から見ると「古い時代の城」となり
新技術が使われなかったのか、あるいは郡内に近い「敵半所」は
後北条氏の影響力が薄かったからなのか、理由は定かでない。
三増合戦時の去就や縄張論など、色々と謎の多い津久井城であるが
全体的に遺構の残存状況は良好。山頂の(根小屋神社脇ではない)築井古城碑は
2007年(平成19年)4月1日、相模原市の有形文化財に指定されている。また、城下
功雲寺(こううんじ)内には内藤氏の墓とされる宝篋印塔もあり、これまた相模原市の
登録有形文化財。ただしこの宝篋印塔、形式は江戸期のものなのでどこまで信憑性が
あるのかは不明。文化財登録も「“伝”津久井城主内藤氏の墓」だ。その一方で
見事な城跡は何ら史跡指定がされていない。これが津久井城最大の謎… (^ ^;


現存する遺構

山頂築井古城碑《市指定有形文化財》
井戸跡・堀・土塁・郭群等




相模川西岸諸城郭  間宮豊前守信盛館・小杉御殿