甲斐国 谷村城

谷村城跡 谷村第一小学校

 所在地:山梨県都留市上谷・中央

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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甲斐国 勝山城

勝山城本丸跡

 所在地:山梨県都留市川棚

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★☆■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡




甲斐国 谷村陣屋

谷村陣屋跡石碑

 所在地:山梨県都留市中央

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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郡内地方の領主、小山田氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山梨県東南部、現在の神奈川県に隣接する地域は郡内(ぐんない)地方と呼ばれ、戦国時代には在地領主の小山田(おやまだ)氏が
支配していた。元来、小山田氏は独立領主だったが次第に甲斐守護・武田家の支配下に組み込まれ(従属同盟とも)、武田家臣団の
重席を成すようになる。その小山田氏が都留郡(現在の山梨県都留市)に構えた館が谷村(やむら)城の始まりでござる。■■■■■
もともと、小山田氏は中津森館(山梨県都留市金井にあった城館)を拠点としていたのだが、1530年(享禄3年)に火事で焼失したので
新たな城館を谷村の地に建設。この館は1532年(享禄5年)に落成したと「勝山記(郡内周辺の地史書)」にある。これが谷村館、即ち
谷村城だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
谷村は現在の都留市中心部を成す村落で、大月から富士吉田へ抜ける「富士道(富士山信仰や物流に使われた街道)」の中継拠点で
あると同時に、桂川(富士山麓に湧き出て大月へ至る相模川上流部)水系の水運でも重きを為す交通の要衝でござった。また、付近を
山々に囲まれる中、狭隘ながら谷間に平地を確保できたため、耕作地や商業地を広げられ、戦国期の土豪が領地開発を行うに適した
場所だったと言えよう。こうした事から、谷村の地は城を中心として南北に伸びる谷間の平地を城下町にして発展していく。城の周囲は
桂川の水を利用した水堀が穿たれ、城下町との境界を明確にすると共に曲輪の防備としている。■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし基本的に谷村城は平城であり、戦国時代の城郭としては防備が薄くなっている。しかも、谷村は谷合の町であるため城の敷地を
広げて備えを厚くする事ができない。故に谷村城はあくまでも平時の居館としての性格が強く、戦時には別に詰めの城が必要とされた。
このため、谷村城の裏手に流れる桂川を挟んだ位置にある標高571mの山に築かれたのが勝山城であった。谷村城と勝山城の間には
2本の木橋が連絡用に架けられていたという。以後、谷村城と勝山城の組み合わせで谷村の町は統治されたと推測されている。■■■
小山田氏は所領の位置から相模国(神奈川県西部)や駿河国(静岡県東部)と密接な関係を持っていた。よって、武田の家中において
相模国を治める後北条氏との取次ぎは大半が小山田氏に任されている。また、駿河から北上した今川家(駿遠太守)の軍勢がしばしば
甲斐を侵犯したが、これも籠坂峠(山中湖の南、駿河・甲斐国境の峠)を挟んで郡内地方を治める位置にいた小山田氏が迎撃する事が
多かった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

織豊期を経て近世城郭へ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
軍事・外交に大きな役割を果たした小山田氏は、谷村城を築いた越中守信有(のぶあり)以降、出羽守信有(越中守の子)・弥三郎信有
(出羽守の子)・左兵衛尉(越前守)信茂(弥三郎の弟、出羽守の次子)と代を重ねる。だが1582年(天正10年)甲斐武田氏は織田信長の
軍勢に攻められ滅亡。この時、小山田氏の当主だった信茂は郡内地方の安寧を画策して武田家を見限ったが、遂に信長には許されず
甲斐善光寺で処刑された。程なくして本能寺の変が勃発、信長も帰らぬ人となったため、谷村城は完全に主を失ったのでござる。結果、
甲斐国は近隣大名である後北条氏と徳川氏が領地争いを展開した。いわゆる天正壬午の乱だ。■■■■■■■■■■■■■■■■
乱の当初、谷村には後北条氏が進駐していた。これにより谷村城は後北条氏によって改修された可能性が指摘されている。しかし結局
甲斐国は徳川家康が領有。谷村には家康股肱の臣である鳥居彦右衛門元忠が入った。元忠が領した都留郡の石高は1万8000石。豊臣
秀吉が全国統一をし徳川家が関東へ移封される1590年(天正18年)まで谷村の地は元忠が預かり、この間に谷村城や勝山城に改修の
手が入ったと考えられている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
家康が離れた後、秀吉の命で同年7月に甲斐国へ入ったのが羽柴小吉秀勝。秀勝は秀吉の甥(殺生関白秀次の弟)、後に徳川秀忠の
正室となったお江与の方が先夫としていた人物として知られる。谷村には秀勝家臣の三輪五衛門尉近家が封じられたが、秀勝が8ヶ月
程で国替えとされたため1591年(天正19年)近家は美濃国岐阜(岐阜県岐阜市)へ移る。代わって甲斐国を与えられたのが加藤遠江守
光泰(みつやす)。光泰は文武に秀でた秀吉直属の家臣で、関東に在る徳川家康を監視する任を帯びて枢要の地である甲斐国を任せ
られたと伝わる。郡内地方には光泰の養子である加藤作内光吉が宛がわれ、谷村城に入った。■■■■■■■■■■■■■■■■
この時期、秀吉の命令によって朝鮮への出兵が準備されており、加藤氏は甲斐国内の検地を行って農業生産力の把握や動員人口の
確定、甲府城をはじめとする領内各地の軍事拠点整備に努めた。そして文禄の役が開始されるや、光泰は志願して渡海し朝鮮半島で
激戦を繰り広げた。ところが、帰国を前にした1593年(文禄2年)急病を発し、海の向こうの陣中で亡くなってしまう。■■■■■■■■
このため、甲斐国は加藤氏から召し上げられ、一時的に谷村城は城主不在となる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
翌1594年(文禄3年)、甲斐国は浅野長政・幸長(よしなが)親子へと与えられた事で、谷村には家老の浅野左衛門佐氏重(知近とも)が
入った。地誌「甲斐国志」によればこの時、氏重は勝山城の大規模な改修工事を執り行う。これを以って勝山城の築城とする説もある。
秀吉の親族衆である浅野氏が築き直した事で、勝山城はいわゆる“織豊系城郭”に生まれ変わった訳だ。この工事において、それまで
城敷地内にあったと思われる八幡神社が現在地(勝山城址から500m南西の位置)へと移転され申した。■■■■■■■■■■■■

徳川譜代大名の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1600年(慶長5年)、関ヶ原合戦の後に天下は徳川家康のものとなる。これに伴い、甲斐は再び徳川氏が支配するようになり、谷村には
鳥居氏が再封された。元忠は関ヶ原前哨戦である伏見城(京都府京都市伏見区)攻防戦で戦死していた為、彼の3男である鳥居土佐守
成次(なりつぐ)に1万8000石が与えられている。この時期、甲斐国は家康の8男・五郎太の領する地であったが、郡内地方だけは成次の
ものとされていた。よって、1607年(慶長12年)に五郎太が尾張国へと国替えとされ尾張徳川家の祖・徳川右兵衛督義直となった折にも、
成次は谷村に残留。1612年(慶長17年)には御室浅間神社本殿の造営を行って領内安堵に務めてござる。■■■■■■■■■■■■
1615年(元和元年)甲斐国は徳川秀忠の次子・忠長のものとされ、翌1616年(元和2年)谷村を有する成次は忠長家臣に編入された。
附家老となった成次は、1624年(寛永元年)忠長が駿河国や遠江国などを加増されたのに合わせて石高を増やし、3万5000石になって
いる。しかし忠長は将軍職継承に関して兄・家光と大きな確執があったとされ、1631年(寛永8年)5月に蟄居の処分を受けてしまう。この
ような中、6月18日に成次が死去。谷村の遺領は長男の淡路守忠房が継ぐも、主君の忠長が翌1632年(寛永9年)10月に改易された為、
忠房も領地を没収されてしまった。斯くして谷村城は幕府による番城となり、この間は本堂茂親・設楽貞代が預かる。■■■■■■■■
1633年(寛永10年)2月3日、上野国総社(現在の群馬県前橋市)から秋元但馬守泰朝(やすとも)が1万8000石で移封され、新たな谷村
城主となった。これにより秋元氏による谷村支配が開始されて、1642年(寛永19年)12月14日に越中守富朝(とみとも、泰朝の嫡男)が、
1657年(明暦3年)10月2日に但馬守喬知(たかとも、富朝の外孫で養嗣子)が、それぞれ前藩主の死去によって家督を相続してござる。
泰朝時代には谷村大堰設置による治水事業、富朝時代には赤松の植林事業、喬知は新倉掘抜(河口湖からの用水)を着工するなど、
いずれも谷村の殖産に務めていた。また、喬知は老中にまで出世しており、それに伴って度重なる加増を受けて最終的には5万石まで
石高を増やしている。加えて、幕府では京都宇治で採れた茶を江戸城に献上する「御茶壷道中」なる行事を慣例的に行っていたのだが、
この茶壷が夏季の間、勝山城で保管される事になっていた。これは「甲斐国志」「徳川実紀」「下谷村明細書」などの地誌に記録が残る。
勝山城で夏を越す事により、茶葉が熟成して最高級品質になったとの事。秋元氏の勝山城は将軍家の年中行事に一役買っていたので
ござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

谷村陣屋の誕生、そして史跡遺構■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方で秋元時代は度重なる天災に苦しめられており、領内では何度か一揆が発生していた。そのため1704年(宝永元年)12月25日に、
喬知は武蔵国川越(埼玉県川越市)へと転封。谷村城は主を失った。これ以後、谷村は幕府天領となり、甲府城主であった柳沢出羽守
吉保(よしやす)の預かる地となる。翌1702年(宝永2年)2月、谷村城は廃城。柳沢家が甲斐から大和国郡山(奈良県大和郡山市)へと
国替えされてからは完全に幕府直轄地となり明治維新を迎えている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
谷村藩の廃藩から明治まで谷村城に代わって領地支配の拠点とされたのが谷村陣屋だ。正確に言えば石和(いさわ)代官所(山梨県
笛吹市)の出張陣屋として成立したのが谷村陣屋という位置づけである。旧谷村城の敷地に隣接する場所にこの陣屋は築かれていた。
現在の地図と比較すると、谷村城の本丸〜二ノ丸は都留市役所から都留市立谷村第一小学校(写真)のあたり、三ノ丸は高尾神社の
近辺だと比定されている。(ただし、明瞭な遺構は検出されていない)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方の谷村陣屋はそこから通り一本(山梨県道705号線)を挟んだ甲府地方裁判所都留支部がその場所だ。かつての城跡がそのまま
官庁街になる事はよくある話だが、都留市も同様なのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
加えて申し述べると、廃城以後の勝山城は江戸時代の川棚村および両谷村によって管理され入山が厳しく制限されていたと言うのだが
江戸時代中期以降、畑作地として開拓を受けていく。また、1941年(昭和16年)旧谷村城二ノ丸跡地(現在の谷村第一小学校)にあった
東照宮が勝山城山の山頂に遷座されている(写真)。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
往時の勝山城は、山頂を削平した敷地を本丸とし、順に段を下って二ノ丸・三ノ丸などの曲輪を配置した梯郭式の山城だ。城域は東西
約580m×南北640m程度、面積25万uを誇る。この中に帯曲輪などが旨く組み合わされている上、斜面は切岸に加工され、なかなかに
険峻な要害だったと考えられる。しかも、近世改修によって大手門などでは石垣が用いられたと見られており、現在でも部分的に残石が
確認できる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
廃城以後、手を加えられたものの遺構の残り具合は良好であり、1996年(平成8年)5月2日、山梨県史跡に。更に都留市教育委員会が
2005年(平成17年)〜2009年(平成21年)にかけて学術調査を行った。この調査は文献調査・考古学調査・石造物調査・都市史調査など
多岐に及び、都留市史そのものを検証する大規模なものとなり、勝山城址のみならず中津森館や近隣史跡まで手を広げて調べられた。
勝山城からの出土品は陶磁器・かわらけ・釘・銭貨・鉄砲玉・煙管など。城が用いられた戦国時代〜江戸時代だけではなく、明治時代に
至るまでの出土品があった事から、江戸後期の再開発により城山へ人の手が入っていた様子が裏付けられた。特筆すべきは灯明皿が
検出された為、夜間も城山へ出入した形跡がある事であろう。恐らく、畑作地としてだけではなく信仰の山として勝山城址が使われたの
だと思われる。とは言っても、現在は完全に自然の山。城跡南端部に登城口があり、そこから登山道を通って行けば、城の遺構を見学
しつつ20分程度で山頂まで上がる事ができる。気軽に山城を楽しみたい方にオススメの場所でござろう。■■■■■■■■■■■■
山頂からは都留の町並みが一望できる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■





岩殿山城  韮崎市内諸城館