足柄の山は天下の険 剣門関も物ならず?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
霞城とも呼ばれる足柄城がある海抜749mの足柄峠は、古東海道が通過する交通の要衝。平安時代の864年(貞観6年)に富士山が
噴火、東海道は箱根を越えるよう変更されたが、その後もこの足柄道は併用され続けたようであり、「神の御坂」と称された足柄峠は
東国の入口として重要な拠点であったようだ。899年(昌泰2年)関東で群盗が横行、貢納物を強奪された事件により時の太政官府は
足柄峠に関所を設置、取り締まりに当たらせたのだがその効果は目覚しく、群盗は1年足らずで退治されたとの事。足柄峠の防備が
如何に重要なことであったかを如実に現している。役目を終えた関所はじきに廃れたが、南北朝時代に再び軍事的重要度が高まり
1335年(建武2年)12月、後醍醐天皇方の新田左近衛中将義貞・脇屋左衛門佐義肋(義貞の弟)・二条中将為冬らの軍勢が封鎖する
箱根を足利尊氏・直義(尊氏の弟)の軍が突破して西へ向かった竹ノ下の戦いにおいて、足利軍の本営が置かれた地であった。■■
戦国時代になるとますます足柄峠の備えは重要な意味を持つようになる。ここは駿河・甲斐そして相模の三国をまたぐ境界線であり
それはそのまま東国戦国大名の雄たる今川・武田・北条の3氏が三つ巴の抗争を展開した場所だからだ。甲斐武田氏に備えるべく、
小田原の後北条氏は城を建築、徐々に全山を城塞化していく。正確な創建年代ははっきりせぬものの、1536年(天文5年)〜1537年
(天文6年)にかけて駿河今川氏が後北条氏との友好関係を解消して甲斐武田氏と交誼を結んだ事件に関連し、駿河・甲斐両国への
臨戦態勢をとった北条左京大夫氏綱の命令で築かれたと考えられ申す。この後、今川・武田・北条の3者間で和議が成立、有名な
甲相駿三国同盟が1554年(天文23年)3月に結ばれるが、足柄城の重要性が薄れた訳ではなく、整備・拡張は続けられた。1555年
(弘治元年)北条左京大夫氏康が三田郷(神奈川県厚木市)の農民に足柄城の普請の人足を出すよう命じた文書があり、同盟締結
後も国境防備の城郭として手が加えられていたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
対武田、そして対豊臣の最前線だったが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
15年ほど後の1568年(永禄11年)武田信玄の違約で三国同盟が破綻し、翌1569年(永禄12年)に駿河今川氏が滅亡。その今川氏を
救援すべく武田氏に報復行動をとった後北条氏はいよいよ足柄峠の固めが重要となり、1569年〜1571年(元亀2年)にかけてこの
城を大幅に改修して、武田軍の来攻に備える。その間、足柄峠から駿河方面へ山を下りた所にある深沢城(静岡県御殿場市)では
武田軍と北条軍の間で激しい争奪戦が繰り広げられており、峠を守る足柄城の強化は急務であった。深沢城主・北条左衛門大夫
綱成(つなしげ)が玉縄城(神奈川県鎌倉市)へ退避する際、一時足柄城に入り在番したという話もあり、足柄峠は武田氏に対する
後北条氏の絶対防衛線として考えられていたようだ。武田信玄もその情勢を見て無理な足柄越えはせずに、結果として足柄城での
戦闘は回避された。後北条氏と武田氏の関係はこの後に好転、再び不戦同盟が結ばれたものの、1581年(天正9年)に発布された
後北条氏の「はまいは(浜居場)掟」や、翌1582年(天正10年)の「足柄当番之事」では近隣の浜居場城や猪鼻(いのはな)城と共に
足柄山中の通行を厳しく制限する拠点と位置づけられている。武田氏に対しては一瞬たりとも気が抜けない状況にあり、それだけに
足柄峠の防備は必要不可欠であったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて武田氏の滅亡後、旧武田領は徳川家康が得たものの、その家康は1586年(天正14年)豊臣秀吉の傘下に入り、相模と甲斐の
国境は実質的に後北条氏と豊臣氏の領土境界となる。秀吉は後北条氏を天下統一事業における最終の敵と見做していたため、
後北条方はまたもや足柄城での防備を固める必要に迫られた。1587年(天正15年)足柄城番として一門衆の北条右衛門佐氏光が
任じられ、来たるべき豊臣軍との大戦に備えて更なる城郭拡張が行われた。開戦直前の1590年(天正18年)3月には北条左衛門佐
氏忠が足軽100名ほか鉄砲・弓・鑓隊を率いて入城、決戦に備える。ところがいざ戦いが始まるや、同じく豊臣軍との最前線となった
山中城(静岡県三島市)がわずか半日で陥落したという報が入って、氏忠は小田原城(神奈川県小田原市)へと撤退。足柄城には
守備隊として依田大膳亮が残されたのだが、豊臣方の部将・井伊修理大夫直政(徳川家臣)の攻勢を受けると、ろくに戦わないまま
引き払われてしまった。この時の状況を「関八州古戦録」では「雑兵二十六人計して忽ちに開き去る」と記している。城を退去した兵は
小田原城の籠城戦に加わったと言うが、これにより足柄城は役目を終え廃城となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
様々な可能性が眠る城跡、今は富士眺望の名所■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、主郭跡は芝生を敷き詰めた広場となっている。だが良く見れば、この広場のそこかしこに石材が埋まっている。即ち、この城は
後北条氏による最終改修において石垣ないし礎石建物のいずれかが構築された可能性を秘めている事になる。縄張りは足柄古道を
側面攻撃するような形で5段の曲輪が展開、各曲輪の間は空堀や切岸で仕切られていて、こうした遺構は残存して散見できる。また、
城内井戸として用いられていた玉手池には今でも水が湛えられている。伝承では池の底が小田原まで通じているとかいないとか…?
事の真偽は兎も角、足柄城は城とは違う愛好家の方にも有名。ここから眺める富士山は絶景で、富士愛好家がこぞって写真撮影に
訪れる場所だ。眼下には御殿場の盆地、その奥に富士山の雄大な全景。特に夕景は美しいですぞ。城見物だけでなく、ちょっとした
ハイキング気分で訪れるのも良いかと。但し、城跡まで通じる道は曲がりくねり幅も狭いので、運転にはご注意を。■■■■■■■
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