時は1575年の5月、圧倒的な大軍に囲まれて落城寸前となった長篠城。なかなか来ない援軍に
もはや持ち堪えられないギリギリの所まで追い詰められた城方は、主君・徳川家康に督促の使者を送ったのであります。■
包囲する武田軍の目を掻いくぐり、家康の居る岡崎城まで走りに走ったその使者こそ鳥居強右衛門。
長篠城の窮状を伝えた強右衛門を労い、信長と共に数日のうちに助けを出すと約束した家康。
「ゆっくり休んで、我々と共に長篠へ向かおう」と声をかけるが、強右衛門はいち早くその報を伝え
城の仲間を安堵させたいと、すぐさま取って返して行ったのであります。が、その帰りを待ち伏せていた武田軍。
強右衛門を捕らえ「『援軍は来ないから諦めろ』と城内に伝えよ」と命じるのであります。
そう言えば、武田の家臣として取り立ててやるという甘い誘いまで付け足して。
果たして強右衛門、城の前まで引き立てられて大音声を発するや
「御味方じきに到来、あと数日持ち堪えよ!!!」と仲間に告げる。激怒した武田勝頼は
強右衛門を磔にし、城の目の前で処刑してしまいますが、時既に遅し。
命を懸けて伝令の役を遂げた強右衛門の志を受け取った籠城軍は、彼の屍を前に奮起し
織田・徳川連合軍の到来まで城を守り抜き、かの「長篠・設楽ヶ原の戦い」勝利の原動力となったのです。
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