2013年2月 長篠・古宮オフ

旅行期間:2013年2月8日(金)

主な滞在地
2月8日(金):野田城址・野田館跡・旧作手村内城郭・長篠城周辺・設楽ヶ原古戦場
長篠・古宮オフ行程地図 (C)Mapion


さて今回は「前々から行ってみたかった」奥三河の城を出来るだけ攻略する旅。
まだ陽の短い厳冬の頃ですから、時間との勝負になるのは必至。なので日付が変わった頃に出発し
日の出とともに現地攻略を開始するよう計算しての長距離行軍です。新東名の静岡SAで5時半、
更に浜松SAで6時半。この時点で軽く朝食を摂り…それでもまだ辺りは薄暗い。東名高速に移り
(まだ新東名が浜松いなさJCTまでしか出来ていなかった頃の事です)愛知県に入り、豊川ICで一般道へ。
そこから国道151号線を北上していくと…
野田城の土橋
野田城の土橋

野田城、武田信玄が人生最後の城攻めの舞台とした場所。
前にも来た事がある城なんですが、ここはやっぱり見事な城。
なので再訪。この土橋、はっきりと形が分かりますし
竹で作った簡素な手すりが、より一層雰囲気を盛り上げてくれます。
戦国最強を謳われる武田信玄、京へ上る行軍の途中でこの城を攻めたものの
病魔に倒れ、無念の横死…という事で有名な城なんですが
噂話では、この城を攻めていた日々で夜な夜な笛の音が聞こえてきて
その歌に聞きほれていた信玄を狙い、城内から狙撃され斃れたとか…。
夜間の銃撃で一発必中というのは相当に難しい話だとは思うんですが
戦国の噂話、果たして本当かどうなのか(案外そういうのが真実だったりする?)w

で、その近くにある野田館にも訪問。まぁ、ここは案内板だけで特に遺構は無いけどね (^ ^;

ここからは国道301号線を北上して旧作手村へ。道の駅「つくで手作り村」の表と裏に城がありまして
まずは表側、慈昌院と言うお寺が石橋城の跡。小さな単郭の城で、現地の武士・石橋氏の小城。
まぁすっかりお寺なんですが…でも良く見れば土塁があったり、そもそも立地そのものが城らしき高台。
良きかな良きかな♪

今度は取って代わって道の駅の裏側、亀山城へ。こちらはしっかりとした山城。
と言ってもそれほど高い山ではなく、しかも見どころの多い城。仕掛けは古風な感じだけど
何より遺構が見事。個人的には、この日に見て回った城の中では一番だったと思うのですがね。
亀山城からの眺め
亀山城からの眺め

このように作手の盆地が一望できる場所。
そして御覧の通り、切岸や土塁、腰曲輪が美麗。
感動的な城に出会えました(とは言い過ぎかな?)
亀山城を一回りした所で、空からは粉雪が。でも晴れているのに舞ってくる。
どこか遠くの雲から降りて来る雪が飛ばされてきた風花(かざはな)でしょう。
三河のいぶし銀な城めぐり旅は、風雅な天気にも恵まれました。

風花も舞いましたが…何せこの辺りは杉山ばかり。そして木々は真っ赤に色付き
スギ花粉も大量に舞って、いやまみれていて花粉症の人間には地獄模様でしたが(爆)

古宮城入口
古宮城入口

という事で、次に訪れたのは古宮城。
本日一番のお目当てです。何せ武田流城郭の最高峰と謳われる城ですから。
武田と徳川がバチバチに遣り合った最前線、凄まじい戦いに備えた要塞ですけど
その入口には―――こんな可愛らしい足軽さんがお出迎え(笑)
この城が見たくて、長駆ここまでやって来た訳ですが…それを裏切らない見事な名城です!
古宮城 多重横堀
古宮城 多重横堀

何これ、木ばっかりじゃん!とか言わないw
まぁ、フツーに見ればその通りなんですが (^ ^;;;
城好きの方にしてみれば、この土のウネリ具合がポイント。
土塁、そして土塁、さらに土塁と、何段あるんだこの堀と土塁は?と
異常なまでの作り込みに、これまた感動…いや、むしろ呆れる程??
一つの山を全部城に作り替えているというのが古宮城の凄さ。
何せ、防御の為に山を半分に切り分けて分断している程。ホント、こんなにまでして城を作るなんて
武田軍ってバカじゃないの?(←褒め言葉)
そしてこんなに杉の木が植わっている山に嬉々として入るなんて、
俺ってバカじゃないの?(←自嘲)

そのまま国道301号線を北に進み、次は川尻城を探索。これまた小さな山ですが
こちらは公園になっていて、どちらかと言えば一般向けの城跡…まぁ、それほど大したものでも無いんですがw
河尻城 土塁
河尻城 土塁

でもこんな感じで見事な土塁があったり、切岸も。
とは言え、これも公園の敷地を区分けする土手に使われているので
やっぱり普通に考えれば「単なる山の公園」っていう事で(苦笑)

河尻城を北限にして、ここからは折り返し。国道を取って返して南に戻り
曲がりくねった山道を登って文珠山城へやって来ました。
文珠山城 展望台
文珠山城 展望台

ここにはこんな展望台が置かれていて
柵列なんかもあり、山城の雰囲気が再現されています。
駐車場もあるので、山道の細道さえ何とかなれば、来訪も簡単。
展望台からの眺め
展望台からの眺め

山の木々の間から、作手の村が見えます。
盆地を全部眺める訳では無いけど、
烽火台としては有効に使えそうな城ですな。
亀山城を見る
亀山城を見る

その展望台から南東を見れば、先程訪れた亀山城がバッチリ!
こうして上から見ると、まるでジオラマのよう…。土塁や曲輪の形状が
綺麗に見て取れます。こんなに綺麗に残る城跡というのも珍しいような★
柵や小屋を建てれば、今でも城としてすぐに使えそうだ!

ここからは東へ。作手集落の東端あたりにある甘泉寺へ。このお寺、立地は城として十分な場所。
坂を登ると境内があり、その途中にはいくつもの段が構えられていて、腰曲輪と見紛うばかり。
どうやら作手の領主・奥平貞俊が入封時に仮居とした鴨ヶ谷古屋敷と言う館跡らしい。
なるほど、そう言われればそう見えなくもない…という寺なんですが、この寺の有名な所はそこではなく…
鳥居強右衛門勝商夫妻の墓
鳥居強右衛門勝商夫妻の墓

2023年の大河ドラマ「どうする家康」でも大フィーチャーされた
鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)と、彼の奥様の墓。
強右衛門さんの墓はいくつか伝承地があるようですが
とりあえずはこれ、撮っときました!(謎)
え、強右衛門って誰?と言う方もいらっしゃると思いますが…。

 時は1575年の5月、圧倒的な大軍に囲まれて落城寸前となった長篠城。なかなか来ない援軍に
 もはや持ち堪えられないギリギリの所まで追い詰められた城方は、主君・徳川家康に督促の使者を送ったのであります。
 包囲する武田軍の目を掻いくぐり、家康の居る岡崎城まで走りに走ったその使者こそ鳥居強右衛門。
 長篠城の窮状を伝えた強右衛門を労い、信長と共に数日のうちに助けを出すと約束した家康。
 「ゆっくり休んで、我々と共に長篠へ向かおう」と声をかけるが、強右衛門はいち早くその報を伝え
 城の仲間を安堵させたいと、すぐさま取って返して行ったのであります。が、その帰りを待ち伏せていた武田軍。
 強右衛門を捕らえ「『援軍は来ないから諦めろ』と城内に伝えよ」と命じるのであります。
 そう言えば、武田の家臣として取り立ててやるという甘い誘いまで付け足して。
 果たして強右衛門、城の前まで引き立てられて大音声を発するや
 「御味方じきに到来、あと数日持ち堪えよ!!!」と仲間に告げる。激怒した武田勝頼は
 強右衛門を磔にし、城の目の前で処刑してしまいますが、時既に遅し。
 命を懸けて伝令の役を遂げた強右衛門の志を受け取った籠城軍は、彼の屍を前に奮起し
 織田・徳川連合軍の到来まで城を守り抜き、かの「長篠・設楽ヶ原の戦い」勝利の原動力となったのです。

戦国のメロス、なんて例えられる忠勇の士・鳥居強右衛門の功を賞し、織田信長が立派な墓を作れと命じ
それで作られたのがこの甘泉寺の墓と伝わります。そして彼の子孫は、長篠城主であった奥平家の(分家の)
家老に引き立てられたとか。やっぱり戦国時代に「主家に命を尽くした」と言う功績は大きいですな。

余談ですが太宰治の文学「走れメロス」を実際の距離に置き換えると歩く程度のスピードしか出していなかった、という
説もあるようですが…鳥居強右衛門が長篠〜岡崎往復を1昼夜で行き来したのは、マラソン選手顔負けの速度になります。



長篠・古宮オフ行程地図2 (C)Mapion

ここから新城の街へ戻り、今日のメインその2となる長篠城へ。
先程述べたように、織田・徳川の連合軍と武田軍が激突するきっかけとなった城。
個人的には“大味”な感じの城だと思っているんですが、それでも歴史的意義は大きいし
名城には違いないので。と言う事で、城内各所を散策〜♪
国史跡 長篠城址 櫓台
国史跡 長篠城址 櫓台

櫓台であった土塁。デカい…。
こんな感じで、長篠城にある遺構は
「どーん!」「ばーん!!」と言うような
見た目にでっかいモノばかり。
迫力はあるんだけど、テクニカルじゃないんだよなぁ…。
建設中の新東名高速道路
建設中の新東名高速道路

長篠城と言えば、JR飯田線の線路が
城内をブチ抜いている事でも有名なんですが
その向こうには、建設真っ最中の新東名も。
近い将来、この辺りの景色も一変するんだろうな、と
時の流れの勢いを実感。まぁ便利になるのは大歓迎ですがねw
豊川の断崖を覗き込む
豊川の断崖を覗き込む

長篠城は豊川と宇連川の合流点に作られた城。
2つの川に挟まれた地形が、堅固さを成り立たせています。
川岸は断崖で、こちらから攻め寄せる事は出来ません。
で、この川に強右衛門さんは飛び込んで岡崎へ向かったんですな。
確かにそれなら城から脱出する事も可能だった…でしょうが
帰りはどうやって城内に戻るつもりだったんでしょうか?
長篠城の空堀
長篠城の空堀

川を背にした長篠城。反対側の、陸続きになっている面は
このように巨大な堀が掘削され、敵を防ぐようになっていました。
いやはや、それにしてもデカい…って、やっぱりどれもこれも
大きさで圧倒する城の構造なんだよねー (^ ^;
あれ?大味だとか言っておきながら、何だかんだで長篠城の写真ばっかり載せてるぞ?(自爆)
と言ってる間に、飯田線が城内を通り抜けて行きました… JR飯田線 313系

さて、長篠城を見たんだから設楽ヶ原の古戦場へも行かないと。
ぶっちゃけ、長篠城は来訪歴があったのでむしろこっちの方が目当てと言うか(笑)
そんな訳で、まずは設楽原歴史資料館を見学。さすが長篠合戦に特化した資料館だけあって
鉄砲の展示がハンパない…
信玄砲
信玄砲

冒頭で紹介した、武田信玄を狙撃したと言われる銃がこれ。
来歴のみならず、日本に現存する火縄銃としては最古だとか。
モロモロ含めて「ホンマかいな?!?!?」 (ー゙ー;
鉄砲いろいろ
鉄砲いろいろ

こんなふうに、大きなものから小さなものまで
動かす力だ▼ンマーディー…違った、色々な火縄銃が。
(↑ネタが古いよ、というのは重々承知の上でw)
こんな大口径の銃(もはや「砲」レベルですが)当時の人は
抱えながら撃っていたそうで、いやはや恐ろしや (><)
馬防柵
馬防柵

資料館の展望台からは、合戦場が遠望できます。
こうして再現された馬防柵もはっきりと見え
も一つ言えば、織田・徳川軍が森を背負って
(つまり自分に有利な地形を選んで)
陣を構えていた様子が良く分かりますな。

ちなみに、この資料館がある場所は武田軍の陣所と言う天王山陣所跡。
小高い丘の上から、両軍対決の場となった連吾川の河畔へ移動して行くと…
連吾川を渡る柳田橋
連吾川を渡る柳田橋

柳田激戦地、と呼ばれる地点に架かる橋。
武田軍はこの川を渡って連合軍に攻めかかりますが
柵を築いて待ち構える織田・徳川軍は、鉄砲で散々に銃撃し
突撃する武田の兵は、無残に壊滅していくのでありました。
そんな武田騎馬隊のモニュメントが、欄干に飾られています。
この小さな川を渡るか渡らないかが勝負の分かれ目。と言っても、恐らく当時は
護岸整備されたような流れでは無かったから、もっと荒れた川だった筈だし
周囲の田圃も“ぬかるみ”のように行く手を阻んでいた事でしょう。
これを騎馬で駆け抜けると言うのは、素人考えでもちょっと厳しいと思うのですがね。

再現馬防柵
再現馬防柵

馬防柵の内側へやって来ました。
こうして俯瞰すると、「設楽ヶ原」と言う名前ですが
そんなに広い平原ではなく、山と山の谷間でしかありません。
湿地帯に浮かぶ小山が沢山あって
(連合軍だけでなく、武田軍もそこに陣を構えていた訳ですし)
随分と起伏の激しい山間盆地ですわなぁ、ここ。

名和式馬防柵

名和式馬防柵 名和式馬防柵(内側)

別考証の馬防柵もありました。細い棒や竹竿で組んだだけ、と言う柵よりは
こうして堀や土塁と組み合わせた「塁壁」にした方が、効果は高そう。
内側から見ると、銃眼になる「土狭間」と言うような起伏も施されていて
実戦で用いるなら、こういう馬防柵の方が実用的に見えるのは…城マニアの性?(苦笑)

それにしても現地を見てみた感想としては「思った以上に起伏が多い」と言う点に驚き。
教科書で教わる長篠合戦だと「武田軍を平地におびき寄せて一斉銃撃」ってな感じですが
いやいや、平地なんか全然無いでしょココは。こんなに小山が並び、川や泥田もあるのに
ホントに武田軍は馬鹿の一つ覚えで騎馬突撃を繰り返したの?と、教科書の教え方に疑問が…。
結局それって、信長や家康が(つまり勝者側が)合戦の戦果を誇大喧伝する為の謳い文句なだけで
あまり現実を反映した訳じゃない、という事だったのでは…?
と云う事は、武田勝頼もそんなに馬鹿な指揮をした訳じゃ無かったのに
そういう事に「されてしまった」のでは?と、敗者側の実像を考え直す必要を痛感。
事の真偽は分かりませんが、少なくとも「現地に立つからこそ」考えさせられる事ってありますよねぇ。
歴史にフィールドワークが必要な点を再認識した、設楽ヶ原古戦場でございました。
(だからこそ、城めぐりはやめられないんですけどねwww)

建設中の新東名高速道路
建設中の新東名高速道路

そんな設楽ヶ原も、新東名が跨いで行きます…。
この数年後に開通し、今ではバンバン使わせて頂いております(笑)
信長も家康も勝頼も、武蔵や甲斐から尾張までブチ抜く
こんな巨大道路が空を往くとは、想像すらしなかったでしょうが。
時代の変化を表している構造物です。

さて、あっと言う間に日没間際に。やっぱり冬は時間に限りがあるんだよねぇ。
ですので、この後は駆け足で設楽ヶ原古戦場の陣所巡り。陽が沈むまでのタイムトライアル!
まず手近な所で徳川家康本陣。この馬防柵群のすぐ裏手です。
その更に裏側にあるのが岡崎信康本陣。家康が最前線の矢面に立ち、
せめて息子の信康は少しでも後ろに匿おうとしていた?かのような布陣。大河ドラマ「どうする家康」でも
家康は信長に随分とコキ使われていましたが、案外あんな感じで虐げられていたのかも…。
(長篠合戦時、援軍に出るのを渋る信長を家康がどうにかしてせっついたとも言われていますし)

そんな徳川軍を横目に、合戦場の端にあるのが織田信長戦時本陣。武田軍が突撃してくる連吾川を遠くに望み
まるで“高みの見物”と言うような位置にある小山です。この当時、城山の南西側の麓に車を停め
そこから歩いて山を登ったのですが、山頂の脇から覗き込めば
建設中の長篠PA
建設中の長篠PA

何これ?!?!巨大なダム?
隣の山までの谷間を埋めて、何だか広大な土地をかさ上げしていました。
まだ全然情報が無い頃でしたが、察するに新東名の工事現場…いや、
これだけの面積を広げているという事は…サービスエリアでも作るつもりか!
予想は的中し、後年ここは長篠PAになりました。
ここにSAができるなら、もしかして信長陣所も公園として取り込んで
駐車場からそのまま歩けるようになるかもねー、なんて話してたら
本当にそうなりました。なので、現在は麓から登らなくてもPA直結で信長本陣に簡単訪問(笑)

そう言っている間にどんどん陽が沈む…。急いで走り回り、北畠信雄(のぶかつ)本陣を駆け抜け
織田信忠本陣まで来た所でタイムオーバー。信忠は信長の嫡男、信雄は2男ですが、彼らはいずれも
岡崎信康のもっと後ろに陣を構えていて、これじゃ参戦してないよね、と言うような場所。
信長は家康・信康父子は最前線で戦わせたくせに、自分の子供は可愛がって後ろに下がらせたのか?
はたまた、あまり名将とは讃えられない信忠や信雄(信雄はむしろ愚将というくらい)はアテにならないと踏んだのか?

と言う強行軍を終えて、帰路についたのでありますが
帰りもやっぱり静岡SAで休憩。ここで夕食も。やっぱ新東名便利だわ〜 (^_^)v


◆◇◆ 冬枯れに 際立つ山は 城と杉 涙にむせぶ 奥三河路 ◆◇◆




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