2001年7月 西国制覇(5)

西国めぐりの旅もいよいよ後半戦。
今日は岡山の内陸部を抜け、兵庫県へ戻るルートです。
朝8時前に宿を発って、まず向かったのは高梁市方面。
国道180号線は山の谷間を縫うように進み、15分ほど走った所で
総社市から高梁市に入りました。その先、国道313号線との合流地点に差し掛かると
おや?何だか興味をそそる案内標識が!
本当は道なりに180号線を直進する予定だったんだけど
ついつい釣られて313号線へ左折、落合橋を渡ってしまった。

で、何があるのかと言えば山中鹿之介(やまなかしかのすけ)の墓。
はいそこの方、誰だそりゃと仰りたいのは良くわかります (^^;
三本の矢の話で有名な毛利元就はご存知ですか?
その毛利氏最大のライバルだったのが山陰地方の太守、尼子(あまご)氏なんですが
鹿之介は尼子氏の中で忠臣中の忠臣と謳われる名将なのさね。
毛利氏があの手この手でどんどん尼子氏を圧迫し、
見る見るうちに衰退させていくんですけど
領土を失い、離反していくものが後を絶たず、傾いていく尼子家中にあって
最後まで忠節を誓い、不屈の闘志で毛利氏に一矢報いようと奔走したのが鹿之介くんです。
連戦連敗を重ねていく状況の中、それでも闇夜の月を見上げ
「天よ、我に七難八苦を与え給え」と熱い闘魂を燃やしたとか。
その願い通り、彼の生涯は戦いに続く戦いに明け暮れましたが
結局最期は儚くも毛利に破れ、討たれる運命でした。
死ぬまで信念を曲げなかった忠義の武将として人気の高い人物。
そんな鹿之介くんの墓がこんな所にあったとは…。
山中鹿之介の墓
山中鹿之介の墓

戦いに敗れ散っていった悲運の武将と言えば
九郎判官義経や楠木正成公なんかが有名ですが
それに勝るとも劣らない人物として、
戦国武将の中で特に人気が高い山中鹿之介幸盛。
昨日訪れた清水宗治公の墓に続き
こちらも中国戦国史を語るに欠かせない墓標ですな。

寄り道から復帰、本来の目的地へ向かうッス。
180号線を進めば程なく高梁市街地。城下町の古風な佇まいを色濃く残す高梁は
寺社仏閣などが軒を連ね、見所も多いんですが、オイラが迷う事なく向かったのは
備中松山城のある臥牛(がぎゅう)山です。この城は険峻な山地にある山城にして
現存天守が残るという貴重な史跡。加えて、その天守は現存城郭遺構としては
日本で最も高い所にある建築物でもあります。
何でも、自家用車で臥牛山に入るにゃ、途中の駐車場までしか行けず
そこから観光用のシャトルバスか何かに乗り換えるという話だったんですが
オイラが行った時には…バスなんか走っている気配が無い。
っていうか、駐車場のその先まで入れそうな感じだぞ?!
ダメ元で行けるところまで車で行っちまおう、と考えて乗り入れれば
どうやらシャトルバス終点?らしい所まで難なく来られました。
おかしいなぁ、良いのかなぁ?と思いつつ車を停めさせて頂き
いざ城攻めに出発します。ところがまぁ、さすがに急峻な山だけあって
舗装道路でも歩くのにひと苦労。でも途中には案内板が並んでいるので厭きません。
そうした山道を登っていくと、突然目の前に石垣が立ち塞がりました!
おぉぉぉぉ、こっ、これは…(絶句)
国史跡 備中松山城

国史跡 備中松山城

こんな感じで石垣がそびえ立っているんですっ! (><)
もうね、凄いッスよ。
もともと岩山になっている所をさらに石垣で固めて、
それが見上げるような高さにまで突き上がってるんです。
時期が悪い事に、肝心の天守は修復工事中で見学できなかったんだけど
あの石垣を目にした衝撃は格別だったなぁ。

何はともあれ、(天守リベンジもあるし)
石垣をもう一度見に行きたいと思う城であります。

高梁の町を少しうろつき、城下町の名残も見学。
しかる後、北上して中国自動車道に乗り向かったのは津山の町。
こちらも津山城の城下町ですな。
その城跡・鶴山(かくざん)公園の駐車場に車を止め、いざ城郭の攻略に!
これまた良い城跡です。備中松山城が“天険の要塞”ならば
津山の城は“完璧に構築された人造構造物”という感じ。
とにかく、斜面と言う斜面が全て石垣で固められているんです。
一歩進めば石垣の壁に突き当たり、左右に折れて階段を昇ればまた石垣の壁…。
よくまぁここまで石垣だらけにしたもんだ。
春には桜の名所として人が集まる城跡ですし、ここも必見の城郭ですな♪
国史跡 津山城
国史跡 津山城

こっちも石垣だらけですっ! (><)

時刻は早や午後1時を過ぎ、急ぐ旅路なので昼食はファストフードで済ませ(悲)
美作の山並みを縫って東へ走ります。予定としては林野城へ行くつもりなんだけど
国道179号線に導かれてたどり着いたのは…なぜか三星城 (^^;
予定外の城跡だったのでイマイチ要領を得ず、
軽く見て引き上げざるを得ませんでした。で、そこから
国道374号線を南下して行ったのですけど、これまた行き当たりで
茶臼山城を発見。こちらはかなりわかりやすい城跡で、374号線を走っていたら
目の前の小山の上に見るからに(模擬)天守と思しき建物があり(笑)
それに導かれるように山を登っていったら、やはり城跡だったワケで (^^;
何でもここは、岡山藩主池田家の分家が入っていた地域だそうで
その一門の墓地が綺麗に並んでおりましたよ。それに加えて、
復元された竪穴式住居なんかもあったりして、ちょっとした歴史公園でした。

で、374号線を進んで来たのには訳がありまして、
この途沿いに有名な山城・天神山城があるから。
戦国時代きっての梟雄として名高く、岡山を代表する戦国大名である
宇喜多直家ゆかりの城でござるな。ここを見ずして岡山の城めぐりは終われません。
そーゆー事で、城跡前の小さな神社に車を停めさせていただき
城跡探訪に分け入ったのであります。ところが、ここで驚くべき事態が!
車に戻ってきて道路地図を取り出し、さぁ次の目的地へ向かうにはどうするか…と
考えていた所に、運転席の窓をコンコンとノックする音が。
ん?なんだ?と思い顔を上げると、目の前にいたのはお巡りさん!
「何してるんですか?」
「いや、これから行く所はどこを通ればいいのかと…」
「どこ行くんですか?」
「えーっと、閑谷学校の方へ」
「あぁそれならこの先の和気町で県道96号線に入れば行けますよ」
「どうもありがとうございます」
「旅行ですか?」
「えぇそうです」
「湘南ナンバーだけど、神奈川から一人で来たんですか?」
「はい」
どうやら、県外車がひと気の無い所に停まっているので
何事かと思って職質したようです。いや、別に悪さはしてませんけど… (^^;;;
それにしても驚いた。パトカーの気配なんか全然感じなかったのに
いつの間にか隣にお巡りさんが居たなんて!流石プロやねぇ。
これからも悪人を手際よく捕まえちゃって下さい。

さて、気を取り直して先に進みます。
お巡りさんに教えて貰った通りに進み(爆)車は和気町へ。
奈良時代の政治家・和気清麻呂(わけのきよまろ)の出身地と言われるこの町は
いかにも農村地帯という感じでのどかな雰囲気。
個人的にこういう風情は大好きですねー! (^-^)
道路標識に従って、山あいの静かな谷間にやってきました。
ここにあるのは岡山藩の公設学校・閑谷学校。
まさに静かな谷間にある学校ですな。備前焼の赤瓦を葺いた建物が沢山並び
まるで江戸時代そのものの空間が残されている姿に感激を覚えます。
閑谷学校の開祖にして江戸時代前期の四賢君に数えられる池田光政公の墓所や
学校の教鞭をとった岡山藩の英才・津田永忠の屋敷跡もあり
見所いっぱいの史跡です。これは凄いや…。
備中松山城、津山城と来て、ここ閑谷学校に至った今日の行程ですけど
岡山の史跡はクオリティが高く、歴史好きの人間にとっては
たまらない嬉しさがありますねー。
国宝 閑谷学校講堂
国宝 閑谷学校講堂

身分にとらわれず、武士であろうと庶民であろうと
学問を志す者を一堂に集めて学ばせた閑谷学校。
その講堂は今や国の宝になりました。
広く才を育てた池田光政公の思いは
現代も変わらずここに残っている訳です。

閑谷学校の南から国道2号線に出て、そのまま東へ向かえば県境。
岡山県から兵庫県に戻ってきました。
兵庫西端の入口は赤穂市。そう、赤穂浪士で有名なあの赤穂です。
山陽道の備前ICを跨ぎ、三石の交差点で兵庫県道96号線に移って
赤穂の中心街へ向かえば、目指すは赤穂城ッス。
言うまでもなく、赤穂浪士関連のものが溢れている上
江戸時代の軍学に基づいて作られたという星型の城郭・赤穂城が
この当時は復元工事の真っ最中で色々と手が加えられていた状況。
普段はなかなか見られないものとかがむき出しになっていたりして
興味深く見学したのでございます。ま、ここはとやかく書かなくても
忠臣蔵で誰しも知っている所だから別にいーよね (^^;
国史跡 赤穂城本丸跡
国史跡 赤穂城本丸跡

拙者が訪れたこの頃はまだ復元工事中で
部分公開しかされてなかった赤穂城。
それでも、この門構えは立派でしょ?
今はさぞかし綺麗に整備されているんだろうねぇ…。

で、この日の宿は赤穂市内にあるかんぽの宿・赤穂。
城跡から10分ちょっとで到着し、ゆったりとくつろぎました。
明日はいよいよ!今回の旅行の一番のお目当て、姫路へ向かいます♪




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