美作国 三星城

三星城跡入口

 所在地:岡山県美作市明見・入田
 (旧 岡山県英田郡美作町明見・入田)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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鎌倉時代地頭職の居館に始まり…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三星(みつぼし)城の創始は平安末期の応保年間(1161年〜1163年)に渡辺長寛が館を構えたものとされる。この渡辺長寛なる者は
現地の土豪らしく、鎌倉幕府が成立すると美作守護となった梶原平三景時に従ったと云う。将軍・源頼朝に重用された景時は、武辺者
揃いの御家人の中にあって“事務練達の者”として重用されたが、頼朝没後はその反動として他の御家人から恨まれる事となるに至り
1200年(正治2年)謀反を疑われ鎌倉を追放された挙句に討ち取られた。渡辺氏は長寛から子・長信の代になっていたが、景時に殉じ
自刃したと言う。景時は伝記にあるほど悪人でなく配下国人に慕われていたという事か、はたまた渡辺長信が忠義の漢であったのか。
いずれにしても草創期の三星城に関して伝わる話はこれだけでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
続いて歴史上に出て来るのは室町時代。この頃に美作塩湯郷(現在の美作市内、湯郷(ゆのごう)周辺と比定される)の地頭職だった
後藤氏の居城としての経歴である。鎌倉幕府滅亡後、新たな武家の棟梁となった足利氏に従い後藤下野守康基が1336年(延元元年/
建武3年)に地頭職を受け入部。1339年(延元4年/暦応2年)、それまで妙見(みょうけん)城(地名にある明見(みょうけん)と同義か)と
呼ばれていたこの城に入ったと現地案内板には記されている。もともと(渡辺氏の館より前)この山には妙見信仰(北斗七星を祀る)の
三星山宗國寺があったそうで、それが妙見(明見)の地名になったのだろう。以来、後藤氏の命脈は戦国後期まで続く。史料の上では
1350年(正平5年/観応元年)美作守護・山名弾正少弼義理(よしまさ)の書状に後藤下野守が塩湯郷地頭職に推挙された事を記して
いる他、翌1351年(正平6年/観応2年)2月21日に将軍・足利尊氏から後藤義季・康季兄弟(康基の子)に所領の分割発給が為された
文書が残る。1375年(天授元年/永和元年)8月10日、康季は兄・義季の子(つまり甥)である季治を猶子として家督や所領を継承させ、
以後、季治―理季―下野守康秀―勝政―勝国―摂津守勝基と代を継いだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、観応の擾乱(将軍・足利尊氏とその弟・左馬頭直義(ただよし)の争い)で直義側(南朝方)についた山名伊豆守時氏(ときうじ)が
1361年(正平16年/康安元年)この城を攻め落とし後藤氏を下したとも言われるが、程なく尊氏側(北朝方)の赤松氏が奪還し後藤氏は
幕府に帰順したとか。これ以後も美作では山名氏と赤松氏の綱引きが続くが、その都度後藤氏も服従先を変える事になった。さりとて、
応仁の乱以後、名門大名が軒並み没落すると美作は山名氏・赤松氏の軛から開放され、後藤氏は独立勢力としての性格を強めていく。
塩湯郷には地名の通り湯郷温泉が湧いており、逗留客を相手にする宿場町が形成され「湯旅人役銭」の収益があった。現代で言えば
「入湯税」である。また、そうした旅人達は彼の地にある湯大明神(湯神社)に参拝し、勧進が行われるなど、町は繁栄していたようだ。
現金収入がまさに“湯水の如く湧き出る”塩湯郷は後藤氏の権勢を高めて、いつしか美作領主の中心的存在に押し上げる。後藤氏は
周辺の諸勢力と抗争しながら徐々に勢力を蓄えていき、戦国大名化したと見られており申す。なお、余談になるが後藤勝国の弟・基家
(勝基の叔父)の孫に当たるのが後藤又兵衛こと隠岐守基次(もとつぐ)なんだとか(諸説あり)。黒田筑前守長政の随臣にして、後には
大坂の陣で豊臣家に与し「槍の又兵衛」と評された豪傑である。後藤一族というのは、実に侮れない血筋だったという事の証だろう。

戦国の世、美作を巡る暗闘■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国期、美作国は備前国(岡山県東部)の浦上(うらがみ)氏・宇喜多(うきた)氏、備中国(岡山県西部)の三村氏、山陰地方の大大名
尼子(あまご)氏ら周辺列強の争乱が行われる舞台となり、三星城もしばしば攻められた。当初、後藤氏は山陰の巨大勢力・尼子氏に
与していたものの、浦上氏の勢力が強まるとこれに同調し尼子氏と断交するに至る。浦上氏との誼を通じる証として、浦上家の重臣・
宇喜多和泉守直家(なおいえ)の娘が1561年(永禄4年)に後藤勝基へと嫁いで共同戦線を張る事となった。後藤家の三星城は対尼子
最前線であり、一触即発の緊張状態にあったが次第に尼子氏は衰退していき、1566年(永禄9年)毛利氏の攻略によって滅亡。■■■
これと並行して三星城は備中から侵攻した三村氏の攻撃にも晒される。当時の三村氏は毛利氏の後援を受けており、最初の攻撃は
1563年(永禄6年)5月に始まり、これは浦上家の援軍を得て撃退するも、それ以後は数年に渡る執拗な攻防戦が行われた。対外的な
戦いが続く事を逆手に取り、勝基は統治にも才を発揮し美作国人衆の掌握を進め、抗う者を倒し、服従した者を抜擢し権力を強める。
やがて三村氏も宇喜多・毛利によって滅ぼされ、後藤氏は東美作における支配を確固たるものにしたのだった。三星城を攻めた三村
紀伊守家親(いえちか)は宇喜多直家の手の者によって暗殺され、跡を継いだ家親の2男・修理進元親(もとちか)も、復讐の念に燃え
直家打倒を誓うが、それが徒となり情勢を見誤って毛利を敵に回し討たれたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、後藤氏の安泰を脅かすのは他ならぬ姻戚関係にあった宇喜多直家であった。後藤氏と結んでいた浦上氏は直家の下剋上で
滅ぼされている。一方で、この頃すでに勝基は隠居し嫡男・与四郎基政(元政)が後藤家の当主となっており“浦上・後藤の同盟”として
直家の娘が勝基へ嫁いだ事は過去のものとなっていたのだろう。1577年(天正5年)頃から後藤・宇喜多間で所領争いが発生、謀略の
天才と言える宇喜多直家は瞬く間に美作攻略を本格化させ1579年(天正7年)3月に三星城を包囲、5月に落城させたのだった。5月3日、
勝基は奮闘の末に自刃、基政は落ち延びたと言われるが戦死したとも伝わる。鬼謀の策略家・直家としては娘の嫁ぎ先だからと言って
己の野望の為には歯牙にもかけぬつもりだったのだろう。その一方、勝基に嫁いだその直家の娘・千代は、城内で内応し落城の端緒を
作った裏切者・安藤相馬の首を獲ったという伝説も残る。女ながらに(と云う書き方もアレだが)男の首を落とすとは、父に劣らぬ策略で
相馬の油断を誘ったか?しかし亡き夫の為にその才能を活かしたのだから、野心家の父とは違う貞淑な妻だったのだと思いたい。■■
この落城で三星城は廃され、以後は自然の山林となった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡はJR姫新線の林野駅に近い美作中央病院のすぐ裏にある。病院の南側に明見三星稲荷神社があり、その奥から城山に入れる。
神社境内の上段に屋敷地があり、そこから更に登山道を登ると山上部へと至る。山は主頂・東峰・西峰の3峰から成っており、これが
「三星城」の名の由来になっているそうだ。必然的に3峰でそれぞれ曲輪が造成されて、これらの曲輪群が並ぶ連郭式の山城である。
主峰(主郭)標高は233.2m、山麓(明見三星稲荷神社)の標高は83.5mなので比高差150mを数え、山頂曲輪群の間は堀切で分断と、
とにかく険阻な山城なので登頂には注意が必要だ。城山の北西から東に向かって滝川と言う川が流れ、それは梶並川と合流し城山の
南へと進んでいく。即ちこの山は北西〜東〜南を大河に囲まれる天然の外濠を有す訳だが、この梶並川を挟み林野城(美作市内)が
目の前にあり、この周辺が東美作の覇権を賭ける激戦地であった事を想像させる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1972年(昭和47年)12月20日、美作町(当時)指定の史跡。現在は美作市が継承してござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡








備前国 茶臼山城

茶臼山城跡模擬天守

 所在地:岡山県赤磐市周匝
(旧 岡山県赤磐郡吉井町周匝)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
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備前・美作、戦乱激しくなる頃に誕生した山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岡山県赤磐市、市町村合併前は岡山県赤磐郡吉井町の周匝(すさい)にある山城。岡山県内には他にも茶臼山城と言う名の城が多い為
周匝茶臼山城と表記される事が一般的。浦上遠江守宗景の居城であった天神山城(岡山県和気郡和気町)と、上記の三星城のほぼ中間
地点に存在する。津山市から流れて来る吉井川と美作市から流れて来る吉野川の合流点を見下ろす茶臼山を城域としており、この城から
北側が美作国、南側が備前国となる要衝。のみならず、2つの川の合流地点を挟んで赤磐市(旧赤坂郡周匝村)・久米郡美咲町(旧勝南郡
飯岡村)・和気郡和気町(旧和気郡塩田村)・美作市(旧英田郡福本村)の4市町村(村名は市町村制発足当時の名)往時は4郡が密接して
いた場所なので、諸勢力が争奪戦を繰り広げた地域である事は想像に難くない。戦国時代には吉井・吉野両川の水運と備前・美作国境を
守る位置として重視された。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
詳細は不明なれど築城は1533年(天文2年)頃と言われ、築城者は浦上宗景の配下であった笹部(佐々部とも)勘解由(ささべかげゆ)との
説が有力である。佐々部亦次郎、笹部勘次郎とも呼ばれるこの人物は安芸の出とされるが、宗景は彼を取り立てこの城に配したのだろう。
(笹部氏はそれ以前からこの地の名主であったとも言うが、いずれにせよ周匝茶臼山城主に据えたのは宗景の命に拠ると考えられる)
茶臼山城は天神山城の北を守る城として美作に睨みを利かせていたのでござる。この後、笹部家は代替わりし勘解由の子・勘斎貞利が
当主となるが、勘解由・勘斎父子は宗景の期待に応え城を固く守っていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが浦上家では下剋上が勃発、家臣であった宇喜多直家が1575年(天正3年)宗景を撃破しその所領を乗っ取った。この怱劇に対して
星賀光重(星賀家が周匝茶臼山城主で、1553年(天文22年)尼子軍の攻略で星賀藤内守るこの城が落とされたとの説もある)や笹部氏は
反発し、直家との対決姿勢を見せる。この星賀氏というのは茶臼山の対岸、飯岡(上記の「旧飯岡村」、ここからは美作)にある美作鷲山城
(岡山県久米郡美咲町)主である。他方、直家になびいた宗景の重臣・延原(信原とも)弾正忠景能(のぶはらかげよし)は周匝に隣接した
所領を有していた事から、周匝茶臼山城への攻撃を行うが撃退された。1577年〜1578年(天正6年)と繰り返された景能の攻撃に対して、
勘斎は光重の援軍を恃んで退け、彼らは三星城主・後藤勝基を盟主に「反宇喜多同盟」を結成し直家に抵抗した。■■■■■■■■■■
景能独力では打開できない事態を見て、直家は1579年の年始から反宇喜多同盟への攻撃を開始。豪胆で知られる猛将・花房助兵衛職秀
(はなぶさもとひで)や延原景能が率いる宇喜多軍は周匝茶臼山城へ攻めかかり、3月に落城した。同様に美作鷲山城も落ち、笹部勘斎と
その子・仙千代、星賀光重はいずれも戦死したそうだ。宇喜多軍はその勢いで後藤基政の籠る三星城も5月に落とした。これで宇喜多氏の
備前支配は磐石なものとなり、美作への進出も成し遂げたのでござった。これによりこの城は用いられなくなった。■■■■■■■■■■
江戸時代に入ると当地は岡山藩池田家の領地とされ、廃城となった周匝茶臼山城に代わり周匝郷に陣屋が築かれる。1632年(寛永9年)
池田一族である池田伊賀守長明(片桐池田家)が周匝陣屋の主となって治世に当たったのでござる。以後、周匝2万2000石は岡山藩家老
片桐池田家が11代に亘って相続し、大学長久(ながひさ)―靫負長喬(ながたか)―但見長處(ながつね)―主殿長仍(ながゆき)―斎宮助
長玄(ながよし)―主殿長紀(ながのり)―但見長貞(ながさだ)―大学長常(ながつね)―采女助長準(ながとし)と続き明治維新に至った。

茶臼山城の縄張りと現状■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
茶臼山山頂の標高は174m。この山はいくつかある近隣の山と密着しているが、山頂からの主尾根は東へ延び、その先端にも標高172mを
指す小ピークがある。この突出した小ピークが主郭で、その東で一段下がった地点には太鼓ノ丸と呼ばれる出曲輪も。主郭の切岸下には
腰曲輪状の二郭・三郭が付随し、その下部(東面〜南面にかけて)は放射状の畝状竪堀がズラリと並んでいた。茶臼山山頂から主郭部へ
繋がる尾根は、言わば天然の土橋のような環境にある訳だが、そこには数条の堀切を穿ち防御線を構築している。東西方向に長い城域は
約600m(800mとする説もある)を数えるが、この山の北側にあるもう一つの小山にも大仙山城と名付けられた別城があり、それも含めれば
広大な敷地の城砦群でこの山一帯が固められていた事になろう。宇喜多軍の攻撃を耐えたのも然り、という訳である。茶臼山山頂付近に
明瞭な城郭遺構は残存しないが、大仙山城との連結部に当たる場所なので当然それはあった筈だろう。山頂部こそ二ノ丸と見る説もある。
また、浦上宗景存命の頃は北へ(対美作方面)の前衛として使われたのに対し、宇喜多直家が台頭した後は南(対備前方面)を敵に戦い、
この城の構造もそれに応じて改変を受けたとも考えられよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状、茶臼山山頂には最高地点を挟み東西に片桐池田家(周匝池田家)墓所が造成されている。太鼓ノ丸には日清・日露戦争の忠魂碑。
そして楕円形をした主郭は吉井城山公園として整備され3重の天守を模した展望台があり、内部に旧吉井町の歴史遺産が展示されている。
この主郭は長辺60m×短辺40m。そこからの視界は良く、更に展望台の上からとなれば猶の事。当然、当時もそれなりの物見櫓はあったで
あろうが、中世城郭であるこの茶臼山城に天守があった事実はなく、あくまで観光用の模擬天守である。入館無料なのが有り難い。■■■
この観光天守の建立を前に、1985年(昭和60年)に本丸周辺で発掘調査が開始された。もともと、この本丸跡地には太平洋戦争中に電波
中継塔や兵営施設の設置が行われており、その際に敷地面の削り取りが行われたため遺構は既に消滅したと考えられていた。ところが、
予想に反して柱穴・溝・大型竪穴遺構などの建物基礎、石礫・甕・碗・土器・瓦・擂鉢・銭貨(政和通宝や永楽通宝)と言った武器・生活遺物、
そして焼土層が確認され、中世城郭としての建造物(但し、柱の配列までは確認できずどのような建物だったかは不明)、城での生活環境、
更に落城時に城が焼かれた状況が鮮明となったのだ。また、中世以前の遺物も検出。特に大型竪穴遺構は竪穴式住居の存在を証明し、
古代からこの場所が人の営みに供された場所である様子が判明している。なお、この竪穴式住居は深さ5m程もあったらしく、「住居」と言う
よりも「倉庫」だったのではないかと考える向きもござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
発掘に先立つ1984年(昭和59年)2月18日に吉井町指定史跡となっている。また、周匝池田家墓地はそれより前の1977年(昭和52年)4月
1日に同じく町史跡と(共に現在は赤磐市史跡として継承)なっていた。茶臼山一帯は模擬天守の開業と同時に歴史公園として開放され、
その模擬天守の前には旧吉井町内にあった古民家が移築され、竪穴式住居の実物大復元模型も置かれている。発掘で見つかった大型
竪穴式住居を模した物だろう。池田家墓所と含め、城跡の公園は歴史を楽しむ観光名所となっており、池田家墓所と模擬天守の間近には
かなり大きな駐車場も用意されているが、そこへ至るまでの道路は道幅が狭く急な登り坂なので運転には注意が必要でござる。■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は市指定史跡




天神山城  下津井城・南山城