美作国 津山城

津山城址石垣

 所在地:岡山県津山市山下

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★★★☆



江戸時代に築かれた美作の新たな首府■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
美作(みまさか)国が朝廷によって設置されたのは713年(和銅6年)の事。備前国から山間部6郡を分置したもので、現在の
津山市総社に国府が置かれた。以来、美作国は津山盆地を中心に統治が行われたのである。■■■■■■■■■■■■
室町幕府が開かれると、総社から西に4kmほど離れた院庄(いんのしょう)に美作守護所が設けられ、この周囲が都市開発
されていく。嘉吉の乱の戦功により美作守護となった山名修理大夫教清(やまなのりきよ)は、一族の山名忠政(ただまさ)を
美作守護代に任命し派遣、忠政は総社に程近い「鶴山(つるやま)」に築城し守りを固めた。これが津山城の始まりである。
築城時期は1441年(嘉吉元年)とみられているが、当時の構造は不明。戦国争乱の時期に山名氏は没落し、鶴山城は周辺
豪族の争奪が行われたため、この過程で徐々に荒廃していったと見られる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦後に備前・美作を領したのが小早川秀秋。秀秋は備前の岡山城(岡山県岡山市北区)に入って
領国経営を行ったので、鶴山城は正式に廃された。しかし秀秋は僅か2年後に病死。嗣子が無かったので小早川家は断絶し
備前には池田氏、美作には森氏が新たな領主として任じられた。森氏は清和源氏の流れといわれ、祖先は前九年の役や
後三年の役で活躍した「八幡太郎」こと源義家(みなもとのよしいえ)とされている。後に美濃国(現在の岐阜県南部)で土着し
戦国時代は織田弾正忠信長に臣従した家系。信長の家臣・森三左衛門可成(よしなり)は美濃金山城(岐阜県可児市)主で
あったが浅井・朝倉氏との抗争で戦死。その子である長定・長隆・長氏は本能寺で信長と共に討死した。蘭丸・坊丸・力丸の
三兄弟、と言った方が分かり易いだろう。可成の嫡子で蘭丸らの兄である武蔵守長可(ながよし)は羽柴筑前守秀吉に仕え
剛勇を馳せたが、これも1584年(天正12年)4月9日の長久手合戦で討死してしまう。生き残った可成の6男・千丸こと右近丞
忠政(ただまさ、長可・長定らの末弟)が森の家督を継ぎ、関ヶ原合戦で徳川秀忠軍に従って上田城(長野県上田市)攻めに
参加した為、その功を以って信濃川中島(長野県長野市)に13万7500石の封を得ていた。その忠政が、小早川家の断絶に
伴い、18万6500石の領主として1603年(慶長8年)美作へ移封されるのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当初は美作守護所であった院庄城に入り居館整備を開始したものの、この工事期間において家臣同士の諍いが起き家中は
混乱。また院庄城は平野にある平城で防衛に難ありと判断、新たな築城候補地を探した結果、廃されていた鶴山城の跡地に
着目し、ここを新城と定めた。1604年(慶長9年)の春に築城を開始。それにより「鶴山」を「津山」に改称。津山の名はこの時に
始まるのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
旧来は土塁作りだった山名氏の鶴山城であったが、石材を大谷山・金屋山(吉井川流域にある山)などから切り出して総石垣
作りの堅城へと生まれ変わらせた。鶴山は標高147mの独立丘陵。麓からの比高は45mもあり、この山を全て石垣で囲うのは
大変な難工事であったと推測される。木材は北部の山岳地から産出され、それを用いて多数の櫓が建設された。明治初期に
撮影された城の古写真が残っているが、各曲輪は隙間なくびっしりと建造物で占められており、建築密度の非常に高い城郭
だったと言える。このため工期は13年にも及び、1616年(元和2年)3月にようやく完成された。■■■■■■■■■■■■■

津山城の構造と地勢■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
津山城は平野に単立する典型的な平山城だ。城の南側を吉井川(当時は吉田川)が走り、東側にはその支流である横野川
(同じく宮川)が流れ天然の濠を形成している。山頂に天守が聳える天守丸、周囲を本丸、一段下がって二ノ丸、更に三ノ丸と
下り、階段状の輪郭式曲輪構成を採る堅固な城である。城中はまるで迷路のように複雑で、その内部を無数の櫓と門それに
絶壁のような石垣で防備しており、攻略するのはかなりの困難を伴う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この城を中心に津山城下町は大きく発展する。元和末期(1620年代)に一応の完成を見るが、その後も拡張を続け寛文中期
(1660年代)には東・南・西へと伸張した大都市になった。もともと津山の地は吉井川に繋ぐ加茂川・広戸川・倭文川・久米川の
集約する所にあり、これらの河川で開けた町は大きな発展の可能性を持っていたのだ。現在も川に沿う形でJR因美線・国道
53号線(加茂川)、JR姫新線・国道179号線(広戸川)、JR津山線・国道429号線(倭文川)、JR姫新線・国道181号線(久米川)、
それに中国自動車道が走っており、交通の要衝であった事も容易にうかがえる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした重要要素を抱える津山藩18万6500石の本拠として作られた津山城の天守は、当時最新鋭だった層塔型天守であり、
5重5階+地下1階の巨大なもの。天守建築に特有な飾り破風を一切持たない剛健な意匠ながら、白壁で塗り固めたが故に
どこか優美な印象も与える独特な建築物である。1重目〜4重目までは一定の比率で逓減した安定感のある外観だ。完成後
間もない正保時代(1640年代)の絵図には、板葺き屋根の上に乗る5重目が高欄を巡らせて4重目より逓減した姿が描かれて
いる。この正保城絵図の信頼性はかなり高いものと言われている。しかし、明治初期に撮影された津山城天守の5重目には
高欄がなく4重目と同大の寸法であった。つまり、正保から明治までの間に津山城天守は若干の改造工事を受けていた事に
なろう。ともあれ、櫓の林立する津山城の中でも一際目立つ建物であり、城下から望むその姿は威厳と風格に満ちたもので
あったようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、忠政の後を継いだのが養子の長継(ながつぐ、忠政の娘孫に当たる)。2代藩主となった長継は城の北に「御対面所」と
呼ばれる山里曲輪を作った。1655年(明暦元年)〜1657年(明暦3年)の3年に渡った工事で、迎賓館・余芳閣などの諸建築と
池泉廻遊式庭園を整備。京都から作庭師を招き、仙洞御所(天皇の邸宅)を模して造営したものと言われる。同じく岡山県に
ある後楽園(岡山城山里曲輪)と同様の明媚な庭園で、賓客の接遇などに用いられ申した。■■■■■■■■■■■■■

森家の除封と廃城破却まで■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
森氏はこの後、3代・伯耆守長武(ながたけ)―4代・美作守長成(ながなり)と継承されたものの、1697年(元禄10年)6月20日
長成が嗣子なく没したため、幕府は同年10月に津山領を没収する。森氏の支配は4代95年で幕を閉じ、翌1698年(元禄11年)
5月迄は広島藩主・浅野安芸守綱長(つななが)が城番として城を預かった。そして5月に新城主を命じられたのが越前松平家
(徳川家康の2男・結城左近衛権少将秀康(ゆうきひでやす)を祖とする家系)の松平備前守長矩(ながのり)である。長矩は
秀康の曽孫にあたり、徳川一門の中でも権威ある家柄であった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長矩は美作国のうち10万石を拝領、宣富(のぶとみ)と改名し津山藩の新生に務めた。以後、津山は親藩・松平家の城として
明治まで治められるのである。宣富の後は浅五郎(あさごろう)―越後守長煕(ながひろ)―越後守長孝(ながたか)―越後守
康哉(やすちか)―越後守康乂(やすはる)―左近衛中将斉孝(なりたか)―左近衛権中将斉民(なりたみ)―左近衛中将慶倫
(よしとも)の9代174年と続く。1726年(享保11年)11月11日に2代・浅五郎が早世した事で石高5万石に減らされたが、1817年
(文化14年)7代・斉孝の時に10万石を回復。1838年(天保9年)讃岐(現在の香川県)の小豆島も領土に加えられ、幕末には
美作の天領(幕府直轄領)のうち1万6700石を預けられた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この間、1809年(文化6年)に津山城本丸が火災で焼失する事件があったが翌年復興。また、1832年(天保3年)御対面所に
西御殿が新築された。こうした経緯を経て津山城と津山藩は明治維新を迎えたのでござる。■■■■■■■■■■■■■
1869年(明治2年)6月17日、版籍奉還で藩主・松平慶倫は藩知事に任じられる事となり、翌1870年(明治3年)に藩政庁および
藩主居館を城外に移転、「御対面所」を「衆楽園」と改称。城の主要部は陸軍大阪鎮台に引き渡された。更に1871年(明治4年)
7月14日、廃藩置県にて津山藩は廃止。美作国は北条県となり津山城は廃城の扱いとされた。これによって1871年(明治5年)
6月に北条県から津山城売却布告が発せられ、1872年(明治6年)に1125円で売却されたのであった。同時に建築物の撤去
作業が開始され、1874年(明治8年)には全ての建築物が消え去った。先祖代々と受け継がれてきた城が消える様子を見た
城下の民は深く嘆いたという。次いで外堀も埋め立てられ、城跡は丸裸となってしまったが、幸いな事に石垣の破壊などは
行われず、三ノ丸以内の敷地は保全されることになった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

城址公園としての再生■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1885年(明治18年)旧藩主松平家は衆楽園を岡山県に寄付。県は清涼軒・風月軒(園内の建物)を改築工事し、「衆楽園」の
名を「津山公園」に改めた。そして1900年(明治33年)城跡は津山町(当時)の町有地となり「鶴山(かくざん)公園」として一般
開放。1905年(明治38年)には三ノ丸跡に旧津山藩の藩校・修道館を移築し「鶴山館」を開設したのでござる。■■■■■■
続いて1925年(大正14年)津山公園が岡山県から津山市に移管され「衆楽園」に再改称された。かつての名城と大名庭園は
公園として広く開放され、市民の憩いの場となったのだ。1936年(昭和11年)には産業振興大博覧会を城跡で行い掻き揚げの
模擬天守を建てたが、1945年(昭和20年)取り壊された。太平洋戦争の激化で空襲の目標となる可能性があったためである。
(岡山城天守が1945年(昭和20年)6月29日に空襲で焼失した事を受けたもの)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
故に、長らく津山城址は石垣だけが残る公園となってしまっていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
されども名勝・鶴山公園には約5000株の桜が植えられ、日本有数の桜の名所となっており、四季折々に表情を変える自然の
美しさには定評がある。また、残された石垣の高さや作りは見事で歴史的価値は非常に大きい。このため1963年(昭和38年)
9月28日、津山城址は国の史跡に指定され申した。1966年(昭和41年)に二ノ丸東側、1974年(昭和49年)粟積櫓跡、1980年
(昭和55年)には冠木門址、1989年(平成元年)東南隅部、2001年(平成13年)五番門の南での石垣修復工事も行われている。
こうした修繕工事と並行して、数度に亘る発掘調査も為された。これらの事業は1988年(昭和63年)に策定された史跡保存整備
基本計画に基づいており、津山市では本丸内にあった民家や茶店も1991年(平成3年)までに退去させ津山城址の復興再生に
力を入れるようになった。そして2002年(平成14年)から備中櫓の復元工事に取り掛かり、翌2005年(平成15年)に完成した。
この櫓は大型の1重目の上に小さな2重目を載せたもので、長きにわたって石垣だけだった城址に彩りを添える、目立つ建物と
なっている。2006年(平成18年)には天守台南側に太鼓塀も復元している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
本丸跡地は1万1537uで石垣敷2066u、櫓等31基、門15棟が建てられていた。二ノ丸跡地は1万5174u、石垣敷3908u、櫓等
12基、門7棟。三ノ丸は1万3583u、石垣敷2931uで櫓等が17基、門11棟があった。総曲輪の諸元は面積13万2466u、土居や
石垣敷2万9120u、東麓に1万5058uとなり、郭内総敷地面積は22万5839uを数える。このほとんど全ての敷地が現在も残存。
建物は残されていないとは言え敷地全域が保存されている城は少なく、最近の考証で、現在の建築技術ならば津山城全城の
復元が可能と判断された。これを受けて津山市の各公共団体は津山城復元構想を企画している。■■■■■■■■■■■
世界文化遺産の姫路城(兵庫県姫路市)や二条城(京都府京都市中京区と言えども城郭全てが残存している訳ではないので
津山城の完全復元計画が完成したならば文化的価値は計り知れないものとなる。江戸時代の大城郭が現代に蘇るのだから、
城そのものが歴史博物館になると言えよう。なお、明治の廃城時に移築された遺構として美作国一宮の中山(なかやま)神社
(津山市内)にある神門が、津山城二ノ丸の四脚門であったとされている。この門は1975年(昭和50年)11月15日に津山市の
有形文化財に指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2006年4月6日に財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つに選ばれた城址は、桜や樹木を眺めるだけでも登城の価値が
ある。高い石垣の保存状態は良好で、特に天守台の穴倉を見届けられるのはなかなかに面白い。衆楽園と併せて城跡探索を
してみるのが良いかも。ちなみに衆楽園(旧津山藩別邸庭園)は2002年9月20日、国の名勝に指定されている。■■■■■■
現在は別名として「鶴山城(かくざんじょう)」と呼ばれる事も。写真は本丸・大戸櫓跡の高石垣でござる。■■■■■■■■■

天守にまつわる四方山話■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、最後にまとめて天守についてのあれこれを。日本三大平山城の1つ(他の2つは姫路城と松山城(愛媛県松山市))に数え
られる津山城。鶴山の山頂にすらりと延びる層塔型天守は、石垣上の建物総高23m、梁間10間×桁行11間を数えた。上記の
通り破風は一切無いが、初重の四隅に袴腰の石落としが開いていた。初重〜4重目までの壁面には矢狭間と鉄砲狭間が並び
その姿は明治の古写真にもしっかり残されている。そうした古写真で、4重目の屋根には瓦が葺かれておらず、しかも最上階の
窓が戸板で塞がれていた様子も確認できる。では何故4重目屋根に瓦が無く板葺きだったのか?であるが、これは5重天守を
揚げた事が幕府に知れ、巨大天守の存在が“幕府に対する謀反の兆候”と受け取られかねなくなった森家が、幕府の検使に
見咎められぬよう、慌てて4重目の屋根瓦を剥がし軒を切り詰め「これは屋根ではなく庇なので、4重天守だ」と言い訳したから
なのだとか。確かに、他の階にはある瓦がそこだけ無ければ「あれは屋根ではない」と見えなくも…いや、どうだか (^ ^;■■
そもそもこの天守の創建時にもこんな逸話が。森忠政が築城する際に、細川家の小倉城(福岡県北九州市小倉区)の天守が
見事であると聞き、密かにそれを真似しようと家臣の薮田助太夫に調査させたそうな。小倉へ潜入した助太夫は、天守の形や
大きさを調べようとしたが、程なく小倉藩士に見付かってしまう。ところが時の小倉城主・細川越中守忠興(ただおき)は、彼を
城内に招き入れ、好きなだけ天守の事を調べさせた。それどころか、天守の図面まで渡して津山へ帰らせたと云う。似たような
話として、津山築城に従事していた大工の保田惣右衛門が小倉城天守を写して津山へ戻ったとも。城は軍事施設、ましてや
当時はまだ流動的な世情で、いつ戦いが全国各所で起きてもおかしくない状況だったのだが、その軍事機密を公開したならば
細川忠興は大した傑物だと言える。もっとも、小倉城天守の方が津山城天守より後に竣工したとも言われるので、事の真偽は
分からないのだが。なお、戦後に復興された小倉城天守には観光用の破風(本来の天守は津山城同様に破風は無かった)が
増設されているが、津山城の“博覧会天守”も同じように破風が追加された形で建てられた。どうにも、昭和の模擬天守を造る
発想は、いずこも同じようで(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その一方、2013年(平成25年)には「美作国建国1300年記念事業」として津山城天守台上に縮尺1/2の簡易天守が期間限定で
設置された。この天守は古写真に基づいた外観になっていて、件の4重目屋根も瓦葺きではなく板葺きの状況を再現している。
さりとて大きさが半分なので、天守台の穴倉に丁度収まるような寸法。まるで穴倉に天守が嵌っているようにも見え、少々滑稽
いや、可愛らしい姿を見せてござった。別の機会には空気で膨らむバルーン天守が置かれた事もあったのだが、津山城天守は
古写真も豊富だし図面もある筈なので、本格的に再建されるのはいつの日か…。それを首を長くして待ちわびる所である。■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
中山神社神門(津山城二ノ丸四脚門)《市指定文化財》




備中松山城  備中高松城・蛙ヶ鼻築堤・足守陣屋