播磨国 赤穂城

赤穂城 三ノ丸大手門と東北隅櫓

所在地:兵庫県赤穂市上仮屋

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:★★★★☆



播州赤穂といえば「忠臣蔵」で有名な浅野家の城下町として知られている。しかし、この城の築城が始まったのは
江戸幕藩体制が完成した後の1648年(慶安元年)と比較的新しい。それ以前の歴史を紐解けば、この地は縄文時代から
集落が発生し海と山の産物に恵まれた土地で、室町中期の享徳年間(1452年〜1455年)岡豊前守光景が加里屋古城を
築いたと「播州赤穂郡志」にある。この岡光景なる人物は嘉吉の乱を起こした播磨守護・赤松満祐の一族とされる。
一方、赤穂市史には岡豊前守「光広」という者が1466年(文正元年)〜1483年(文明15年)の間に加里屋城を築城と
記す。いずれの説が正しいのかは分からないが、武家政権による支配が入ったのは室町時代、それも応仁の乱による
地方分権が波及していく頃からという事になろう。この後、播磨国は織田信長の先鋒として羽柴秀吉が進出してきて
その配下にあった生駒親正、次いで宇喜多秀家が赤穂の地を支配。そして関ヶ原合戦の後、姫路城(兵庫県姫路市)主
池田輝政の所領に含められ、輝政の末弟・池田橘左衛門長政が2万2000石で加里屋城に入城する。長政の在城時期
(1600年(慶長5年)〜1603年(慶長8年))城は再築されたが、これは“掻揚の城”と称されるように簡易な普請で
急場を凌ぐだけのものだったようでござる。長政は僅か3年で備前国下津井(岡山県倉敷市)3万2000石へ移封され
赤穂の地は輝政家臣・垂水半左衛門勝重が500石取りの代官として治めるようになる。1613年(慶長18年)からは
備前国岡山城(岡山県岡山市)主・池田左衛門督忠継(輝政の2男)の所領となり、それに伴って城の改築が行われ
1615年(元和元年)忠継死去による代替わりでは忠継の弟・政綱が3万5000石を与えられ赤穂藩(岡山支藩)が立藩。
藩庁として加里屋城に御殿が造営され、その後も櫓や馬屋が増築されていったようだ。しかしそれでも“支藩の城”は
掻揚城としての体裁を出ず、挙句に1645年(正保2年)3月15日、政綱没後に赤穂藩主の地位を継いでいた池田右近大夫
輝興(てるおき、政綱の末弟)が突如発狂し妻や女中らを斬り殺したのである。同月20日、赤穂藩は改易され輝興は
岡山藩にお預け。加里屋城は備中松山(岡山県高梁市)藩主・水谷伊勢守勝隆(みずのやかつたか)の預かりとなったが
これを機に廃城となり申した。ここまでが「赤穂城」誕生までの“前史”である。
同年、取り潰された池田輝興の岡山支藩赤穂藩に代わり常陸国笠間(茨城県笠間市)藩主・浅野内匠頭長直が幕命で
赤穂へ入府。前任地と同じ石高、5万3500石で新たな領主となった。長直系浅野家は広島藩(広島県広島市)主
浅野家の傍流で、遡れば豊臣政権五奉行の1人・浅野長政の子孫という事になる。ここに独立した新生赤穂藩が立藩、
武家諸法度により新城建設が禁じられていた時代であったが、特例中の特例として幕府から赤穂城の建築が許可され
1648年に工事が開始された訳である。既に徳川幕府が成立して50年近い歳月が過ぎ、実戦を経験した者が少ない時代
赤穂城の縄張りは机上軍学理論に基づいた設計となる。基本設計は甲州流軍学者の近藤三郎左衛門正純が行ったが、
1653年(承応2年)からは当時の軍学の権威であった山鹿素行(やまがそこう)が築城に参加してござる。素行は
長直に1000石で招聘され赤穂藩士に兵学の講義を行っており、その縁で築城案の修正も手掛けたのである。二ノ丸の
虎口周辺を改変したのが素行だと言われており、この後、彼は幕府批判の罪でそのまま赤穂藩お預けの身となった為
自身が手掛けた赤穂城内に蟄居した。さて加里屋城から生まれ変わった赤穂城は海に突き出した砂浜の海岸に作られた
海城で、星型の敷地を持つ本丸を中心に二ノ丸・三ノ丸が周囲を囲む変形輪郭式の縄張り。二ノ丸は直接海岸に面し、
満潮時には石垣が海水に接していた。星型の屈曲を用いているのは甲州流軍学理論によるもので、射撃の死角をなくす
工夫とされていた。また、城門の虎口が全て右回りになっている。これも甲州流軍学理論に基づくもので、敵兵士の
左側に射撃を加えられる構造である。利き手である右手では防備が難しい、という発想でござった。しかしいずれも
「机上の理論」によるもので、実戦でどこまで通用するかは甚だ疑問。これを補うために2重櫓8基、平櫓2基、櫓門
3棟が建てられ、三ノ丸まで総石垣造りの頑強な城郭に仕上っている。完成は1661年(寛文元年)。当初の計画では
さらに3重櫓1基、2重櫓3基、5重天守が建てられる予定であった。外様の小大名である浅野家には贅沢で過剰なまでの
防衛力を持つ城郭であり、築城費用を捻出する為に浅野家は主要産業である製塩に多大な課税を行ったという。
(5万石程度の大名にこれほど広大な敷地を有する城郭は他に例がない)
長直が隠居した後は長男の采女正長友が城主を継承。この際、長友は義兄弟2人に3500石と新田3000石を分知した為、
赤穂藩領は5万石になるが、後に3000石を回復している。そして長友の後を継いだのが内匠頭長矩(ながのり)だ。
1701年(元禄14年)3月14日、長矩は江戸城本丸内松の廊下で高家(こうけ、幕府の儀式典礼を司る老中直属の役職)の
吉良上野介義央(きらよしなが)に斬りつける事件を起こし即日切腹、赤穂浅野家は断絶。国元筆頭家老・大石内蔵助
良雄(よしたか)をはじめとする遺臣は吉良方への処分がないことに激怒し籠城も決意するが、無駄な抵抗で幕府の
更なる怒りを買うよりも浅野家再興のため恭順し4月18日に無念の開城をした。実は、これに先立つ1693年(元禄6年)
備中松山の水谷出羽守勝美(かつよし、勝隆の孫)が病没し無嗣を理由に水谷家が改易となった際、赤穂浅野家が
城の受け取りを行い、良雄は次の城主が着任するまで城番となった経験があった。この折、水谷家遺臣は御家再興を願い
籠城の構えを見せたが良雄が説き伏せて開城させており、同じ因果が自身に巡ってきたのだから同じ結果を出すのが
道理と弁えたのだろう。それにしても、水谷家は加里屋城を受け取り、浅野家は備中松山城を受け取り、赤穂城が今また
同様に御家断絶の憂き目を見る(しかも池田輝興と浅野長矩は共に刃傷事件で改易)など、つくづく血塗られた縁である。
翌1702年(元禄15年)12月14日、赤穂浪士は吉良邸に討入り主君の仇を討った。主家への忠義を貫いた浪士は武士道の
鑑とされ、世間の称賛を受けたのでござる。最期は侍として切腹の処分を受けたが、これによって浅野家は長矩の弟
大学長広(ながひろ)を当主とした500石の旗本として見事に再興を果たす。冒頭に書いた忠臣蔵事件である。
さて赤穂城に話を戻すと、大石良雄による開城に際して幕吏として赴いた播磨龍野(兵庫県たつの市)藩主・脇坂
淡路守安照(わきさかやすてる)らは厳戒態勢を敷いて城を受領。脇坂家は4500人を超える兵を出して警戒に当たり
(この他の大名家からも兵が出されている)1701年9月1日に新たな赤穂城主として永井伊賀守直敬(なおひろ)が
3万3000石で着任するまで(前任地は下野国烏山(栃木県那須烏山市)3万石)城を守備したのでござった。
1706年(宝永3年)1月28日、永井直敬は信濃国飯山(長野県飯山市)3万3000石へ転封。永井家に代わり備中国後月郡
西江原(にしえばら、岡山県井原市西江原町)から2万石で森和泉守長直(もりながなお)が赤穂へ入封。以後
約160年は森家の領する城として明治を迎えた。長直の後、志摩守長孝(ながたか)―越中守長生(ながなり)―伊勢守
政房(まさふさ)―和泉守忠洪(ただひろ)―山城守忠興(ただおき)―伊予守忠賛(ただすけ)―和泉守忠哲(ただあきら)
美作守忠敬(ただよし)―信濃守忠徳(ただのり)―美作守忠典(ただつね)―越後守忠儀(ただのり)と合計12代を
数える赤穂森家であるが、実はこの間“替え玉”を仕立てて幕府の目を欺こうとし代に数えない人物が居たりして
なかなか波乱万丈の家系でもある。また、幕末の騒乱においては家老を暗殺する事件が起きるなど、やはり赤穂藩は
とかく流血に事欠かない“闇深い藩”だと言える。城の変遷について記すと、忠興時代の1778年(安永7年)1月10日
本丸内屋敷にて出火し、累代の記録が多く焼失した事件がある。忠敬期の1815年(文化12年)にも城内で火災が発生
侍屋敷6棟と作事小屋木役所が焼け落ちたと云われてござる。赤穂藩の領地内では度々洪水が起こり荒廃を極めたが
城の敵はもっぱら火事であったようだ。赤穂と言えば“火消大名”で名高い筈なのだが―――?
維新後、1872年(明治5年)に廃城令で赤穂城は廃城とされた。これに前後して、既に二ノ丸外縁〜三ノ丸敷地は順次
売却・譲渡の処分が始まっており、旧士族が帰農して生活の場とした農地などに転用されている。城郭建築物も
廃城に伴い破却・売却が行われていき、廃藩置県で赤穂県庁とされていた本丸御殿(赤穂藩庁舎)も、姫路県への
統合(後に飾磨県さらに兵庫県へと再統合)で無用の物となったため1878年(明治11年)に解体されてごさる。
この本丸御殿建築は赤穂尋常高等小学校校舎として移築・再利用されたが、これも1928年(昭和3年)9月に校舎
改築が行われ失われ申した。売却の買い手が付かなかった櫓などは荒廃するまま放置され、後に廃棄処分となる。
こうした中、1881年(明治14年)旧城の惨状を憂いた花岳寺の住職・釈種仙珪が保存のため旧大石良雄邸の長屋門を
購入。この長屋門は現在まで残り、大石邸跡は赤穂浪士らを祭神として祀る大石神社として活用される事になる。
長屋門を含めた大石邸跡3796.12uは1923年(大正12年)3月7日に国の史跡となっている。ただし、神社の境内拡張を
目的に1897年(明治30年)赤穂城大手門枡形の南縁部分を切り崩し、同枡形北方多門を埋め整地してしまった。
この他、1886年(明治19年)に大手門枡形石垣が改変されたり、1892年(明治25年)から1894年(明治27年)にかけ
千種川洪水による災害復旧ならびに流路変更工事のため二ノ丸門から清水門までの石垣を取り去り築石として
使用するなど、明治期は専ら「城跡を潰した土地改良工事」が横行していた。1928年(昭和3年)11月30日には
本丸跡地に兵庫県立赤穂中学校が開校している。斯くして城址の風情は失われていき、大石邸長屋門の他に
現在まで残存する建築物は三ノ丸武家屋敷地域にある近藤源八邸の長屋遺構のみとされる。また、総構えの
塩屋惣門(城下町木戸)とされる門が上記、花岳寺の山門として移築されており、大きな意味での城址遺構が
もう一つ残されている事になる。近藤邸長屋は1998年(平成10年)4月27日、花岳寺山門は1989年(平成元年)
3月30日に赤穂市文化財に指定されている。
ところが昭和になると“地元の城”の価値が見直され、徐々に復元・保存の機運が巻き起こる。1935年(昭和10年)
大手門前の堀と太鼓橋を復元したのを皮切りに、1937年(昭和12年)本丸跡天守台の崩壊部分を修復。1940年
(昭和15年)には赤穂城跡22.1haが風致地区に指定された。太平洋戦争後、1952年(昭和27年)6月になると
城址を赤穂城跡公園(普通公園)とする都市計画が決定。翌1953年(昭和28年)に本丸外堀を復元、1954年
(昭和29年)からは大手門・大手隅櫓と左右城壁の再建に着手し(但し、旧態とは多少異なる復元となっている)
1955年(昭和30年)5月11日に竣工した(写真)。そして1971年(昭和46年)3月31日、赤穂城跡18万7895uが
国史跡に指定される。 これ以後、数次に及ぶ修復・復元工事が城内各所で行われ、全て挙げるのは不可能な程。
石垣補修に始まり、昭和50年代後半〜平成初頭にかけて本丸内園地の発掘・整地、1993年(平成5年)から
本丸表門の復元工事(1996年(平成8年)3月竣工)、これに引き続いて二ノ丸の復元整備、現在では三ノ丸にも
範囲を広げた改修作業が進められている。それに伴い、2002年(平成14年)9月20日に本丸・二ノ丸の各庭園が
国の名勝に指定、2003年(平成15年)8月27日に国史跡の追加指定(面積19万405.17uに拡大)、2006年(平成18年)
2月13日に日本城郭協会による日本百名城の選定、同年10月27日には赤穂城跡公園を日本の歴史公園100選とする
各種指定を受けている。2006年以降は天守台を利用した冬のライトアップイベント“光の天守閣”が行われ
城址を活用した観光行事にも力を入れているようだ。
赤穂藩は成立当初(岡山支藩当時)より上水道を完備し整然とした町屋を造ったが、この古い町並みは
今も良く残されている。実は浅野家時代よりも森家支配の時代の方が遥かに長い期間なのだが、赤穂と言えば
浅野家、赤穂義士という印象が定着している。そしてその浅野家が築いた赤穂城は、やはり赤穂の町の
誇りと言える名所なのでござろう。他の城下町で、一度は荒廃の限りを尽くした城址がこれほどまでに
全域整備される事はあまり見受けられないし、そうやって「改めて築城されている」赤穂城は非常に恵まれた
城跡だと言えよう。義士に想いを馳せながら赤穂の町を散策、復元される城郭を楽しんでみては如何であろうか?
別名で仮屋城・加里屋城・大鷹城・蓼城などと呼ばれる。


現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡
本丸・二ノ丸の各庭園は国指定名勝





播磨国 
大嶋城

大嶋城址標柱

所在地:兵庫県相生市那波大浜町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



「大島城」とも書く。大島山城とも。地名から那波(なば)城の別名もある。嶋(島)とあるように、元来この城がある
小山は相生湾の最奥部、苧谷川河口に浮かぶ独立した島でござった。城の起源を遡ると、平安時代後期の1104年
(長治元年)海老名家季(えびないえすえ)が築城した。海老名氏はもともと関東に根付く一族で、相模国
海老名荘(現在の神奈川県海老名市)をその所領としたため、地名の「海老名」を姓に採ったとされる。祖先は
村上源氏の流れをくむ源有兼と言われ、有兼の養子となった小野季兼が相模に下って海老名姓を名乗ったと
文献にあるが、これを否定する見方もある。有兼の官位が相模守であったため、海老名氏が相模を領有する正統性を
主張するために先祖の記録を改竄したとの推論だ。ちなみに季兼の元の氏である「小野」は、これらの文献に拠れば
「三蹟(三筆と並ぶ書道の達人)」の一人・小野道風の庶流とされるが、そもそもこれがこじつけで武蔵国土豪の小野氏だと
いう説もある。在地の領主が権威付けの為に名家の門跡を名乗るのはよくある事なので、いずれが真相なのかは
不明であるが、とにかく海老名氏が相模国出身なのは間違いないようで、家督相続の度に分家したうちの一派、
海老名家季が先述の1104年に播磨国へ居を移しこの大嶋城を築き那波郷を治めるようになったのでござる。
海老名氏が領した相生の「相」の字は「相模国」から取ったものである。以来、播磨海老名氏は代々この相生那波の
領主となって土豪化し、矢野荘別名の下司職・矢野荘例名の地頭職を任じられた。
なお、本家である相模海老名氏は源頼朝の鎌倉幕府創設に貢献して御家人となり、鎌倉幕府滅亡後も室町幕府の
幕臣として家名を存続させている。
大嶋城の歴史に話を戻すと、室町幕府の成立期に於いて播磨守護となった赤松氏がこの城を手にし、その家臣である
宇野弥三郎重氏と速弥太の兄弟が城主に任じられた。足利将軍家に近しい赤松氏の権勢を元にして整備された大嶋城は
浜御殿と別称される程に美しかったと云う。一方、元来の城主であった播磨海老名氏は南北朝の争乱に際して赤松氏へ
与した。足利氏配下にある赤松氏は当然北朝方であるので、海老名氏は南朝方と戦っていく。この恩賞として大嶋城は
海老名氏の手に戻され、1336年(延元元年・建武3年)7代当主である海老名景知(かげとも)は嫡子の知定(ともさだ)
弟・詮季(あきすえ)や一族の泰知(やすとも)らを引き連れ出陣、赤松円心(時の赤松氏総領)に従って転戦し、
白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町)に籠り南朝方の新田義貞軍と交戦、戦功を挙げた。
しかし寄せ手の新田義貞は南朝方きっての名将であり、城主不在の大嶋城へ攻撃の矛先を向けてこれを焼き落とす。
この後、室町幕府機構の完成によって赤松氏は幕府内で“四職(ししき)”の家格を獲得、海老名氏はその被官である
事が確定していくが、時代が下り赤松氏が没落すると共に海老名氏も勢力を弱めていったのでござる。戦国時代になり
羽柴秀吉が播磨を治め検地を行うようになると海老名氏は武士の身分を剥奪され百姓と扱われるようになる。おそらく
この頃に大嶋城は廃され、城跡は農地として転用された。江戸時代中期の1710年(宝永7年)前川新右衛門が那波新田を
開拓するに及び、海が埋め立てられ城山の島は陸続きとなって現在に至っている。
相生市中心を流れる苧谷川の河口に位置する大嶋城は那波漁港に突き出した山を縄張りとしており、往時は水城として
重要な戦略拠点だったと推測できよう。現在の城山山頂には住吉神社の小さな祠、麓には善光寺が建立されているが、
一方で相生市教育委員会による案内板や石碑も立ち、往時の城について説明が書かれている。山の斜面などに
城郭遺構と思しき土塁や切通しの跡が残されているので、中世豪族の威徳を偲ぶ事ができよう。


現存する遺構

堀・土塁




明石城・船上城・舞子台場  洲本城