備中国 備中松山城

平成大修理中の備中松山城本丸大松山城 大池


  所在地:岡山県高梁市内山下

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★☆



「大松山」と「小松山」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
岡山県高梁(たかはし)市の臥牛山(がぎゅうさん)を領域とする山城。単に「松山城」と呼ぶ事もあるが、その名は全国各所に
ある為「備中松山城」の名称が一般的になっている。他に高梁城と呼ぶ場合もござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
臥牛山は南から「前山」「小松山」「天神丸」「大松山」の4峰から成る連山で、その姿が老牛の臥せる姿に例えられる事により
この名が付けられた。4峰のうち、所謂「臥牛山山頂」標高487m地点を占めるのは天神丸だが、山裾を流れる高梁川の河畔は
標高62m程なので、比高差420mを数える山だ。備中松山城には江戸期からの天守と2重櫓が現存しており、日本の「山城の」
城郭古建築物としては最も高い所に位置する事でも有名。ただ、「山城の」という点を強調したのには訳があり、例えば現存12
天守のうち松本城(長野県松本市)は松本盆地の標高自体が海抜500mを越えているため「平城でありながら」天守所在地は
備中松山城より高い所(海抜590m)を示すのである。もっとも、山城の現存建築と言うのだから「最も高く見上げる位置にある」
事は間違いないだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
前置きが長くなったが、この城の起源は鎌倉時代に遡り、有漢(うかん)郷(現在の岡山県高梁市有漢町)の地頭であった秋庭
三郎重信が1240年(仁治元年)大松山に砦を築いた事に始まる。秋庭氏は鎌倉幕府の有力御家人だった相模三浦氏の一族で
1221年(承久3年)に起きた承久の乱における武功で有漢郷地頭職に任じられたのである。本家である相模の三浦氏は1247年
(宝治元年)の宝治合戦で滅亡してしまうが、秋庭氏は鎌倉時代を通じて有漢・高梁一帯を領有し勢力を保っていた。この高梁
(当時は「高橋」)は備中国山間部に拓けた数少ない大都市であると同時に山陽と山陰を結ぶ街道の押さえとなる重要な地だ。
高梁市街を見下ろす大松山の頂に築かれた砦は天然の要害。まだ「松山城」の名ではなく「高橋城」と呼ばれていた。■■■■
鎌倉時代の城主である秋葉氏は、重信―信村(のぶむら)―重連(しげつら)―重継(しげつぐ)―重知(しげとも)と続いた。■■
建武騒乱期の1331年(元弘元年/元徳3年)備中三好氏一族であり備中守護職となった高橋九郎佐衛門宗康に明け渡されたが
この頃までに城域は天神丸・小松山の辺りまで拡張されていた。高橋氏の入城に伴って「松山城」と改称。1355年(正平10年/
文和4年)高越後守師秀(高師直の兄)に城主交替。さらに1362年(正平17年/貞治元年)には再び秋庭氏が城主に復し、秋庭
備中守重明が城主となった。以後、室町期は秋葉氏が城を継承し、重明―頼重―頼次―元明―元重と代を重ねていく。■■

戦国期松山城:「大松山」を中心とした縄張■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦国時代を迎えるようになると、1509年(永正6年)上野兵部大輔頼久(うえのよりひさ)が城主となる。上野氏は足利将軍家に
連なる家系の傍流だが、その繋がりで上野民部大輔信孝(のぶたか)が足利10代将軍・義稙(よしたね)から備中に封じられた。
信孝は国内各所に一族の将を配し、その中で松山城には頼久が入ったものである。頼久が没すると彼の嫡男・伊豆守頼氏が
城主の座を継いだが、拡張されていた小松山の砦には頼久の2男・右衛門尉が守る事となった。ところがその松山城に1533年
(天文2年)に庄備中守為資(しょうためすけ)が攻め寄せる。庄氏は代々、室町幕府管領(将軍を補佐し政務を統轄する役職)・
細川氏の被官として備中国内に勢力を持っていた家系。戦国争乱の中で将軍も管領も権力を失い、戦国大名が実力を以って
跋扈する世に、中国地方では山陰太守・尼子(あまご)家と山陽に勢力を持つ大内氏が激突する舞台となったが、地方豪族に
なり下がった庄氏は尼子に与し、同様に上野氏は大内を頼っていた。尼子と大内の“代理戦争”の側面を持ちつつ、備中での
覇権を賭けて為資は松山城を攻め、落城させたのだ。頼氏・右衛門尉兄弟は共に討死し、以後松山城は庄氏の城となった。
なお、京都で将軍に近侍していた信孝はそのまま生き延び、幕府奉公衆としての職を全うしている。■■■■■■■■■■■
一方、備中の戦乱が益々激しくなる中で国人の三村(みむら)氏が台頭してくる。と同時に大内氏が下剋上で滅亡して、それに
代わって毛利氏が急成長していた。三村紀伊守家親(いえちか)は毛利を頼りに勢力を広げ、1561年(永禄4年)庄備中守高資
(たかすけ、為資の子)を破り松山城を手に入れる。また、庄氏は三村氏に服従せざるを得なくなった。但し、庄氏は心服した
訳では無く高資やその子・兵部大輔勝資(かつすけ)らは折につけ叛旗を翻し、松山城も獲ったり獲られたりという状況が続く。
庄氏と三村氏の争いは1571年(元亀2年)2月、庄高資が討たれた事で松山城が三村氏の下に奪還され決着を見るが、備中の
中心である高梁は有力国人による争奪戦の舞台となったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三村氏の統治時代に城域は臥牛山全体に広がり、巨大な要砦化された。この当時の文献には「砦二十一丸」と呼ばれる出丸が
記載され、松山城が難攻不落の巨大城郭となっていた事が窺い知れる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1574年(天正2年)のいわゆる「備中兵乱」では主戦場となり激烈な攻防戦が為された。三村氏は当初、毛利氏と手を組み備中を
領有して美作や備前へと勢力を伸ばそうとしたが、備前岡山城(岡山県岡山市北区)主・宇喜多和泉守直家(うきたなおいえ)の
謀略を受け1566年(永禄9年)2月5日、家親が暗殺されてしまう。跡を継いだ三村修理進元親(もとちか)は直家への復讐に燃え、
宇喜多氏が毛利氏と盟を結ぶと自身は毛利氏と絶縁し毛利・宇喜多の両家を敵に回す。このため松山城は毛利・宇喜多連合に
攻められた。これを「備中兵乱」と呼び、松山城は周囲の支城から順番に落とされじわじわと包囲を受ける。長らく耐えた元親で
あったが1575年(天正3年)遂に落城、松山城には毛利氏城代の天野氏・桂氏が入城する。豊臣秀吉の天下統一により毛利家は
中国地方9ヶ国121万石の領主となるが、その東端の備えとなったのがこの松山城であった。■■■■■■■■■■■■■■■

近世松山城:「小松山」に絞り込んだ縄張■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦において毛利氏は(名目上だが)西軍の総大将となり敗戦。領土は防長2ヶ国37万石へと大幅に
削られ、松山城は徳川家康の支配下に置かれている。家康の御料代官として派遣されたのが小堀新介正次(こぼりまさつぐ)・
遠江守政一(まさかず)父子。政一は当代一流の茶人・造園家・築城者として高名で、「小堀遠州」の通称は聞き覚えのある方も
多いだろう。小堀家は松山城の改修工事に着手、高所すぎて不便な大松山・天神丸の曲輪を廃し小松山のみの近世城郭として
再編を行った。1604年(慶長9年)に正次は亡くなるが、政一に事業は引き継がれ一応の完成を見る。元和偃武(げんなえんぶ)
後の1617年(元和3年)2月に城主交代、小堀遠州は近江国小室(滋賀県長浜市)に1万2460石を与えられ移封し、彼に代わって
池田備中守長幸(いけだながよし)が因幡国鳥取(鳥取県鳥取市)から配され6万5000石の松山藩が成立するが、城郭は小堀
時代のまま使用され、改修工事などは行われなかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長幸の後を継いで1632年(寛永9年)から出雲守長常(ながつね)が藩主となるものの1641年(寛永18年)無嗣断絶で除封となり、
翌1642年(慶安元年)迄は備後福山城(広島県福山市)主の水野氏が城番として城を預かったが、同年7月から水谷伊勢守勝隆
(みずのやかつたか)が5万石で松山藩主となったのである。前任地は備中国成羽(なりわ、高梁市内)、同石高での転封だった。
勝隆の後を継いだ左京亮勝宗(かつむね)が1683年(天和元年)から1685年(天和3年)にかけて城の大改修をし、現存の天守・
二重櫓などの建築物が造られた。現在に残る松山城の遺構はこの改修時のもの。天守は木造本瓦葺き2重2階。小松山部分の
山頂、標高430mに位置する。3重より小さい天守は珍しいものだが、西側に付櫓がある為、見る方向によっては3重に見えるよう
工夫されている。高梁の町からは遥かな山上にあるので、小柄な天守でも充分に存在感がある訳だ。特筆すべきはこの天守、
1階に囲炉裏が設けられている。囲炉裏を備えた天守は他に例を見ない。山上の天守が厳冬期にどれほど寒かったかが窺える。
また、同じく天守1階の上段には「装束の間」と呼ばれる部屋があり、城主が着衣を整える場として使われた。天守内で城主が
威儀を正す、つまり落城時に切腹する際の作法を為す部屋で、この天守が近世の建物とは言え実戦を意識した物である証拠だ。
近世城郭部(小松山城)のほぼ全周が石垣で囲まれ、その石垣も断崖絶壁の上に築かれているので、見上げる姿は圧巻としか
言いようがない。あまりに険峻な山城なので城主の日常居館・政庁は麓に御根小屋を設け、そこが藩政の中枢となった。平時に
おいて山頂の城には管理の為に駐屯する人員が数名いただけである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

水谷氏の断絶 〜忠臣蔵序章〜■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
水谷氏の治世は1693年(元禄6年)まで及ぶが、3代目・出羽守勝美(かつよし)が10月6日嗣子の無いまま没したため幕府から
水谷家は御家断絶、松山城召し上げの処分が下った。城主を失った松山城は赤穂藩浅野家の預かりとなったが、御家再興を
望む水谷家遺臣は幕府の処分を不服として城の明け渡しを拒否、あわや一触即発の事態となる。この時、幕府の上使として
松山城の受け取りに参じたのが赤穂藩家老の大石良雄(よしたか)。忠臣蔵で有名なあの大石内蔵助だ。■■■■■■■■■
大石は血気にはやる水谷氏旧臣と交渉、いたずらに事態を悪化させる無謀を説いて幕府の裁定に従わせた。この時はよもや
浅野家も断絶の憂き目を見るとは思ってもいなかっただろうが、7年後の1701年(元禄14年)3月14日に赤穂藩主・浅野内匠頭
長矩(ながのり)が吉良上野介義央(きらよしなか)に江戸城(東京都千代田区)松の廊下で刃傷事件を起こして切腹、赤穂城
(兵庫県赤穂市)が没収となったのは周知の事実である。浅野家遺臣も赤穂城の明渡しを拒み籠城しようとする動きがあったが
大石は御家再興のために決起派を説得、後日の敵討ちに備えた。これは松山城受渡しの経験あっての判断だったというのが
通説でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
それはさておき、浅野氏城番時代を経て1695年(元禄8年)からは安藤氏が松山藩主となる。安藤対馬守重博・長門守信友が
城主を歴任。前任地は上野国高崎(群馬県高崎市)5万6000石であったが、6万5000石へと加増されての移封であった。その
安藤家は1711年(正徳元年)2月15日に美濃国加納(岐阜県岐阜市)へ転封となり、今度は山城国淀(京都府京都市伏見区)
6万石の主だった石川主殿頭総慶(ふさよし)が入城。更に1744年(延亨元年)3月からは伊勢国亀山(三重県亀山市)5万石の
板倉氏と入れ替わる事となって明治維新を迎える。板倉家は周防守勝澄(かつずみ)―美濃守勝武(かつたけ)―隠岐守勝従
(かつより)―主膳正勝政―周防守勝ラ(かつあき)―阿波守勝職(かつつね)、そして伊賀守勝静(かつきよ)の順番で城主が
継承された。特に勝静は江戸幕府最後の老中であり、戊辰戦争において朝敵となってしまったが、忠臣の努力により松山城が
兵火に遭う事は免れた。朝敵という事で1868年(明治元年)からの1年間、松山城は池田氏が城番として占領するが、翌1869年
(明治2年)10月、板倉勝弼(かつすけ)が城主に復帰する。この勝弼は勝職の従弟にあたる人物で、朝敵となった勝静を半ば
追放するような形で家臣団から当主に据えられた者であった。但し、御家は存続したものの石高は2万石に減らされた。また、
勝弼の治世下で「松山」の地名は「高梁」へと改称されており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

廃墟と化した山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが程なくして1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県により板倉勝弼は城主の任を解かれ、高梁藩は高梁県となった。松山
城も廃城となるが、あまりに険峻な山上にある城郭建築物を撤去するのは困難な作業であった為、天守や二重櫓、八の平櫓、
土塀などは解体されずそのまま放置された。以来50余年、昭和初期になると長年の風雨に晒された建物が無残な姿を見せる
ようになる。八の平櫓は完全に崩壊、天守も屋根は崩れ落ち、床は抜け、壁は剥がれて、ほぼ全壊といってもよい状況である。
惨状を憂いた地元の有志が保存運動を起こすが、時は戦時体制真っ只中であり「文化財保護」の名目では国・県などの許可は
下りなかった。これに対し保存派は一計を案じる。「山岳警備小屋(防空監視哨)」として城郭遺構を利用するものとし、建築物の
整備を上申したのであった。これには許可が下りてまず1930年(昭和5年)二重櫓が再生。次いで1940年(昭和15年)に天守の
修築が成り、松山城の古建築物は滅失の危機を脱した。戦時下の修理では人手も資金も不足する中、城下の住人がこぞって
協力し、町内の女学生なども瓦と言った資材を担いで山の上まで登る奉仕を行った逸話が残されている。■■■■■■■■
この昭和大修理で文化財の価値を認められ、天守・二重櫓・三の平櫓東土塀は1941年(昭和16年)5月8日、旧国宝の指定を
受ける。二重櫓は天守に次ぐ大型建築物で、南北の出入口が天守裏敷地と本丸後曲輪を結ぶ通路となっていた。また、三の
平櫓東土塀は長さ9.4mに及び、数多くの狭間を備える本瓦葺きの堅固なものである。戦後の文化財保護法でも重文に再指定。
山上の城域は1956年(昭和31年)11月7日、国指定史跡となる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
平成に入ると城址の復元整備が計画され、1994年(平成6年)から工事に着手。1997年(平成9年)に本丸五の平櫓・六の平櫓
などが再建された。現在は本丸の土塀・路地門・南御門・東御門・腕木御門も再建され、本丸はほぼ全体が復元されている。
昭和大修理を受けた天守・二重櫓も60年余りを経過したため平成の大修理が行われた。写真(左)はそんな平成大修理中の
備中松山城天守の様子。2006年(平成18年)4月6日には財団法人日本城郭協会から日本百名城の1つにも選ばれている。
その一方で、近世城郭部(小松山城)の奥には中世城郭として使われた大松山城が眠っている。小松山の奥には堀切があり、
そこから先はほぼ手付かずの状態で遺構が残る。うっすらとした切岸、或いは曲輪跡と思しき平場が残るも、その中でも異彩を
放つのが写真(右)の大池だ。実は松山城には井戸(水源)が殆ど無く、城内には溜池を作って貯水していたとか。故に、中世の
戦闘城郭から近世の統治城郭へと脱皮した後も、この池は(大松山部にあるにも関わらず)城の生命線として維持され、浄化
管理のため土砂が入らないよう石垣で囲われ、また池には船を常備し塵を取り除く作業が行われていたと言う。戦国時代から
明治まで残された「大松山きっての遺構」と呼べるのがこの大池でござろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とにかく松山城は桁違いの高所!駐車場からさらに険しい登山道を歩かなければならないが、三ノ丸大手門から見上げる城の
姿は壮観で、山道を登るだけの価値は充分にある。小松山の城は石垣で固められているが、この石垣は山に元々あった岩盤と
組み合わさって築かれており、圧倒的な迫力を見せつける。2016年(平成28年)のNHK大河ドラマ「真田丸」でも、冒頭の映像に
使用され、真田家とは全く無縁の城ながら“険峻な城とはこういうものだ”という印象を視聴者に植え付けた。そうした石垣群や
複雑な通路を進むと天守を擁する近世本丸に辿り着き、そこからなお30分ほどかけて山を分け入れば大松山城へ至る。ただ、
天守から奥への山道は猿や猪などの野生動物も多く出るようなので十分注意されたい。■■■■■■■■■■■■■■■■
険阻な山上城郭部に対し、山麓の御根小屋地区は古い町並みが残されており、江戸時代の風情を漂わせている。■■■■■
市内の臨済宗天柱山安国頼久(らいきゅう)寺には小堀遠州作庭の枯山水庭園(もちろん国指定名勝)も。この寺は元々足利
尊氏が興し「安国寺」と称していたが、上野頼久によって深く帰依されたため「安国頼久寺」に改められ、現在は通称「頼久寺」と
呼ばれる事が一般的。足利尊氏、上野頼久、それに小堀政一が関わるという事は、即ち高梁の歴史を体現した寺と言えよう。
こうした寺が生きている高梁の町は、まるで時が止まったかのような情趣があり美しい。■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

天守・二重櫓・三の平櫓東土塀《以上国指定重文》
厩曲輪土塀・井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
山上城域内は国指定史跡
山麓御根小屋跡域内は県指定史跡




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