(天神山前史) 備前豪族・浦上氏の勃興■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
備前の豪族・浦上遠江守宗景(うらがみむねかげ)の居城。天瀬城とも。旧名(別郭部)を太鼓丸城と言う。■■■■■■■■■■■
標高408.9mの天神山と、その北西尾根の小ピーク(標高337.1m)に築かれた典型的な戦国期山城でござる。■■■■■■■■■■
浦上氏は元々紀氏と名乗っていたが、播磨国浦上庄(現在の兵庫県たつの市揖保町〜誉田町周辺)を領した事から、地名を採って
浦上姓とした。在地の土豪であったが、領土を押領する等して勢力を伸張させ、播磨から備前へと進出していく。室町時代初頭には
播磨や備前の守護職となった名門・赤松氏の配下となって活躍、観応の擾乱(将軍・足利尊氏と左馬頭直義の兄弟が争った戦乱)で
浦上七郎兵衛行景が赤松則祐軍において勳功を挙げ、備前守護代の任に就いたのであった。■■■■■■■■■■■■■■■
以来、浦上氏は広景―行宗―貞宗―美作前司則宗―帯刀左衛門尉助景と守護代を継承し(代数・人名には諸説あり不確定)、赤松
家中での重臣に列せられたが、1441年(嘉吉元年)に赤松兵部少輔満祐が室町幕府6代将軍・足利義教を暗殺した「嘉吉の乱」にて
主家である赤松氏共々討伐を受ける事となった。浦上四郎宗安は赤松満祐と共に戦死し、赤松・浦上氏は没落の憂き目を見る。■■
この後、名門赤松家は再興され赤松兵部少輔政則が当主となり、それに合わせて浦上氏も復活する。浦上美作守則宗(宗安の子)と
彼の子である掃部助則景は政則の側近となり申し、則宗は播磨統治の実務を担い勢力を浸透させていく。その一方、則景は1485年
(文明17年)6月4日に山名氏との抗争で討死するが、後継として掃部助村宗(むらむね、則景の甥?)が養子に。村宗らはこの頃から
権勢を拡大し、浦上氏は主君の赤松氏を凌ぐ実力を持つに至る。赤松氏そのものが家督争いで分裂していた事もあり、村宗は政則の
養子として赤松家当主になっていた兵部少輔義村(よしむら)を1521年(大永元年)9月17日に殺害、下剋上に成功したのでござる。■
村宗は義村の後継として左京大夫晴政を名目的な守護に置き、事実上の実権を握った。しかし晴政は傀儡である事に不満を抱いて、
幕府管領(将軍を補佐し政務を統括する役職)の細川右京大夫晴元と連携し1531年(亨禄4年)6月4日に村宗を討ち取る。村宗長男の
掃部助政宗は浦上家を継承し、居城を従来の三石(みついし)城(岡山県備前市三石)から室津城(兵庫県たつの市御津町室津)へと
移して赤松氏に臣従する事となったが、政宗の弟である宗景・近江守国秀は赤松氏に従うのを嫌い離反した。■■■■■■■■■■
(国秀を政宗・宗景の弟とするのには異説もあり、村宗の弟、則宗の弟など様々な説がある)■■■■■■■■■■■■■■■■■
対外的にも、政宗は山陰太守の尼子氏と誼を通ずるとしたのに対し、宗景は山陽に勃興した毛利右馬頭元就を頼むべきと考えていた。
国秀は富田松山城(岡山県備前市)、宗景は太鼓丸城(天神山の山頂部にあった城)へと入城して政宗と対立。この太鼓丸城なる城は
近隣にある日笠青山城(和気町内)の支城として存在していたとされ、創建時期は不明(室町以前?)で日笠氏の城だったとか。なお、
実力者・浦上宗景が太鼓丸城を得た事で日笠氏はその家臣に組み込まれ、日笠青山城が逆に天神山城の支城になっている。■■■
備前国主・浦上宗景一代限りの名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
国秀の富田松山城は早々に攻め落とされ、政宗はそこを本陣にして太鼓丸城の攻略を行うが果たせず撤退。■■■■■■■■■■
宗景は宇喜多和泉守能家(うきたよしいえ)・島村弾正左衛門尉盛実(もりざね、のち出家して貫阿弥(かんあみ)と号す)・明石飛騨守
行雄(あかしゆきかつ)ら有能な家臣団を率いて備前に勢力を伸ばし、それに伴い1533年(天文2年)から太鼓丸城を整備、北西側の
尾根へと大拡張させた。これが全国でも有数の規模を誇る山城、天神山城でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宗景は1543年(天文12年)赤松晴政の備前侵攻や1553年(天文22年)の尼子氏による美作(岡山県北部)侵攻を退け備前の領主権を
確立。また、家中で権勢が強くなりすぎた宇喜多能家を島村貫阿弥に命じて粛清し体制を磐石なものとし、戦国大名化したのであった。
但し、近年の再検証によって島村「貫阿弥」或いは「盛実」なる人物の存在は無く(「盛実」は「盛貫(もりつら)」の誤記だとか)、宇喜多
能家も島村氏により滅ぼされた訳ではないと考えられるようになっているが、ここでは旧来の説を挙げておく。盛実(旧字体で「盛實」)
貫阿弥と伝記された人名は盛貫(観阿弥)とするのが正しく、「貫」「實」の字(うかんむりの有無)が混同された事で派生した誤伝により
様々な脚色が為され現代に伝わったというのが真実なんだとか?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
方や政宗は、息子の与四郎清宗に赤松氏重臣の黒田氏から妻を貰い受け、その婚姻関係で赤松家中での勢力を取り戻そうとしたが
婚礼の当日、赤松一族の赤松下野守政秀(播磨国龍野城(兵庫県たつの市)主)に攻められて政宗・清宗父子共々討死した。1564年
(永禄7年)1月11日の事である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
兄・政宗が赤松氏に滅ぼされた事を受けて宗景は完全に独立。毛利氏とも断交し、結果として備前国主と言える地位に成り上がる。■
近隣の諸大名と抗争を繰り返す中、畿内で覇権を確立した織田信長とは当初対立、後に同盟を結ぼうとした。しかし、信長との関係を
巡って配下の宇喜多和泉守直家(なおいえ)と対立する事になる。直家は亡き能家の孫で宇喜多家を再興していた人物。祖父・能家の
仇である島村貫阿弥を葬り(ここでは旧来の説に従っておく)、浦上家臣の中で台頭しつつあったが、彼の本懐は主家である浦上家も
打倒する事にあり、宗景が信長に対立すれば信長に接近し、逆に宗景が信長と盟を結ぼうとすれば離反する動きを見せた。陰謀術の
天才と言えた直家は浦上家中を蚕食し、備前国人らを糾合。従わぬ者は暗殺していくなど鬼謀の限りを尽くし、宗景を疲弊させていく。
山陽の雄・毛利氏と同盟した彼は宗景を追い詰め、1574年(天正2年)遂に天神山城は宇喜多軍に包囲された。が、堅城・天神山城は
容易に落ちず、直家も力攻めは損害が大きいとして忌避、謀略戦へ移行する。1575年(天正3年)宗景股肱の重臣・明石行雄が直家の
降誘に応じ、籠城軍は内部崩壊に至って9月に落城。なお、旧来の説では1577年(天正5年)落城と言われていたが、近年の再検証で
改められている。こうして備前・美作は岡山城(岡山県岡山市)を本拠とする宇喜多直家が領有する事になり、天神山城は廃城となった
(直家が使ったとする説もある)のである。なお、1578年(天正6年)末〜1579年(天正7年)春にかけて浦上残党が天神山城を奪還したと
言う説もあるが、これも鎮圧されたと見られ申す。宗景の最期は判らず、落城時に戦死したとも落ち延びたとも言われるが、これにより
戦国大名浦上氏は滅亡、子孫は備前国に土着したらしい。他方、父祖の仇である浦上打倒を果たした直家は憑き物が落ちたかの如く
あっさりと毛利家とは手を切り織田家に臣従する方針転換を行った後、1581年(天正9年)2月14日に病没。織田家臣・羽柴筑前守秀吉
後の関白・豊臣秀吉の庇護を受けた直家遺児・八郎秀家が豊臣政権下で備前太守の地位を勝ち取った。■■■■■■■■■■■■
天神山城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
天神山城は連郭式の縄張り。東南〜北西に伸びる尾根に沿って一直線に曲輪が並んでいる。北西側から西櫓台・三ノ丸・桜の馬場・
長屋の段・二ノ丸・本丸(標高337.1m)と続き、本丸から降る位置に飛騨の丸・馬屋の段・南櫓台・堀切となる。ここまでが主城域となる
小ピーク部を中心とした天神山城(浦上宗景による新造部)の領域。主城域南東端の堀切からまた山を登る形となって古城郭である
太鼓丸に至る。太鼓丸も細長い曲輪が大きく3つほど並び、その間を切岸や堀切で分断、また曲輪の縁には土塁と思しき起伏が残る。
天神山城(新造部)は各所を石垣で固めている一方、太鼓丸部は石垣と言うよりも元々その場にあった巨石を配置して防御に利用。
(もちろん、石垣として組んでいる場所もある)巨石の配列が石門として使われていたと推測できよう。この他、城内には井戸や虎口と
見られる構造物もあり、さすがの堅城ぶりを物語っている。また、飛騨の丸と言うのは明石飛騨守行雄の屋敷地であろう。■■■■■
太鼓丸は本丸より高所(天神山山頂)にあり、城内を一望できる位置にあたり申す。この構成は浅井備前守長政とお市の方で有名な
近江国小谷(おだに)城(滋賀県長浜市)と通じるものがある(小谷城も古城郭である大嶽(おおづく)が本丸より高所にある)。両者とも
大規模な中世山城の典型例と言えるであろう。小谷城は国史跡だが、こちらの天神山城は1982年(昭和57年)4月9日に岡山県史跡に
指定されている。天神山城本体の他、山麓の根小屋部や岡本屋敷・木戸館と呼ばれる家臣屋敷跡、浦上与次郎(宗景の長男)の墓と
いう五輪塔も附指定されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在の天神山城は直下に国道374号線が走る。登城口もこの道路沿いにあり、大看板で位置を示すが、登城路はなかなか険峻であり
山を登るには相当な覚悟と時間が必要。反対に、太鼓丸跡から南東へは「和気美しい森」と言うキャンプ場があるそうで、そちらからは
比較的簡単に登り降り出来るそうだ(拙者は全然知らなんだがw)。また、県史跡として附指定されている山麓居館部へはまた別経路で
行くしかないとの事。更に付け加えると、浦上与次郎宗辰(むねとき)の墓はもはや天神山とは違う場所にある。とまぁ、仮に天神山城の
完全攻略を目指すとなるとかなり時間と労力がかかりそうなので、来訪は計画的に行った方が良うござろう。国道と並走する吉井川の
河畔が標高25m程なので、山城部との比高差は推して知るべし(苦笑)。周辺には和気清麻呂を祀る和気神社(何せ和気町である)や
国宝・閑谷学校といった旧跡も多いので、無理せずそっちを一緒に楽しむのが良いかも? (^ ^;■■■■■■■■■■■■■■■■
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