2000年5月 第二次東海諸城攻略(2)

二ノ丸は尾張藩主が常の住居とし、藩政の拠点となった二ノ丸御殿があった場所。
広々とした庭園が広がり、信長時代の那古野城の跡地とも言われていますな。
この庭園、何とも云えず涼しげな感じが好印象。大都市・名古屋のド真ん中に
これだけ緑深い場所が残されているって、やっぱ城跡って素晴らしいッスね。
史跡としてだけでなく、景観・環境面でも有効な訳ですから。
さてその二ノ丸、これまた空堀越しに今度は東南隅櫓が見えます。
先ほどの西南隅櫓とほぼ同じ規模の二重櫓で同じく重要文化財。
二重櫓とは言え、並みの城では天守になる位の巨大さで
技巧的な張り出しの石落しが特徴的です。こんな凄い櫓がいくつもあるなんて
やっぱ名古屋城って「史上最強の軍事要塞」と呼ばれるだけありますなぁ。

二ノ丸の淵を回り、本丸の南側にやってきました。
ここにあるのが表二之門、本丸の正門になります。
いままで外周を回ってきましたが、ようやくここから本丸に突入。
はやる気持ちを抑えつつ、表二之門の枡形をくぐり
本丸の敷地に入ると…遥か向こうに大小天守のお姿が!
おおー、デカい。いや、それ以上に遠い。本丸敷地の何と広い事よ!!
ここにかつては本丸御殿があったわけですね。
その敷地を一歩ずつ踏みしめて、御殿跡地を実感。
そうしているうちに、次第に天守が近づいてきました。
天守入口になる小天守の前まで来ると、改めてその大きさに唖然。
―――これのどこが「小」天守やねん!十分巨大やぞ!! (^^;
名古屋城大小天守
名古屋城大小天守

尾張名古屋は城でもつ〜♪
個人的に一番好きな天守建築です。
金の鯱鉾、緑色の銅瓦、輝く白壁、
三つの色合いが素晴らしい組み合わせ。
破風の配置も左右対称で安定感がありますな。
層塔型天守サイコー! (><)
喜び勇んで小天守に入り、さらに橋台を渡って大天守へ。
内部は博物館になっております。喜び勇んで展示資料を拝見。
名古屋城や名古屋の町に関する資料がいくつも並んでおります。
そんな中、拙者の目を引いた写真は…空襲で燃える大天守の姿でした。
戦前まで江戸時代の姿をそのまま留めていた名古屋城本丸は
大小天守、御殿など壮麗な建物が軒を連ね、
それらは全て旧国宝に指定されておりました。
しかし1945年(昭和20年)5月14日、米軍の名古屋大空襲によって
それらは焼失してしまいます。その時に新聞記者の方が撮影した
炎上する名古屋城大天守の写真、さながら炎の竜巻のようです。
築城から約330年にしての戦災焼失…悲劇としか言いようがありません。
先人の英知、伝統の文化や芸術、古さ故の価値、それらが一瞬で消え去る不幸。
何より、失われた330年という時は帰りません。たとえ建物を再建したとしても
それは新しい建物であって、330年の年月は経験していないものなのです。
尊い人命が失われたのは勿論、貴重な文化財までも消し去った戦争に憤りを感じ
炎上する旧国宝大天守の写真、あまりに悲しくて正視できませんでした。

その他の展示物を見学しつつ、大天守最上階まで到着。
ここからは見事な展望が開け、名古屋城下を一望できます。
ここまで昇ってきた甲斐がありました (^^)
しばし景色に見とれ、一休み。
名城を存分に堪能して天守を下り、城を辞しました。
駐車場から車を出し、最後に名古屋城の外をぐるりと一周。
今度は名古屋市街地の南部へ向かいます。
城から国道19号線を一路直進、その先にあるのが有名な熱田神宮です。
これまた信長に関連する史跡。桶狭間合戦の折、戦勝祈願に立ち寄り
その加護あってか、織田軍が今川軍を打ち破った逸話が残ります。
戦勝に感謝した信長は、熱田の杜に神域を守る塀を寄進しました。
これが今に残る信長塀。熱田神宮を訪れた拙者は、
参拝よりもその信長塀に大注目 (^^;
ほほう、築地塀ってこういう構造なんですね…なんて (^^;;;
まぁ、勿論、参拝もちゃんとしましたけどね。
なにぶん不信心なモノで(焦)
熱田神宮
熱田神宮

城の写真ばかりじゃなく、
ちゃんと名所の写真も撮ってますから (^^;
厳かな境内、キリッと引き締まる感じですね。

車は更に南下します。熱田区を離れ、南区、続いて緑区へ。
ここも桶狭間合戦に関連する史跡がいっぱい!
数ある名所の中でも、まず始めに向かったのが大高城
今川軍の先鋒であった松平元康、後の徳川家康が進駐した城郭として
ちょっと歴史に詳しい人ならば良くご存知のはず。
が、これだけ有名な城なのに場所が分からない。
ロクな案内標識もなく、住所から察するにこの辺のはず…と走っていると
いつの間にやら住宅密集地の細い路地に入ってしまいました。
おかしいなぁ、場所的には合ってるはずなんだが
こんな所を通らないといかんのか?といぶかっていると
細い路地のなお左右に電柱が立っている地点に遭遇。
うえー、こりゃ車幅いっぱいだぞ?!
ギリギリ通れるか?無理か?いまさら後には引けんし…。
えぇい、成るように成れぃ!と覚悟して通過すると
やっぱり“ボコッ!”という嫌な音が。
あーぁ、ドテっ腹に電柱がめり込んだ。最悪〜! (TへT)
愛馬に手傷を負わせる嵌めになってしまいました。
で、その狭隘路を過ぎた所にありました、大高城。
野戦城郭だけあって、広々とした平原に土塁の遺構が残る史跡でしたが
車を凹ませた割に合うほどの場所だったかなぁ…(泣)

ヤっちまったもんはしょうがない。気を取り直して、
大高城の東、東海道線の線路を挟んだ位置にある織田方の砦跡
丸根砦・鷲津砦に向かいます。怒涛の今川軍が押し寄せる中、
何とか時間稼ぎをするため、敵をおびき寄せる囮となった両砦は
孤立し奮戦するも、激しい猛攻を受け遂に陥落。
しかしその間に信長本隊は今川軍を出し抜き、遂に義元の首を挙げるのです。
信長が天下人へと躍り出る礎となったのがこれらの砦群。
こりゃ何としても見ておかないと、と思ったのですが
こちらもどこにあるのか良く分からない。ようやく見つけた丸根砦は
あれだけの激戦地にもかかわらず、今や小さな広場となっているのみでした。
続いて発見した鷲津砦、こちらは何と住宅街の児童公園!
とりあえずそれぞれ石碑は建っておりましたが、
太平の現代を象徴する変わり様でした。

緑区内には他にも城や砦がいくつもあり、そうした所も探し回ったのですが
なかなか発見できず、今回はこれで断念。
結局、再び訪れて攻略するのはこの旅から5年も後の事になります (^^;
で、今度は愛知県道59号線を北上し、国道153号線を乗り継いで豊田市へ。
高架を多用したバイパス路は渋滞知らずで景色も良く快適なドライブです。
愛知の道路行政にまたも感心しつつ、豊田市街地を横断。
進路左手に豊田スタジアムの巨大建造物を眺めつつ
車は国道301号線に入っていきます。その先にあるのは、松平郷でありまする。
江戸幕府を開いた徳川氏、遡って松平氏の出身地がここ。
郷内各所には松平氏関連の史跡が沢山あり、名古屋城と同じく
ここも見学してみたい、と常々思っていた場所であります。

今回最大のヒットは大給(おぎゅう)城址。
大給松平氏の居城です。駐車スペースに車を停め、
山道を延々登っていくと突然城跡入口があります。
そこから更に熊でも出てきそうな林を抜けると虎口、堀切。
その先に典型的な戦国期山城の遺構が!
保存状態も極めて良好、史跡としての整備も完璧。
何と言っても物見岩からの眺めは絶景で、濃尾平野が一望できました。
それほど大きくない規模の城ながら、所々に石垣も使用され
ここがかなりの堅城であった事を彷彿とさせてくれます。
色々と有名な名古屋城以上に、無名ながらいきなりこれだけ見事な遺構が現れる
大給城の姿に当てられて感動しきりでした♪ (^-^)

城ばかり攻めていても何なので、少しは観光らしい観光も。
松平郷にある松平東照宮、それに高月院を見物して来たのです。
ちょうどこの年の某公共放送の大河ドラマは徳川3代をテーマにした話で
そこでチラホラ紹介されていたのが松平郷の東照宮や高月院。
まぁ、ドラマはともかくとして元々松平郷を見たかった拙者としては
丁度いいきっかけでありました。で、拝見させて頂きましたよ〜。
東照宮は勿論、徳川家康を祭る神社。久能山や日光が有名ですが
分社は日本全国に広がっております。徳川氏の起源となる
ここ松平郷にも置かれた東照宮は、小ぶりながら趣き深い風合いです。
高月院は松平氏歴代の墓所。家康が将軍となり江戸に幕府を開いてからは
上野寛永寺・芝増上寺が徳川家の墓所となりましたが
それ以前、三河時代の松平家はこの小さな寺が菩提寺となっているのです。
とは言え、天下の主となった徳川将軍家は父祖の墓所を篤く祭るため
慶長時代に寺領100石を寄進、以後幕末まで厚遇されたので
境内は整然と整えられております。特に寺へ至るまでの参道は
近年整備され、四季折々の花で彩られた風情ある道。
こうした情景を楽しむのもまた旅の楽しみと言うものですな。

ところが後々になって確認したら、松平東照宮って松平氏館跡だったんですね (^ ^;

東照宮の近辺にあるのが松平城。呼んで字の如く、
松平氏創業の城であります。三河国の土豪である松平氏は、
その起源を在原業平(ありわらのなりひら)に遡る家系で
ここ松平城を本拠とし勢力を拡大、戦国時代には三河一国を統一し
遂には江戸幕府を開くに至ったのでありますな。
現在の松平城址は静かな小山。マニアでなければ城だと言う事すら
気づかないでありましょう。が、さすがにこの年は大河ドラマの影響か
そんな松平城址にも観光客が(しかもカップル)…。
城跡と聞いてやってきたんでしょうが、果たしてあの方々
古城址の構造とか、見て分かったんでしょうか?
たぶん分からないと思うんだがなぁ??全然観光地って訳じゃない所だし。
恐るべし、大河ドラマの影響力… (ーー;

松平郷を離れた所で夕暮れの時刻。普通はもう観光ができる時間じゃありません。
でも、どうしよう。もういい加減帰るかな?それともどこか良い見所は…。
夜でも見れる場所というと、やはりライトアップされるような市街地の城郭かな。
うーん、でも、この辺で城のある大きな町と言うと
さっき見た名古屋か、昨日見た岡崎か…。
どこか適当な所はないか地図と睨めっこしつつ、
半分諦めかけていたのですが、見渡した中に発見したのが刈谷という文字。
刈谷市ならば城もあるだろうから、一か八か行って見るか?と思い立ち
豊田から一路南下、夜7時過ぎになって到着しました。
そこで突撃をかけたのが刈谷城跡の亀城公園。
都市公園なので駐車場もあり、街灯もそれなりに照らされていたので
夜でも公園内に入る事ができました。でもまぁ、常識的に昼間行く所だよねぇ (^^;
真っ暗な中でひと気のない公園に入るなんざ、下手すりゃ不審者だもん。
我ながら城バカやなぁと自分に呆れつつ、それでもウロウロと探索。
微妙な傾斜地に「土塁跡か?」と思ったり、谷間になっている通路を
「これは堀だったのでは…?」と考えたり。本当に城バカだね(爆)
とりあえず攻略の証として城跡の石碑を夜間撮影しやした。

どうせ夜の城攻めならばと、再び岡崎城も攻略。
昨夜は慌てて立ち寄った感じで、じっくり見る事ができなかったんでねぇ。
昨日とは違う角度から、またもや天守を夜間撮影しました。
何だか日ごとに違う表情に見えるのは気のせいでしょうか?

さてさて、丸一日城攻めしまくりましたので、これより引き返します。
しかしまぁ、時刻はこれから深夜帯。交通量が減ってくる時間ですので
高速は使わず、のんびりと(高速代節約も兼ねて)一般道を走る事にしました。
岡崎から茅ヶ崎まで、その気になれば国道1号線一本ですのでねぇ。
(まさか全線走破するつもりはありませんがね)
暫くは1国を上って関東方面へ進んでみます。深夜の1号線、なかなか面白いものですよ。
周りは大型トラックの群れ。まるでコンテナが流れているような中、
拙者の車1台だけが自家用車という光景、かなり場違いなんですが
この流れにまかせて進むのが何とも言えず面白い。何だかゲームのようです。
豊橋を通過し、愛知県から静岡県に入ると程なく浜名バイパス。
浜名湖の南端、海と湖の接するライン上を走る道なんですね。
時刻は午前1時を回ろうかと言う頃でありました。
で、いくら何でもこのままダラダラと走り続ける訳には行かないので
どこかで仮眠を取ろうかと考えたのですが、さて、どうしたものか。
どうせ一晩明かす事になるんだから、夜明けの行動も計算に入れて
場所を考えようと言うもの。となれば、やはり城跡が良いかな? (^^;
陽が出た所で一発城跡攻めして、それで家へ帰ろうという計画です。
そうだ、浜松市郊外で1号線を逸れて今度は国道150号線を東に入れば…。

明けて5月29日の朝。ここは城跡の駐車場です。
人里離れた山の中の城跡、昨晩は満天の星を眺めながら車中泊。
ホンマに素晴らしい星空でしたよ。こんな山奥じゃ誰にも邪魔されないし。
城跡で天体観測、ダブルでお得!(何じゃそりゃ)
そういう訳で、ここはどこかと訊ねたら、高天神城でございます。
徳川と武田が壮絶な奪い合いを繰り広げた遠州最重要拠点。
高天神を制する者は遠州を制す、とまで言われた名城なんですね。
この城はねぇ、城マニアとしては行っとかないとねぇ。
もはや義務みたいなもんですよ(笑)
前回の城攻めドライブで行きたかったけど、時間の都合で行けなかったため
諦めていたのですが、今回とうとう攻略してしまひました〜♪
浜名湖から東に走ってくる途中、ちょうど良い位置にある城ですのでね
仮眠するにゃ最適な城跡でござった。あ、でも、普通の人には薦めません。
深夜の、ひと気のない城跡なんて…やっぱ不気味でしょ?
拙者はそういうの全然気にしないんで平気ですけど(←無神経)

さて早朝の高天神城、人っ子一人いない状況で早速城攻め開始。
この日は素晴らしいまでの快晴で、まだ5月だというのに少し汗ばむ陽気でしたが
拙者はハイペースでガンガン登山していきます。天下の堅城だけあって
登城道はかなりの急勾配、しかも右へ左へ折れ曲がる悪路なんですが
そんなの構っちゃいられません。この先に城の遺構があると思えば
悪路だろうと何だろうと前進あるのみ!その甲斐あってか、
程なく土塁や空堀が現れ、東峰の曲輪群に到着しました。
ほほぅ、これは凄い。険峻な山の中にこれだけの曲輪を削平するとは。
さらに先へ進むと、今度は西峰の主郭に出ました。これまた感心しつつ
曲輪の脇へ降りてみると、何やら洞窟があります。大河内石窟です。
1574年7月、武田軍の猛攻によって落とされた高天神城にあって
ただ1人降伏を潔しとしなかった徳川軍の将・大河内政局(おおこうちまさちか)は
囚われの身となり、この石牢に幽閉されたと言います。
時は移り1581年3月、今度は徳川軍が武田軍を破り高天神城を奪還すると
政局は晴れて開放されたのですが、実に7年に渡って閉じ込められていたのです。
徳川家康は政局の苦難と不屈の忠誠心に感じ入り、過分の恩賞を与えたそうです。
戦国史の1ページ、高天神城を巡る壮絶な人間ドラマですね。
さまざまな遺構に驚かされつつ、高天神城の見学は幕を閉じました。
高天神城址 大河内石窟
高天神城址 大河内石窟

まるっきり洞窟ですね。
こんなところに7年も閉じ込められるなんて
想像もつきません。恐ろしや…。

まだ朝も早い時間でしたが、今回の旅はこれで終了。
車中泊×2日という強行軍をして、これ以上どこかへ行く余力は流石にありません。
明日の仕事に響いたら困るので、大人しく家へ帰り休息をとる事にしました。
で、東名高速に乗るべく菊川ICを目指したのですが…あれ?
道を間違えたのか、なぜか掛川ICに(ォィ)
まぁいいや、どっちでも同じようなものですので(マテ)
ここから上り線を東上、一路茅ヶ崎を目指したのでありました。


◆◇◆ しつこくも 東海の城を 追い求め されど飽きなし 皐月の雲路 ◆◇◆




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