尾張国 丸根砦

丸根砦跡石柱

 所在地:愛知県名古屋市緑区大高町丸根

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★☆■■■
■■■■



現存する遺構

土塁・郭群
城域内は国指定史跡




尾張国 鷲津砦

鷲津砦跡石柱

 所在地:愛知県名古屋市緑区大高町鷲津山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★☆■■■
■■■■



現存する遺構

土塁・郭群
城域内は国指定史跡




尾張国 大高城

大高城址碑

 所在地:愛知県名古屋市緑区大高町城山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★■■■
■■■■



現存する遺構

土塁・郭群
城域内は国指定史跡




尾張国 鳴海城

鳴海城跡公園

 所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町字城

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■





尾張国 善照寺砦

善照寺砦跡

 所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町字砦

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 あり

■■■■
■■■■





尾張国 中島砦

中島砦跡石碑

 所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町字下中

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■





尾張国 沓掛城

沓掛城跡空堀

 所在地:愛知県豊明市沓掛町東本郷

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★☆■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群
城域内は県指定史跡



桶狭間合戦、その経緯と地の利■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
いずれも桶狭間合戦に関連した城砦でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以下、時系列に沿って各城砦の役割と合戦のあらましを紹介していき申す。■■■■■■■■■■■■■■■
“尾張のうつけ”と揶揄された織田信長であるが、父・弾正忠信秀の死後に織田家の家督を相続するや邪魔者を
次々と排除し、遂に1558年(永禄元年)尾張一国を統一する。しかしそれでもまだひ弱な一大名に過ぎず、内憂も
多く抱えていた。丁度その頃、駿河府中(現在の静岡県静岡市)に居を構えていた今川治部大輔義元は京都の
政情不安を払拭する自負(この点、近年の再考で中央政界への進出は意図していなかったと見る説がある)と、
領土拡大の野心を達成するため大軍を率いて西上する意を固める。今川家は駿河国・遠江国の二国を領土とし
更にこの当時は松平家の領土であった三河国も属領に加えた大大名にして足利将軍家へ繋がる血筋もあって
“街道一の弓取り”と言われる程の勢力を誇っていた。当然、駿河から京へ向かうには尾張を通過していく訳だが
織田家と今川家はかねてから領土争いで小競り合いを続けていた犬猿の仲だった為、今川の大軍が織田領を
蹂躙していくであろう事は容易に想像できた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
何とか今川軍を食い止めるべく信長は三河国境に近い要所に砦を多数築き、また、従前からある城郭の改修
強化を図ったのだ。こうして築かれたのが丸根砦・鷲津砦・善照寺砦・中島(中嶋)砦といった小砦群。いずれも
1559年(永禄2年)の創築である。しかしこの地域は今川家に対する最前線。これら織田方の砦に対し、目前に
今川家の城郭が控えていた。鳴海城である。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
話を遡ると、鳴海城は信長の父・信秀存命中には織田家の城であった。もともと、応永年間(1394年〜1428年)
足利3代将軍・義満の家臣であった安原宗範が築いたとされ、その地にあった成海神社を遷座させて築城した
事が城の名の由来であろう。この城は宗範が没した後に放棄されていたようだが、戦国期に復興され織田家が
利用。信秀は信用できる譜代家臣・山口左馬助教継(のりつぐ)を城主に据え今川家に備えさせていたのだが
その信秀が1551年(天文20年)3月3日に急逝し当時まだ“うつけ”の信長が跡を継ぐや、教継は信長の器量を
疑い、翌1552年(天文21年)あっさりと今川家へと寝返った。こうして今川家は尾張侵攻の橋頭堡を確保する。
また、時を同じくして大高城や沓掛城も攻略され、今川家の手に落ちている。■■■■■■■■■■■■■
譜代の重臣でありながら織田家を裏切った事に激怒した信長は、この後に謀略をして山口一門を抹殺するも
城は帰らず、対する今川義元は新たな鳴海城主として岡部丹波守元信を入れて守らせた。こうした状況下で
義元の上洛作戦が発動され、上に記した信長の砦群が造られるに至ったのでござる。特に善照寺砦・中島砦
それに丹下砦を加えた3砦は鳴海城を包囲するために築かれたと言われ、信長が如何に鳴海城やその他の
今川方城郭を意識していたかが覗えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

当日の戦況■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
両家の緊張が沸騰点へと達した1560年(永禄3年)5月12日、駿河・遠江・三河三国の太守である今川義元は
2万5000の大軍を率いて本拠地の駿府を出発。尾張を通過して上洛すべく(尾張征服目的とも)、行軍を開始
したのでござる。一方、尾張を守る織田信長であるが、砦を築いて防備を固めたものの手持の軍勢はわずか
3000にも満たない状態で、やはり劣勢を覆す力はなかった。向かいつつある今川軍に対して織田方が出撃か
籠城か軍議も定まらないまま、義元は16日に三河岡崎、18日に尾張沓掛へと到着、いよいよ織田軍との戦闘
体制に入ったのである。先鋒の露払いとして任じられたのが当時今川の保護下にあった三河国主の松平元康
後の徳川家康である。元康は先遣隊として織田軍の備えを切り裂くべく先行、見事に大高城への入城を果たし
今川方の兵糧を城内へと搬入する事に成功した。斯くして鳴海城の岡部元信と大高城の松平元康が前衛線を
構築する事になり、織田方の砦を各個撃破する体制が整ったのである。元康の働きや圧倒的優勢の状況に
気を良くした義元は、明けて19日未明に総攻撃を下知し、今川軍はいよいよ織田本領への侵入を開始した。
他方、迫り来る今川の大軍に対し織田軍はゲリラ戦を展開するべく今川軍の途上に小規模部隊を分散配置、
中島砦・善照寺砦を中核として丸根砦・鷲津砦にもそれぞれ100名ほどの兵が立て籠った。丸根砦の守将は
佐久間大学允盛重(さくまもりしげ)、鷲津砦には織田玄蕃允秀敏(ひでとし)と飯尾近江守定宗・出羽守尚清
(ひさきよ)父子が配置されていた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
19日早朝、丸根砦・鷲津砦へそれぞれ2000名ずつの今川軍部隊が攻撃開始。砦の兵士は寡兵ながら頑強に
抵抗し激しい戦闘が繰り広げられたものの、圧倒的な兵力差は覆すことができず敢え無く陥落。盛重・秀敏と
定宗は戦死したとされ、尚清だけが落ち延びたそうで、兵士らは全滅した。宿館だった沓掛城を出発した後、
東海道沿いに軍を進めていた総大将・今川義元は、これで楽勝と思いこみ余裕を通り越して油断してしまい
織田軍を侮り田楽狭間の隘路に迷い込む。田楽狭間は谷合の狭い地形で、いかに今川軍が大軍であろうと
行動の自由が利かない“守備に不利な場所”だった。だがそれも気にせず、折りしも初夏の驟雨が降り出した
事で今川勢は行軍を停止、そのまま休息をとり、義元は「ゆるゆると」舞を踊り出す始末であった。■■■■■

信長の果断、義元の油断、元康の沈着■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかしこの状況こそ信長の望んだものであり、斥候を放って逐一情報を把握していた彼は総攻撃を決意する。
義元が沓掛城を出る前の夜中から居城・清洲城(愛知県清須市)を飛び出して即応の精兵を善照寺砦で結集
させていた信長は、田楽狭間と近接する中島砦に移動し待機していたのでござる。丸根砦や鷲津砦の部隊が
時間稼ぎをした事もあり、機を良く掴んだ信長は雨上がりの一瞬を突いて突撃を開始。折りからの雨で接近を
気付かれなかった織田軍は義元一人に狙いを絞って急襲したのだ。この時の攻撃経路は、旧来の説では山を
迂回し隠密行動を採ったとされてきたが、近年の再考証において中島砦からの直線路を突っ込む正面突破が
行われたと考えられるようになっている。いずれにせよ一撃必殺の構えで義元本隊を急襲した織田方に対し、
今川方はよもや真っ昼間から劣勢の織田軍が総大将の本陣に特攻をかけてくるとは思っておらず、大混乱に
陥った今川軍は殿軍(しんがり、退却時の食い止め役)を立てる間もなく敗走、旗本衆(総大将の直衛部隊)は
義元を守らず我先に逃げ出す有様であった。この混戦の中、総大将・義元は討死。残された今川軍の兵士も
駿河へ逃げ帰った。これが戦国史の一大転機といわれる「桶狭間合戦」である。信長は劇的に尾張を防衛し
今川の大軍を撃退。もはやその姿は“うつけ”ではなく、新進気鋭の戦国大名に変貌していたのである。■■
ところで、今川軍先鋒として大高城に兵糧を搬入した松平元康。彼は義元本隊の到着を大高城で待ちつつ
織田軍の動向を窺っていたが「義元討死」の急報を受け撤退を決意、城を放棄して旧領・岡崎へ向かった。
今川本隊が算を乱して壊滅したのに対し、元康隊は冷静な判断で撤収、岡崎に帰参した後は今川支配から
独立した事が天下統一への第一歩となったのは後の歴史が証明する事実である。更にもう一人、今川軍が
全面撤退した後も唯一踏み止まっていたのが鳴海城の岡部元信。彼もまた闇雲な逃亡をする事などせず、
それどころか織田方に徹底抗戦を挑み、鳴海城は孤立しつつもなお巧妙な駆引きを演じ、遂には亡き主君
義元の首級を織田軍から返還させる事に成功したのでござる。元信が義元の首を携えて、駿府への帰参を
果たした事でようやく鳴海城も開城、ここに桶狭間合戦の戦後処理が完了したと言え申す。■■■■■■■

いずれも公園となった砦群■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ではここからは各城砦の現状を書き記していく。まずは最大の激戦地となった丸根砦・鷲津砦だが、両砦は
いずれも今は住宅街の児童公園となっており、僅かに標柱(写真)が建っているだけ。しかし起伏の激しい
地形を見れば、ここがかつての戦地であったことが容易に想像できよう。丸根砦を攻略したのは松平元康、
鷲津砦は朝比奈備中守泰能(あさひなやすよし)、若しくはその子である左京亮泰朝(やすとも)ら。合戦後、
いずれの砦も役割を終えて廃絶したようだ。両砦の場所はJR東海道本線大高駅から徒歩数分の距離。
続いて、義元から先鋒を命じられて松平元康が滞在していた大高城。南北朝期に池田頼忠なる者が在城、
永正年間(1504年〜1521年)には花井備中守が居城にしたと言われるこの城も、同じく合戦後に廃城となり
江戸時代には尾張藩家老の志水氏が大高近辺を領有する事とされ、旧城の近隣に館が構えられたという。
そのため、城跡は風化して寂れていったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当時は現在より海岸線が入り込んでいて、城の眼前まで海が迫っていたとか。大高城は伊勢湾へ直結する
海城としての機能を有し、もし今川家がこの城を維持し続けたならば、織田家の経済圏を締め上げただろう。
元康が兵糧を運びこんだ大高城、現在は住宅街の真中にそびえる小さな山であり、緑の公園となっている。
曲輪跡地は大きな広場となり、土塁や堀切の址と思しき遺構も幾らか見え隠れするが、それほど大掛かりな
史跡整備が行われたわけでもなく、少々判りづらい。駐車場もない、と言うかそこへ至る道は車が通るには
難儀する細道ばかりだ。英傑・徳川家康の人生で転機となった城なのだが、ちょっと冷遇された感すらある。
とは言え、桶狭間の戦いにおける重要性は史跡として申し分ないため、丸根砦・鷲津砦・大高城はいずれも
1938年(昭和13年)12月14日、国の史跡として指定を受けたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■
名鉄鳴海駅に程近い場所にあったのが鳴海城。岡部元信が今川義元の首を返還された事で城を明け渡した
以後、地形の妙を以って織田家の城として1575年(天正3年)まで佐久間出羽介信盛(のぶもり)が居城にし、
そののちに廃城となり申した。現在、主郭部は鳴海城跡公園(写真)なる児童公園となっているが、他の曲輪
部分は宅地化されたりして消滅。城跡公園から道路を挟んだ東曲輪跡に天神社が建立されており、境内に
「鳴海城址」の石碑があるくらいだ。あまり遺構らしいものは見受けられないが、それでも城跡公園の外周は
切り立った傾斜になっており、ここが城郭であった事は何となく想像できる。■■■■■■■■■■■■■
同様に児童公園となっているのが善照寺砦。写真にある砦公園がそれで、鳴海城よりも更に急峻な斜面が
周りを囲んでいて、織田方の重要拠点だった事を髣髴とさせる。写真からも、見上げるようにそびえる砦の
土堤の傾斜がお解かり頂けるのではないだろうか?合戦時は織田家宿老の1人、佐久間信盛が守将として
配されていた。場所は名鉄自動車学校の南側でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

中島砦は民家に石碑だけ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その一方、中島砦は全く遺構を残さず現在は完全に宅地になっており、梶川一秀が守っていた合戦当時の
状況を偲ばせるものは何も無い。名鉄鳴海駅から東へ300mほど、扇川と手越川の合流地点近辺が砦跡で
おそらく当時はこの2つの川を天然の濠として防備を固めていたのでござろう。砦の北と西に川が流れると
同時に、東側には旧東海道が走っていたために交通の便が良い場所でもあった。それ故、信長が今川義元
本陣へ切り込む最終調整地点に選んだのである。川に囲まれ、周辺一帯は沼沢地であった中、唯一浮かぶ
中島砦から延びていた東海道の道。この一本道を突撃して今川勢に突っ込んだとする正面突破の新説は、
確かに“決死の特攻”で敵を恐れさせただろうが、一方で狭隘な橋の如き道だけに頼った進軍路は出入口を
固められては手も足も出なくなる筈で、果たして真実だったのか否か?まだまだ検証が必要であろう。■■
何はともあれ、この旧東海道は現在も健在で、かつての宿場町として有名な観光地となっている有松宿から
中島砦の脇を通り抜け中島橋で扇川を越して鳴海城跡方面へと通じている。地形から推測すれば、信長の
進軍路も何となく見えてこよう。その中島橋の南岸からすぐ西へ入り、手越川に沿った路地を何軒か歩いた
所にある家の庭先に写真の中島城(砦)址の石碑がある。砦があった事を証明するのはこの石碑くらいだ。
なお、この民家の方が御好意で庭を開放し、石碑を自由に見られるよう配慮して下さっているので、節度を
持って見学すべし。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

沓掛城は見応えあり■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最後に紹介するのは沓掛城。今川義元がこの世で最後の夜を過ごした城だ。■■■■■■■■■■■■
沓掛城の築城は応永年間(1394年〜1428年)と言われ、築城者は藤原義行。のち、1492年(明応元年)頃に
近藤右近が城主となり、以後は近藤氏が代々城主を務めていた。鳴海城主であった山口教継が織田家から
今川家へ鞍替えした際、この城も陥落して同じく今川家に属するようになり申した。然るに桶狭間合戦当時、
城主の近藤九十郎景春(かげはる)も今川家臣として動いた訳だが、5月18日に義元がこの城で軍議を開き
翌19日に出陣して戦死したため、沓掛城は織田軍の反撃に遭い攻め落とされ、景春も討死したのであった。
織田の城となった沓掛城は合戦後の恩賞として簗田出羽守政綱(やなだまさつな)に与えられ、彼が1575年
加賀国(現在の石川県南部)に国替えとなった後は織田越中守信照(のぶてる、信長の弟)が城主となる。
更に1577年(天正5年)からは川口久助宗勝(むねかつ)が城主に任じられたのだが、1600年(慶長5年)9月
15日、天下分け目の関ヶ原合戦で宗勝は西軍に加担したため城を没収され、その身を仙台の伊達陸奥守
政宗に預けられる事となってしまった。これにより沓掛城は廃城となったのでござる。しかし、近年になって
城の発掘や整備が行われ、廃城前の勇姿が蘇えっており、写真にあるような堀跡や土塁の遺構がきちんと
見て取れる。2017年(平成29年)4月1日に豊明市指定史跡となっている沓掛城跡、正直言って国指定史跡の
丸根砦・鷲津砦や大高城よりも状況が良い位だ。史料に拠れば往時の規模が外郭で東西288m×南北234m
本丸部分だけでも東西43m×南北46mもある。これらが深さ2mはある堀で囲まれているのだから御見事だ。
戦国期の平山城としてはかなり規模の大きなものであり、豊明市が整備に力を入れるのも納得でござるな。
沓掛城の発掘調査では木製品・金属製品・陶磁器など様々なものが出土し、特に木簡からは「天文十七」と
書かれた品が含まれており、明確にこの城の利用年代を特定できるものになっている。これらの出土品も
2020年(令和2年)4月1日に豊明市有形文化財に指定。加えて、発掘により城内の曲輪からは池泉の跡が
確認され、総大将・今川義元を迎え入れるだけの格式を備えた居館を有する城であった事が判明している。





刈谷城・安城近辺諸城郭  松平氏遺跡・中垣内古屋敷