三河国 大給城

大給城址碑

 所在地:愛知県豊田市

大内町字長坂・大内町字城下
大内町字亜知垣内

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★★
★★■■■



膨張する松平家、喉元に突き付けられた刃■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
愛知県豊田市の市街地から東の山合いへ入ると、三河松平氏発祥の地とされる松平郷がござる。国道301号線を
「九久平町簗場(くぎゅうだいらちょうやなば)」交差点から東へ進んで行くと、瀧川沿いの山を右へカーブした先の
十字路に「松平郷 松平氏遺跡 国指定史跡 大給(おぎゅう)城跡公園→」の看板が現れる。松平郷はもっと先に
あるのだが、この看板通りに曲がり坂の上へと登っていけば、山を半周した反対側に駐車場があり、そこから一寸
奥まった所に遊歩道が繋がっている。それを分け入って行くと、見事な遺構を湛えた山城・大給城が出現。圧巻の
城跡は国の史跡にも指定されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松平郷へ向かう道すがら…というか松平郷の出入口を扼する要衝の城で、その主は大給松平氏という事になるが
そもそもの築城は松平氏に因るものではなかった。正確な築城年代はわからぬが文正(1466年〜1467年)頃?に
於いては現地の土豪・長坂新左衛門の城であったとされる。即ち、松平郷から岡崎方面へと領土を拡大した松平
一族には、この城が“喉元に突き付けられた刃”となっていた。故に、松平郷から岩津城(愛知県岡崎市岩津町)へ
進出していた松平氏3代・左京亮信光(のぶみつ)は、松平城(下記)と岩津城の連絡路を確保するため、大給城を
必要とし攻略した。応仁(1467年〜1469年)・文明(1469年〜1487年)年間とされる時期に信光は大給攻めを行い
対する長坂方は保久(ほっきゅう)城(愛知県岡崎市保久町)の山下庄左衛門庄重久や近隣にあった三河岩倉城
(愛知県豊田市岩倉町)主・岩倉源兵衛に援軍を求め、松平軍と大給方連合軍の戦いとなった。これを円川の戦い
(つぶらがわのたたかい、豊田市中垣内(なかがいと)町での合戦)と言い、結果的に松平勢が大勝し長坂氏は城を
追われ、余勢を駆った松平軍は保久城下も焼き払った。斯くして信光の3男・右京大夫親忠(ちかただ)が大給城へ
入城。後に親忠は松平宗家4代を継ぎ岩津へ移ったので、近隣の細川城(愛知県岡崎市細川町)と共に親忠の2男
左近乗元(のりもと)に譲られる。乗元は大給城を本拠とした松平氏分家を創設。これが大給松平家の始まりだ。
大給松平2代・乗正の頃に城は改修を受け、その工事は1507年(永正4年)〜1510年(永正7年)まで続き申した。
乗正は駿河・遠江から伸張してきた今川勢との共闘も行っており、岩津の戦いに於いて今川方武将・伊勢新九郎
盛時(いせしんくろうもりとき)の勝利に貢献し申した。盛時とは即ち、後に小田原北条氏を興す北条早雲である。
この後、3代・乗勝の時代を経て4代・和泉守親乗(ちかのり)の代になると松平宗家に従って各地を転戦。その為
敵対する東条松平家の松平甚太郎忠茂(ただしげ)から1552年(天文21年)大給城を攻められてもいる。一方で
1556年(弘治2年)滝脇松平家の滝脇城(愛知県豊田市滝脇町)を攻め、城主の松平乗清・乗遠父子を討取った。
5代・源次郎真乗(さねのり)に代替わりした後の1575年(天正3年)滝脇松平乗高(のりたか、乗遠の2男)によって
大給城は夜襲され落城した事もあったが、再び大給松平家の手に戻っている(この時に廃城という説もある)。
そして6代・和泉守家乗(いえのり)の時代である1590年(天正18年)宗家である徳川家康が関東へ移封となった為
大給松平氏もそれに従い上野国那波(なわ、現在の群馬県伊勢崎市)1万石に移転、大給城は廃城となった。

技巧的な縄張り、驚異的な構造物■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
直近の足助真弓山城(愛知県豊田市足助町)が一時期武田軍の手に落ちていた事もあり、大給城は徳川領国の
最前線に立たされ強固な防備を固める城へと改修されていたが、これにて城の歴史は終焉を迎えた。その後は
手付かずのまま留め置かれたようで、城址は本丸・二郭・竪堀など殆んどが原型を留めており保存状態も極めて
良好。学術的価値も高い。標高204mの山に築かれた城からは眼下に九久平の集落を見下ろせ、特に見晴台で
望む景色は豊田市街地より名古屋方面まで一望できる絶景であり、しかも城の直下を走る街道をも監視可能な
素晴らしいもの。山城としてこの見晴台は欠かすことのできない重要な要素である。■■■■■■■■■■■■
(高所恐怖症の方にはオススメできないが)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
九久平は足助街道と新城街道との交差点であると共に、巴川(矢作川支流、岡崎から足助方面へと繋がる)の
水運と陸上輸送との中継地でもあるという交通の要衝だった。ここに城を築くのは必要性から見て当然なのだが
この山自体が城を築くのに当然と言えるような構造になっているのも驚きでござろう。最頂部に長方形の主郭。
その主郭は上下の段があり、そこから東西方向へ繋がる尾根伝いに曲輪が結接。主郭の東側、一段下がった
位置に二郭。逆に主郭の西側には物見用の大岩がある。二郭の東と物見岩の西、即ち城の主要部と外側とを
隔する部分には大規模な堀切があり、尾根から侵入しようとする敵を遮断する構造になっている。主郭・二郭の
南北にはそれぞれいくつもの帯曲輪が附属する多層構造の防御態勢。こうした曲輪群の要所要所では石垣が
組まれ、更には石垣だけでなく自然の巨岩が城中至る所に埋め込まれ圧倒的な迫力を見せつけて来る。石垣と
岩山が組み合わさった構造を目にすると、よくもまぁ戦国時代に(人力で)こんなモノを作ったものだと感心する。
主郭の大きさは東西45m×南北20mくらい。城域全体としては東西220m×南北280mほどの大きさを有している。
主要曲輪群の下段、南側には城主居館の敷地である三郭が付く。対する北側には天然の谷戸を利用し、その
谷に流れ込む水を堰き止めて貯水する水ノ手曲輪が置かれている。現代で云うところのダム提を石垣で構築し
この当時の人がこのような構造物を作る発想があったのか!と驚愕。ダム提は2段構えになっており、もちろん
上からの水を溜めるだけでなく下から攻め寄せる敵を迎撃する塹壕胸壁にもなり得る遮蔽物だ。これが大給城
最大の見所となっている。中世山岳城郭にも関わらず随所に石垣を効果的に使っている様子は、まるで秀吉が
小田原征伐時に築いた石垣山一夜城(神奈川県小田原市)の原型かと思わせるほど。戦国時代の山城の姿を
目の当たりにできる名城でござる。城内のあちこちに残る土塁や石垣を乗り越えて先へ進むのだが、ちょっとした
探検気分を味わえて非常に楽しい!「米流し岩」と名付けられた岩は、城に水が豊富にあるよう見せかけるため
この岩の上から白米を大量に流して、滝のように見せかけた逸話によるとか。米で馬を洗うという籠城譚は良く
聞くが、滝のように見せかけたと言うのは何とも豪快な話である。これも巨岩あっての城という事か。■■■■■
登城路の片隅には、大給松平初代・加賀守乗元の墓も残っている。こちらもお見逃しなく。■■■■■■■■■
なお、所在地の「大内町」というのはかつてあった町名「大給町」と「下垣内」から作られた合成地名。すなわち、
「大内町」の「大」の字は大給に由来している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡(水利遺構)・堀・石垣・土塁・郭群
城域内は国指定史跡







三河国 松平氏館

松平氏館跡 松平東照宮

 所在地:愛知県豊田市松平町字赤原

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★★■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・郭群等
城域内は国指定史跡




三河国 松平城

松平城址碑

 所在地:愛知県豊田市松平町字三斗蒔

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★☆■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・郭群等
城域内は国指定史跡



三河松平家発祥の地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三河国の戦国大名にして、後の徳川将軍家となる松平氏発祥の地が加茂郡松平郷、愛知県豊田市松平町だ。
松平氏館は言うまでもなく松平氏の居館址であり、松平城はその松平氏館を守る詰城なれば、歴代松平氏が
継承したものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松平家は「伊勢物語」の主人公だとされる在原業平(ありわらのなりひら、第51代平城(へいぜい)天皇の孫)を
元々の祖とする三河の土豪で、当初は三河諸勢力の一つに過ぎなかった。詳しく記せば、在原氏は朝廷警護の
武士として賀茂神社と関りを持っていた。「加茂郡」つまり「賀茂郡」の郡名は賀茂神社に由来するものであろう。
その加茂郡下山庄に領地を有していた在原(松平)越前守信盛が鎌倉時代中期の弘安年間(1278年〜1288年)
所領へ下向、居館を構えたとされるのが松平氏館の始まり。この後、信盛の子・太郎左衛門信重が家督を継承
したものの、信重には男子が居なかったため関東からやってきた時宗の放浪僧・徳阿弥を娘婿に迎え入れた。
還俗した徳阿弥は松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)と名乗り、ここに三河松平家が誕生したのでござる。■■■
僧侶から転じて武人となった親氏は武威を以って近隣に覇を唱えるようになった。このため、戦時の備えとなる
詰めの城が必要となり、応永年間(1394年〜1428年)館に程近い南の小山・御城山で構築されたのが松平城。
松平城は別名で郷敷城とも呼ばれた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松平氏は2代・太郎左衛門泰親(やすちか)に継承された後、3代・信光(上記)の頃には岩津城の攻略に成功、
そちらに本拠を移す。留守となった松平郷を預かったのは初代・親氏の庶長子である信広(のぶひろ)だった。
以後、信広の家系は松平太郎左衛門家として続いていき、宗家に従い転戦。松平郷を預かる太郎左衛門家は
そのまま江戸時代もこの地を領有、交代寄合旗本(参勤交代する旗本)として明治維新まで家を繋いだ。歴代
当主は信広の後、長勝(ながかつ)―勝茂(かつしげ)―信吉(のぶよし)―親長(ちかなが)―由重(よししげ)
そして尚栄(なおよし)と受け継がれている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

源氏に繋がる家系?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて徳阿弥こと松平氏初代・親氏は、もともと上野国新田郷(群馬県太田市)の出自で、新田義重からの分流と
される得川(とくがわ)家の一門だった。つまり親氏の祖先を遡れば源氏の血筋、鎌倉幕府打倒に功あった名門
新田氏の後裔という事になる。松平宗家は7代・次郎三郎清康(きよやす、徳川家康の祖父)の頃に急成長し、
三河を統一する戦国大名にのし上がり、駿遠の今川家・尾張の織田家と覇を競う。この時、源氏の嫡流である
新田家の門跡を継ぎ、清康は「世良田次郎三郎(世良田は上州新田郡ゆかりの姓)」と名乗っている。そして、
孫の家康が徳川へと改姓。松平家は3代に渡って源氏(新田氏は足利家と並ぶ源氏の嫡流)の家名を志向した
事になる。斯くして松平氏が戦国大名として勇躍する際、先祖に連なる源姓徳川家に復し天下を統一した…と
いうのが松平氏発祥に関わる通説だが、実際の所、信重・親氏・泰親あたりの話は創作が多く、信憑性を欠く。
そもそも徳阿弥が本当に新田氏の血縁だった不詳(真相は家系を買い取ったという事らしい)にして、松平館と
松平城は距離的に乖離がある事から、その関連性も疑問視されており申す。どうやら戦国期においては、城の
直下に館が構えられていた、とする説もある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

実は江戸時代になってからの陣屋跡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
では現在において松平氏館跡とされている松平東照宮は何かと言えば、江戸時代になってからの陣屋跡だった
ようだ。徳川(松平)家は1590年、豊臣秀吉の命により三河を捨てて関東へ移封されたが、その一方で松平郷の
太郎左衛門家は(家康に従っていたものの)あくまでも山間の小領主に過ぎず、在地豪族としての立場に変化は
なかった。そのため、関東へと入封する家康は尚栄に「祖先の地を守る」命を与え、そのまま土地に留まらせた。
結局、秀吉の没後に徳川家康が天下を掌握、改めて太郎左衛門家は江戸幕府から松平郷に封じられたのだが
再封に際して、新たな陣屋を築き直したのが現状の松平氏館跡と見られる。館跡のすぐ近くには歴代松平氏の
墓所、つまり徳川家の聖地である浄土宗本松山高月院が控えており、その所領を侵さない場所で新たな陣屋を
築いたのでござる。然るに松平東照宮境内に残る陣屋時代の石垣や濠は、再封で入った太郎左衛門家9代目
尚栄(太郎左衛門家は初代・2代を宗家当主の親氏・泰親とし、信広を3代目と数える)が築いたものであり発掘
調査などの結果によって1613年(慶長18年)の構築と確認されており申す。となると、東照宮境内にある井戸が
「家康公産湯の井戸」と言われるが(徳川家康誕生時、この井戸の水を汲んで産湯にしたと言う伝承が残る)、
これは単に陣屋時代の井戸に過ぎぬものであろう。あるいは旧来の位置にあった松平氏館の井戸水でそうした
産湯を使い、その伝承だけが新陣屋に受け継がれて今に残っているのかもしれない。ともあれ、尚栄が築いた
松平陣屋は濠や石垣で囲われた格式あるもので、馬場も備えて尚武の気風を養う実戦的な構造になっていた。
この馬場は桜馬場と呼ばれ、一周300mの規模を誇る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、陣屋が東照宮となっているのは1619年(元和5年)に尚栄が久能山東照宮から勧請した事に因るもので、
家康没後わずか3年後に創建された“最初期の東照宮分社”と言える。この松平東照宮は東照大権現(家康)を
祭るだけでなく、松平館の屋敷神でもあった。松平陣屋を継承した太郎左衛門家(松平郷松平家)は、尚栄の後
重和(しげふさ)―信和(のぶふさ)―親貞(ちかさだ)―尚澄(なおずみ)―親相(ちかすけ)―信乗(のぶのり)―
信汎(のぶひろ)―頼載―信英と家を繋ぎ明治に至っている。もちろん、それ以降の代まで太郎左衛門家は続き
何と松平陣屋は大正時代までその邸宅として使われたが、現在は東照宮の敷地としてのみ利用されている。

原初的な構造の松平城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
一方の松平城はどのようなものだったかと言うと、比高約50m・標高298mの御城山を利用し、6アールの面積を
有する本郭を東端最頂部に造成し、その西北側の下に二ノ郭、更に西へ下って三ノ郭が続く梯郭式の縄張り。
三ノ郭の西外周を囲うように四ノ郭が控えており、その西側先端には出丸と思しき小曲輪がある。主要4曲輪+
出丸という構造が比較的小さな山にギッシリと詰め込まれているのだが、城山は周囲がかなり険峻な急斜面に
囲まれていて室町時代初期創建の城としては要害性が高い。故に戦国期まで継続して使われた訳だが、無論
天然の地形だけでなく人工的な改変も加えられており、本郭の下段およそ15mの山腹には北・東・南の三方へ
及ぶ幅3m〜5mの空掘が掘られている。加えて二ノ郭・三ノ郭周辺には竪堀も残り、堅城ぶりが見て取れる。
ただ、曲輪の並べ方は地形に依存する単調なものだし、曲輪と曲輪の間もさほど技巧的な虎口などは作られて
いない。極端な話、一つずつ曲輪を登って行けば自ずと本郭へと辿り着けよう。大きな山で無いせいもあるが、
城内は迷路にする程の余裕はなく、また多数の阻塞(土塁や櫓台)を置けるような地形でもないのである。室町
初期の創始であれば、これが限界と言える構造であろう。当然、さほど大掛かりな改造なども行われていないと
見受けられる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
松平城の正確な廃城時期は不明だが、文禄年間(1592年〜1595年)に破却されたとする説がござる。要するに
松平宗家(徳川家)が松平郷を離れた事で廃城になったのだろうが、それはつまり松平郷の戦国時代が終焉を
迎えたという証と言える。その後、家康が江戸に幕府を開くと松平郷は徳川家の聖地とされ高月院や東照宮と
いった寺社が手厚く保護され申した。松平郷の守りとなった堅固な城は役目を終え、霊廟を擁する鎮護の地に
変貌したのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな松平城では近年、発掘調査が行なわれて三河一豪族時代の松平氏の様子が明らかにされてきている。
このため松平氏関連遺跡は松平氏館跡・松平城跡・大給城址・高月院を一括として2000年(平成12年)2月4日
国の史跡に指定されたのでござった。松平氏館は東照宮の駐車場がすぐ隣に、松平城については松平郷の
入口に観光用駐車場があり、そこから歩いて訪ねる事が出来るため、自動車で遠征するのは楽。■■■■■







三河国 中垣内古屋敷

中垣内古屋敷跡 石垣遺構

 所在地:愛知県豊田市中垣内町西ノ平

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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唐突に現れる石垣…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
読み方は「なかがいとこやしき」、豊田市の南部にある中垣内町に所在。かなり古い市町村合併の話になるが、
1970年(昭和45年)4月1日の編入で東加茂郡松平町が豊田市に入る以前では松平町中垣内と言う表記になり、
この地区が岡崎市と豊田市の間に突き刺さるような形になっていた。即ち、戦国時代では松平郷の先端部で、
岡崎に進出した松平宗家と松平郷松平家の境界地点のみならず、近隣の諸勢力が相争う中で要となっていた
場所だったと言える。先述した円川の戦いも、この地域で行われたものだ(中垣内町辨天に慰霊碑が立つ)。
そんな中垣内町内には古刹・浄土真宗西平山徳山寺があり、その裏側(南側)に写真で表示した見事な石垣が
残されている。これが屋敷の残存遺構だ。さりながら、この屋敷の来歴は殆ど分からない。武田家の落人である
小幡氏の子孫・宇野安左衛門の屋敷跡といわれるが、それ以上は不明。とりあえずここに土着した武士の館が
総石垣造りで築かれていたという事であろうが、随分と立派な落人屋敷だ。石垣の脇には井戸も残る。■■■
現状、それ以外は何も遺構など見受けられない。この敷地上に民家が建つも、今お住まいの方は宇野家とは
無関係の方らしいので、石垣以外は誰も何も黙して語らない史跡だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■
とにかく石垣は美麗。だが文化財指定などは行われておらず、豊田市では埋蔵文化財地(遺跡番号630459)と
してだけ認識している模様。この石垣が荒廃せぬよう見守るのみでござる。私有地なので、見学時は配慮を。



現存する遺構

井戸跡・石垣・郭群





桶狭間合戦関連諸城砦  小牧城