今川家の遠州制圧拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で鶴舞城、土方(ひじかた)城とも。掛川市中心街から南へ下った旧大東町にある標高132mの鶴翁(かくおう)山が
高天神城跡でござる。鶴翁山にある城ゆえ鶴舞城…という事になろうが、伝説によればこの山の名は913年(延喜13年)
藤原鶴翁なる人物が山頂に標柱を建てたという話に由来する。また、土方の名は1191年(建久2年)に土方次郎義政が
砦を築いた伝承が受け継がれての事。この間、1180年(治承4年)の築城説もあるが、いずれにせよ本格的な城砦とは
言えない(或いは伝承に過ぎない)ものでござろう。よって、高天神城の本格築城は15世紀の初め、当時の駿河守護で
あった今川了俊(りょうしゅん)の手によるものとされる。これは1416年(応永23年)上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱に連動し
今川氏が遠江守護の斯波氏に対抗するべく築城したものというのが通説でござろう。上杉禅秀の乱とは、当時の東国
支配機関であった鎌倉公方府において、前関東管領であった上杉禅秀が、時の鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)の追い
落としを図った兵乱。今川氏は幕府方に就いたが、斯波氏は反乱軍に加担していた疑いが持たれていた。このため、
遠州を牽制する目的で高天神城が築かれたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後、この城は今川氏の家臣である福島(くしま)氏へ預けられるようになり、1446年(文安3年)福島佐渡介基正が、
次いで1471年(文明3年)に福島上総介正成が城主に任じられ申した。また「大福寺文書」に拠れば1513年(永正10年)
以前の段階で福島助左衛門尉助春が城に入っていたと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
福島氏は高天神城を拡張、駿府の西を守る重要拠点とされた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この福島氏、正成を筆頭に剛勇を鳴らした一族として有名だが1536年(天文5年)に発生した今川家の家督争い、所謂
「花倉(はなぐら)の乱」で今川治部大輔義元に対立して破れ、一党は没落した。正成は討死し、他の郎党も悉く処罰や
戦死しており、わずかに生き残った孫九郎綱成(つなしげ、正成嫡男)が小田原後北条氏に寄宿。後に縁戚関係を結び
玉縄(たまなわ)北条氏の祖となった。綱成の武勇伝は枚挙に暇が無いため割愛するが、この一件によって高天神城は
小笠原右京進春義(春儀・春茂とも)が城主となる。(正成は花倉の乱以前の合戦で討死したという説もある)■■■■
守将・小笠原氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、この城と小笠原氏は切っても切れない関係を紡ぐ事になり申した。小笠原氏と言えば信濃守護の家系であるが、
春義の父・長高は長子に生まれながら庶子であったため家督を継げず、信濃を出奔し尾張・三河を流浪した後に遠江へ
流れ着いた苦労人である。春義の代になり、ようやく今川家で禄を食んだ頃、反乱を起こした福島氏を討つ功を挙げた為
そのまま福島氏に代わり高天神城を義元から与えられたのだ。春義は1542年(天文11年)10月26日付で近隣にある寺の
曹洞宗梅月山華厳院に寄進状を出した事が記録に残り、後を継いだ氏興(春義の子。氏清とも)も1544年(天文13年)7月
1日、同様に華厳院へ寄進状を出してござる。高天神小笠原氏はよく城を守って今川家全盛期の柱石となったが、次代の
氏助(通説では与八郎長忠の名で知られる。信興とも。氏興の子)の頃、情勢は変化する。1560年(永禄3年)5月19日、
今川義元は尾張遠征中に織田信長の奇襲を受け落命。これに従軍していた小笠原氏の軍勢は高天神城に逃げ帰った。
義元の後、駿遠の太守であった今川家は急激に没落。家を維持する事もままならなくなり、今川領は北から甲斐武田氏
西から三河徳川氏の脅威に晒された。こうした中、1564年(永禄7年)氏興から氏助へ家督が継承された(異説あり)が、
その翌年の1565年(永禄8年)8月に徳川家康から氏助へ降誘の書状が届けられる。家康は1568年(永禄11年)12月にも
同様の書状を発布。丁度この折、武田軍と徳川軍が連動して今川領へ侵攻し始めており、翌1569年(永禄12年)正月、
徳川軍は今川治部大輔氏真(義元嫡男、当時の今川家当主)の籠もる掛川城(掛川市内)を包囲したのでござる。■■
この状況を受け、氏興・氏助父子は徳川家へ降る事を決意し、一族の小笠原与右衛門を使者に立てた。氏助の率いる
小笠原勢は掛川城包囲軍に加わって遠江国内で徳川軍の道案内を果たしたと伝わり、この功績で高天神城が従来通り
安堵された。なお、異説に拠れば氏助が城主を継いだのは1569年6月11日、父・氏興が没した事によるとされる。■■■
兎にも角にも、この頃から名実共に氏助の代となった小笠原氏。1570年(元亀元年)6月28日、徳川家康が織田信長の
援軍として遠征した姉川の戦いでは、氏助率いる小笠原勢が第2陣として突撃している。■■■■■■■■■■■■
武田家の攻勢開始■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがこの年の暮れになると、徳川・武田の関係が悪化。旧今川領を分かった両家は、今度は互いの領土を欲して
緊張状態に陥ったのでござる。駿遠国境に近い高天神城は、その最前線に立たされる。10月頃から山県三郎兵衛尉
昌景が遠州を窺い、様々な調略を開始。昌景は“武田四天王”に数えられる名将中の名将なれば、武田信玄が万全の
体制で西上作戦を画策していた事が想像できよう。明けて1571年(元亀2年)3月、遠州攻略を狙う武田信玄は昌景や
内藤修理亮昌豊(これも信玄配下の名将)に命じ2万5000の軍勢で高天神城へ来襲。しかし城主・小笠原氏助は僅か
2000の城兵で籠城。この時、本丸には氏助の他に軍監・大河内源三郎政局(おおこうちまさちか)や武者奉行・渥美
源五郎勝吉らの軍勢500騎と遊軍170騎が詰め、見事に城を守りきったのでござる。信玄は小手先程度に高天神城の
様子を見極める為、本気で攻めるつもりは無かったともされるが、武田軍を撃退した事で一躍この城の名が轟いた。
何よりこの時、城を守る兵の戦意は旺盛であり、また、城山は険峻で攻め難く、信玄も迂闊に手を出すべきではないと
判断したようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これ以後、高天神城をめぐって徳川・武田の激烈な争奪戦が繰り広げられる。■■■■■■■■■■■■■■■■
1573年(天正元年)4月12日、武田信玄死去。後を継いだ武田勝頼は老臣らに若輩の陣代(仮の当主)と侮られる事を
妬み、信玄の果たせなかった事を成し遂げて彼らを見返そうと画策する。その目標に選ばれたのが高天神城である。
偉大な名将である父・信玄にすら落とせなかった高天神城を奪い、新当主・勝頼の実力を誇示しようというのである。
1574年(天正2年)5月、武田軍は2万という大軍で高天神城を包囲。氏助は匂坂牛之助なる者を使者に立て家康に、
家康は織田信長に後詰の援軍を要請したものの、当時信長は越前一向一揆に軍勢を派遣していて対武田戦の動員
兵力を持たなかった。5月22日、家康は牛之助の功を評して恩賞を与えたが、戦況は傾く一方。「真田文書」に拠れば
同月28日の段階で高天神城は本曲輪・二ノ曲輪・三ノ曲輪を残すのみであったとされ、「武州文書」では6月10日に
堂の尾曲輪までも陥落したとある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
家康・信長共に高天神救援の動きを見せてはいたものの6月17日、抗しきれなくなった小笠原氏助は降伏。最終日の
攻防戦では城将の大石久未・川田眞勝をはじめとして城方の死傷者75名、武田方の死傷者も253名を数えた。結局、
氏助はそのまま武田家臣に取り立てられたが、高天神から駿河国内に領地替えとされ、翌1575年(天正3年)の秋、
高天神城を退去したとある。これに伴い、勝頼の命により横田甚五郎尹松(ただとし、武田家臣)が城番として入城。
ちなみに勝頼は、落城当初の時点では山県昌景を城将として入れようとしていたらしい。この他、徳川の将は落城に
際して討死する者あり、渡辺金太夫ら武田に寝返る者あり、あるいは渥美勝吉や大須賀康高(おおすがやすたか)の
ように降伏を認めず浜松にいる家康の下へ帰参する者あり、去就は様々でござった。何としても高天神城を手に入れ
たかった勝頼は、城兵の身の振り方は自由としたとの事。異色なのは軍監・大河内政局で、降伏も退却も潔しとせず
囚われの身となり、城内の石牢に幽閉され申した。勝頼は政局を斬ろうとしたと言うが、旧主への忠義心が篤い事に
心打たれた横田尹松が牢内に手厚く匿ったそうだ。ともあれ、これで勝頼念願の高天神城奪取は成功を収めた。■
徳川の反転攻勢■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし、これで有頂天になった勝頼の慢心を見ぬいた武田家宿老の高坂弾正忠昌信(こうさかまさのぶ)は、戦勝の
祝宴で「これは御家滅亡の盃である」と洩らしたという。その言葉通り、自信過剰の勝頼は1575年5月21日に長篠の
合戦で惨敗、今度は織田・徳川の連合軍に侵略されるようになるのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
高天神城は逆に武田方の最前線となり、これを奪還すべく家康が念入りな準備を始めた。落城直後である1574年8月
時点で早くも“付けの城”である馬伏塚(まむしづか)城(静岡県袋井市)を築いて、大須賀康高を派遣。次いで1578年
(天正6年)横須賀城(下記)築城を行った。この他、1576年(天正4年)〜1580年(天正8年)にかけ高天神城を包囲する
砦群を構築。こうした砦は小笠山(おがさやま)砦・中村砦・能ヶ坂(のがさか)砦・火ヶ峰(ひがみね)砦・獅子ヶ鼻砦に
三井山(みついさん)砦の計6つ(詳細下記)を数え、武田軍による武器・弾薬・兵糧の補給を完全に断ち、孤立させて
しまったのである。一方、武田方では1579年(天正7年)6月に新城主として岡部丹波守元信(真幸・長教・元綱とも)を
任命。8月に1000騎を率いて入城した元信は、城の拡張工事を行っている。それに伴って横田尹松は軍監とされたが
徳川方の締め付けがいよいよ厳しくなった頃なれば、攻城が開始されるのは時間の問題であった。■■■■■■■
満を持した1580年の秋から徳川勢の攻勢が本格化。既に6砦の影響で高天神城は物資補給がままならず、城内の
兵糧は目減りするばかり。更にこの頃、徳川軍の東征作戦が同時進行しており諏訪原城(静岡県島田市)や田中城
(静岡県藤枝市)といった武田方の後背城郭は既に陥落していた。即ち、高天神城は甲斐・駿河から伸びる武田軍の
支援ルートから切り離された状況にあり、後詰の来援は絶望的であった。それでも城主・岡部元信は勝頼に救援の
書状を送ったと言うものの、一方で軍監・横田尹松は後詰不要と勝頼に進言したとの事。これは、既に武田家には
高天神までの遠征を為す余力がないと判断し、無理に後詰を出して徒に軍事力を損耗させる事を回避しようとした
尹松の“無念”が裏返しとなっていたのではなかろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、年を跨いだ1581年(天正9年)になるといよいよ城内は困窮し城兵の逃亡も相次ぐようになっていった。
事ここに至り、城主・岡部元信は徳川方への降伏を打診する。「水野文書」に拠れば、この旨を伝える矢文は1月
25日以前の時点で送られていたようだ。しかし、家康を後援していた織田信長の判断により、高天神城の降伏は
認められなかった。近年の戦国史研究において、戦国大名の権力構造について再検証が図られるようになったが
高天神城の降伏可否に関しては、こうした再検証の好事例として捉えられよう。例えば鎌倉時代、主君と被官との
関係は「御恩と奉公」と呼ばれるように、土地を与える事とそれに対する勤務という相関関係にあった。これが戦国
時代になると幕府・朝廷など公的な裏付けに頼らない(言わば私的な)権力者たる戦国大名は「力による支配」を
公然化させる一方、その力を行使して他者からの侵略を撃退し安全保障を図る事を条件として、下層階級の従属を
得ていたとする考え方である。落城寸前となった高天神城は武田家の安全保障を得られなくなった為、徳川家への
鞍替えを模索した。一方、信長はあくまでも「武田家の高天神城」を蹂躙する事で武田家の公権力が衰退した事を
喧伝する材料にしようとしたのである。即ち、武田の城が落城すれば「もはや武田家に実力なし」と世に広め、武田
領国の崩壊を誘引させられる訳だ。ここに進退窮まった岡部元信は、玉砕するしか道がなくなったのである。■■
籠城10ヶ月を過ぎた3月22日、元信は最後の決戦を挑み城外へ出撃。徳川軍と激しい戦闘を繰り広げた後、軍監
江馬直盛以下残兵800を数える守勢全員が討死した。なおその決戦前夜には城兵達の要望に応え家康お抱えの
幸若太夫による幸若舞が演じられ、攻める側・守る側が一緒にその舞を鑑賞したという逸話が伝わっている。横田
尹松だけが城の西側から脱出し「犬戻り猿戻り」と呼ばれる険しい間道を抜け、甲斐国へと至り勝頼に高天神城が
落城した事を報告した。また、捕らえられた城兵のうち武者奉行の孕石和泉守元泰(はらみいしもとやす)が切腹に
処せられている。一方で、1574年以来石牢に幽閉され続けていた大河内政局は、この時を以って開放され申した。
長年の抑留で彼は足が不自由になり歩けなくなっていたが、家康は忠心に報い恩賞を与えると共に、苦難を労って
津島の温泉で療養させたと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
落城後、家康は城内を検分した後に城を焼き払った。これにて高天神城は廃城となったのでござる。■■■■■■■■
高天神を制する者は…天下を制す!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて高天神城の縄張りを評するに、必ずと言って良いほど「一城別郭」の言葉が用いられるが、なるほどその通りで
アルファベットの「H」の字に準えた曲輪群が連結している。城は大きく東郭と西郭に分かれ(これが「H」左右の縦棒)
その両者を結ぶように、尾根筋を利用した井戸曲輪(これが「H」の横棒)が用意されている。まず東郭、高天神山の
最高峰部分を利用した本丸を中心に南へと御前曲輪・三ノ丸・大手郭が繋がっている。本丸のはずれには大河内
政局が閉じ込められていた石窟が。今川時代、高天神城はこの東郭部分だけだったと言われている。■■■■■■
対する西郭は標高128mの頂上部を西ノ丸とし、北へと向かって二ノ丸・堂の尾曲輪・井楼曲輪が連なる。西ノ丸の
西面には馬場曲輪が連結。これら西郭群は武田時代に拡張された部分と見られる。西郭周辺では大規模な横堀が
巡ったり、曲輪ごとの防衛構想に特徴があるなど、明らかに東郭とは異なる趣が感じられよう。武田流の築城術で
拡張された雰囲気を垣間見る事が出来、この城の歴史と連動した縄張が直感的に判断できる状態だ。■■■■■
落城以後、人の手がほとんど入らない山林と化した高天神山であるが、現状も堀切や切岸、曲輪群などの遺構が
見受けられる。一方で山頂(つまり本丸跡地)には高天神社があったと言われるが、江戸時代中期の1724年(享保9年)
西峰(つまり西ノ丸跡地)へ遷座されたため、これに伴う改変が多少あるようだ。ともあれ、この高天神社があった事で
落城以後も神域として保全された山なので、綺麗に残る厳しい崖が往時の堅城ぶりを物語っている。こうした保存
状況から、1975年(昭和50年)10月16日に主要部が国史跡指定を受け、1998年(平成10年)には基本整備計画が
確定。2005年(平成17年)3月2日に上土方嶺向地域が、2007年(平成19年)2月6日には下土方地域が国史跡の
追加指定を受けている。2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会が続日本百名城に認定。■■■■
武田と徳川が凌ぎを削って争った高天神城。「高天神を制する者は遠州を制する」と呼ばれたのも当然であろう。■
なお、この城が落ちた後には武田家の版図が急速に減少。木曽氏や保科氏などの離反を招いており、やはり信長が
高天神城落城を効果的に利用し、狙い通り武田勢力減退の原因とさせた事が歴史的に立証されている。■■■■■
信長の慧眼、恐るべし。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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