遠江国 高天神城

高天神城本丸跡

 所在地:静岡県掛川市上土方・上土方嶺向
(旧 静岡県小笠郡大東町上土方・上土方嶺向)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★☆■■■



今川家の遠州制圧拠点■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で鶴舞城、土方(ひじかた)城とも。掛川市中心街から南へ下った旧大東町にある標高132mの鶴翁(かくおう)山が
高天神城跡でござる。鶴翁山にある城ゆえ鶴舞城…という事になろうが、伝説によればこの山の名は913年(延喜13年)
藤原鶴翁なる人物が山頂に標柱を建てたという話に由来する。また、土方の名は1191年(建久2年)に土方次郎義政が
砦を築いた伝承が受け継がれての事。この間、1180年(治承4年)の築城説もあるが、いずれにせよ本格的な城砦とは
言えない(或いは伝承に過ぎない)ものでござろう。よって、高天神城の本格築城は15世紀の初め、当時の駿河守護で
あった今川了俊(りょうしゅん)の手によるものとされる。これは1416年(応永23年)上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱に連動し
今川氏が遠江守護の斯波氏に対抗するべく築城したものというのが通説でござろう。上杉禅秀の乱とは、当時の東国
支配機関であった鎌倉公方府において、前関東管領であった上杉禅秀が、時の鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)の追い
落としを図った兵乱。今川氏は幕府方に就いたが、斯波氏は反乱軍に加担していた疑いが持たれていた。このため、
遠州を牽制する目的で高天神城が築かれたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
その後、この城は今川氏の家臣である福島(くしま)氏へ預けられるようになり、1446年(文安3年)福島佐渡介基正が、
次いで1471年(文明3年)に福島上総介正成が城主に任じられ申した。また「大福寺文書」に拠れば1513年(永正10年)
以前の段階で福島助左衛門尉助春が城に入っていたと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
福島氏は高天神城を拡張、駿府の西を守る重要拠点とされた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この福島氏、正成を筆頭に剛勇を鳴らした一族として有名だが1536年(天文5年)に発生した今川家の家督争い、所謂
「花倉(はなぐら)の乱」で今川治部大輔義元に対立して破れ、一党は没落した。正成は討死し、他の郎党も悉く処罰や
戦死しており、わずかに生き残った孫九郎綱成(つなしげ、正成嫡男)が小田原後北条氏に寄宿。後に縁戚関係を結び
玉縄(たまなわ)北条氏の祖となった。綱成の武勇伝は枚挙に暇が無いため割愛するが、この一件によって高天神城は
小笠原右京進春義(春儀・春茂とも)が城主となる。(正成は花倉の乱以前の合戦で討死したという説もある)■■■■

守将・小笠原氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、この城と小笠原氏は切っても切れない関係を紡ぐ事になり申した。小笠原氏と言えば信濃守護の家系であるが、
春義の父・長高は長子に生まれながら庶子であったため家督を継げず、信濃を出奔し尾張・三河を流浪した後に遠江へ
流れ着いた苦労人である。春義の代になり、ようやく今川家で禄を食んだ頃、反乱を起こした福島氏を討つ功を挙げた為
そのまま福島氏に代わり高天神城を義元から与えられたのだ。春義は1542年(天文11年)10月26日付で近隣にある寺の
曹洞宗梅月山華厳院に寄進状を出した事が記録に残り、後を継いだ氏興(春義の子。氏清とも)も1544年(天文13年)7月
1日、同様に華厳院へ寄進状を出してござる。高天神小笠原氏はよく城を守って今川家全盛期の柱石となったが、次代の
氏助(通説では与八郎長忠の名で知られる。信興とも。氏興の子)の頃、情勢は変化する。1560年(永禄3年)5月19日、
今川義元は尾張遠征中に織田信長の奇襲を受け落命。これに従軍していた小笠原氏の軍勢は高天神城に逃げ帰った。
義元の後、駿遠の太守であった今川家は急激に没落。家を維持する事もままならなくなり、今川領は北から甲斐武田氏
西から三河徳川氏の脅威に晒された。こうした中、1564年(永禄7年)氏興から氏助へ家督が継承された(異説あり)が、
その翌年の1565年(永禄8年)8月に徳川家康から氏助へ降誘の書状が届けられる。家康は1568年(永禄11年)12月にも
同様の書状を発布。丁度この折、武田軍と徳川軍が連動して今川領へ侵攻し始めており、翌1569年(永禄12年)正月、
徳川軍は今川治部大輔氏真(義元嫡男、当時の今川家当主)の籠もる掛川城(掛川市内)を包囲したのでござる。■■
この状況を受け、氏興・氏助父子は徳川家へ降る事を決意し、一族の小笠原与右衛門を使者に立てた。氏助の率いる
小笠原勢は掛川城包囲軍に加わって遠江国内で徳川軍の道案内を果たしたと伝わり、この功績で高天神城が従来通り
安堵された。なお、異説に拠れば氏助が城主を継いだのは1569年6月11日、父・氏興が没した事によるとされる。■■■
兎にも角にも、この頃から名実共に氏助の代となった小笠原氏。1570年(元亀元年)6月28日、徳川家康が織田信長の
援軍として遠征した姉川の戦いでは、氏助率いる小笠原勢が第2陣として突撃している。■■■■■■■■■■■■

武田家の攻勢開始■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところがこの年の暮れになると、徳川・武田の関係が悪化。旧今川領を分かった両家は、今度は互いの領土を欲して
緊張状態に陥ったのでござる。駿遠国境に近い高天神城は、その最前線に立たされる。10月頃から山県三郎兵衛尉
昌景が遠州を窺い、様々な調略を開始。昌景は“武田四天王”に数えられる名将中の名将なれば、武田信玄が万全の
体制で西上作戦を画策していた事が想像できよう。明けて1571年(元亀2年)3月、遠州攻略を狙う武田信玄は昌景や
内藤修理亮昌豊(これも信玄配下の名将)に命じ2万5000の軍勢で高天神城へ来襲。しかし城主・小笠原氏助は僅か
2000の城兵で籠城。この時、本丸には氏助の他に軍監・大河内源三郎政局(おおこうちまさちか)や武者奉行・渥美
源五郎勝吉らの軍勢500騎と遊軍170騎が詰め、見事に城を守りきったのでござる。信玄は小手先程度に高天神城の
様子を見極める為、本気で攻めるつもりは無かったともされるが、武田軍を撃退した事で一躍この城の名が轟いた。
何よりこの時、城を守る兵の戦意は旺盛であり、また、城山は険峻で攻め難く、信玄も迂闊に手を出すべきではないと
判断したようだ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これ以後、高天神城をめぐって徳川・武田の激烈な争奪戦が繰り広げられる。■■■■■■■■■■■■■■■■
1573年(天正元年)4月12日、武田信玄死去。後を継いだ武田勝頼は老臣らに若輩の陣代(仮の当主)と侮られる事を
妬み、信玄の果たせなかった事を成し遂げて彼らを見返そうと画策する。その目標に選ばれたのが高天神城である。
偉大な名将である父・信玄にすら落とせなかった高天神城を奪い、新当主・勝頼の実力を誇示しようというのである。
1574年(天正2年)5月、武田軍は2万という大軍で高天神城を包囲。氏助は匂坂牛之助なる者を使者に立て家康に、
家康は織田信長に後詰の援軍を要請したものの、当時信長は越前一向一揆に軍勢を派遣していて対武田戦の動員
兵力を持たなかった。5月22日、家康は牛之助の功を評して恩賞を与えたが、戦況は傾く一方。「真田文書」に拠れば
同月28日の段階で高天神城は本曲輪・二ノ曲輪・三ノ曲輪を残すのみであったとされ、「武州文書」では6月10日に
堂の尾曲輪までも陥落したとある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
家康・信長共に高天神救援の動きを見せてはいたものの6月17日、抗しきれなくなった小笠原氏助は降伏。最終日の
攻防戦では城将の大石久未・川田眞勝をはじめとして城方の死傷者75名、武田方の死傷者も253名を数えた。結局、
氏助はそのまま武田家臣に取り立てられたが、高天神から駿河国内に領地替えとされ、翌1575年(天正3年)の秋、
高天神城を退去したとある。これに伴い、勝頼の命により横田甚五郎尹松(ただとし、武田家臣)が城番として入城。
ちなみに勝頼は、落城当初の時点では山県昌景を城将として入れようとしていたらしい。この他、徳川の将は落城に
際して討死する者あり、渡辺金太夫ら武田に寝返る者あり、あるいは渥美勝吉や大須賀康高(おおすがやすたか)の
ように降伏を認めず浜松にいる家康の下へ帰参する者あり、去就は様々でござった。何としても高天神城を手に入れ
たかった勝頼は、城兵の身の振り方は自由としたとの事。異色なのは軍監・大河内政局で、降伏も退却も潔しとせず
囚われの身となり、城内の石牢に幽閉され申した。勝頼は政局を斬ろうとしたと言うが、旧主への忠義心が篤い事に
心打たれた横田尹松が牢内に手厚く匿ったそうだ。ともあれ、これで勝頼念願の高天神城奪取は成功を収めた。

徳川の反転攻勢■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし、これで有頂天になった勝頼の慢心を見ぬいた武田家宿老の高坂弾正忠昌信(こうさかまさのぶ)は、戦勝の
祝宴で「これは御家滅亡の盃である」と洩らしたという。その言葉通り、自信過剰の勝頼は1575年5月21日に長篠の
合戦で惨敗、今度は織田・徳川の連合軍に侵略されるようになるのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
高天神城は逆に武田方の最前線となり、これを奪還すべく家康が念入りな準備を始めた。落城直後である1574年8月
時点で早くも“付けの城”である馬伏塚(まむしづか)城(静岡県袋井市)を築いて、大須賀康高を派遣。次いで1578年
(天正6年)横須賀城(下記)築城を行った。この他、1576年(天正4年)〜1580年(天正8年)にかけ高天神城を包囲する
砦群を構築。こうした砦は小笠山(おがさやま)砦・中村砦・能ヶ坂(のがさか)砦・火ヶ峰(ひがみね)砦・獅子ヶ鼻砦に
三井山(みついさん)砦の計6つ(詳細下記)を数え、武田軍による武器・弾薬・兵糧の補給を完全に断ち、孤立させて
しまったのである。一方、武田方では1579年(天正7年)6月に新城主として岡部丹波守元信(真幸・長教・元綱とも)を
任命。8月に1000騎を率いて入城した元信は、城の拡張工事を行っている。それに伴って横田尹松は軍監とされたが
徳川方の締め付けがいよいよ厳しくなった頃なれば、攻城が開始されるのは時間の問題であった。■■■■■■■
満を持した1580年の秋から徳川勢の攻勢が本格化。既に6砦の影響で高天神城は物資補給がままならず、城内の
兵糧は目減りするばかり。更にこの頃、徳川軍の東征作戦が同時進行しており諏訪原城(静岡県島田市)や田中城
(静岡県藤枝市)といった武田方の後背城郭は既に陥落していた。即ち、高天神城は甲斐・駿河から伸びる武田軍の
支援ルートから切り離された状況にあり、後詰の来援は絶望的であった。それでも城主・岡部元信は勝頼に救援の
書状を送ったと言うものの、一方で軍監・横田尹松は後詰不要と勝頼に進言したとの事。これは、既に武田家には
高天神までの遠征を為す余力がないと判断し、無理に後詰を出して徒に軍事力を損耗させる事を回避しようとした
尹松の“無念”が裏返しとなっていたのではなかろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、年を跨いだ1581年(天正9年)になるといよいよ城内は困窮し城兵の逃亡も相次ぐようになっていった。
事ここに至り、城主・岡部元信は徳川方への降伏を打診する。「水野文書」に拠れば、この旨を伝える矢文は1月
25日以前の時点で送られていたようだ。しかし、家康を後援していた織田信長の判断により、高天神城の降伏は
認められなかった。近年の戦国史研究において、戦国大名の権力構造について再検証が図られるようになったが
高天神城の降伏可否に関しては、こうした再検証の好事例として捉えられよう。例えば鎌倉時代、主君と被官との
関係は「御恩と奉公」と呼ばれるように、土地を与える事とそれに対する勤務という相関関係にあった。これが戦国
時代になると幕府・朝廷など公的な裏付けに頼らない(言わば私的な)権力者たる戦国大名は「力による支配」を
公然化させる一方、その力を行使して他者からの侵略を撃退し安全保障を図る事を条件として、下層階級の従属を
得ていたとする考え方である。落城寸前となった高天神城は武田家の安全保障を得られなくなった為、徳川家への
鞍替えを模索した。一方、信長はあくまでも「武田家の高天神城」を蹂躙する事で武田家の公権力が衰退した事を
喧伝する材料にしようとしたのである。即ち、武田の城が落城すれば「もはや武田家に実力なし」と世に広め、武田
領国の崩壊を誘引させられる訳だ。ここに進退窮まった岡部元信は、玉砕するしか道がなくなったのである。■■
籠城10ヶ月を過ぎた3月22日、元信は最後の決戦を挑み城外へ出撃。徳川軍と激しい戦闘を繰り広げた後、軍監
江馬直盛以下残兵800を数える守勢全員が討死した。なおその決戦前夜には城兵達の要望に応え家康お抱えの
幸若太夫による幸若舞が演じられ、攻める側・守る側が一緒にその舞を鑑賞したという逸話が伝わっている。横田
尹松だけが城の西側から脱出し「犬戻り猿戻り」と呼ばれる険しい間道を抜け、甲斐国へと至り勝頼に高天神城が
落城した事を報告した。また、捕らえられた城兵のうち武者奉行の孕石和泉守元泰(はらみいしもとやす)が切腹に
処せられている。一方で、1574年以来石牢に幽閉され続けていた大河内政局は、この時を以って開放され申した。
長年の抑留で彼は足が不自由になり歩けなくなっていたが、家康は忠心に報い恩賞を与えると共に、苦難を労って
津島の温泉で療養させたと言う。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
落城後、家康は城内を検分した後に城を焼き払った。これにて高天神城は廃城となったのでござる。■■■■■■■■

高天神を制する者は…天下を制す!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて高天神城の縄張りを評するに、必ずと言って良いほど「一城別郭」の言葉が用いられるが、なるほどその通りで
アルファベットの「H」の字に準えた曲輪群が連結している。城は大きく東郭と西郭に分かれ(これが「H」左右の縦棒)
その両者を結ぶように、尾根筋を利用した井戸曲輪(これが「H」の横棒)が用意されている。まず東郭、高天神山の
最高峰部分を利用した本丸を中心に南へと御前曲輪・三ノ丸・大手郭が繋がっている。本丸のはずれには大河内
政局が閉じ込められていた石窟が。今川時代、高天神城はこの東郭部分だけだったと言われている。■■■■■■
対する西郭は標高128mの頂上部を西ノ丸とし、北へと向かって二ノ丸・堂の尾曲輪・井楼曲輪が連なる。西ノ丸の
西面には馬場曲輪が連結。これら西郭群は武田時代に拡張された部分と見られる。西郭周辺では大規模な横堀が
巡ったり、曲輪ごとの防衛構想に特徴があるなど、明らかに東郭とは異なる趣が感じられよう。武田流の築城術で
拡張された雰囲気を垣間見る事が出来、この城の歴史と連動した縄張が直感的に判断できる状態だ。■■■■■
落城以後、人の手がほとんど入らない山林と化した高天神山であるが、現状も堀切や切岸、曲輪群などの遺構が
見受けられる。一方で山頂(つまり本丸跡地)には高天神社があったと言われるが、江戸時代中期の1724年(享保9年)
西峰(つまり西ノ丸跡地)へ遷座されたため、これに伴う改変が多少あるようだ。ともあれ、この高天神社があった事で
落城以後も神域として保全された山なので、綺麗に残る厳しい崖が往時の堅城ぶりを物語っている。こうした保存
状況から、1975年(昭和50年)10月16日に主要部が国史跡指定を受け、1998年(平成10年)には基本整備計画が
確定。2005年(平成17年)3月2日に上土方嶺向地域が、2007年(平成19年)2月6日には下土方地域が国史跡の
追加指定を受けている。2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会が続日本百名城に認定。■■■■
武田と徳川が凌ぎを削って争った高天神城。「高天神を制する者は遠州を制する」と呼ばれたのも当然であろう。
なお、この城が落ちた後には武田家の版図が急速に減少。木曽氏や保科氏などの離反を招いており、やはり信長が
高天神城落城を効果的に利用し、狙い通り武田勢力減退の原因とさせた事が歴史的に立証されている。■■■■■
信長の慧眼、恐るべし。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

石窟・井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








遠江国 惣勢山砦

惣勢山砦跡 史跡標柱

 所在地:静岡県掛川市中
(旧 静岡県小笠郡大東町中)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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“総勢”が陣取った小山■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
惣勢山本陣。1574年の高天神城攻めの際、武田勝頼が本陣を置いた山。惣勢山なる名が、勝頼の軍勢がここに
駐屯した事を由来して付けられたものだと伝わる。国安川(現在の菊川)から中村(所在地である中(なか)地区)を
経て勝頼はここに着陣、高天神城攻撃を本格化させ、堂の尾曲輪を落とした時点で「三日のうちに落城させる」と
宣言し威勢を張ったとされている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
南北に細長い惣勢山は最高地点の標高が54m。そこから段曲輪状に曲輪を構えたようだが、現状では全てが藪に
覆われており、写真に示した史跡標柱が城山の南端部に立っているのみ。恐らく私有地であろう為、迂闊に中へ
入らない方が良い。高天神城本丸(高天神山の山頂)から東南東へ約1.5kmの距離にあり、指呼の間に互いの城を
望める関係性を確かめられれば十分でござろう。静岡県道251号線が亀惣川を渡る地点、その名も惣勢橋の東が
惣勢山の丘陵地帯で、県道沿いに写真の標柱がひっそりと立っている。■■■■■■■■■■■■■■■■■







遠江国 横須賀城

横須賀城跡全景

 所在地:静岡県掛川市西大渕・横須賀・山崎
(旧 静岡県小笠郡大須賀町西大渕・横須賀・山崎)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★■■



陣城に始まった名城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
徳川勢が高天神城奪還作戦において包囲付城として築いた城。築城は上記の通り1578年で「横須賀根元歴代明鑑」に
「遠州城東郡横須賀の城は、天正六年三月十一日より馬伏塚の城を引いて御普請初り」と記され、また「高天神記」には
「天正六年春横須賀に御城取有り同国馬伏塚の城主大須賀五郎左衛門康高に命じ御自身御縄張十一日より始まり」と
あるが、他の史料では1574年、1576年、あるいは1580年とも言われている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
横須賀城の築かれた場所は、その当時海岸に突き出していた標高30mほどの小丘陵で、麓は砂丘に覆われ、背後を
海で守ると同時に海運を利用して物資の補給を行える築城好地でござった。しかも高天神城の西約6kmの位置にあり、
武田方に奪われていた高天神城に相対して監視・包囲戦術を行いつつ、徳川本城の浜松城(静岡県浜松市中区)との
連絡を密に行える格好の場所であったと言えよう。初代城主は大須賀五郎左衛門尉康高、石高3万石。■■■■■■
この城をはじめとし、数々の城砦群を築いた事で1581年に高天神城は落城。これを以って高天神城が廃絶された為
以後は横須賀城がこの地域の中心城郭として利用されるようになり申した。翌1582年(天正10年)に武田氏が滅亡、
その遺領は徳川氏の支配下に入り、同年、織田信長も本能寺に斃れた為、徳川家康は東海甲信に跨る大大名として
自立する。この間、横須賀城は遠江国沿海部の要衝として重きを成し、1588年(天正16年)康高が隠居した後は彼の
養嗣子である五郎左衛門忠政(実父は徳川四天王の1人・榊原康政)が城主の座を継承してござる。■■■■■■■
1590年(天正18年)豊臣秀吉の全国統一に伴って徳川家は関東へ移封。家康に従う大須賀氏は上総国望陀(もうだ)郡
久留里(千葉県君津市久留里)へ移り、横須賀城には豊臣家臣・渡瀬左衛門佐繁詮(わたせ(わたらせとも)しげあき)が
入城した。石高は同じく3万石。繁詮は元々、上野国太田金山城(群馬県太田市)所縁の横瀬氏に連なる一門で、全国
統一以前から秀吉に臣従し配下となっていた。彼が城主となった事で城は大改造され、所謂“織豊系城郭”へと改変。
ところが繁詮は豊臣秀次の付家老とされていたため、豊臣秀頼の誕生による秀次粛清、世に言う「秀次事件」に連座
させられてしまう。領内での失政もあったとされ、繁詮は改易・切腹。繁詮の部下だった有馬玄蕃頭豊氏(氏長とも)が
新たな横須賀城主に任じられたのでござる。1595年(文禄4年)の事であった。■■■■■■■■■■■■■■■■

近世城郭への改修■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
豊氏は1600年(慶長5年)関ヶ原合戦後の領地替えまで城主だったが、12月13日に丹波国福知山(京都府福知山市)
6万石へ加増転封となり、1601年(慶長6年)に代わって入ったのが久留里から戻った松平出羽守忠政、即ち大須賀
忠政であった。渡瀬時代・有馬時代は共に豊臣政権の威光を笠に着て過酷な検地が行われた横須賀城下に於いて
城主に復した忠政は、税制も元に戻し善政に務めたという。再び戻った忠政の石高は5万5000石。彼の手によって、
横須賀城は近世城郭へと大改修されている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1605年(慶長10年)領内検地を行い横須賀藩の基礎を固めた忠政であったが、1607年(慶長12年)病に倒れ、京都で
療養するも9月11日に27歳の若さで死去。このため横須賀城主は嫡男・五郎左衛門忠次が僅か3歳で相続した。だが
1615年(元和元年)に実祖父の血筋である榊原家が断絶の危機に瀕し、忠次は榊原へ復姓。12月1日に上野国館林
(群馬県館林市)10万石へ。遠江国は当時駿府藩主であった徳川常陸介頼宣の領地へ併合され申した。家康の10男
頼宣の領地はこれで50万石になったが、1619年(元和5年)紀伊国和歌山(和歌山県和歌山市)55万石へ。これこそ、
徳川御三家の一つ・紀伊徳川家の成立であった。陣城を起源とする遠州末端の城が徳川御三家に関わりがあったと
なれば、なかなかに深みのある話でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて頼宣が去った後の駿遠であるが、駿河国内は天領とされた一方で遠江は譜代家格を主とした諸大名に分割され
横須賀城には2万6000石で能見(のみ)松平家の松平大隈守重勝(しげかつ)が配され申した。翌1620年(元和6年)、
重勝は72歳の高齢で没した為1621年(元和7年)長男の丹後守重忠(しげただ)が相続。重忠はこの年、駿府城代にも
任じられている。1622年(元和8年)4万石に加増され出羽国上山(山形県上山市)へ移封され、5万2500石で新たなる
横須賀城主になったのが井上主計頭正就(まさなり)。彼は大御所・徳川秀忠に近侍し老中の要職にあった人物だが
この頃、嫡子・河内守正利(正就長男)の婚約破談を巡って仲人であった目付の豊島主膳正信満(としまのぶみつ)と
険悪な仲にあった。1628年(寛永5年)8月10日、信満は江戸城(東京都千代田区)西ノ丸において正就へ斬りかかり、
自身も自害して果てた。江戸城内初の刃傷として記録されるこの事件で正就は絶命した為、正利が家督を継ぐものの
石高は4万7500石に減封。さらに1645年(正保2年)6月27日、常陸国笠間(茨城県笠間市)へ移されたので本多越前守
利長が5万石で横須賀に入る。なお、利長の母は井上正就の娘。彼の治世は30年以上に及んだが、圧政や不行状が
多かったとされ、領民から幕府への上訴までもが発生、1682年(天和2年)2月23日に改易されている。■■■■■■■■

大地震で水運機能を失う■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
これにより新たな横須賀城主とされたのが信濃国小諸(長野県小諸市)から来た西尾隠岐守忠成、石高2万5000石。
以後、明治の廃藩まで8代に渡って西尾家が横須賀城主を継承していく。入府したこの年、幕府から朝鮮通信使の
遠江国見付宿(静岡県磐田市)における接待供応役を任された他、絵画を趣味にするなど、忠成は一流の文化人で
あった事が窺える。横須賀藩の治世としては城下町の整備を行うなど英明の才高き藩主であったが、不幸にも1707年
(宝永4年)10月4日に発生した宝永大地震で地盤隆起が起こり、横須賀の湊は塞がれてしまった。水運の要衝であった
当地にとってこの影響は致命的であり、かろうじて海と旧港の間に水路を掘削して船の往来を確保したものの、横須賀
城下町の衰退は免れ得なかった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1713年(正徳3年)7月23日、西尾忠成は家督を嫡男の隠岐守忠尚(ただなお、忠成4男)に譲って隠居。この忠尚もまた
賢君として知られ、1732年(享保17年)3月15日に奏者番と寺社奉行を兼任、1734年(享保19年)9月25日に若年寄へと
昇進し1745年(延享2年)9月1日、遠江国内に5000石を加増された。最終的には老中にまで栄達し、1749年(寛延2年)
12月15日さらに5000石を加増。横須賀藩領は3万5000石になっている。幕府要職を歴任した事により、必然的に忠尚は
江戸暮らしが長くなったが、これが元で横須賀には江戸文化が持ち込まれるようになってござる。現在も横須賀城下の
三熊野(みくまの)神社では毎年4月に大祭が行われているが、この祭礼における屋台の引き廻しや三社祭礼囃子は
当時の江戸の祭りで催されていたものを忠尚の家臣らが横須賀に伝えたものだと言われている。■■■■■■■■
養子として迎え入れられていた主水守忠需(ただみつ)が1760年(宝暦10年)3月、忠尚の病死により家督を相続。その
忠需は1782年(天明2年)9月29日に隠居して、次男・隠岐守忠移(ただゆき)へ藩主の座を譲った。忠移は老中・田沼
主殿頭意次の失脚に伴って1786年(天明6年)相良城(静岡県牧之原市、田沼の居城)破却に働き、藩政に於いては
甘藷(サツマイモ)の普及などを行った。また、絵画や蘭学に興味を示し、横須賀城下の文化発展にも貢献してござる。
1801年(享和元年)3月27日、横須賀城内にて病没。実子は全て早世していたため跡は養子の隠岐守忠善(ただよし)が
継ぎ申した。1811年(文化8年)藩の学問所・修道館を創設し学問の普及に力を入れ、藩財政好転を狙って刀工招聘や
漁法の刷新などの政策を行っている。1829年(文政12年)3月16日、病を理由に家督を4男の隠岐守忠固(ただかた)に
移譲。忠固は1857年(安政4年)5月27日、横須賀城内で死去したため養子の隠岐守忠受(たださか)が後継に。忠受も
絵画を好んだ人物で、1859年(安政6年)横須賀城の御殿建築物を真言宗医王山薬王院油山寺に寄進した。この御殿は
1699年(元禄12年)西尾忠成が造営したものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1861年(文久元年)7月26日、忠受は江戸屋敷で死亡。長男の隠岐守忠篤(ただあつ)が後を継ぐ。これが最後の横須賀
城主となる。時は幕末動乱期、藩内は佐幕派と倒幕派に分かれて争ったが、最終的に藩論は倒幕へと傾き戊辰戦争で
新政府軍に協力。15代将軍・慶喜が謹慎の後、1868年(明治元年)5月24日に徳川家が駿府藩70万石に封じられると、
駿遠地方の諸大名は押し出される形で他地域(主に房総半島)へと移される事となった。翌1869年(明治2年)2月29日、
横須賀城主・西尾忠篤は安房国花房(千葉県鴨川市)へ。これを以って横須賀藩は廃藩、城も役目を終えてこの年の
8月に廃城となる。城内諸建築はもちろん、植栽樹木に至るまでが廃城直後から1873年(明治6年)頃までに解体・伐採
売却され、城域も主要部分を除いて切り崩されたという。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

横須賀城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さてその城郭構造であるが、陣城に始まりながら近世改修を受けたため、標高26mを数える小山の最頂部に3層4階の
天守を有していた堂々たるもの。発掘調査の結果、この天守に使われていた瓦が出土しており、瓦の製作者は石垣山
一夜城(神奈川県小田原市)や浜松城の瓦を手がけた者と同一である事が確認されている。よって横須賀城の天守は
渡瀬期〜有馬期の間に建てられた事が確実視されており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宝永の大地震以前、小笠丘陵から西へ突き出した舌状台地の先端が遠州灘に浮かぶ構造だったため、城の縄張りは
東西に細長い形。天守台下部に本丸、その西側に連接して西ノ丸があり主郭部を構成。そこから堀を隔てて更に西へ
連なるのが二ノ丸で、かなり広い敷地を占めていた為、ここに藩主御殿が建てられていた。二ノ丸の西には馬出状の
馬屋曲輪があって、ここが西の大手口。一方、主郭部の東に続くのが三ノ丸。馬屋曲輪〜二ノ丸〜主郭部〜三ノ丸は
東西一直線に並び、その全体を囲うよう東外堀・南外堀・西外堀・北外堀といった水堀が掘られている。これら一連の
曲輪群の南側に、中土居と呼ばれる一列の土提を成した土塁が構築され、遠州灘との防波堤となっていた。三ノ丸と
中土居を結接させたのが東大手。即ち、横須賀城は東西2つの大手口を有していた事になる。■■■■■■■■■■
本丸の南前面には三日月堀が。三日月堀の脇、本丸と三ノ丸を隔てる位置にある大きな堀が牛池で、これらは満々と
水を湛えており、城内の用水となっていた事でござろう。本丸の北側には北ノ丸が用意され、牛池はここで行き止まる。
その北ノ丸の北端部にあるのが松尾山と呼ばれる山で、本丸を凌いで城内の最高所となっている。先に述べた通り、
城域は小笠丘陵から延びる舌状台地である為、松尾山を経て小笠丘陵本体に繋がる地形な訳だ。つまり、ここが唯一
陸続きで城外へと繋がる地点(他は全て外堀群で穿たれている)であり、敵勢が地続きで侵入し得る可能性がある所
なのだが、これに対抗すべく松尾山の北端で大規模な堀切が掘削され、侵入路の遮断を図っている。極端に比高差が
ある地形ではないが、工夫を凝らして造り込まれた城郭だと言えよう。往時は城の周りを海岸線の砂丘が包み込み、
城の眼前に入り組んだ内湖が良港を成し、さながら海に浮かんだ堅城の呈を見せ付けていた事でござろう。■■■■■

独特な丸石垣の景観■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そしてこの城で最大の特徴と言えるのが、玉石を使った独特の石垣だ。外縁部は土塁を用いていたものの、主郭部を
固めていたのが太田川(静岡県磐田市を流れる川)で採取される丸い石を積み上げた石垣で、一般の城郭石垣とは
全く様相を異なる景観を作り上げている。城郭愛好家であれば、この石垣を見ない訳にはいかないだろう!よくこんな
丸い石を高く組み上げて崩れないものだと感心しきりでござる。ただし、旧来の石垣石材(の一部)は廃城時に移設され、
現在は磐田市にある国の重要文化財である見付学校の基礎にそれらを見る事が出来る。見付学校は明治初期に建て
られた擬洋風建築の学校校舎で、ちょうど廃城と同時期の創建である為、横須賀城から石材を抜き取ってそちらで組み
直したものだ。見付学校では「玉石垣の算木積み」も構築されており、必見の史跡だ。地震の多い東海地方にありながら
見付学校の石垣は全く孕みなどが無く、玉石垣が予想に反して安定性の高いものである事も確認できる。その一方、
横須賀城では史跡整備に伴って玉石垣が再建された形になっており、それは史跡保全の為に部分的にモルタルなどで
固めている。あまりに異様?なる丸石垣が、目に見える形で補強固定されているので、ひと目見た感じでは如何にも
贋物っぽい胡散臭さが漂うが、(復元整備されたものなれど)正真正銘これが横須賀城本来の石垣様式なので注意して
頂きたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
このような構造の横須賀城でござるが、宝永大地震の隆起で周囲が陸地になり、現在では海岸線から2km以上離れて
しまっていて、当時の水城ぶりは全く想像し難い。また、こうした陸地は完全に宅地化・農地化されており、廃城以後は
城の敷地内部も同様の運命を辿っていた。例に挙げれば、二ノ丸の西側半分それに三ノ丸は完全に住宅地である。
さらに北ノ丸の裏手は農地となっている。現状で残った敷地は主郭部と三日月堀それと松尾山のみだが、逆に申さば
この部分はほとんど改変を受けておらず良好な保存状態を維持していた。よって、これ以上の史跡破壊を防ぐために
1981年(昭和56年)5月8日に国の史跡と指定され、以後継続的に土地の公有化と史跡整備事業が行われている。
その他、城跡の北西300m程の位置にある浄土宗景江山撰要寺には不開(あかず)門が山門として移築されてござる。
撰要寺は大須賀氏の菩提寺として開基され、本多氏や小笠原氏の墓塔が残る寺。それに加えて1856年(安政3年)に
建てられた町番所が大須賀町役場(現在の掛川市役所大須賀支所)北側に移築現存。不開門は1973年(昭和48年)
3月28日、町番所は1980年(昭和55年)4月1日に掛川市文化財に指定されている。更に、伝承に拠ると市内西大渕に
所在する日蓮宗寂静山本源寺の山門は横須賀城の搦手門を移築したものだとか。こちらも1973年3月28日に市指定
文化財とされ申した。本源寺は井上家の菩提寺で、横須賀城との関わり合いも深い。また、同じく市内西大渕にある
浄土真宗現光山恩高寺には旧天守の鯱が残され、1973年3月28日に市(当時の大須賀町)指定文化財に。■■■■■
静岡県袋井市村松の油山寺には旧御殿の一部(上記の通り)が残存、これは1969年(昭和44年)5月30日、静岡県
文化財に指定されており申す。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で松尾城・敵応山・両頭城。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は史跡公園として綺麗に整備され駐車場も完備。非常に見学し易い場所なので、お薦めしたい。■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡

移築された遺構として
油山寺書院(御殿部分)《県指定文化財》
撰要寺山門(二ノ丸不開門)・本源寺山門(伝搦手門)
町番所・鯱瓦(恩高寺保管)《以上市指定文化財》
見付学校石垣(移設石垣)







遠江国 小笠山砦

小笠山砦跡

  所在地:静岡県

掛川市板沢・入山瀬
袋井市豊沢
 (入山瀬地域:旧 静岡県小笠郡大東町入山瀬)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等




遠江国 獅子ヶ鼻砦

獅子ヶ鼻砦 主郭跡

 所在地:静岡県菊川市大石
(旧 静岡県小笠郡小笠町大石)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
★☆■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等




遠江国 三井山砦

三井山砦跡

 所在地:静岡県掛川市大坂
(旧 静岡県小笠郡大東町大坂)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★☆■■■
■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等




遠江国 長谷砦

長谷砦跡

 所在地:静岡県掛川市大坂
(旧 静岡県小笠郡大東町大坂)

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

■■■■
■■■■



現存する遺構





高天神城包囲附城群■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
徳川家康が高天神城を包囲する為に築いた6つの砦「高天神六砦」のうち、3つが小笠山砦・獅子ヶ鼻砦・三井山砦。
小笠山砦は掛川市と袋井市の境界線上にあり、獅子ヶ鼻砦は菊川市、三井山砦を含む残りの4砦は掛川市に所在。
高天神城を時計盤の中心とし、北を12時の方向とすれば、小笠山砦は10時、能ヶ坂砦は1時、火ヶ峰砦が2時を指し、
獅子ヶ鼻砦が3時、中村砦が4時、三井山砦は6時の方向。ちなみに横須賀城は8時の向きである。高天神城を北から
東そして南へとぐるりと取り囲み、特に武田家の本国・甲斐方面(北東側)との連絡を完全に遮断する位置を選んで
築城された事が地図と照らし合わせれば良く分かる配置だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
6砦のうち小笠山砦だけは起源が古く、1569年に今川氏真が徳川家康と武田信玄から挟み撃ちにされ、掛川城へと
逃げ込んだ際に徳川家康が本陣を置いた陣城が創始でござる。となれば、築城当初の小笠山砦は北を睨んだ戦闘
正面を志向していた訳だ。その後、今川氏の滅亡(=掛川城の開城)を経て一旦は使用されなくなった小笠山砦だが
1576年〜1577年(天正5年)頃、今度は高天神城を封殺する砦として復活する事になるのであった。即ち、再築された
小笠山砦は南を戦闘正面とした事になるが、武田本国との連絡を絶つ為には北や東へも哨戒を密にするべく、この
砦は四方八方を掌握可能な規模・構造を必要とした筈だ。高天神城が落ちた後、この砦も役割を終えて永い眠りに
就いたのだが、今に残る遺構は標高264.8mを数える小笠山の山頂から大きく3方向へ延びる尾根毎に曲輪や堀切を
構築、更に斜面を下るように細い帯曲輪が附随している。このように全方向へ警戒網を広げる砦は、掛川城攻略にも
高天神城攻略にも対応できたのだろう。また、別名で「笹ヶ嶺御殿」とも称されており(「高天神記」での記載)家康が
本陣とするのに相応しい規模と格式を備えていたであろう事が推測できる。無論、6砦の中で最大の規模を誇り、東西
方向に約500mもの縦深を有している。高天神攻略時、城将に石川長門守康通(いしかわやすみち)が配されていた。

各城砦の現況■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、小笠山の東には小笠神社が建っており、そこまでは車で登る事が出来る。神社の裏手から奥へと分け入れば
細尾根を伝う心許ない道を進む事になるが、そこから先が砦の領域でござる。手付かずのまま山林に埋もれ、かなり
見学し難い環境ではあるが各所に堀切や土塁などの遺構が散見でき、確かにここが戦闘要塞だった事は分かる。
一方、一時期公園化されて開発の手が入ったものの、現在はそれが風化しつつあるような状態なのが獅子ヶ鼻砦。
掛川市からほんの少しだけ境界を越した菊川市の大石、2005年までは小笠町大石だった場所にある蓮池公園が
その跡地だ。公園の北半分が山になっており、その標高は44m、比高差は35m程を数えるのだが、この小さな山が
獅子ヶ鼻砦で、公園化されながらも微妙に曲輪の雰囲気や切岸などを見受けられる。城山は北西から延びて来る
小笠丘陵の最南端部に当たり(大きく見れば、ここは小笠山の裾野なのである)その姿が獅子の頭に見える事から
獅子ヶ鼻という名が付けられたとの事。細長い台地をいくつかの堀切で分断して曲輪を並べた縄張りで、この砦は
大須賀康高(上記)の受け持ちだったそうである。ちなみに、現在は一帯が陸地になっているが、これは江戸時代の
大地震で海岸線が後退した為であり(横須賀城の項を参照)砦が現役だった頃は周辺すべてが海の中であった。
つまり、今では“半島状の台地”と解説されるこの城山は、当時は本当に島だったのである。高天神六砦は、入江に
浮かぶ島を繋いで封鎖線を構成し、限られた陸路を簡単に遮断しつつ船舶の往来も閉塞させるという実に効果的な
戦略目標を達成できる城砦群だった訳だ。獅子ヶ鼻砦の構築は1580年6月、高天神城が落ちると役目を終え廃絶で
短命なものであったが、その重要性は比類ないものでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
三井山砦は西大坂村(築城当時の集落)に築かれた事から大坂砦との別名を持つ。高天神城のほぼ真南に位置し
現在では大浜公園から東へ延びる道の先、橋を渡った小山の中に写真の標柱が立つ。恐らくこの橋の下の谷は、
台地本体と切り離す堀切として掘削されたのであろう。天然地形と言うには余りにも急峻な分断具合である。ただ、
堀切がこれほど鋭く切られているのに対し、山中の遺構は不明瞭なものが多く良く分からない。多分に土塁や切岸
帯曲輪のような構造が垣間見えるものの、全然ハッキリとしたものでは無うござれば、なかなか謎である。ともあれ
この山はいくつも湧水点があるらしく、「三井山」と言うのもそれが由来の名とされる。砦を築くには適した地だったの
だろう。三井山の標高は89m、麓との比高は70mにも達する。酒井与四郎重忠が守備したと伝えられている。■■■■

まだまだ新発見の砦も?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、ここまで6砦を主な話題に採り上げてきたが、勿論徳川勢による高天神城包囲網はそれだけで片付く話では
ない。6砦の他にも多数の城砦が造られ、武田軍を締め上げていた。そしてそれらの砦は役割を終えると人知れず
元の原野へと戻った。こうした砦跡は現代になって再び日の目を見る事もあり、史跡として認知された所も多いが
そのような“新発見”は今でもなお続いていて、そうした新確認例の代表と言えるのが長谷(ながや)砦だ。2014年
(平成26年)の末、静岡古城研究会が高天神城周辺の再調査を行った結果発見されたもの。この場所は田圃の
畦道沿いに盛り上がった小山なのだが、実は細い畦道が当時の高天神城下を貫通する旧街道で、その街道を
掌握するに最適な立地だと言えよう。写真にある道がそれで、右側に広がる山が長谷砦の城山だ。山の中には
数条の竪堀が掘削され、何かしらの人為的な工作が行われた様子が残っている。ただ、詳細調査や発掘などは
行われておらず、今後の進展に期待したい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■





二俣城・鳥羽山城・高根城  韮山周辺諸城館・鎌田城