2006年1月 第三回全国一斉お城の日
旅行期間:2006年1月29日(日)
主な滞在地
1月29日(日):
白井織部是房屋敷跡・多和目城跡・花園城跡・正龍寺
鉢形城址・腰越城址・越畑城跡・杉山城跡・小倉城跡
大蔵館跡・菅谷館跡・青鳥城跡・高坂館跡(高済寺)
大穴城址・河越氏館跡
「全国一斉お城の日」とは?
全国から集まられたお城好きの皆さんが同じ日に一斉に好きなお城を巡り、
それをスレにつなげていくというものです。
当日の城攻めとして有効になりますのは当日の24時間です。(AM0:00〜PM12:00)
なお、当日お城にいけない方も皆さんのお城レポートやケータイによる
実況レポートに対して随時感想、応援を書き込んでいただいて結構です。
有名なお城、近場の小さな城跡、陣屋跡などどんなお城でも結構です。
めざせ全国制覇!!
(mixi「お城めぐりしよう!」コミュ イベントトピより抜粋転記)
という事で、当頁からもリンクさせて頂いている「城めぐドットコム」のu1さんが主催する
mixiコミュ「お城めぐりしよう!」の中で、恒例となっている企画が「全国一斉お城の日」。
要するに、この日は全国で城好きの面々がそれぞれ行ける城へ行って
その戦果をスレッドにどんどん書き連ねていくっていうイベントです。
(これがかなり盛り上がるんです)
しかしオイラはと言えば、第一回は不参加。第二回は事前準備なしに飛び入り参加して
僅かに2箇所だけ訪城(
深見城
と
神奈川台場
)したのみ。中途半端な結果に、
どうせやるなら、きちんと計画して色々回った方が良い!と思い、
この日開催された第三回では満を持して出発。
前々から行ってみたかった埼玉県の比企地方を中心に、
タイムトライアル形式で1日にいくつ回れるか?!と勇んで参陣した次第。
以下、時系列に沿って攻城記をご紹介しませう。
1月下旬、一年で一番寒い時期ですから空気も凍る冷え込みの中
早朝、まだ陽が昇る前に家を出た拙者は、埼玉方面つまり北へと車を走らせます。
我が家から比企地方へ向かう最短コースは、相模原方面へ出た後
あきるのICから圏央道に乗り(当時開業していた最南端ICがあきるのIC)
関越道を経るというルート。これに従う道すがら、まず最初に訪れたのは
まだ神奈川県内、座間市にある
白井織部屋敷
跡。
ご大層な名前が付いてますが、要するに在地の武士・白井織部さんの
小さな館があった所で、現在は遺構なんかなーんにも残っちゃいません(苦笑)
ただ、ちょうど通る道の脇にこの館跡の石碑(と言うほど大した物ではないんですが)が
置かれているので、ここをチェックすればお手軽に1城カウントという事で(爆)
時刻は午前7時を回ったところ。冬の遅い朝日がようやく写真を撮れる程度に
明るく照らすようになった時間ですな。当然、その時刻を見計らっての行軍です (^-^)
で、そんな状況の写真を撮影しmixiのトピに攻城申告。これがトピ内で
当日最初の攻城戦果になったため、見事に一番槍の称号も頂戴しました♪
さて、橋本五差路を通過して八王子市内へ。ここから脇道を抜けて
あきるのIC、いよいよ圏央道に乗ります。んで、そのまま一気に関越道に入れば
あっという間に比企地方へ到達するんですが、その前にもう1箇所、
途中で立ち寄ろうかと思った城があるので、圏央鶴ヶ島ICで一般道へ。
坂戸市の最西端、地図上の地形を見て気になっていた
多和目城
です。
高麗(こま)川が蛇行に蛇行を重ねる場所の脇に小高い山があり
そこが城として利用されていたとの事。で、行ってみたんですけれど
周囲は完っっっ全な住宅地。日曜の早朝からこういう場所を余所者がうろつくのは
あまり良くはないだろうなぁ、と思いつつ割とあっさり城山を発見。
こりゃ助かった、早く中を見て早々に切り上げようと山へ入ったんですが
現在、城跡は水道局の管理施設が置かれている有様。
かろうじて土塁?空堀?と思わせる起伏があるんだけれど、それ以外は
(冬なのに)ひたすら藪だらけだし…。結構大きな城跡なんだけどねぇ(困)
えーっと、こんな所をうろついていたら完全に不審者なので
早くも何もなく、有無を言わさず退散する事になりました。あちゃー (^ ^;
ま、とりあえずこれも1城ですので、ちゃんとトピに報告しましたけどね(爆)
そこから鶴ヶ島IC(関越道の)に向かい、いよいよ比企…を通り越します(あれ?)
花園ICで下りて、国道140号線を西に走れば、荒川流域に数々の城が点在します。
その中でまず最初に赴いたのが
花園城
跡。
現地の領主にして小田原後北条氏の重臣に組み込まれた藤田氏の城跡です。
荒川の北岸を守る険しい山城として有名なんですが…険し過ぎました!
善導寺の墓地の裏山が城山なんで、他人様の墓をすり抜けて山に入ろうとしたものの
これがまぁ、えらく酷い藪。多和目城もそうでしたが、真冬だというのに
どうしてこの近辺の藪はボウボウなんだ?? (ー゙ー;
ロクに前進できないので、遭えなく途中で退散。仕方が無いので
城山の東側にある正龍寺へ。ここは藤田氏の菩提寺で、後北条氏一門から
藤田氏の名跡を継いだ北条氏邦(うじくに)夫妻の墓がござる。
結局、城へ行くよりもこっちで史料を見た方が有意義でした(本末転倒w)
埼玉県史跡 北条氏邦夫妻墓所
という事で、北条氏邦夫妻の墓所です。
続いては花園城から荒川を渡って対岸、
鉢形城
へ。
ここは兼ねてから大きな城だと聞いていたので、行ってみたかった城の一つ。
当時はまだ指定されていませんでしたが、今では日本百名城に数えられている
名城中の名城です。荒川の河川敷から見上げる岩山は、
壮観としか言いようがありません。本曲輪はほとんど当時から手付かずの状態。
荒々しい雰囲気が、古城の風格をそそります。この日は見ませんでしたが、
二ノ曲輪・三ノ曲輪は綺麗な公園として整備されていて
(好みは分かれるでしょうが)一粒で二度美味しい城跡、と言えましょう★ (^_^)
国名勝 玉淀河原
荒川の清流が、古城の畔を流れていきます。
鉢形城から国道254号線、さらに埼玉県道11号線へ。
次に向かったのはいよいよ比企地方の城、
腰越城
です。
「腰越」という地名、しかも周辺には「切通し」なんていう字名まであって
鎌倉と関係が深い城跡なのか?そもそも、比企っていうのも鎌倉幕府の名族
比企氏に関連してる訳だし…なんて考えながら城山の周辺を行ったり来たり。
―――えーっと、登城口がどこなのか分かりませんっ!! (><)
後で調べ直した所、もう少し北東側に登山路があったんですけど
この時は結局、山の中腹へ至る道しか分からず終い。
しょうがないので、山腹にあった神社の写真を撮って
とりあえず腰越城へ行った記録と致しました。
もちろん、後日リベンジしてきちんと本丸まで攻め落としましたけどねっ!!!!
きちんとした遺構が残っている(はずだけど見れませんでしたw)腰越城から一転、
今度は遺構が消滅してしまったという城跡へ向かいます。比企郡嵐山町にある
越畑(おっぱた)城
がそれ。この城、敷地のほぼ全域が
関越自動車道の建設によって削り取られてしまったという悲劇の城です。
高速道路の建設、往々にして「人の寄り付かない場所」を縫って計画されます。
その方が用地買収も簡単だし、騒音問題も抑えられるし。ところが、そんな所は
実は古の史跡だったりする事もしばしば。越畑城はまさにそういう城で、
一応、発掘調査が為された後にザックリと破壊されました (^ ^;
まぁ、私も高速道路のお世話になってますし、
人の立ち入らないような小さい城跡より
道路開通の重要性の方が高いと思ってますから
頭ごなしに反対するつもりは毛頭ありませんけどね(苦笑)
かろうじて、副郭の残り部分だけが残存する越畑城に佇めば
むしろ「こんな所にわざわざ来るのは俺だけに違いない!」という
妙ちくりんな優越感に浸ったりして…(←タダの馬鹿ですw)
そしていよいよ、今回メインに考えていた城へ。
嵐山小川ICのすぐそば、
杉山城
でございます。
前々から歴史系の本などで「隠れた名城」として紹介されていた城だったので
期待に胸膨らませて行ったら…確かに凄い!いや、期待以上の凄さ !!
大手口から城の方を向いた瞬間、何段にも重なる曲輪の厚み!
そして城内に入れば、これでもかと言うほどの横矢&土塁&空堀 !!
挙句の果てには、破城(はじょう)の痕跡になる井戸埋めの大石…。
この城を見るだけで、戦国の城が手に取るように分かります。
ここはもう、城好きならば必ず行っておかなくてはいけない城だと思いますねぇ。
国史跡 杉山城
破城とは、城の持ち主が自らの城を壊して
「もうこの城は使わない」と宣言する事。
大体の場合、破城は即ち降伏の表明。
こうして、井戸を塞いで水を絶つ事は
最も簡単で分かりやすい破城の方法でした。
水が無ければ、城そのものが使えなくなりますからねぇ。
なお、訪城当時は史跡指定されていませんでしたが
2年ほど後、国の史跡に。やっぱり良い城跡ですから
当然の結果でしたなぁ!
杉山城を見終わって、時刻は既に午後1時近く。
でもでも、昼食を食べる暇が惜しい!
とにかく比企は良い城が立て続けにあって、飯を食ってる時間なんかありゃしない。
そんな訳で、そのまま次の城へと突入。今度は山城、
小倉城
です。
これまた、杉山に負けず劣らずの名城です。何と言っても圧巻なのは
従来「関東に石の戦国城郭はない」と言われていた通説を覆す
石垣の存在!しかも、在地系技術らしく平石を積み重ねていく技法 !!
これだけ見ると、まるで信州の城跡なんじゃないかと思えてきます。
加えて、オイラが行った時には発掘調査が行われていて
そこかしこにトレンチ(試掘穴)があり、
その中には建物の礎石?と思える石が垣間見え…。
うーむ、何とも不可思議な城だぞここは。いずれまた、改めて見に来ないとなぁ (^ ^;
国史跡 小倉城
杉山城と同時に国史跡となった小倉城。
拙者の訪城時、トレンチから
こんな感じの石積み遺構が露出して…。
なかなか貴重な写真だと思うんですが、どうかな?
さて、山を降りて里山を抜けていくと見えてきたのが大蔵神社。
ここが次なる攻略地、
大蔵館
という武家居館址。
その館の主とは、平安時代末期の猛将・源義賢というのだから驚き。
つまるところ、木曽義仲の生まれた場所という事ですな!
(何、全然わからんって?―――辰巳小天守の頁を見て下さいw)
いやはや、朝日将軍にゆかりの地が埼玉にあったとは…。
微妙な感心を覚えつつ、次に向かったのは
菅谷館
。
ここはまぁ、とにかく広い。土塁でぐるりと周りを囲って、
もちろん立派な城跡なんだけど…。
ぶっちゃけ、杉山城や小倉城を見た後だと、感動が薄れちゃうなぁ(苦笑)
さて、ここから国道254号線バイパスを東へ。
関越道東松山ICと交差する直前の位置にあるのが
青鳥(おおどり)城
跡。
えーっと、ここは何というか、完全に農地? (^ ^;;;
城域内に養鶏場があったり、曲輪が畑になってたり、
ところどころ残ってる遺構らしき部分は竹薮だったりで、
まともに「城跡だ」って思えるのは土塁くらいなんだよねー。
まぁ、中世城址なんてこういう扱いになって当然っちゃぁ当然ですがね。
そこで生活している人が居るんだから、ダメだなんて言えないし。
あまりウロウロしてても不審者なんで、そこそこに切り上げました。
都幾川を渡って、住宅街の中にある寺へ。
ここは高済寺、かつての
高坂(たかさか)館
の跡。
すっかり日が傾いてきたんですけど、軽く見るには丁度良い感じの館跡で
お寺の周りを分厚い土塁が囲っている、そういう場所です。
ま、お寺をじっくり見て回るのも何なんで、早めに撤収。
そのままガンガン車を走らせて南下、坂戸市の東坂戸団地へとやって参りました。
この団地の中にある公園が、何と
大穴城
址公園。
と言っても、団地の中にある公園なんで
正直、遺構のようなものは見受けられません。
どっちかというと、公園外の空き地にそれらしい雰囲気が残ってたりして(爆)
でも一応、公園に城址の解説板があるんですよ。
これ見れば、ここが城跡だったって事の証拠になる…かな?
もう太陽が沈む直前。色々とリストアップした城はあるんだけど
時間的にあと1箇所が限界だろうと思い、一番手近な場所へ駆け込みます。
斯くしてやって来たのが
河越氏館
跡。
「跡」というだけあって、なーんもありませんでした(笑)
いや、実はここ国史跡でして、ちょうど発掘調査やってましたし
敷地を囲うようにドでかい土塁があるにはあるんですが
あまり見所らしい見所があった訳ではない状況だったんですよ、この日は。
まぁ、こういう所を見て回るのも一興ですから城めぐりは。
国史跡 河越氏館
発掘調査をやってはいましたけど
全部ブルーシートが敷かれていて
中身は全く見えず終い…。
そんなこんなで、この日の戦績は14城。
一番槍のみならず、イベント参加者中で最多攻城数をマークしました!
川越から帰る夕焼け道に、そこはかとない郷愁を感じつつ
実に満足な一日を終えたのでございました★ (^-^)v
鉄塔結界
ちょっとしたオマケ写真(笑)
多和目城のヤブを探検していた時、偶然に送電鉄塔の真下へ出ました。
(鉄塔基部の敷地内を結界と言うそうです)
おぉっ、こりゃ何だ?! と見上げてみると、何やら幾何学的模様が!
何かとても芸術的に見えたので、青空をバックに撮影したのがこの写真。
世の中には鉄塔マニアさんも居られるようですけど(オイラは違いますが)
この光景を見ると、気持ちは分からなくもないです。
まぁ、拙者は城マニアですし、何か通じるモノがあるという感じで…(苦笑)
◆◇◆ 木枯らしを おえどおわらぬ 城めぐり 空気凍るも 熱い駆けひき ◆◇◆
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