扇谷上杉家の本拠■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1467年(応仁元年)に勃発した応仁・文明の乱を以って戦国時代の開始と言われるが、関東の戦国化はそれに先行すると
いうのが歴史学上の通説である。それと言うのも、室町時代の関東地方は鎌倉府という独自の統治機関により治められ、
長となる鎌倉公方(かまくらくぼう)、補佐官の関東管領、それに幕府の権益が交錯し、非常に流動的な情勢が続いていた
からだ。鎌倉公方は後に古河公方(こがくぼう)と堀越公方(ほりごえくぼう)に分裂し、関東管領を世襲していた上杉氏も
山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に分かれて争い、これに関東諸豪族の動向も絡まり、更に複雑な
様相を呈したのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした状況下、武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県東部)を本拠としていた扇谷上杉氏は、敵対する諸勢力への
備えとして各所に城郭を築いていく。江戸城(東京都千代田区)・岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)等がそれで、同様に
河越(当時はこう表記した)にも城が築かれ申した。時に1457年(長禄元年)の事で、築城者は扇谷上杉氏の家宰であった
太田道真(おおたどうしん)・道灌(どうかん)親子である。古代には河肥(かわごえ)と記し、中世に河越と転じたこの地は、
読んで字の如く荒川の水運における交通の要衝“川で肥えた地”であり、上野国(群馬県)を支配する山内上杉氏や古河
公方・足利成氏(しげうじ)が居を構える古河に対抗する軍事拠点でもあった。“築城の天才”と言われる太田道灌らの手に
よって河越城は堅城に仕上げられ、のちに扇谷上杉氏の本拠地となっていったのだった。■■■■■■■■■■■■■
さて、2つの公方府と両上杉氏の対立によって混沌とする関東地方において、この勢力分布を打破し、新たな時代を示す
者は駿河国(静岡県)から現れた。駿河守護・今川氏の食客となっていた風来坊、伊勢新九郎盛時(もりとき)である。彼は
堀越公方を滅ぼし伊豆国を制圧すると箱根山を越え小田原城(神奈川県小田原市)を占拠、瞬く間に南関東へ橋頭堡を
築いたのだった。小田原を手にした事で新九郎は相模国(神奈川県中西部)を支配下に置き、更にその進撃は北関東へ
向けられて行く。新九郎の登場と疾風のような領国獲得が、関東に変革をもたらし、新時代の到来を呼んだのだ。ここに
関東地方の本格的な戦国時代が幕を切って落とされたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新九郎の死後、その後を継いだ嫡子は鎌倉幕府執権の名跡になぞらえて北条と改姓、北条左京大夫氏綱と名乗った。
戦国関東の雄・後北条氏(ごほうじょうし)の誕生である。氏綱は父の遺業を継いで関東制覇を志向、相模国からの北上
政策に乗り出す。これに危機感を募らせたのが扇谷上杉氏。扇谷上杉氏は武蔵国(東京都・埼玉県と神奈川県東部)を
本拠としており、北進する後北条氏の軍勢にとって最初の標的とされたからだ。武蔵国の覇権をかけて、扇谷上杉氏と
後北条氏は盛んに干戈を交わしたが、革新的統治で民心を掴んだ新興の後北条氏は優位に立って、1537年(天文6年)
河越城は落城。6代約80年に及んだ扇谷上杉氏の河越統治は終焉を迎えたのである。■■■■■■■■■■■■■■
日本三大夜戦の一つ「河越夜戦」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新たな河越城主となったのは北条一門の北条左衛門大夫綱成(つなしげ)。彼は氏綱の娘婿で、その武力は後北条家中
最強と謳われた猛将である。1541年(天文10年)に氏綱が死去し、後北条氏の当主は嫡男・左京大夫氏康に継がれたが
切れ者の氏康は父祖の教えを良く守り、磐石な支配体制を確立。義兄弟たる綱成も河越城を堅く守った為、後北条氏の
領土拡大は更なる進展の兆しを見せた。一方、これ以上の侵攻を阻止したい扇谷上杉氏は一大反抗を画策する。1546年
(天文15年)、今まで対立していた山内上杉氏・古河公方足利氏らと連合を結成し、駿河守護の今川氏や甲斐(山梨県)
守護・武田氏までも巻き込んで後北条氏包囲網を仕組んだ。今川氏・武田氏は西と北から後北条氏を牽制し、その間に
両上杉氏と足利氏らは軍勢を結集。山内上杉氏や古河公方足利氏もこの頃には後北条氏の脅威に晒されていたのだ。
この軍勢には足利・上杉という名族に従う関東諸豪族も参集し、何と8万もの大軍になった。その標的となったのがここ、
河越城でござる。8万の連合軍は河越城を包囲、これに対抗する綱成の守勢はわずか3000程度であった。■■■■■■
戦上手の綱成は冷静に状況を分析、単独では城を守れぬ事を悟りすぐさま小田原の氏康に救援を要請。綱成の窮地に
氏康も即応、今川氏への領土割譲と武田氏への和睦を躊躇無く決断して河越への救援軍を率いた。されど、四面楚歌の
状況で動員できたのは8000の兵に過ぎず、河越城内の籠城軍と合わせても劣勢を覆すものではなかった。しかし、名将
氏康の能力はこれに怖気づくほど小さくはない。圧倒的劣勢なればこそ、謀略による効果が大きい事を彼は知っていた。
直接対決では絶対に勝てない状況で河越に到着した氏康は、早々に足利・上杉らへ和睦を請うた。勿論、これが氏康の
罠なのである。勢い勇んで援軍を出したものの、兵数の差に恐れをなし降伏を願う愚凡な弱将を演じて見せたのだ。■■
これに気を良くした連合軍の諸将は油断し、「氏康恐るに足らず」と侮って厭戦気分が蔓延したのである。だらだらと和睦
交渉を引きずって時間を費やし、すっかり日が沈んだ4月20日の夜半、北条軍が動いた。日本三大夜戦に数えられる河越
夜戦の開幕である。日中の気弱な態度は一変し、攻撃体制を整えた氏康軍は徹底した奇襲攻撃を敢行したのでござる。
まず氏康は軍勢を4手に分け、1隊を備えに残し、あとの3隊を用いて山内上杉軍への波状攻撃を開始する。この時、奇襲
部隊は機動力を最優先させるため鎧兜を着けずに行動、夜間の同士討ちを避けるべく身体に白い紙片を付けて味方の
目印にした。また、時間の無駄をなくすよう、敵を切り倒しても首級を取る事は厳禁とし、完全な隠密行動を目指したので
ござる。一方、よもやの夜襲に山内上杉軍は大混乱となった。こうなると、あとは氏康の思うがままに戦況が進む。山内
上杉軍の崩壊を見て取った奇襲部隊は続けざまに扇谷上杉軍へ攻撃を開始、何と扇谷上杉氏当主・上杉修理大夫朝定
(ともさだ)を討ち取る大成果を挙げた。この間、氏康軍の夜襲に連動して河越城内からは綱成軍が出撃、3000の兵力で
古河公方・足利晴氏(はるうじ)の部隊に襲いかかっていく。これまた、城内から攻勢があるとは予想だにしない足利軍も
あっけなく敗れ、反北条連合軍は散り散りになって逃走したのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
連合軍側の戦死者は2800を数え、朝定を失った扇谷上杉氏は滅亡。10倍する兵力を打ち破った氏康の名声は上がり、
後北条氏の南関東支配は決定的なものとなった。対する古河公方足利氏は没落の一路を辿り、山内上杉家当主で関東
管領の上杉憲政(のりまさ)は越後国(新潟県)の支配者である長尾氏の下へ逃亡した。河越夜戦は、関東地方において
室町幕府体制が消滅する決定打となったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、小田原後北条氏は関東の覇権を握った大大名として君臨し、河越城も武蔵国における後北条氏支配の中枢として
機能し続け、城代として譜代の重臣・大道寺(だいどうじ)氏が配され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸近傍の要地として■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
河越城の歴史に次なる転機が訪れたのは1590年(天正18年)の事。後北条氏はこの頃、関東の大半を手中にし独立を
保っていたが天下の覇権を握った豊臣秀吉が服属を要求。これを氏康の子で当時の北条氏当主だった左京大夫氏政が
拒絶したため交戦状態に陥ったのである。圧倒的大兵力で迫る豊臣軍に対して後北条氏は領域の諸城で籠城を展開、
河越城も例外ではなかった。が、豊臣軍は北条方の城をあっけなく個別撃破し、河越城も前田又左衛門利家の軍勢から
攻撃を受け、落城の憂き目を見る。程なく小田原城も開城、後北条氏はここに断絶し、秀吉の命によって関東の統治は
徳川家康へ委ねられるようになった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸城に本拠を構えた家康は、北の守りとして河越城を重視し、譜代家臣である酒井河内守重忠に1万石を与え三河国
西尾(愛知県西尾市)から配したのである。これが江戸時代における川越藩の基礎となり、江戸の北を固める要地として
徳川家に忠節を尽くす譜代家臣が城主を歴任するようになっていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
重忠は1601年(慶長6年)3月に上野国厩橋(群馬県前橋市)へと3万3000石で移封。1609年(慶長14年)9月からは酒井
備後守忠利、1627年(寛永4年)11月には酒井讃岐守忠勝、1635年(寛永12年)3月に堀田出羽守正盛へ城主が交代。
酒井氏も堀田氏も三河時代からの徳川家直臣であり、正盛は江戸幕府老中、忠勝は大老を務めた人物で、川越城主が
如何に重要な地位であったかがよく分かるであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正盛に代わって、1639年(寛永16年)1月から川越城主となったのが松平伊豆守信綱。「知恵伊豆」と呼ばれ、3代将軍
徳川家光の懐刀と評された智謀の士でござる。信綱は川越城の拡張工事に着手し、近世城郭としての体裁を整えた。
敷地4万6000坪、櫓3基と門12棟を構える大城郭へと生まれ変わった川越城は従来の2倍の規模になったと言われる。
城下町も再開発されて、川越街道の整備や新河岸川の水運開拓などその功績は大きい。水陸の流通路が確保された
事で川越は江戸に直結する商業拠点・物資供給地として栄えるようになった。“蔵造りの町”として有名、“小江戸”とも
呼ばれる川越の町はこうした経歴によって築かれたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
川越城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信綱の改造によって成立した近世川越城は、堀と土塁を多用した複雑な縄張り。平城なので起伏はそれほどないが、
土塁の高さはそれを補って余りある。城主の居館となる御殿を設置した本丸を中心に、その北側に二ノ丸、さらにその
西側へ三ノ丸が構成されていた。これらの曲輪を更に囲って馬場・帯郭・家臣屋敷地が広がっている。本丸南端には
天守代用の二重櫓・富士見櫓が建てられており、ここからの眺望は遠く江戸の町まで望めたという。■■■■■■■
信綱以後、甲斐守輝綱―伊豆守信輝と川越城主の地位は受け継がれ、1694年(元禄7年)1月からは柳沢出羽守吉保
(よしやす)が7万2000石で入封。5代将軍・徳川綱吉の側近として有名な、あの柳沢吉保である。綱吉の覚え目出度く、
大老格にまで出世した彼は1704年(宝永元年)12月に甲斐国甲府(山梨県甲府市)へ15万1200石の大封で移封する。
甲府は徳川幕府にとって最重要地とされた町で、川越時代における吉保の働きぶりが伺え申そう。■■■■■■■■
吉保に代わって秋元但馬守喬知(たかとも)が川越へ入り、伊賀守喬房(たかふさ)―越中守喬求(たかもと)―摂津守
凉朝(すけとも)と秋元氏が4代継承、1767年(明和4年)閏9月15日からは越前松平氏の松平大和守朝矩(とものり)が
入城する。朝矩の前任地は上野国前橋であったが、この頃の前橋城は利根川の浸食によって城が崩壊するに至り、
川越へ城替えの願いを出して移ったものである。従前の所領である前橋は、これにより川越藩の飛地として扱われた。
朝矩以後、大和守直恒(なおつね)―大和守直温(なおのぶ)―左近衛少将斉典(なりつね)―大和守典則(つねのり)
大和守直侯(なおよし)―左近衛少将直克(なおかつ)と続くが、直克は前橋城の再建を成し遂げた事でそちらへ戻り、
川越城には1866年(慶応2年)10月27日、松平(松井)周防守康英(やすひで)が封じられている。その次代、周防守康載
(やすとし)の時に版籍奉還・廃藩置県を迎えた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
稀有な「御殿の残る城」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、川越城址には本丸御殿の一部が残るが、これは1848年(嘉永元年)に当時の藩主・松平斉典が造営したものだ。
1872年(明治5年)川越城は廃城となり破却され建物は殆んど滅したが、この御殿だけは残されて、入間県庁〜公会所〜
修練道場などの用途を転歴している。しかし、この間に改変や部分的な取り壊しが行われていたため、古の姿を完全な
形で留めている訳ではない。斉典の造営時、御殿は16棟の建物から成り、1025坪もの広さを誇っていたのだが、今に
至るのは僅かに玄関部分のみなのである。それでも、江戸期からの本丸御殿が現存している例は極めて少ないので、
その価値は高いと言えよう。1967年(昭和42年)3月28日、埼玉県重要文化財に指定された。なお、御殿に附随していた
家老詰所は、1873年(明治6年)に埼玉県ふじみ野市の福田屋へ払い下げられ移築となったが、1987年(昭和62年)に
返還され、御殿と連結する形で再移築された。斯くして川越城本丸御殿と家老詰所は蔵の町・川越を代表する文化財と
して一般公開されており申す。上記の通り、城郭の本丸御殿が現存する例は稀少であり、書院造りの古建築としては
最大級の貴重なものなので、城郭愛好家ならずとも見学すべき場所だと言えよう。受付で許可を得れば、内部での写真
撮影も可能なのが嬉しい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2008年(平成20年)からは中ノ門堀跡の復元整備も行われ、現在その位置には見事な堀が復活して摸擬の冠木門も
建てられている。かつての城域を彷彿とさせる景観には心憎いものを感じる。また、市内末広町にある曹洞宗雲興山
榮林寺の山門は二ノ丸の蓮池(れんち)門を移築したものだとか。2006年(平成18年)4月6日には、財団法人日本城郭
協会から日本百名城の一つに選出され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
更にもう一つ、川越城についての現況を。本丸南端の富士見櫓は明治初期に解体され、現在は櫓台となる土塁のみ
残されているが、近々この櫓が復元される事になっている。現在は資料整備と分析の段階だが、本格的木造建築で
巨大な二重櫓が復活するとあっては、その完成が待ち遠しい。先人の文化を損なわないよう、熱意ある復元作業に
期待したいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡自体は1925年(大正14年)3月31日に埼玉県指定史跡となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名は初雁(はつかり)城、霧隠(きりがくれ)城など。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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