武蔵国 川越城

川越城本丸御殿

 所在地:埼玉県川越市郭町・大手町・元町・宮下町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★★■■



扇谷上杉家の本拠■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1467年(応仁元年)に勃発した応仁・文明の乱を以って戦国時代の開始と言われるが、関東の戦国化はそれに先行すると
いうのが歴史学上の通説である。それと言うのも、室町時代の関東地方は鎌倉府という独自の統治機関により治められ、
長となる鎌倉公方(かまくらくぼう)、補佐官の関東管領、それに幕府の権益が交錯し、非常に流動的な情勢が続いていた
からだ。鎌倉公方は後に古河公方(こがくぼう)と堀越公方(ほりごえくぼう)に分裂し、関東管領を世襲していた上杉氏も
山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に分かれて争い、これに関東諸豪族の動向も絡まり、更に複雑な
様相を呈したのでござった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こうした状況下、武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県東部)を本拠としていた扇谷上杉氏は、敵対する諸勢力への
備えとして各所に城郭を築いていく。江戸城(東京都千代田区)・岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)等がそれで、同様に
河越(当時はこう表記した)にも城が築かれ申した。時に1457年(長禄元年)の事で、築城者は扇谷上杉氏の家宰であった
太田道真(おおたどうしん)・道灌(どうかん)親子である。古代には河肥(かわごえ)と記し、中世に河越と転じたこの地は、
読んで字の如く荒川の水運における交通の要衝“川で肥えた地”であり、上野国(群馬県)を支配する山内上杉氏や古河
公方・足利成氏(しげうじ)が居を構える古河に対抗する軍事拠点でもあった。“築城の天才”と言われる太田道灌らの手に
よって河越城は堅城に仕上げられ、のちに扇谷上杉氏の本拠地となっていったのだった。■■■■■■■■■■■■■
さて、2つの公方府と両上杉氏の対立によって混沌とする関東地方において、この勢力分布を打破し、新たな時代を示す
者は駿河国(静岡県)から現れた。駿河守護・今川氏の食客となっていた風来坊、伊勢新九郎盛時(もりとき)である。彼は
堀越公方を滅ぼし伊豆国を制圧すると箱根山を越え小田原城(神奈川県小田原市)を占拠、瞬く間に南関東へ橋頭堡を
築いたのだった。小田原を手にした事で新九郎は相模国(神奈川県中西部)を支配下に置き、更にその進撃は北関東へ
向けられて行く。新九郎の登場と疾風のような領国獲得が、関東に変革をもたらし、新時代の到来を呼んだのだ。ここに
関東地方の本格的な戦国時代が幕を切って落とされたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新九郎の死後、その後を継いだ嫡子は鎌倉幕府執権の名跡になぞらえて北条と改姓、北条左京大夫氏綱と名乗った。
戦国関東の雄・後北条氏(ごほうじょうし)の誕生である。氏綱は父の遺業を継いで関東制覇を志向、相模国からの北上
政策に乗り出す。これに危機感を募らせたのが扇谷上杉氏。扇谷上杉氏は武蔵国(東京都・埼玉県と神奈川県東部)を
本拠としており、北進する後北条氏の軍勢にとって最初の標的とされたからだ。武蔵国の覇権をかけて、扇谷上杉氏と
後北条氏は盛んに干戈を交わしたが、革新的統治で民心を掴んだ新興の後北条氏は優位に立って、1537年(天文6年)
河越城は落城。6代約80年に及んだ扇谷上杉氏の河越統治は終焉を迎えたのである。■■■■■■■■■■■■■■

日本三大夜戦の一つ「河越夜戦」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
新たな河越城主となったのは北条一門の北条左衛門大夫綱成(つなしげ)。彼は氏綱の娘婿で、その武力は後北条家中
最強と謳われた猛将である。1541年(天文10年)に氏綱が死去し、後北条氏の当主は嫡男・左京大夫氏康に継がれたが
切れ者の氏康は父祖の教えを良く守り、磐石な支配体制を確立。義兄弟たる綱成も河越城を堅く守った為、後北条氏の
領土拡大は更なる進展の兆しを見せた。一方、これ以上の侵攻を阻止したい扇谷上杉氏は一大反抗を画策する。1546年
(天文15年)、今まで対立していた山内上杉氏・古河公方足利氏らと連合を結成し、駿河守護の今川氏や甲斐(山梨県)
守護・武田氏までも巻き込んで後北条氏包囲網を仕組んだ。今川氏・武田氏は西と北から後北条氏を牽制し、その間に
両上杉氏と足利氏らは軍勢を結集。山内上杉氏や古河公方足利氏もこの頃には後北条氏の脅威に晒されていたのだ。
この軍勢には足利・上杉という名族に従う関東諸豪族も参集し、何と8万もの大軍になった。その標的となったのがここ、
河越城でござる。8万の連合軍は河越城を包囲、これに対抗する綱成の守勢はわずか3000程度であった。■■■■■■
戦上手の綱成は冷静に状況を分析、単独では城を守れぬ事を悟りすぐさま小田原の氏康に救援を要請。綱成の窮地に
氏康も即応、今川氏への領土割譲と武田氏への和睦を躊躇無く決断して河越への救援軍を率いた。されど、四面楚歌の
状況で動員できたのは8000の兵に過ぎず、河越城内の籠城軍と合わせても劣勢を覆すものではなかった。しかし、名将
氏康の能力はこれに怖気づくほど小さくはない。圧倒的劣勢なればこそ、謀略による効果が大きい事を彼は知っていた。
直接対決では絶対に勝てない状況で河越に到着した氏康は、早々に足利・上杉らへ和睦を請うた。勿論、これが氏康の
罠なのである。勢い勇んで援軍を出したものの、兵数の差に恐れをなし降伏を願う愚凡な弱将を演じて見せたのだ。■■
これに気を良くした連合軍の諸将は油断し、「氏康恐るに足らず」と侮って厭戦気分が蔓延したのである。だらだらと和睦
交渉を引きずって時間を費やし、すっかり日が沈んだ4月20日の夜半、北条軍が動いた。日本三大夜戦に数えられる河越
夜戦の開幕である。日中の気弱な態度は一変し、攻撃体制を整えた氏康軍は徹底した奇襲攻撃を敢行したのでござる。
まず氏康は軍勢を4手に分け、1隊を備えに残し、あとの3隊を用いて山内上杉軍への波状攻撃を開始する。この時、奇襲
部隊は機動力を最優先させるため鎧兜を着けずに行動、夜間の同士討ちを避けるべく身体に白い紙片を付けて味方の
目印にした。また、時間の無駄をなくすよう、敵を切り倒しても首級を取る事は厳禁とし、完全な隠密行動を目指したので
ござる。一方、よもやの夜襲に山内上杉軍は大混乱となった。こうなると、あとは氏康の思うがままに戦況が進む。山内
上杉軍の崩壊を見て取った奇襲部隊は続けざまに扇谷上杉軍へ攻撃を開始、何と扇谷上杉氏当主・上杉修理大夫朝定
(ともさだ)を討ち取る大成果を挙げた。この間、氏康軍の夜襲に連動して河越城内からは綱成軍が出撃、3000の兵力で
古河公方・足利晴氏(はるうじ)の部隊に襲いかかっていく。これまた、城内から攻勢があるとは予想だにしない足利軍も
あっけなく敗れ、反北条連合軍は散り散りになって逃走したのだった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
連合軍側の戦死者は2800を数え、朝定を失った扇谷上杉氏は滅亡。10倍する兵力を打ち破った氏康の名声は上がり、
後北条氏の南関東支配は決定的なものとなった。対する古河公方足利氏は没落の一路を辿り、山内上杉家当主で関東
管領の上杉憲政(のりまさ)は越後国(新潟県)の支配者である長尾氏の下へ逃亡した。河越夜戦は、関東地方において
室町幕府体制が消滅する決定打となったのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以後、小田原後北条氏は関東の覇権を握った大大名として君臨し、河越城も武蔵国における後北条氏支配の中枢として
機能し続け、城代として譜代の重臣・大道寺(だいどうじ)氏が配され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■

江戸近傍の要地として■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
河越城の歴史に次なる転機が訪れたのは1590年(天正18年)の事。後北条氏はこの頃、関東の大半を手中にし独立を
保っていたが天下の覇権を握った豊臣秀吉が服属を要求。これを氏康の子で当時の北条氏当主だった左京大夫氏政が
拒絶したため交戦状態に陥ったのである。圧倒的大兵力で迫る豊臣軍に対して後北条氏は領域の諸城で籠城を展開、
河越城も例外ではなかった。が、豊臣軍は北条方の城をあっけなく個別撃破し、河越城も前田又左衛門利家の軍勢から
攻撃を受け、落城の憂き目を見る。程なく小田原城も開城、後北条氏はここに断絶し、秀吉の命によって関東の統治は
徳川家康へ委ねられるようになった。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸城に本拠を構えた家康は、北の守りとして河越城を重視し、譜代家臣である酒井河内守重忠に1万石を与え三河国
西尾(愛知県西尾市)から配したのである。これが江戸時代における川越藩の基礎となり、江戸の北を固める要地として
徳川家に忠節を尽くす譜代家臣が城主を歴任するようになっていく。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
重忠は1601年(慶長6年)3月に上野国厩橋(群馬県前橋市)へと3万3000石で移封。1609年(慶長14年)9月からは酒井
備後守忠利、1627年(寛永4年)11月には酒井讃岐守忠勝、1635年(寛永12年)3月に堀田出羽守正盛へ城主が交代。
酒井氏も堀田氏も三河時代からの徳川家直臣であり、正盛は江戸幕府老中、忠勝は大老を務めた人物で、川越城主が
如何に重要な地位であったかがよく分かるであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
正盛に代わって、1639年(寛永16年)1月から川越城主となったのが松平伊豆守信綱。「知恵伊豆」と呼ばれ、3代将軍
徳川家光の懐刀と評された智謀の士でござる。信綱は川越城の拡張工事に着手し、近世城郭としての体裁を整えた。
敷地4万6000坪、櫓3基と門12棟を構える大城郭へと生まれ変わった川越城は従来の2倍の規模になったと言われる。
城下町も再開発されて、川越街道の整備や新河岸川の水運開拓などその功績は大きい。水陸の流通路が確保された
事で川越は江戸に直結する商業拠点・物資供給地として栄えるようになった。“蔵造りの町”として有名、“小江戸”とも
呼ばれる川越の町はこうした経歴によって築かれたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

川越城の縄張り■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信綱の改造によって成立した近世川越城は、堀と土塁を多用した複雑な縄張り。平城なので起伏はそれほどないが、
土塁の高さはそれを補って余りある。城主の居館となる御殿を設置した本丸を中心に、その北側に二ノ丸、さらにその
西側へ三ノ丸が構成されていた。これらの曲輪を更に囲って馬場・帯郭・家臣屋敷地が広がっている。本丸南端には
天守代用の二重櫓・富士見櫓が建てられており、ここからの眺望は遠く江戸の町まで望めたという。■■■■■■■
信綱以後、甲斐守輝綱―伊豆守信輝と川越城主の地位は受け継がれ、1694年(元禄7年)1月からは柳沢出羽守吉保
(よしやす)が7万2000石で入封。5代将軍・徳川綱吉の側近として有名な、あの柳沢吉保である。綱吉の覚え目出度く、
大老格にまで出世した彼は1704年(宝永元年)12月に甲斐国甲府(山梨県甲府市)へ15万1200石の大封で移封する。
甲府は徳川幕府にとって最重要地とされた町で、川越時代における吉保の働きぶりが伺え申そう。■■■■■■■■
吉保に代わって秋元但馬守喬知(たかとも)が川越へ入り、伊賀守喬房(たかふさ)―越中守喬求(たかもと)―摂津守
凉朝(すけとも)と秋元氏が4代継承、1767年(明和4年)閏9月15日からは越前松平氏の松平大和守朝矩(とものり)が
入城する。朝矩の前任地は上野国前橋であったが、この頃の前橋城は利根川の浸食によって城が崩壊するに至り、
川越へ城替えの願いを出して移ったものである。従前の所領である前橋は、これにより川越藩の飛地として扱われた。
朝矩以後、大和守直恒(なおつね)―大和守直温(なおのぶ)―左近衛少将斉典(なりつね)―大和守典則(つねのり)
大和守直侯(なおよし)―左近衛少将直克(なおかつ)と続くが、直克は前橋城の再建を成し遂げた事でそちらへ戻り、
川越城には1866年(慶応2年)10月27日、松平(松井)周防守康英(やすひで)が封じられている。その次代、周防守康載
(やすとし)の時に版籍奉還・廃藩置県を迎えた。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

稀有な「御殿の残る城」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現在、川越城址には本丸御殿の一部が残るが、これは1848年(嘉永元年)に当時の藩主・松平斉典が造営したものだ。
1872年(明治5年)川越城は廃城となり破却され建物は殆んど滅したが、この御殿だけは残されて、入間県庁〜公会所〜
修練道場などの用途を転歴している。しかし、この間に改変や部分的な取り壊しが行われていたため、古の姿を完全な
形で留めている訳ではない。斉典の造営時、御殿は16棟の建物から成り、1025坪もの広さを誇っていたのだが、今に
至るのは僅かに玄関部分のみなのである。それでも、江戸期からの本丸御殿が現存している例は極めて少ないので、
その価値は高いと言えよう。1967年(昭和42年)3月28日、埼玉県重要文化財に指定された。なお、御殿に附随していた
家老詰所は、1873年(明治6年)に埼玉県ふじみ野市の福田屋へ払い下げられ移築となったが、1987年(昭和62年)に
返還され、御殿と連結する形で再移築された。斯くして川越城本丸御殿と家老詰所は蔵の町・川越を代表する文化財と
して一般公開されており申す。上記の通り、城郭の本丸御殿が現存する例は稀少であり、書院造りの古建築としては
最大級の貴重なものなので、城郭愛好家ならずとも見学すべき場所だと言えよう。受付で許可を得れば、内部での写真
撮影も可能なのが嬉しい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
2008年(平成20年)からは中ノ門堀跡の復元整備も行われ、現在その位置には見事な堀が復活して摸擬の冠木門も
建てられている。かつての城域を彷彿とさせる景観には心憎いものを感じる。また、市内末広町にある曹洞宗雲興山
榮林寺の山門は二ノ丸の蓮池(れんち)門を移築したものだとか。2006年(平成18年)4月6日には、財団法人日本城郭
協会から日本百名城の一つに選出され申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
更にもう一つ、川越城についての現況を。本丸南端の富士見櫓は明治初期に解体され、現在は櫓台となる土塁のみ
残されているが、近々この櫓が復元される事になっている。現在は資料整備と分析の段階だが、本格的木造建築で
巨大な二重櫓が復活するとあっては、その完成が待ち遠しい。先人の文化を損なわないよう、熱意ある復元作業に
期待したいものでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡自体は1925年(大正14年)3月31日に埼玉県指定史跡となっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名は初雁(はつかり)城、霧隠(きりがくれ)城など。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

本丸御殿・本丸御殿附家老詰所《以上県指定文化財》・堀・土塁・郭群
城域内は県指定史跡

移築された遺構として
榮林寺山門(旧二ノ丸蓮池門)








武蔵国 河越氏館

河越氏館跡

 所在地:埼玉県川越市大字上戸

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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平安末期からの壮大な居館■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で鯨井城、上戸(うわど)城とも。平安時代の坂東武士・河越氏の館跡。河越氏は桓武平氏秩父氏流の一族で
次郎大夫重隆を祖とし、本拠となる地がここ川越であった。館は重隆の子、河越氏2代・葛貫別当能隆(よしたか)が
居館として築いたと言われる。構築年代は不明であるが、河越氏の発祥からして平安末期の事であろう。■■■■
この頃、河越氏は後白河法皇に所領を寄進し、関東での勢力を固めていた。時代は源平の争乱が激しくなる頃で、
河越氏も巧みに時勢を読み、一門の保身に心を砕いている。能隆の後を継いだ太郎重頼は、1180年(治承4年)に
源頼朝が平氏打倒のため伊豆で挙兵した折、一旦は平氏方につき頼朝と敵対したが、すぐに源氏方へと鞍替えし
以後、頼朝の御家人として奮戦し信を得た。重頼の娘は九郎判官義経(頼朝の弟)に嫁いで、河越氏の軍勢は義経
旗下の一軍として重きを為すようになる。なお、河越姓を名乗るようになったのはこの重頼からだとも。その当時、
河越氏は武蔵国の在地武家として最大級の勢力を有したとされ、国司に代わって年貢収納実務などを取り仕切って
いた。必然的に河越氏館は物資の集積拠点や国衙に代わる政庁として使われており、巨大な敷地の中には居館
だけでなく様々な必要建築物が並んでいた事であろう。また、年貢の積み出しのために川舟が乗り付けられるよう、
川と直結する船着場も用意されていた模様だ。往時の雄大な規模が推測できる。■■■■■■■■■■■■■■
ところが平氏滅亡後、今度は頼朝と義経の仲が険悪と成ったため頼朝は重頼・小太郎重房(重頼の嫡子)ら河越氏
一門を供奉人から外し、誅したのである。これにより河越氏は一時勢力を衰退させたが、鎌倉幕府成立後の1205年
(元久2年)に起きた畠山重忠の乱にて幕府方の一翼を担った事で復権を果たし、1221年(承久3年)の承久の乱でも
河越三郎重員(しげかず、重頼の3男)が活躍、河越氏は鎌倉幕府御家人の中で重きを為すようになったのである。
この間、河越氏館は常に河越氏の本拠地として使われ続け申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

室町時代の蜂起で廃絶するも■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
鎌倉幕府の倒幕時、河越氏は幕府方と倒幕方に分かれたために結果として家名は残された。倒幕方に就いて家を
長らえた一派は足利尊氏の配下に組み込まれ、室町幕府体制下においても武蔵国内の領有権を堅持。ところが、
室町時代の関東地方は京都にある将軍家とは別に東国を束ねる鎌倉公方の指揮下にも置かれ、更に鎌倉公方の
下に関東管領の役職があり、これら複雑な統治系統の中で混乱を来たすようになっていく。こうした中では政治的
駆け引きが熾烈を極め、遂に関東管領上杉氏と北関東武士団の間で軋轢が発生、1368年(正平23年/応安元年)
上杉民部大輔憲顕(のりあき、初代関東管領)が京都へ上洛した留守を狙い北関東の武士らが一斉に蜂起した。
挙兵した武士団の首領こそ当時の河越氏当主、河越弾正少弼直重(なおしげ)でござった。反乱軍は河越氏館に
籠もり、鎌倉と上野国(上杉氏の領地)の往来を遮断し上杉憲顕の勢力を削ぐ作戦を展開する。これに対し憲顕は
京都の地で政治工作を行い、室町幕府の加勢を得る事に成功した。その結果、河越氏館は討伐を受けて直重らは
伊勢国へと落ちていく。この戦いを「武蔵平一揆(むさしへいいっき)の乱」と呼び、以後、河越氏は歴史の舞台から
名を消したのでござった。同時に、河越氏館も破却されたと言われている。■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし、戦国時代にかけて度々この近辺では戦闘が行われている。有名なものでは1487年(長享元年)〜1505年
(永正2年)という18年もの長きに亘った長享の乱(ちょうきょうのらん)において扇谷上杉氏の本拠・河越城(上記)を
包囲した山内上杉顕定(あきさだ)が上戸地域に7年間も布陣していたと言われているのだが、それだけの長期間
在陣するとならば陣城の存在は不可欠であり、一旦は破却された河越氏館を改修して用いたと考えられている。
更には、河越城が後北条氏の持城となり大道寺氏が城主となった後、河越氏館は河越城の出城として機能して
いたと見られ、大道寺氏の平時の館として使われたという説も囁かれており申す。結局、最終的な廃城の時期は
1590年、秀吉により関東が平定され後北条氏の諸城が破却された時とするのが妥当であろう。■■■■■■■

館の位置する地勢■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
館跡の背後に入間川が流れてこれを天然の濠とし、周囲は一面平坦な地形が広がっている。まさに鎌倉武士が
方形居館を構えるに典型的な立地だ。当時は館の周辺に大規模な水田が開拓されていたと容易に想像できる。
平安時代末期の創築以来、戦国期終盤まで用いられていたため時代時代ごとの改変を受けていたようで、これは
川越市教育委員会が1971年(昭和46年)〜1975年(昭和50年)にかけて行った発掘調査にて、各時代に特徴的な
遺構や遺物が検出された結果からも裏付けられよう。江戸後期に幕府が編纂した地誌書「新編武蔵風土記稿」の
中で、上戸村常楽寺の挿絵として描かれた河越氏館の姿は、ほぼ正確なものであると現地にて確認されている。
この時宗川越山常楽寺は現在も残っているが、もともとは河越氏館の中で祀られた持仏堂を起源としている。■■
「風土記稿」では「川越城の舊跡なり、又大道寺駿河守砦の跡なりとも云ふ」と記され、館跡東南部を占める寺の
敷地を挟み、東西約150m×南北約200mの方形区画を区分する高さ1m〜3mの土塁とその外側の堀が一部残存。
最盛期には東西約240m、南北約300mの規模を有していたと想像される。これらは主に戦国期の遺構と見られるが
鎌倉時代から室町時代にかけての関東武士の館跡を考察し得る史跡として重視され、1984年(昭和59年)12月6日
国指定史跡とされ申した。ただ、こうした土塁は城郭愛好家でなければなかなか史跡遺構だとは思えないだろう。
また、現状は一部がゴルフ練習場の敷地として制限され、逆に史跡全域は一面の空地状態となってしまっている。
この空地が部分的に「河越館跡史跡公園」として2009年(平成21年)11月15日に開放され、井戸跡や塚状遺構が
復元されたが、それ以上目立ったものは無く、発掘で検出された主な遺構は埋設保存の状態にあるので一般の
人が見ても全く何だかわからないだろう。今後の整備に期待したいものでござる。■■■■■■■■■■■■■
写真は空地となっている河越氏館跡敷地とその案内板。逆光の中で盛り上がっている奥の一条土列が土塁遺構。



現存する遺構

堀・土塁
城域内は国指定史跡








武蔵国 大穴城

大穴城址公園

 所在地:埼玉県坂戸市大字中小坂字大穴・東坂戸

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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団地の中の小公園…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
別名で大穴(おおあな)館、大穴山館とも。埼玉県坂戸市東坂戸、UR都市機構・東坂戸団地内の一角に城址公園が
置かれている。ここがかつて大穴城と呼ばれていた場所との事でござるが、あまり詳しい歴史などは判然としない。
遡ればどうやら古代の集落跡、大穴遺跡と称される立地。古代集落が継続して活用され、中世城館へ進化する事は
ままある上に、大穴城の北側には越辺(おっぺ)川の支流・大谷川が流れ、おそらく城跡の北部と東部は低湿地帯で
あったと推測される事から、それなりに要害の地であったことは窺えよう。■■■■■■■■■■■■■■■■■
「新編武蔵風土記稿」や「三芳野村郷土誌稿」などの地誌書によれば、この地には古くから城跡(陣屋)が築かれたと
記述されており、場所柄から推理するに、近隣には鎌倉街道が走り大堀山城(埼玉県川越市)の出城と考えられる。
しかし、築城者や城主が誰であったか詳細な記録はなく、この城の経緯はよくわかっていない。■■■■■■■■
1590年に小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、関東地方を徳川家康が領有する事となった後、この地には旗本の
本多九蔵秀玄(くぞうひではる)が150石で入部、陣屋を構えた。これが大穴城跡に関する確定的な情報でござろう。
陣屋構築に際し、旧城の遺構を利用した可能性も考えられよう。ここが「五反(ごたん=御殿が訛ったもの)山」とか
「御殿山」と呼ばれるのは、陣屋御殿の存在から来ているものだ。家康が鷹狩で川越まで出張った時には、当陣屋へ
まかり出たという。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ともあれ、現況は(団地内の小公園という事もあり)明瞭な遺構が見受けられる感じはしない。むしろ公園外の空地の
方が、それらしい雰囲気をもっているのだが…?所々に土塁と思われる起伏や空堀の痕跡と見られる窪地があるも
果たしてこれは当時の物なのか、あるいは団地造成時に残土が積み上げられた物なのか良くわからない。もっとも、
単なる残土の山というよりも、塁状に連なる起伏なのだから、陣屋土塁遺構の可能性は高いだろう。■■■■■■■
伝承と残存遺構のすり合わせを想像するのが楽しい城跡、としておこう(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁








武蔵国 多和目城

多和目城跡 南面土塁

 所在地:埼玉県坂戸市大字多和目・西坂戸

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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こちらも住宅街脇の城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
埼玉県坂戸市の最西端、多和目(たわめ)地区にあったとされる城。標高113.4mを数える、その名も城山と呼ばれる
城跡の山は坂戸市内最高所。周囲平野部から見上げると、かなり巨大な山に感じられる。攻め寄せる敵兵に対する
威圧効果に優れた立地だと言えよう。城山の南直下には高麗(こま)川が流れ、天然の要害を為していた。逆に城の
北側は菖蒲沢(勝負沢)と呼ばれる低湿地帯で守られている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
来歴については不明な点が多く、室町時代後期に近隣・宿谷(しゅくや、埼玉県入間郡毛呂山町宿谷)の豪族である
宿谷氏が築いたという説が有力であるが確証はなく、浅羽氏とか小田原後北条氏が城主だったという記録も残る。
そもそも、宿谷氏自体が後北条氏に属していた武将である為、多分に情報が輻輳している節があろう。後北条氏の
軍役記録「小田原衆所領役帳」には「多波目葛貫百四十六貫三十六文 御家中衆左衛門左殿知行」との表記があり
この“左衛門左殿”というのが、どうやら宿谷氏の事を指しているようだ。また、江戸時代中期の1779年(安永8年)に
書かれたという、狭山市の長谷川家に残る記録では「多波目大かけ城(大崖城、多和目城の事)」を河越城主の扇谷
上杉氏が攻撃した時、柏原の住人・半貫内膳が参戦し高麗の新節次と合戦したとされている。■■■■■■■■■
いずれにせよ後北条氏隷下にあった城という事は間違い無いようで、1590年に秀吉が天下を統一した折に廃城と
なったようだ。小田原の役の際、多和目城主・宿谷能登守本重(もとしげ)は小田原城に籠もっていたが後北条氏の
敗北に伴い故郷の宿谷へ戻り、帰農したらしい(大坂の陣に参戦したとも)。また、当時の宿谷氏当主である重利は
八王子城(東京都八王子市)の救援に向かって戦死している。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城の構造は、山頂部を啓開し平地面を造成してそれを曲輪としていおり、東西110m×南北45mの長方形な敷地を
有する。戦国期の地方山城としてはかなり広い平面を用意したと言えよう。この曲輪の周囲を土塁で囲み出入口は
その土塁を屈曲させて虎口を形成していたらしい。ところが、ごくわずかな帯曲輪を付帯させるのみで多和目城には
他の曲輪が用意されていない。しかも、尾根続きの緩斜面には堀切などがなく、無防備な状態。およそ常識的には
考えられない単郭の城は謎を呼び、実は簡易な陣城だったのではないかという説もある。■■■■■■■■■■
惜しい事に、城跡の現況は土塁が残ると言うものの藪が酷くあまり判然としない(写真)。しかも主郭部の半分程が
水道局の城山配水池として改変されているため、遺構の確認はさらに困難な状況でござる。水道施設がある事で
主郭部へ通じる通路が確保されているのだけが唯一の救いか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、1972年(昭和47年)配水池建設に伴う発掘調査で城の構造物と見られる柱穴列が発見された。また、縄文
時代の住居跡と見られる痕跡も確認されている。その一方で、遺物は特に出土しなかったという。■■■■■■
う〜む、ますます謎でござるな (^ ^;■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
なお、土塁が残っている事から1969年(昭和44年)10月1日、埼玉県の重要史跡に指定されており申す。■■■■
多和目は「田波目」とも表記。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

土塁
城域内は県指定史跡








武蔵国 滝の城

滝の城 二重堀切跡

 所在地:埼玉県所沢市大字城

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★■■
★★☆■■



川沿い、段丘、築城好地!■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
埼玉県所沢市の東端、東京都清瀬市と境を接する位置に滝の城はある。関越自動車道とJR武蔵野線の交差地点に近く
市境には柳瀬川という川が流れている。この柳瀬川が南東側にあり、必然的に北西側は河岸段丘となっている訳だが、
その段丘上の台地を利用した城地となっており、典型的な“崖端城”と言える立地だ。川を背にして最奥部となる南東隅に
主郭を置き、その西面を塞いで二ノ郭、反対に東側の前衛となるのが三ノ郭という縄張。更に主要部を覆うように外郭が
構えられていたようだが、現状でこの外郭部は宅地化・農地化されてしまい遺構は見当たらない。半面、主要部の大半は
堀や土塁がザクザクと地表面を切り裂き、見事な光景を見せてくれている。曲輪の接点や虎口の前後には馬出や櫓台と
云った火力拠点が置かれていたようで、戦闘正面(北西側)から来る敵を各所で漸減するような構造だ。柳瀬川の河畔は
海抜20m、崖の上面に当たる主郭部一帯は海抜42m〜43mとなっており、比高差は20mを超えていて川側から攻められる
事は無かったと言えるだろう。現在、主郭には城山神社が鎮座しているが、その境内を取り囲んで空堀が巡っているので
さながらここだけは城郭として使われていた当時の雰囲気を感じられる。他方、崖の下(柳瀬川の河原)には運動場等を
備えた「滝の城址公園」となっているが、正確に言えばここは城外(と言うか、当時は川の本流)だった。もっとも、公園が
在るおかげで駐車場や御手洗いには困らないのが有難い(笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

街道管掌の要地■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
古い言い伝えでは1180年頃、源頼朝が挙兵した事に応じて現地の土豪が築城したと云うがこれは全く不詳。■■■■
この地域での戦闘が激化するのは室町中期だが、その頃になると「清戸番所」という街道監視・封鎖の施設が清戸宿に
置かれた。この清戸番所はどうやら清瀬市側(柳瀬川の対岸)にあったと推測されるのだが、清戸番所自体が滝の城の
原初と考える説もある。ともあれ、清戸番所と連動する形で戦闘時の兵力集中拠点が構えられ、それが滝の城であると
推測されている。はっきりした築城年代は不明だが、構築したのは大石氏と見られる。大石氏は多摩地域に勢力を有す
古豪で、当時は関東管領・上杉氏の配下として所領を守っていた一族にして武蔵国守護代とされていた有力者である。
ところが南関東では小田原後北条氏が次第に勢力を伸張させ、相模から武蔵へと領土を拡大していく。自ずと滝の城は
後北条軍との競り合いが頻発するようになる訳で、時の城主・大石信濃守定重(さだしげ)は上杉家臣として防備に配意
していた。しかし次代・源左衛門尉定久(さだひさ)の頃になると後北条勢の攻勢は激しさを増し、遂に1546年に上記の
河越夜戦が勃発すると上杉家の没落は決定的なものになった。事ここに至り、大石定久は方針の転換を迫られ、北条
氏康の3男・源三氏照を養子に迎え入れ、後北条家への臣従を選んだ。以後、大石家の家督を相続した陸奥守氏照が
この地域を掌握する事になり、史料上では1564年(永禄7年)に発給された清戸番所に対する印判状などが後北条家に
よって出されている。当然、滝の城も戦国争乱に対応する改修が氏照により行われたのだろう。段丘上をザクザクと切る
土木工事は、このように後北条の強大な軍事力を背景に成されたと推測できる。永禄年間(1558年〜1570年)から天正
年間(1573年〜1593年)にかけて、氏照が下野国方面へと遠征する際には滝の城がしばしば出陣基地として使われた。
後北条氏の統治下、滝の城は旧上杉勢力圏との“境目の城”たる役目を果たし、氏照隷下にあった三田(みた)衆・辛垣
(からかい)衆など多摩地域の国人衆が交代で城番警固に当たっていたそうでござる。■■■■■■■■■■■■■■
滝の城の終焉も、後北条家と同じ運命であった。1590年に豊臣秀吉が関東征伐を行った際、城は豊臣方の武将・浅野
弾正少弼長政らが攻め立てて陥落。そのまま廃城となり、以後用いられる事は無かったそうな。■■■■■■■■■■

真面目な史跡公園化■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来、この山は手が付けられずに放置されて、上記の通り城山神社が創建された他は宅地化・公園化の波に晒された。
1974年(昭和49年)大雨で主郭の傾斜面が崩落、更に危険個所が拡大する恐れがあったために1976年(昭和51年)緊急
発掘調査が行われる。この調査中に人骨が出土、この台地が古く古墳として使われた横穴墓群だと判明した。須恵器や
金環などの装飾品が検出されている。滝の城そのものは1924年(大正14年)3月31日に埼玉県指定史跡となっていたが、
滝之城横穴墓群(史跡指定上はこの字を充てる)も1976年4月1日に所沢市の史跡に指定された。以来、数次に及んで
城址一帯では継続的に発掘調査が行われており、それは令和になった現在でも同様である。1986年(昭和61年)の発掘
調査では三ノ郭跡から障子堀を検出、後北条氏による改修が確定的になった。1990年(平成2年)4月の発掘では主郭の
北虎口から四脚門の跡を確認。この門は炭化痕(炎上した跡)があり、1590年の落城時に城が燃やされた状況を裏付け
2012年(平成24年)の二ノ郭調査では反対に築城時の経緯を示す地鎮祭の祭祀遺物が発見されている。とまぁ、常に
新しい発見が続いている滝の城、地元の保存会の方々も精力的に活動されているようで今後も注目したい城である。
別名で本郷城だとか。と云うか、恐らくそれが本来の名前なのでは?(爆)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群
城域内は県指定史跡




旧吉井町内諸城郭  武蔵松山城・松山陣屋・青鳥城・高坂館