武蔵国 武蔵松山城

武蔵松山城本丸跡

 所在地:埼玉県比企郡吉見町大字北吉見・南吉見

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★☆
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川と山を組み合わせた防御性■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
埼玉県中部、観光地として有名な史跡・吉見百穴(よしみひゃくあな)のすぐ隣にある城郭。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
比企地方には多数の城郭が林立する事で有名だが、その中でも松山城は最大級のもので、北武蔵を押さえる第一級の戦略的拠点として
後北条氏・武田氏・上杉氏が数次に渡る攻防戦を繰り返した城であった。城郭分類としては山城に属するが、それほど比高は高くないため
丘城と考えるのが妥当であろう。比企丘陵と総称される低山塊が数多く並ぶ一帯で、その端部にある1つの山がちょうど弧を描いて流れる
市野川に沿っていたため城地に選ばれた。よって、城山の北〜西〜南にかけて川が流れ、東側だけが陸続きとなっている。この市野川は
荒川の支流で水量はかなり多く、渡河するのは甚だ困難。往時は川の周囲が低湿地となっていたようなので、更に敵の接近を阻むような
環境になっていた事でござろう。市野河畔の標高は17m程度、城山の山頂部は57mを数えるので、城地の比高は40mになる。■■■■■
城の創建を遡ると、鎌倉幕府打倒を目指す新田左馬助義貞が1333年(元弘3年/正慶2年)この地に陣を敷いたという伝承が残るものの、
(他に小野篁(おののたかむら)居館説、鎮守府将軍・源経基(つねもと)やその孫である上野介頼信(よりのぶ)在陣説なども)■■■■■
城郭としての体裁を整えたのは応永年間(1394年〜1428年)初期(1399年(応永6年)?)に上田左衛門尉友直が築城したという事に求め
られるようだ。また、1416年(応永23年)頃に上田上野介(法名・貴道)が築いたとの説もある。いずれにせよ、松山城は上田氏の城として
構築されたのは間違いないだろう。この上田氏は三河守源範頼(のりより、頼朝の異母弟)を祖とする名門の一族で、室町時代には関東
管領(東国支配の次官で実質的な関東支配権を持った役職)上杉氏に属し武蔵国守護代の任を与えられていた上級の家門である。■■
一方で、上田氏の主にあたる上杉氏は戦国期に本家筋である山内(やまのうち)上杉氏や分家の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏など諸家に
分立、相争う状況に陥っていく。こうした間隙を衝き相模国小田原城(神奈川県小田原市)を拠点とした後北条氏が勢力を拡大、北上して
各上杉氏と盛んに干戈を交えるようになっていた。こうした最中、1537年(天文6年)河越城(埼玉県川越市)で扇谷上杉氏当主・上杉修理
大夫朝興(ともおき)が死去、子の修理大夫朝定(ともさだ)が家督を継ぐものの、これを好機と見た後北条氏が大攻勢をかけた。上杉軍は
敗北を喫し、本拠地の河越城を放棄せざるを得なくなりここ松山城へと逃れたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当時の松山城主は上田上野介政広、城代として勇将の難波田弾正憲重(なんばだのりしげ)が守備についていた。北条氏当主・左京大夫
氏綱は朝定を更に追撃、後北条軍は松山城にも攻めかかったのだが憲重らの奮戦で落城は成らず。この時、城外の合戦から引き上げて
籠城戦に移行しようとした憲重に対し、後北条軍の将・山中主膳が和歌問答を仕掛けたという逸話が残る。主膳が■■■■■■■■■■
「あしからじ 良かれとてこそ 戦わめ など難波田の 崩れゆくらん」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(兵たちが主君の為に良かれと戦ったのに、なぜ難波田ほどの者が逃げ去るのか)と詠み掛けたのに対して、馬首を戻した憲重の返句は
「君おきて あだし心を 我れもたば すえの松山 波も越えなん」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(幼君を置いて自分が戦死すれば松山城は荒波に呑まれてしまう)であった。この問答は“松山城風流歌合戦”と呼ばれる。戦国の激動に
揉まれる松山城にあって、まだどこか風雅な情緒を残した時代の陣中譚でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

「松山衆」後北条氏の中核兵団が成立■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦の後も上杉方と後北条方は度々対立を続け、松山城は上杉方の最前線拠点としてますます重要な地位を占めるようになった。1545年
(天文14年)後北条方に復讐し河越城奪還を悲願とする扇谷上杉朝定は古河公方・足利左兵衛督晴氏(はるうじ)や関東管領・山内上杉
兵部少輔憲政(のりまさ)、それに与する太田美濃守資正(すけまさ)らと大連合を結成し、翌1546年(天文15年)に後北条家の勇将・北条
上総介綱成(つなしげ)の守る河越城を包囲。氏綱から代替わりした北条家当主・左京大夫氏康(うじやす)が救援軍を率い河越に迫るも
後北条軍は僅か8000、対する連合軍は総計8万にも及んだ。どう考えても後北条軍に勝ち目はないと思われたが、名将の氏康は策略を
練り、夜戦で連合軍を撃破して見事な大勝利を得る。その結果、足利晴氏は再起不能の被害を被り、抗戦能力を失った山内上杉憲政は
領国を放棄して越後へ逃亡、越後国主・長尾景虎の庇護を求めた。最も痛烈な打撃を受けたのは扇谷上杉氏で、何と当主・朝定自身が
この夜戦で戦死してしまったのである。これにて上杉家の勢力圏は崩壊、武蔵国の大半は後北条家の領土となった。松山城も例外では
なく、城主の上田左近大夫朝直(ともなお、政広の子)は後北条氏に帰順。同年中に上杉方の太田三楽斎資正(すけまさ)がいったんは
松山城を奪還するも、翌1547年(天文16年)に氏康が再度松山城を攻略し落城したため、以後上田氏を筆頭とする「松山衆」と呼ばれる
軍団が編成され、後北条氏の武蔵支配における有力拠点とされたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし話はこれだけで終わらなかった。越後へ落ちた上杉憲政の復権を大義とし長尾景虎が関東出兵を決意、後北条氏との交戦状態に
入ったのである。伊豆・相模・武蔵を統べる後北条氏と越後から上野を手中にした長尾氏、両者の対立は日増しに激化して、遂に1561年
(永禄4年)の正月、長尾景虎は大軍を率いて関東へ侵攻し、後北条氏の本拠・小田原城へと迫った。この行軍には北関東で後北条氏に
抗っていた中小豪族も参加、長尾軍は10万もの人数に膨張。一方、北条氏康は景虎出陣の報に接し、松山城まで前進して様子を覗うも
敵の情勢を冷静に判断、小田原城で籠城する策を採った。天下の名城・小田原城の備えは万全、敵が10万だろうが絶対に落とされない
自信があったのだ。その予測通り、長尾軍は小田原城下に迫るも遂に城内へ入れずに撤退。関東長征の成果を残すため、景虎は鎌倉
鶴岡八幡宮で憲政から関東管領職と上杉家の家督を相続する儀式を執り行う。これにより長尾景虎は上杉政虎へと改名、関東管領に
就いたのだった。以後、上杉の家名は越後長尾氏から改まった政虎、後の謙信が引き継ぐ事になり、後北条氏と上杉氏の対立は新たな
展開を見せていくのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、こうして遠征軍は越後へ引き上げる事となったのだが、帰りがけに戦果を挙げるべく目標にしたのがここ松山城であった。同年4月
上杉軍は大軍を以って松山城を攻撃、さすがの堅城・松山城もこの攻勢には敵わず落城、城主の上田朝直は秩父郡の安戸(やすど)城
(埼玉県秩父郡東秩父村)へと撤退する。こうして15年ぶりに松山城を奪還した上杉勢は、城を岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)主の
太田資正に預けて越後へ帰った。その資正は松山城代に扇谷上杉氏末裔の上杉新蔵人憲勝(のりかつ)を任じて守備に当たらせる。
「甲陽軍鑑(甲斐武田氏の史料)」によれば、この時に資正は松山城内で犬50頭を飼わせ、後に北条氏康・左京大夫氏政・綱成・陸奥守
氏照らが率いる3万の後北条軍が来襲した際、その犬のうち5頭を岩槻城へ走らせて援軍を呼んだという。記録上に残る、日本最初の
“軍用犬”の運用である。斯くして岩槻城から資正の後詰めが来援、後北条軍は退却の止む無きに至った。■■■■■■■■■■■■

松山城攻防戦 〜関東三国志における“赤壁の戦い”〜■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
北武蔵の基幹となる松山城を奪還したい後北条方は、1562年(永禄5年)11月、今度は武田信玄の援軍と共同で来襲する。5万6000もの
兵数にのぼった攻城軍、しかし堅城・松山城は2500の兵で守りなかなか落ちず、籠城は2ヶ月に及んだ。さてこの籠城戦の際、武田軍が
陣を張ったのが城の隣にある吉見百穴。現在でこそこの場所は集団墳墓の横穴群という学術的解明が為されているが、当時は何だか
よく分からない謎の地形だったのでござろう。ところがその「ボコボコと空いた穴だらけの場所」にヒントを得て、武田軍は松山城に対する
坑道掘削を思い付く。武田氏は本領・甲斐国にいくつもの金鉱を保有して、「金掘衆」と呼ばれる専門の坑道掘り集団を抱えていたため、
彼らを召し出し城外から松山城内に繋がる地下道を開通させ、攻略路を確保しようとしたのだ。この奇策に城内は動揺、更には水の手を
奪われ戦意は落ち、1563年(永禄6年)2月、上杉政虎の援軍が越後から上野に入り松山城の寸前まで迫っていたにも拘らず城将の上杉
憲勝は独断で後北条・武田連合軍と和議を結び開城してしまう。降伏した憲勝は後北条氏の配下となり、300貫の微禄を得た。その結果
上杉軍が松山城に来援した時には、既に後北条軍が城を占拠し防備を固め、政虎はこの地を諦めざるを得なかった。救援を待たず城を
放棄した憲勝に激怒した政虎は、人質として預かっていた憲勝の子を斬殺した上、腹いせに近隣の騎西城(埼玉県北埼玉郡騎西町)を
蹂躙する。義を重んじ、他家からの人質に寛容だったと言われる謙信(政虎)が憲勝の子を斬り捨て、松山城と何の関係もない騎西城を
攻め落としたとは、よほどこの敗戦が口惜しかったのであろう。以後、上杉方は松山城を取り返せず、後北条方の北武蔵支配拠点として
整備・拡張が続けられた。1569年(永禄12年)上杉輝虎(政虎が再改名)は外交を通じて後北条方に松山城の引渡しを求めるも、氏康は
「上田本地本領」と主張して拒否。1574年(天正2年)上杉軍が再度来攻して松山城下を焼き払うも、結局、城が落ちることはなかった。
1563年の開城以来、城主に後北条氏重臣となっていた上田朝直が復帰。朝直の死後は上田能登守長憲(ながのり、長則とも)次いで
憲直、さらに上野介憲定が城主を継承し、松山衆を率いたのでござった。(憲直と憲定は同一人物という見方もある)■■■■■■■■
上田氏は松山城下町の開発に力をいれ、長憲時代の1576年(天正4年)城下の町民に対する5ヶ条の定書を発布している。■■■■■
こうして武蔵松山は北武蔵の要地として繁栄したのだが、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が小田原後北条氏を討伐したのに伴い、再び
戦火に包まれた。この時、城主の上田憲定は小田原へと出陣しており、松山城では城代の山田伊賀守直安が2300の兵を率いて籠城し
豊臣軍を迎え撃ったが、上野国方面から関東へ入って関東北部を攻略する任に当たっていた豊臣方の武将・前田又左衛門利家や上杉
左近衛少将景勝らの大軍が松山城に襲いかかり、敢え無く落城する。小田原後北条氏の滅亡後、関東は徳川家康の支配下に置かれ
松山城には家康配下の将・松平(桜井)内膳正家広(まつだいらいえひろ)が1万石(後に2万5000石に加増)で配された。しかし、1601年
(慶長6年)家広の跡を継いだ弟(従兄弟とも)の松平左馬允忠頼(ただより)が遠江国浜松5万石へ移封となり、松山周辺は天領となる。
これを機に武蔵松山城は廃城となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

橋なく、土塁なき「作り込まれた城」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状、城跡の主郭部は良好に保存されている。恐らく廃城以後は放置されそのまま残されていたのだろう。その一方、主郭から離れた
東側の外郭部(いわゆる「根小屋」地区)は太平洋戦争後の宅地開発で大幅に改変され、旧状を残していない。現役当時の城域は東西
1km×南北500mもの広さだったと言うが、今に残る主郭部の大きさは東西300m×南北250m程度である。このため松山城跡は1924年
(大正13年)3月31日、埼玉県史跡に指定されたものの、永らく国の史跡には指定されていなかった。■■■■■■■■■■■■■■
だが、主郭部の遺構は大変に素晴らしいもの。外郭部が損なわれたとは言え、これが国史跡にならないのは疑問に思える程だった。
然るに、近年の史跡整備事業機運の盛り上がりに時宜を得た松山城跡は、近隣の国指定史跡・菅谷館(埼玉県比企郡嵐山町)に追加
指定の形で2008年(平成20年)3月28日、杉山城(埼玉県比企郡嵐山町)・小倉城(埼玉県比企郡ときがわ町)と共に「比企城館跡群」の
名の下に、文化庁芸術拠点形成事業の一環として晴れて国の史跡に取り上げられたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■
そんな松山城の主郭部域にはいくつかの大きな曲輪が残され、その間がかなり急峻で深い空堀で遮断されている。市野川に食い込む
ような場所にある南西の最高所を本丸として、そこから北東方向に二ノ丸・春日丸・三ノ丸が梯郭式に並ぶ一方、本丸の南側を太鼓郭と
ササ郭が守り、本丸の北側には兵糧倉が並んでいたという平場が配置されていて、城の守りを固くしている。勿論、これ以外にも小さな
曲輪が多数築かれた。この兵糧倉郭の下には絶壁が切れ込む巨大な縦堀があり、それを塞ぐ如く麓からの入口部分に岩室観音堂が
設置されている。敵が観音堂を突き抜けて縦堀を登ろうとしても、両側の崖から一斉砲火を受ける事が容易に想像できて、戦国城郭の
生々しい姿を垣間見えよう。反対の南側も大掛かりな縦堀があり、これを登ろうとすると太鼓郭とササ郭で挟撃されるようになっている。
結局、城を攻めるには大手にあたる東の三ノ丸から入るしかないのだが、往時はその前に巨大な外郭があり、それを突破するだけでも
困難だったであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
外郭を落とし、三ノ丸から春日丸へ、春日丸から二ノ丸へ入っていくと松山城独自の特別な構造に気が付く。通常、城郭の曲輪と曲輪は
堀で仕切られ、その間にある橋(架橋の場合もあれば土橋の場合もある)を渡って次の曲輪に入るものだ。しかし松山城は、次の曲輪に
進むには必ず堀底に下りなくてはならない。橋がないのだ。橋がないから虎口もない。ある意味、異常な構造ともいえる松山城の空堀が
急峻で深いのは、侵入する敵兵が必ず堀底を通る事を見越して作られているからで、堀を挟んで左右の曲輪から狙撃して撃退するのに
適した構造と言えよう。しかもその堀は複雑に屈曲され(後北条流得意の直線的折れを多用)見通しの効かない堀内を進むのは困難を
強いられる。これが当城を堅城たらしめた理由なのだ。また、曲輪から堀底を射撃しやすいよう曲輪の縁に土塁を築かないのも松山城
独自の構造。通常、城郭は曲輪の外縁部を土塁で盛り土し堀との比高差をより高くするものなのだが、松山城では堀を深くしているため
その必要はなく、むしろ城内からの攻撃力を高めるべく敢えて必要な防御施設である土塁すら省いて火力に特化させた構造なのだ。
何とも凄まじい造りの武蔵松山城、この遺構がほぼ完全な状態で残っているのだから城郭愛好家が見れば涙を流して喜ぶに違いない。
マニア必見の城跡でござるぞ。隣接する吉見百穴に駐車場があるため、車での来訪に困る事はないだろう。ただ、大手口から入るには
百穴からぐるりと回りこまねばならず、かなり歩く事になるので注意が必要。また、大手入口は現在住宅地の中なので近隣住宅に迷惑を
かけないよう心がけたい。百穴から最短で城内に入るには上記した岩室観音堂から突き抜ける方法があるが、これは急斜面を登るので
危険。あまりお勧めできない。それならば城の南側、武蔵丘短期大学の脇にある南縦堀から登るか、城の西側、市野川橋を渡った所に
あるかつての搦手口であった方向にある登山路を利用したほうが安全だろう。とは言え、両者とも急峻な上り坂なので、一番確実なのは
やはり大手口からだ。堀の上り下りを楽しみつつ、城内の遺構をじっくりと見学して頂きたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・郭群等
城域内は国指定史跡








武蔵国 松山陣屋

松山陣屋跡石碑

 所在地:埼玉県東松山市松葉町

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

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封建時代終焉期の飛地陣屋■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
最幕末期の1867年(慶応3年)に前橋藩の飛地支配陣屋として成立。前橋藩の本拠である前橋城(群馬県前橋市)は利根川河畔の水利を
活用した城郭であったが、それ故に氾濫する川によって城地そのものが侵食され、江戸時代中期の1767年(明和4年)には本丸が完全に
水没してしまっていた。このため、前橋藩主・越前松平家は本拠の移転を幕府に申請、同年閏9月15日に分知の川越へ藩政機能を移して
しまう。しかし藩主が去った前橋の民は復帰を懇願、こうした状態が100年続き申した。幕末、開国によって生糸の生産・物流拠点となった
前橋の町は巨大な財を蓄えるようになり、越前松平家は前橋への再移転を検討するようになる。幕府としても江戸北方の重要拠点である
(多数の街道が集約)前橋の防備を固める事は急務であり、ここに越前松平家は前橋城の再建が許可された。これが1863年(文久3年)の
事であるが、上野国に居を戻した越前松平家の飛地として武蔵国内4郡6万石の所領が残されており、これを統括する為の陣屋が必要と
なった為、うち比企郡周辺3万石分を所管するこの松山陣屋が1867年1月に構築されたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■
その規模は東西約250m×南北約230m、敷地面積およそ8万7000uとされ、現在の東松山市庁舎を北東隅とし、松葉町町内会館あたりが
南西隅となる長方形の敷地。これに出曲輪状の敷地として、今の八幡神社境内にあたる南西部の張り出し部が附属する。一方、南東隅は
広小路と称される空地を陣屋本体の敷地から切欠いた形状になっているが、この広小路は即ち桝形虎口を意図しており、風雲急を告げる
幕末期に、陣屋と名乗るも実戦を意識した前橋藩の“支城”として作られた様子が窺えよう。そもそも飛地陣屋としては破格の大きさであり
(何せ3万石の統治拠点ゆえ)その敷地内には奉行所・御殿・武器庫など大きなものだけで12棟もの建物がひしめいていた。周囲は土塁で
一周し、その外周は空堀が穿たれた上に堀沿いの南面には馬場も用意され、統治拠点というよりは軍役屯地としての性格が強調されて
いるように思える。この陣屋に258名もの藩士が配され、その家族も含めると1000人規模の駐在員が派遣された計算になるのだが、当時
松山郷全体の人口が1600人程度と推測されている事から、陣屋成立により当地は大幅な人口増加が為された訳である。奉行ほか上級
役人の居所は陣屋内にあったが足軽など下級藩士・郎党の住宅は陣屋外に建てられ、馬場の南側に15棟以上の長屋が建ち並んでいた
ようでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが新造成った松山陣屋は僅か10ヶ月で大政奉還、翌1868年(明治元年)には明治新政府が全国支配体制を確立し、幕府の時代が
終わってしまう。さらに1871年(明治4年)廃藩置県で藩と言う組織そのものが消滅してしまった。こうして無用の長物となった陣屋は、以後
公共施設用地や宅地へと変貌し、今や痕跡らしいものは何もない。前橋藩の統治拠点であった跡地に現在は東松山市の市役所があると
いう事くらいが、昔も今も「ここが役所である」という由緒を引き継いでいるのみであろう。その市役所庁舎の東側に、写真の石碑が立つ。
1961年(昭和36年)3月8日、東松山市史跡に指定。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

陣屋域内は市指定史跡








武蔵国 青鳥城

青鳥城 主郭櫓台跡土塁

 所在地:埼玉県東松山市大字石橋

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★■■■
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戦国期城郭のようなのだが…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「おおどりじょう」と読む(「あおどりじょう」ではない)。平安時代に青鳥判官藤原恒義が館を構えた事を起源とする言い伝えがあり、1271年
(文永8年)佐渡へ流刑となった日蓮がこの城に一泊したという話が残る。近隣の日蓮宗青鳥山妙昌(みょうしょう)寺に伝わる縁起では、
1334年(建武元年)青鳥城主として藤原斎心入道利行の名が見える。また、室町期の史料には1441年(永享12年)結城合戦の折に山内
上杉安房守憲実(のりざね)が当地に陣を置き大軍の駐屯を行ったと言われている。更に、1478年(文明12年)扇谷上杉修理大夫定正と
太田道灌が青鳥に在陣したという記録も残る。この他、「源平盛衰記」によれば1183年(寿永2年)源頼朝が武州月田川のはた青鳥野に
陣を敷いた、とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
とは言え、本格的に城郭として整備されたのはやはり戦国時代の事だ。後北条氏の城として使用されたらしく、1559年(永禄2年)に作成
された後北条氏の軍役帳「小田原衆所領役帳」に「狩野介四十貫比企郡青鳥居」「久米新左衛門四十五貫松山筋石橋」と記載されており
狩野介なる人物、もしくは久米新左衛門のいずれかが青鳥城を有していたと考えられる。どちらにせよ、松山城の支城として機能していて
彼らは松山衆の一員だった事が明らかだ。後北条時代末期には、松山城主・上田朝直の家臣であった山田直安の城になったと伝わる。
1590年、後北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされた後、直安は新たな関東の主となった徳川家康に微禄で召し抱えられ、300石の御家人に
なったものの、これを機に青鳥城は廃城となっている。なお、小田原戦役の際に松山城を攻める前田利家の軍勢が“石橋の古城”に陣を
構えたという記録もあるため、既にその頃青鳥城は廃されていたという説も取り沙汰されている。■■■■■■■■■■■■■■■■
城跡は東松山台地の南縁部に立地し、南方約1kmの位置に都幾(とき)川の河岸段丘を見下ろす。縄張りの南端中心部に本郭を置き、
その規模は一辺およそ100mの方形。本郭の北側外周を囲うように東西550m×南北300mの大きさの二ノ郭、それを更に囲って三ノ郭が
置かれており、直線連郭式多曲輪形式と称されている。城域全体としては東西700m×南北400mにも達して、中世の平城としてはかなり
大型のものである。これらの曲輪はそれぞれ土塁や空堀・水濠で囲まれていたが、城域の南側だけは低湿地に面していたため、特別な
構えは設けず自然地形に防御を任せていたようだ。大手口は二ノ郭の西南端だったと考えられ、その部分(かつての湿地)に“大手前”と
いう地名が残る。また、二ノ郭北辺中央部の土塁には折邪(おりひずみ)と呼ばれる横矢掛かりの折れが用意されていた。■■■■■■
こうした遺構は1972年(昭和47年)の発掘調査によって確認されている。曲輪の配置から、築城の順序はまず最初に本郭が成立し、その
後に二ノ郭と三ノ郭が増設されたと見られている。この築城方法は菅谷館と類似していると言われており、青鳥城も菅谷館も(伝承では)
平安期〜鎌倉期の武士居館を起源とした城館であるために、もともとの館跡を戦国期に改造していったという発展段階が両城に共通して
いるのだろう。なお、三ノ郭東端の発掘調査では土塁の下から15世紀〜16世紀前半までの土葬墓・火葬墓が多数検出されており、これも
青鳥城の築城時期を推測する一つの材料となった。三ノ郭近辺にはかつての水堀の一部であった“おため池”や、“虎御石”なる1369年
(正平24年/応安2年)に建立された板石塔婆も残る。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし、現状(関越道建設などで)三ノ郭は殆んどが破壊されてしまい、本郭・二ノ郭のみが遺構として残っているだけ。このため、二ノ郭
以内が1934年(昭和9年)3月31日に埼玉県の史跡に指定され申した。これらの曲輪には、比較的明瞭な土塁(写真)や堀跡が残存する。
とは言え、二ノ郭は大半が藪に覆われた上、養鶏場?も造られたため敷地内に異臭がたちこめる事もしばしば。さらに本郭は畑となって
いるので、立ち入る事も憚られる。お世辞にも良好な史跡整備状況とは言えない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
関越道東松山ICの目の前、という絶好の交通アクセスなのだが…。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡








武蔵国 高坂館

高坂館跡土塁

 所在地:埼玉県東松山市大字高坂

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★■■■
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「高坂氏」の館?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
埼玉県東松山市大字高坂(たかさか)、曹洞宗法音山高済寺境内がかつての高坂(たかさか)館とされている場所。その主は在地豪族の
高坂(こうさか)氏と言われるが詳しい来歴は不明で、城館の詳細も、伝承と遺構調査の結果に食い違いがあるようだ。■■■■■■■
高坂館を創築したのは高坂刑部大輔と伝えられ、一説に拠れば彼は秩父氏(武蔵七党の一つ)一族の江戸氏庶流だという。また、遡れば
信濃国の香坂(高坂)氏に繋がるとも考えられている。これが正しくば、祖先は武田信玄第一の寵臣とされる高坂弾正忠昌信と同じ流れと
いう事になろう。高済寺の伝承「武蔵国比企郡高坂郷大渓山高済寺記録」に「高済寺は、旧この辺城の跡也。観応の時天、高坂刑部大輔
ここに居る」とあり、高坂館の創建は観応年間(1350年〜1352年)と推測する事ができる。しかし家系譜「喜連川判鑑」によれば、高坂氏は
1368年(正平23年/応安元年)の武蔵平一揆(むさしへいいっき)の乱(詳しくは河越氏館の頁を参照)に加担し没落している。一方で、江戸
幕府が編纂した地誌書「新編武蔵風土記稿」の中には「此地は四方土手ありて、空堀所々に見ゆれば、陣屋の跡なるべし、一説に小田原
 北條氏の臣、高坂刑部と云者の屋敷跡なりと伝えど、その拠を知らず」と記されるが、小田原後北条氏に関する史料では高坂氏に関する
詳細な記載が見当たらないので、諸々の内容から(私見で)推測するに「南北朝期に高坂刑部が館を構えるも、その一族は武蔵平一揆で
凋落し、残った館跡だけが“高坂”の名籍を伝えて戦国期まで継承され小田原後北条氏配下の松山衆が使用し続けた」と解釈すべきでは
なかろうか。ちなみに1426年(応永23年)に起きた上杉禅秀の乱では「白旗一揆着到状」の中に“高坂陣屋”の記載が見られる為、推測の
通りこの館が継続使用されていた事だけは間違いなかろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ところが、高坂館跡と伝承されていた場所の「南側に隣接する」高坂弐番町遺跡で発掘調査を行ったところ、高坂館の伝承や使用時期に
符合する出土物が検出されたのである。このため現在では、南北朝期〜戦国時代初期?における高坂館とは、この高坂弐番町遺跡では
ないかという考えが有力になってきている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

高坂「陣屋」の来歴■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
では高済寺に残る土塁や堀は何かと言うと、後北条氏が陣を構えた場所の上に江戸時代に入ってから設置した高坂陣屋の遺構だろう。
1562年に北条氏康が武蔵松山城を攻略した際の記録に、北条氏政が“高坂”の地に陣を構えたとあり、その際に土塁や堀が設営された。
(「新編武蔵風土記稿」は“北条”+“高坂”というだけで誤伝してるのでは?)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
徳川家康が江戸に入封して後、そこに3000石(分知の相模国高座郡を含む)を以って当地の領主となった徳川家旗本・加賀爪備後守政尚
(かがつめまさなお)が陣屋を構えたのである。元々は駿河今川家被官だった政尚は、今川の衰亡後に徳川家へと主を替えた家康譜代の
臣で、小牧・長久手の合戦や小田原戦役に功があった。政尚の跡を継いだ忠澄(ただすみ)は、関ヶ原の戦いや大坂の陣で勲功を挙げて
従五位下民部少輔となり5500石へと加増、目付・江戸北町奉行・大目付などを歴任し最終的には9500石を有するに至った人物。更にその
跡を継いだ加賀爪氏3代・甲斐守直澄(なおずみ)はかなりの乱暴者として有名で、「夜更けに通るは何者か、加賀爪甲斐か泥棒か」という
悪評が江戸で流布した程なのだが、一方で仕事も有能という変わり者であり、書院番頭・大番頭・寺社奉行などの要職を務めている。この
功績により所領は1万3000石に加増、晴れて旗本から大名となったのだった。また、茶道にも通じた人物で、鶴陽舎一明や名月庵鑑などと
号した。政尚〜直澄の加賀爪3代とその夫人は高済寺に葬られており、墓石となる宝篋印塔は1930年(昭和5年)2月に埼玉県指定旧跡と
なっている。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが4代・尚清は近隣の領主・成瀬吉右衛門正章(なるせまさあきら)と領土争いを起こし改易処分となり、1681年(天和元年)高坂陣屋は
廃されてしまった。ちなみに領土争いとは、直澄が加増地として受け取った土地に関し確認を怠った為に、成瀬家の領土と所有権が輻輳
したというもの。このあたりに、乱暴者であった直澄という人物の短慮さが窺えなくもない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、廃城後に陣屋敷地の南半分は宅地化・耕作地化され、現在は殆んど遺構が残らない。外郭部の堀も大半が埋め立てられてしまった
ようだ。その一方、主郭部(北半分)であった高済寺の敷地周辺には比較的良好な遺構が散見される。特に陣屋西面を守る土塁は綺麗に
残り、長さはおよそ100m・高さは平均2m〜6m・幅約4mを数え、場所により褶(ひらみ、突堤上面幅の事)が5mにも及ぶ分厚いものである。
この土塁は加賀爪氏墓地である北端と城山稲荷(写真)のある残存部南端が際立って大きくなっている為、そこには物見櫓などがあったの
ではないか、と考える向きが多い。櫓の有無は実際のところ不明なのだが、実はこの部分が古代の古墳跡だという事は間違いないらしい。
つまり、古墳群をつなぎ合わせて土塁を構築したのでござる。(ちなみに、耕作地化されてしまった陣屋南端にももう一つ古墳が残存する)
その外部には明らかに人工的に掘削された空堀跡が確認できる。堀の幅は約10m・深さ2.5m程。また、残存土塁と反対側の東面は台地
端部の崖となっており、往時は河川に面し、小規模ながら屏風折れの防備で固めていた。発掘調査の結果によれば、館跡内には他にも
堀が掘られていたようで、高坂館は菱形平面の単郭構造だったと推定されており申す。完璧とは言えないまでも、館跡はこれら断片的な
残存遺構があったため1976年(昭和51年)10月1日に埼玉県選定重要遺跡となり申した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁
城域内は県指定史跡




埼玉県南部諸城館  忍城周辺諸城館