川と山を組み合わせた防御性■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
埼玉県中部、観光地として有名な史跡・吉見百穴(よしみひゃくあな)のすぐ隣にある城郭。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
比企地方には多数の城郭が林立する事で有名だが、その中でも松山城は最大級のもので、北武蔵を押さえる第一級の戦略的拠点として
後北条氏・武田氏・上杉氏が数次に渡る攻防戦を繰り返した城であった。城郭分類としては山城に属するが、それほど比高は高くないため
丘城と考えるのが妥当であろう。比企丘陵と総称される低山塊が数多く並ぶ一帯で、その端部にある1つの山がちょうど弧を描いて流れる
市野川に沿っていたため城地に選ばれた。よって、城山の北〜西〜南にかけて川が流れ、東側だけが陸続きとなっている。この市野川は
荒川の支流で水量はかなり多く、渡河するのは甚だ困難。往時は川の周囲が低湿地となっていたようなので、更に敵の接近を阻むような
環境になっていた事でござろう。市野河畔の標高は17m程度、城山の山頂部は57mを数えるので、城地の比高は40mになる。■■■■■
城の創建を遡ると、鎌倉幕府打倒を目指す新田左馬助義貞が1333年(元弘3年/正慶2年)この地に陣を敷いたという伝承が残るものの、
(他に小野篁(おののたかむら)居館説、鎮守府将軍・源経基(つねもと)やその孫である上野介頼信(よりのぶ)在陣説なども)■■■■■
城郭としての体裁を整えたのは応永年間(1394年〜1428年)初期(1399年(応永6年)?)に上田左衛門尉友直が築城したという事に求め
られるようだ。また、1416年(応永23年)頃に上田上野介(法名・貴道)が築いたとの説もある。いずれにせよ、松山城は上田氏の城として
構築されたのは間違いないだろう。この上田氏は三河守源範頼(のりより、頼朝の異母弟)を祖とする名門の一族で、室町時代には関東
管領(東国支配の次官で実質的な関東支配権を持った役職)上杉氏に属し武蔵国守護代の任を与えられていた上級の家門である。■■
一方で、上田氏の主にあたる上杉氏は戦国期に本家筋である山内(やまのうち)上杉氏や分家の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏など諸家に
分立、相争う状況に陥っていく。こうした間隙を衝き相模国小田原城(神奈川県小田原市)を拠点とした後北条氏が勢力を拡大、北上して
各上杉氏と盛んに干戈を交えるようになっていた。こうした最中、1537年(天文6年)河越城(埼玉県川越市)で扇谷上杉氏当主・上杉修理
大夫朝興(ともおき)が死去、子の修理大夫朝定(ともさだ)が家督を継ぐものの、これを好機と見た後北条氏が大攻勢をかけた。上杉軍は
敗北を喫し、本拠地の河越城を放棄せざるを得なくなりここ松山城へと逃れたのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
当時の松山城主は上田上野介政広、城代として勇将の難波田弾正憲重(なんばだのりしげ)が守備についていた。北条氏当主・左京大夫
氏綱は朝定を更に追撃、後北条軍は松山城にも攻めかかったのだが憲重らの奮戦で落城は成らず。この時、城外の合戦から引き上げて
籠城戦に移行しようとした憲重に対し、後北条軍の将・山中主膳が和歌問答を仕掛けたという逸話が残る。主膳が■■■■■■■■■■
「あしからじ 良かれとてこそ 戦わめ など難波田の 崩れゆくらん」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(兵たちが主君の為に良かれと戦ったのに、なぜ難波田ほどの者が逃げ去るのか)と詠み掛けたのに対して、馬首を戻した憲重の返句は
「君おきて あだし心を 我れもたば すえの松山 波も越えなん」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
(幼君を置いて自分が戦死すれば松山城は荒波に呑まれてしまう)であった。この問答は“松山城風流歌合戦”と呼ばれる。戦国の激動に
揉まれる松山城にあって、まだどこか風雅な情緒を残した時代の陣中譚でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「松山衆」後北条氏の中核兵団が成立■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
戦の後も上杉方と後北条方は度々対立を続け、松山城は上杉方の最前線拠点としてますます重要な地位を占めるようになった。1545年
(天文14年)後北条方に復讐し河越城奪還を悲願とする扇谷上杉朝定は古河公方・足利左兵衛督晴氏(はるうじ)や関東管領・山内上杉
兵部少輔憲政(のりまさ)、それに与する太田美濃守資正(すけまさ)らと大連合を結成し、翌1546年(天文15年)に後北条家の勇将・北条
上総介綱成(つなしげ)の守る河越城を包囲。氏綱から代替わりした北条家当主・左京大夫氏康(うじやす)が救援軍を率い河越に迫るも
後北条軍は僅か8000、対する連合軍は総計8万にも及んだ。どう考えても後北条軍に勝ち目はないと思われたが、名将の氏康は策略を
練り、夜戦で連合軍を撃破して見事な大勝利を得る。その結果、足利晴氏は再起不能の被害を被り、抗戦能力を失った山内上杉憲政は
領国を放棄して越後へ逃亡、越後国主・長尾景虎の庇護を求めた。最も痛烈な打撃を受けたのは扇谷上杉氏で、何と当主・朝定自身が
この夜戦で戦死してしまったのである。これにて上杉家の勢力圏は崩壊、武蔵国の大半は後北条家の領土となった。松山城も例外では
なく、城主の上田左近大夫朝直(ともなお、政広の子)は後北条氏に帰順。同年中に上杉方の太田三楽斎資正(すけまさ)がいったんは
松山城を奪還するも、翌1547年(天文16年)に氏康が再度松山城を攻略し落城したため、以後上田氏を筆頭とする「松山衆」と呼ばれる
軍団が編成され、後北条氏の武蔵支配における有力拠点とされたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
しかし話はこれだけで終わらなかった。越後へ落ちた上杉憲政の復権を大義とし長尾景虎が関東出兵を決意、後北条氏との交戦状態に
入ったのである。伊豆・相模・武蔵を統べる後北条氏と越後から上野を手中にした長尾氏、両者の対立は日増しに激化して、遂に1561年
(永禄4年)の正月、長尾景虎は大軍を率いて関東へ侵攻し、後北条氏の本拠・小田原城へと迫った。この行軍には北関東で後北条氏に
抗っていた中小豪族も参加、長尾軍は10万もの人数に膨張。一方、北条氏康は景虎出陣の報に接し、松山城まで前進して様子を覗うも
敵の情勢を冷静に判断、小田原城で籠城する策を採った。天下の名城・小田原城の備えは万全、敵が10万だろうが絶対に落とされない
自信があったのだ。その予測通り、長尾軍は小田原城下に迫るも遂に城内へ入れずに撤退。関東長征の成果を残すため、景虎は鎌倉
鶴岡八幡宮で憲政から関東管領職と上杉家の家督を相続する儀式を執り行う。これにより長尾景虎は上杉政虎へと改名、関東管領に
就いたのだった。以後、上杉の家名は越後長尾氏から改まった政虎、後の謙信が引き継ぐ事になり、後北条氏と上杉氏の対立は新たな
展開を見せていくのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、こうして遠征軍は越後へ引き上げる事となったのだが、帰りがけに戦果を挙げるべく目標にしたのがここ松山城であった。同年4月
上杉軍は大軍を以って松山城を攻撃、さすがの堅城・松山城もこの攻勢には敵わず落城、城主の上田朝直は秩父郡の安戸(やすど)城
(埼玉県秩父郡東秩父村)へと撤退する。こうして15年ぶりに松山城を奪還した上杉勢は、城を岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)主の
太田資正に預けて越後へ帰った。その資正は松山城代に扇谷上杉氏末裔の上杉新蔵人憲勝(のりかつ)を任じて守備に当たらせる。■
「甲陽軍鑑(甲斐武田氏の史料)」によれば、この時に資正は松山城内で犬50頭を飼わせ、後に北条氏康・左京大夫氏政・綱成・陸奥守
氏照らが率いる3万の後北条軍が来襲した際、その犬のうち5頭を岩槻城へ走らせて援軍を呼んだという。記録上に残る、日本最初の
“軍用犬”の運用である。斯くして岩槻城から資正の後詰めが来援、後北条軍は退却の止む無きに至った。■■■■■■■■■■■■
松山城攻防戦 〜関東三国志における“赤壁の戦い”〜■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
北武蔵の基幹となる松山城を奪還したい後北条方は、1562年(永禄5年)11月、今度は武田信玄の援軍と共同で来襲する。5万6000もの
兵数にのぼった攻城軍、しかし堅城・松山城は2500の兵で守りなかなか落ちず、籠城は2ヶ月に及んだ。さてこの籠城戦の際、武田軍が
陣を張ったのが城の隣にある吉見百穴。現在でこそこの場所は集団墳墓の横穴群という学術的解明が為されているが、当時は何だか
よく分からない謎の地形だったのでござろう。ところがその「ボコボコと空いた穴だらけの場所」にヒントを得て、武田軍は松山城に対する
坑道掘削を思い付く。武田氏は本領・甲斐国にいくつもの金鉱を保有して、「金掘衆」と呼ばれる専門の坑道掘り集団を抱えていたため、
彼らを召し出し城外から松山城内に繋がる地下道を開通させ、攻略路を確保しようとしたのだ。この奇策に城内は動揺、更には水の手を
奪われ戦意は落ち、1563年(永禄6年)2月、上杉政虎の援軍が越後から上野に入り松山城の寸前まで迫っていたにも拘らず城将の上杉
憲勝は独断で後北条・武田連合軍と和議を結び開城してしまう。降伏した憲勝は後北条氏の配下となり、300貫の微禄を得た。その結果
上杉軍が松山城に来援した時には、既に後北条軍が城を占拠し防備を固め、政虎はこの地を諦めざるを得なかった。救援を待たず城を
放棄した憲勝に激怒した政虎は、人質として預かっていた憲勝の子を斬殺した上、腹いせに近隣の騎西城(埼玉県北埼玉郡騎西町)を
蹂躙する。義を重んじ、他家からの人質に寛容だったと言われる謙信(政虎)が憲勝の子を斬り捨て、松山城と何の関係もない騎西城を
攻め落としたとは、よほどこの敗戦が口惜しかったのであろう。以後、上杉方は松山城を取り返せず、後北条方の北武蔵支配拠点として
整備・拡張が続けられた。1569年(永禄12年)上杉輝虎(政虎が再改名)は外交を通じて後北条方に松山城の引渡しを求めるも、氏康は
「上田本地本領」と主張して拒否。1574年(天正2年)上杉軍が再度来攻して松山城下を焼き払うも、結局、城が落ちることはなかった。■
1563年の開城以来、城主に後北条氏重臣となっていた上田朝直が復帰。朝直の死後は上田能登守長憲(ながのり、長則とも)次いで
憲直、さらに上野介憲定が城主を継承し、松山衆を率いたのでござった。(憲直と憲定は同一人物という見方もある)■■■■■■■■
上田氏は松山城下町の開発に力をいれ、長憲時代の1576年(天正4年)城下の町民に対する5ヶ条の定書を発布している。■■■■■
こうして武蔵松山は北武蔵の要地として繁栄したのだが、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が小田原後北条氏を討伐したのに伴い、再び
戦火に包まれた。この時、城主の上田憲定は小田原へと出陣しており、松山城では城代の山田伊賀守直安が2300の兵を率いて籠城し
豊臣軍を迎え撃ったが、上野国方面から関東へ入って関東北部を攻略する任に当たっていた豊臣方の武将・前田又左衛門利家や上杉
左近衛少将景勝らの大軍が松山城に襲いかかり、敢え無く落城する。小田原後北条氏の滅亡後、関東は徳川家康の支配下に置かれ
松山城には家康配下の将・松平(桜井)内膳正家広(まつだいらいえひろ)が1万石(後に2万5000石に加増)で配された。しかし、1601年
(慶長6年)家広の跡を継いだ弟(従兄弟とも)の松平左馬允忠頼(ただより)が遠江国浜松5万石へ移封となり、松山周辺は天領となる。■
これを機に武蔵松山城は廃城となったのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
橋なく、土塁なき「作り込まれた城」■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状、城跡の主郭部は良好に保存されている。恐らく廃城以後は放置されそのまま残されていたのだろう。その一方、主郭から離れた
東側の外郭部(いわゆる「根小屋」地区)は太平洋戦争後の宅地開発で大幅に改変され、旧状を残していない。現役当時の城域は東西
1km×南北500mもの広さだったと言うが、今に残る主郭部の大きさは東西300m×南北250m程度である。このため松山城跡は1924年
(大正13年)3月31日、埼玉県史跡に指定されたものの、永らく国の史跡には指定されていなかった。■■■■■■■■■■■■■■
だが、主郭部の遺構は大変に素晴らしいもの。外郭部が損なわれたとは言え、これが国史跡にならないのは疑問に思える程だった。
然るに、近年の史跡整備事業機運の盛り上がりに時宜を得た松山城跡は、近隣の国指定史跡・菅谷館(埼玉県比企郡嵐山町)に追加
指定の形で2008年(平成20年)3月28日、杉山城(埼玉県比企郡嵐山町)・小倉城(埼玉県比企郡ときがわ町)と共に「比企城館跡群」の
名の下に、文化庁芸術拠点形成事業の一環として晴れて国の史跡に取り上げられたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■
そんな松山城の主郭部域にはいくつかの大きな曲輪が残され、その間がかなり急峻で深い空堀で遮断されている。市野川に食い込む
ような場所にある南西の最高所を本丸として、そこから北東方向に二ノ丸・春日丸・三ノ丸が梯郭式に並ぶ一方、本丸の南側を太鼓郭と
ササ郭が守り、本丸の北側には兵糧倉が並んでいたという平場が配置されていて、城の守りを固くしている。勿論、これ以外にも小さな
曲輪が多数築かれた。この兵糧倉郭の下には絶壁が切れ込む巨大な縦堀があり、それを塞ぐ如く麓からの入口部分に岩室観音堂が
設置されている。敵が観音堂を突き抜けて縦堀を登ろうとしても、両側の崖から一斉砲火を受ける事が容易に想像できて、戦国城郭の
生々しい姿を垣間見えよう。反対の南側も大掛かりな縦堀があり、これを登ろうとすると太鼓郭とササ郭で挟撃されるようになっている。
結局、城を攻めるには大手にあたる東の三ノ丸から入るしかないのだが、往時はその前に巨大な外郭があり、それを突破するだけでも
困難だったであろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
外郭を落とし、三ノ丸から春日丸へ、春日丸から二ノ丸へ入っていくと松山城独自の特別な構造に気が付く。通常、城郭の曲輪と曲輪は
堀で仕切られ、その間にある橋(架橋の場合もあれば土橋の場合もある)を渡って次の曲輪に入るものだ。しかし松山城は、次の曲輪に
進むには必ず堀底に下りなくてはならない。橋がないのだ。橋がないから虎口もない。ある意味、異常な構造ともいえる松山城の空堀が
急峻で深いのは、侵入する敵兵が必ず堀底を通る事を見越して作られているからで、堀を挟んで左右の曲輪から狙撃して撃退するのに
適した構造と言えよう。しかもその堀は複雑に屈曲され(後北条流得意の直線的折れを多用)見通しの効かない堀内を進むのは困難を
強いられる。これが当城を堅城たらしめた理由なのだ。また、曲輪から堀底を射撃しやすいよう曲輪の縁に土塁を築かないのも松山城
独自の構造。通常、城郭は曲輪の外縁部を土塁で盛り土し堀との比高差をより高くするものなのだが、松山城では堀を深くしているため
その必要はなく、むしろ城内からの攻撃力を高めるべく敢えて必要な防御施設である土塁すら省いて火力に特化させた構造なのだ。■
何とも凄まじい造りの武蔵松山城、この遺構がほぼ完全な状態で残っているのだから城郭愛好家が見れば涙を流して喜ぶに違いない。
マニア必見の城跡でござるぞ。隣接する吉見百穴に駐車場があるため、車での来訪に困る事はないだろう。ただ、大手口から入るには
百穴からぐるりと回りこまねばならず、かなり歩く事になるので注意が必要。また、大手入口は現在住宅地の中なので近隣住宅に迷惑を
かけないよう心がけたい。百穴から最短で城内に入るには上記した岩室観音堂から突き抜ける方法があるが、これは急斜面を登るので
危険。あまりお勧めできない。それならば城の南側、武蔵丘短期大学の脇にある南縦堀から登るか、城の西側、市野川橋を渡った所に
あるかつての搦手口であった方向にある登山路を利用したほうが安全だろう。とは言え、両者とも急峻な上り坂なので、一番確実なのは
やはり大手口からだ。堀の上り下りを楽しみつつ、城内の遺構をじっくりと見学して頂きたい。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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