ひと目見ただけで分かる「名城」@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
「中世城郭の教科書」と評されるほど、技巧的で見事な遺構が残る城。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
その一方で、構造的な特徴から推測される使用年代と発掘調査で推定された年代が合致しないため城郭研究で議論が
沸騰、現在最も “白熱した激戦が繰り広げられている” 最前線の城である。縄張りはとにかく秀逸、かつ残存状況も最高。
比高およそ40m程度、標高95mの小低山における頂部を中心に、総面積7.6ha程の城域を設定し、その中にコンパクトに
凝縮されたいくつもの曲輪を用意している。まず本郭、これが標高95.3mに位置しその南東側に南二ノ郭が接続。さらに
南二ノ郭の南には南三ノ郭が続き、南三ノ郭の出入口となる角馬出が東に置かれている。角馬出からいったん北側へと
抜けて外郭へ下り、外郭の東面が大手口となってござる。本郭と南二ノ郭の間、本郭から見て真南の位置には井戸郭と
呼ばれる曲輪があるが、実際に井戸があるのはもう一段下の高さなので、名前こそ井戸郭であるが、現実的には本郭へ
出入するための角馬出だろう。井戸郭と本郭の間は木橋が架けられていたようだ。つまり、大手口から本郭へ登るには
3つの曲輪と2つの角馬出を経由しなくてはならないと言う事だ。この間、何重もの空堀と土塁を超えて行かねばならず、
しかも横矢掛かりとなる曲輪の折れが待ち構えていて突撃するのは甚だ困難だろう。写真は大手口のそのまた外側から
主郭部分を遠望したものだが、これだけで十重二十重に築かれた曲輪群の積み重なる様子がお解かり頂けるかと思う。
実戦でここに進撃したとしても、これらの曲輪から飛来する弓矢に射抜かれるのが関の山だ。@@@@@@@@@@
一方、本郭の北東側にも曲輪は続く。東二ノ郭がそれで、この郭間で高低差が10m程度はあろう。東二ノ郭の前衛には
東三ノ郭が置かれて防備を固めている。東側の郭は兵士の駐屯地となる比較的大きめの敷地になっているのが特徴。
大手口から侵入できなかった敵はおそらくこちら側へ迂回する事になるが、本郭からの比高差そして広大な曲輪が用意
されている状況では敵兵の動きが一目瞭然であり、実際本郭から東を見れば実に良好な視界が開け、投射兵器による
攻撃が行いやすい。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
更に本郭の北西にも曲輪は続く。本郭の北西端部から一度帯曲輪へ降り、そこから北へ抜けた所にあるのが北二ノ郭。
この郭の標高は96.3mあり、実は本郭よりも高いのだが、険しい堀と土塁を隔てているので本郭の脅威となる事はない。
北二ノ郭の北側へ連なる食違い虎口を回り込んだ先が北三ノ郭となっており、その北端に搦手口があった。搦手口から
北へ抜けると、越畑(おっぱた)城(下記)へと連絡できる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
本郭から北二ノ郭へ向かうための帯曲輪は、そのまま城の西面を守るように南へも回り込んでいる。本郭から南下して
先述した井戸郭の下段位置まで来ると井戸跡が残るものの、巨大な石で塞がれている。井戸を塞ぐのは破城の痕跡で
ある。城にとって最も重要な水の手を使わない、という宣言はその城の廃棄を端的に意味していたからだ。だが、石の
下には今でも僅かに湿り気が残っている感がある。つまり破城と言いつつ、現実的には再生可能という状態を維持して
いたのではないだろうか?@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
井戸跡を経た帯曲輪は、そのまま南三ノ郭を囲いこみ角馬出(南三ノ角~外郭の接続部)へと連結する。帯曲輪の下、
城域の西側は急峻な崖で落ち込んでおり、しかもその斜面には数条の竪堀が削りこまれ、西面における敵兵の移動を
遮る。崖が落ち込んだ先、城の西方には市野川が流れていて濠の機能を果たし、更にその西には鎌倉古道が南北に
走っていた。城の周辺は水田地帯・低湿地帯が広がる事で要害を為していた事だろう。@@@@@@@@@@@@@
縄張論と考古的遺物が一致しない「杉山城問題」@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
以上が杉山城の縄張りであるが、これらの曲輪群は非常に深く掘り下げた空堀で囲まれていた上、大半が角ばった
形状で「これでもか」と言わんばかりに横矢が掛かるようになっており申す。特に南三ノ郭や南二ノ郭、東三ノ郭外周は
その傾向が顕著だ。直角の横矢掛かりが多用されている事と角馬出の存在により、縄張学の見地から長らく杉山城は
小田原後北条氏の出城と考えられてきた。後北条流築城術はまさに直角の横矢掛かりと角馬出の使用、そして曲輪
同士の密接な連携を重視する縄張りが基幹とされていたからである。この条件は杉山城の縄張りにピタリと符合する。
伝承によれば比企十郎重成・金子十郎家忠・小高隼人貞次といった平安期~鎌倉期の将が杉山城主だったとされたり
あるいは源経基の狹服山城がこの杉山城の事を指すとも言われていたが、どれも現実的な話ではないため江戸時代に
編纂された「新編武蔵国風土記稿」にある “松山城主・上田氏配下である庄主水の居城” という説が有力視されていた。
庄主水は杉山主水弘秀と目され、庄氏(庄野氏)は「小田原衆所領役帳」や「天正庚寅松山合戦図」にその名が残る。
もしこの記載が正しければ、杉山城が後北条流築城術を用いて築かれた事との整合性が図れた筈だ。@@@@@@
ところが、発掘調査の結果はそれをことごとく否定するものであった。杉山城址から出土された品目は、主にかわらけ
(使い捨ての土器)や古瀬戸・常滑の陶器、天目茶碗、火鉢、硯、砥石、石臼、古銭、釘、染付・褐釉・白磁・青磁などの
輸入陶磁器、秤の錘、鍛冶滓といったもの。これらを年代測定したところ、いずれも15世紀末~16世紀初頭のものと
判断された。また、城跡には恒久的な建築物の存在は殆ど確認されず、その上、火災で炎上した痕跡が残っていた。
なお、火災後に再建された様子がないため、廃城による焼却が行われた後、完全に放棄されたようだ。@@@@@@
となると、杉山城の使用年代は小田原後北条氏が武蔵国へと進出する前、まだ山内(やまのうち)上杉氏の支配下に
あった時期だという事になる。実際、発掘調査では鉄砲の弾が僅か1個しか検出されなかった。つまり、鉄砲が合戦に
用いられる事がほとんどない頃の城だったという訳だ。破却後の再建がないのなら、後北条氏による改修・再利用は
あり得ない。発掘調査による年代推定は、縄張論から考えられていた年代を50年ちかく遡り、1500年前後のごく僅かな
時期だけ用いられた城であると結論付ける事になった。こうした考古学の成果から、最近では「足利高基書状」にある
「椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙候」と記された一文が注目されている。即ち、山内上杉五郎憲房の手による
「椙山之陣」が杉山城を指し、それは戦時の陣城に過ぎぬものだったという判断に至っているのだ。@@@@@@@
確かに、城の大きさは然程のものではないので、陣城だったと言われれば何となくそう思えなくもない。だが縄張論を
重視するならば、杉山城の技巧的な構造は戦国期後半、後北条氏による築城技術を利用したものだという考えが一番
納得できるものではある。他の後北条氏の城郭と共通する点も多い。もし上杉氏の手によるものならば、戦国前期の
技術的に未成熟な時代に(しかも陣城で)これだけ大規模で高性能な城を作る事が可能だったのか疑問点が残る。
斯くして、縄張論者と考古学者の間で論争が巻き起こり「杉山城問題」として現在も追及が進められているのでござる。
国史跡、そして続百名城に!@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ところで(論争の行方は兎も角として)、現在の城址は廃城以来荒らされる事がなかったため非常に良好な保存状態に
ある。特に最近、史跡整備も行われ見学もし易くなった。城址一帯は私有地であるそうだが、所有者の方が史跡保全に
好意的である上、地域の方々が杉山城保存会を発足させ定期的に手入れをして下さっているようである。おかげで、
実に見やすくてありがたい!地権者の方や保存会の方々に感謝したいものである。@@@@@@@@@@@@@@
城跡は1946年(昭和21年)3月29日に埼玉県史跡となっていたが、上記の発掘調査が行われ学術的解明が為された上
こうした地元の方々による御努力が評価された結果、2008年(平成20年)3月28日に近隣の小倉城や菅谷館(詳細下記)
松山城(埼玉県比企郡吉見町)と共に国史跡に指定された。2017年(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から
続日本百名城の指定も受けている。なお、発掘調査時には土塁の土留めとして基底部に石積み構造も発見されたが
現在は遺構保存の為に埋め戻されている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
関越自動車道・嵐山(らんざん)小川ICの南側が城跡。ICの目の前なので車を利用した訪城が便利でござろう。城の
大手口に天台宗福王山積善(しゃくぜん)寺があるので、それを目標にして進むと良い。近年、寺の裏側に城址専用の
駐車場も用意されたそうなので、そこを利用すべし。ただし、上に記したように城跡は私有地であるから、地元の方の
ご迷惑にならぬよう気をつけて。すぐ隣には嵐山町立玉ノ岡中学校もあるので、交通安全や騒音にも配慮したい。
別名で雁城、初雁城とも呼ばれており申す。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
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