武蔵国 杉山城

杉山城址大手口

 所在地:埼玉県比企郡嵐山町大字杉山

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★★★
★★★★



ひと目見ただけで分かる「名城」@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
「中世城郭の教科書」と評されるほど、技巧的で見事な遺構が残る城。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
その一方で、構造的な特徴から推測される使用年代と発掘調査で推定された年代が合致しないため城郭研究で議論が
沸騰、現在最も白熱した激戦が繰り広げられている最前線の城である。縄張りはとにかく秀逸、かつ残存状況も最高。
比高およそ40m程度、標高95mの小低山における頂部を中心に、総面積7.6ha程の城域を設定し、その中にコンパクトに
凝縮されたいくつもの曲輪を用意している。まず本郭、これが標高95.3mに位置しその南東側に南二ノ郭が接続。さらに
南二ノ郭の南には南三ノ郭が続き、南三ノ郭の出入口となる角馬出が東に置かれている。角馬出からいったん北側へと
抜けて外郭へ下り、外郭の東面が大手口となってござる。本郭と南二ノ郭の間、本郭から見て真南の位置には井戸郭と
呼ばれる曲輪があるが、実際に井戸があるのはもう一段下の高さなので、名前こそ井戸郭であるが、現実的には本郭へ
出入するための角馬出だろう。井戸郭と本郭の間は木橋が架けられていたようだ。つまり、大手口から本郭へ登るには
3つの曲輪と2つの角馬出を経由しなくてはならないと言う事だ。この間、何重もの空堀と土塁を超えて行かねばならず、
しかも横矢掛かりとなる曲輪の折れが待ち構えていて突撃するのは甚だ困難だろう。写真は大手口のそのまた外側から
主郭部分を遠望したものだが、これだけで十重二十重に築かれた曲輪群の積み重なる様子がお解かり頂けるかと思う。
実戦でここに進撃したとしても、これらの曲輪から飛来する弓矢に射抜かれるのが関の山だ。@@@@@@@@@@
一方、本郭の北東側にも曲輪は続く。東二ノ郭がそれで、この郭間で高低差が10m程度はあろう。東二ノ郭の前衛には
東三ノ郭が置かれて防備を固めている。東側の郭は兵士の駐屯地となる比較的大きめの敷地になっているのが特徴。
大手口から侵入できなかった敵はおそらくこちら側へ迂回する事になるが、本郭からの比高差そして広大な曲輪が用意
されている状況では敵兵の動きが一目瞭然であり、実際本郭から東を見れば実に良好な視界が開け、投射兵器による
攻撃が行いやすい。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
更に本郭の北西にも曲輪は続く。本郭の北西端部から一度帯曲輪へ降り、そこから北へ抜けた所にあるのが北二ノ郭。
この郭の標高は96.3mあり、実は本郭よりも高いのだが、険しい堀と土塁を隔てているので本郭の脅威となる事はない。
北二ノ郭の北側へ連なる食違い虎口を回り込んだ先が北三ノ郭となっており、その北端に搦手口があった。搦手口から
北へ抜けると、越畑(おっぱた)城(下記)へと連絡できる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
本郭から北二ノ郭へ向かうための帯曲輪は、そのまま城の西面を守るように南へも回り込んでいる。本郭から南下して
先述した井戸郭の下段位置まで来ると井戸跡が残るものの、巨大な石で塞がれている。井戸を塞ぐのは破城の痕跡で
ある。城にとって最も重要な水の手を使わない、という宣言はその城の廃棄を端的に意味していたからだ。だが、石の
下には今でも僅かに湿り気が残っている感がある。つまり破城と言いつつ、現実的には再生可能という状態を維持して
いたのではないだろうか?@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
井戸跡を経た帯曲輪は、そのまま南三ノ郭を囲いこみ角馬出(南三ノ角~外郭の接続部)へと連結する。帯曲輪の下、
城域の西側は急峻な崖で落ち込んでおり、しかもその斜面には数条の竪堀が削りこまれ、西面における敵兵の移動を
遮る。崖が落ち込んだ先、城の西方には市野川が流れていて濠の機能を果たし、更にその西には鎌倉古道が南北に
走っていた。城の周辺は水田地帯・低湿地帯が広がる事で要害を為していた事だろう。@@@@@@@@@@@@@

縄張論と考古的遺物が一致しない「杉山城問題」@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
以上が杉山城の縄張りであるが、これらの曲輪群は非常に深く掘り下げた空堀で囲まれていた上、大半が角ばった
形状で「これでもか」と言わんばかりに横矢が掛かるようになっており申す。特に南三ノ郭や南二ノ郭、東三ノ郭外周は
その傾向が顕著だ。直角の横矢掛かりが多用されている事と角馬出の存在により、縄張学の見地から長らく杉山城は
小田原後北条氏の出城と考えられてきた。後北条流築城術はまさに直角の横矢掛かりと角馬出の使用、そして曲輪
同士の密接な連携を重視する縄張りが基幹とされていたからである。この条件は杉山城の縄張りにピタリと符合する。
伝承によれば比企十郎重成・金子十郎家忠・小高隼人貞次といった平安期~鎌倉期の将が杉山城主だったとされたり
あるいは源経基の狹服山城がこの杉山城の事を指すとも言われていたが、どれも現実的な話ではないため江戸時代に
編纂された「新編武蔵国風土記稿」にある松山城主・上田氏配下である庄主水の居城という説が有力視されていた。
庄主水は杉山主水弘秀と目され、庄氏(庄野氏)は「小田原衆所領役帳」や「天正庚寅松山合戦図」にその名が残る。
もしこの記載が正しければ、杉山城が後北条流築城術を用いて築かれた事との整合性が図れた筈だ。@@@@@@
ところが、発掘調査の結果はそれをことごとく否定するものであった。杉山城址から出土された品目は、主にかわらけ
(使い捨ての土器)や古瀬戸・常滑の陶器、天目茶碗、火鉢、硯、砥石、石臼、古銭、釘、染付・褐釉・白磁・青磁などの
輸入陶磁器、秤の錘、鍛冶滓といったもの。これらを年代測定したところ、いずれも15世紀末~16世紀初頭のものと
判断された。また、城跡には恒久的な建築物の存在は殆ど確認されず、その上、火災で炎上した痕跡が残っていた。
なお、火災後に再建された様子がないため、廃城による焼却が行われた後、完全に放棄されたようだ。@@@@@@
となると、杉山城の使用年代は小田原後北条氏が武蔵国へと進出する前、まだ山内(やまのうち)上杉氏の支配下に
あった時期だという事になる。実際、発掘調査では鉄砲の弾が僅か1個しか検出されなかった。つまり、鉄砲が合戦に
用いられる事がほとんどない頃の城だったという訳だ。破却後の再建がないのなら、後北条氏による改修・再利用は
あり得ない。発掘調査による年代推定は、縄張論から考えられていた年代を50年ちかく遡り、1500年前後のごく僅かな
時期だけ用いられた城であると結論付ける事になった。こうした考古学の成果から、最近では「足利高基書状」にある
「椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙候」と記された一文が注目されている。即ち、山内上杉五郎憲房の手による
「椙山之陣」が杉山城を指し、それは戦時の陣城に過ぎぬものだったという判断に至っているのだ。@@@@@@@
確かに、城の大きさは然程のものではないので、陣城だったと言われれば何となくそう思えなくもない。だが縄張論を
重視するならば、杉山城の技巧的な構造は戦国期後半、後北条氏による築城技術を利用したものだという考えが一番
納得できるものではある。他の後北条氏の城郭と共通する点も多い。もし上杉氏の手によるものならば、戦国前期の
技術的に未成熟な時代に(しかも陣城で)これだけ大規模で高性能な城を作る事が可能だったのか疑問点が残る。
斯くして、縄張論者と考古学者の間で論争が巻き起こり「杉山城問題」として現在も追及が進められているのでござる。

国史跡、そして続百名城に!@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ところで(論争の行方は兎も角として)、現在の城址は廃城以来荒らされる事がなかったため非常に良好な保存状態に
ある。特に最近、史跡整備も行われ見学もし易くなった。城址一帯は私有地であるそうだが、所有者の方が史跡保全に
好意的である上、地域の方々が杉山城保存会を発足させ定期的に手入れをして下さっているようである。おかげで、
実に見やすくてありがたい!地権者の方や保存会の方々に感謝したいものである。@@@@@@@@@@@@@@
城跡は1946年(昭和21年)3月29日に埼玉県史跡となっていたが、上記の発掘調査が行われ学術的解明が為された上
こうした地元の方々による御努力が評価された結果、2008年(平成20年)3月28日に近隣の小倉城や菅谷館(詳細下記)
松山城(埼玉県比企郡吉見町)と共に国史跡に指定された。2017年(平成29年)4月6日、財団法人日本城郭協会から
続日本百名城の指定も受けている。なお、発掘調査時には土塁の土留めとして基底部に石積み構造も発見されたが
現在は遺構保存の為に埋め戻されている。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
関越自動車道・嵐山(らんざん)小川ICの南側が城跡。ICの目の前なので車を利用した訪城が便利でござろう。城の
大手口に天台宗福王山積善(しゃくぜん)寺があるので、それを目標にして進むと良い。近年、寺の裏側に城址専用の
駐車場も用意されたそうなので、そこを利用すべし。ただし、上に記したように城跡は私有地であるから、地元の方の
ご迷惑にならぬよう気をつけて。すぐ隣には嵐山町立玉ノ岡中学校もあるので、交通安全や騒音にも配慮したい。
別名で雁城、初雁城とも呼ばれており申す。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



※ところで…(ここからは余談、手前味噌な話題で恐縮ですがw)

ここ数年で集中的に整備が行われた杉山城では、
土塁や堀の旧態復帰は勿論、下草刈りや不要樹木の伐採が為され
城内の要所要所に(簡易な板モノながら)説明の案内板が設置されました。
ここは大手口、ここは土橋、ここは○○曲輪、といった具合に。
その中の一つ、南二ノ郭入口食い違い虎口の案内板を見てみると…。
――― 拙者のHP内の画像が使われておりました(笑)
未申小天守「構築物紹介」門と虎口(2)の頁にある
食い違い虎口【図5】の画像がそのまま拡大コピーされて掲載されてます (^ ^;
(現在、当頁の画像は少し修正しておりますので旧画像という事になりますが)
HP上の説明用として簡易に描いた安っぽい画像をそっくりそのまま
拡大印刷して使われちゃうと、非常に木っ恥ずかしいんですけれども (^ ^;;;
「土の城の研究対象として現在最も白熱している」あの杉山城で
わたくしごときが用意した図案を採用して頂いた事に感謝したいと思っております。
保存会の皆様、光栄な機会を与えて下さりどうもありがとうございます m(_ _)m
とりあえず杉山城行ってあの絵を見ても、みなさま笑わないで下さいね(爆)



現存する遺構

井戸跡・堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








武蔵国 越畑城

越畑城 二ノ郭跡愛宕神社

 所在地:埼玉県比企郡嵐山町大字越畑

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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杉山城のすぐ隣@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
おっぱたじょう、と読む。上記の杉山城から北西方向、およそ1.5kmの位置にあった。杉山城とは帯状に連なる同一の
山塊で連結してござる。こうした立地上の特徴から、従来の通説としては武蔵松山城~菅谷館~杉山城~越畑城~
鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)へと中継する支城群の一つ、つまり後北条氏の戦略拠点たる武蔵松山城と鉢形城の
間を結び付ける繋ぎの城だと考えられてきた。しかし、考古学的考察により杉山城が後北条氏の城ではないと結論
付けられた事により、越畑城の使用年代や運用方法なども再考察が必要でござろう。文献上でもはっきりした史料は
なく、杉山城と同じく「新編武蔵風土記稿」に庄主水の城ではないか、という曖昧な記述があるだけだ。@@@@@@
また、越畑城址の石碑に記載された地元の伝承によると庄式部少輔行秀なる後北条氏の家臣が松田左衛門佐憲秀
(小田原後北条氏の重臣)と対立してこの城に隠遁したとされているが、行秀とその子・秀永は1590年(天正18年)の
豊臣軍関東侵攻に際して、後北条方の周辺諸城を救援すべく赴くも既に帰趨は決したために兵を引き、結局新座で
帰農したという。されどこの伝聞も真偽の程は良くわからない。信憑性の乏しい文献より(杉山城の)考古学的物証を
優先するならば、この城も実は山内上杉方の前線城郭ではないか?と考えてしまう。@@@@@@@@@@@@@

高速道路に削られた城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
越畑城は標高116m、比高50m弱の立地にある砦程度の小さな城。城からは眼下に鎌倉街道の上道(かみつみち)を
監視できたのでござる。殆んど自然地形を利用した円形の本郭と、同じく円形をした二ノ郭が南北に並び、その間を
繋ぎの平場にて連結した構造。両郭の直径は40m程度、繋ぎの平場は長さ80m程である。平場の東側下段中腹には
出枡形をした三ノ郭が築かれた。本郭(の特に西面)には空堀が掘られ、出入口は虎口状になって防備されていた。
郭の外縁部には柵列が並んでいたようだ。二ノ郭も同様に空堀があったとの事だが、地形からは判断し難い。しかも
帯状山塊で続く尾根という立地なのに、城域の前後には敵兵の侵入を阻止する堀切などは築かれていなかった。
杉山城とは異なり、かなり前時代的で未成熟な縄張技術だ。この点から推測すれば、越畑城に関しては上杉時代の
創建というのも頷ける。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ともあれ、この城の所在地上は関越自動車道の敷設地域となったため本郭と三ノ郭は完全に削り取られてしまった。
かろうじて現在に残るのは二ノ郭と、繋ぎの平場の南半分程度のみでござる。なお、二ノ郭には愛宕神社の小さな祠
(写真)が置かれ、これだけが城跡のよすがを漂わせている。この場所へ向かうには、いったん関越自動車道の東側へ
回りこみ、愛宕橋と名付けられた人道橋を渡り、そこから藪の中へ立ち入るしかない。城跡を攻略するにも、なかなか
難儀な場所なのである。1977年(昭和52年)関越道建設に先立ち発掘調査が実施され、上記の如き縄張りの実態が
明らかにされた。この時、本郭西部にて直径3m・深さ60cmほどの穴が検出され、その中には木材や籾殻の燃え屑が
沈底してござった。この穴はどうやら狼煙の焚火場所だったらしい。縄張りの甘さや杉山城との連接性から察すれば
確かにここは繋ぎの城ではあるものの、狼煙台程度の利用価値だけだったと考えられる。その本郭も、今や関越道が
ザックリと削ってこの世には残らない。隣り合わせの城でありながら、保存状況や利用目的、縄張りの技術などなど
かなりの点で杉山城と対照的な存在となっている城跡でござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

郭群








武蔵国 大蔵館

大蔵館跡 大蔵神社

 所在地:埼玉県比企郡嵐山町大字大蔵

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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木曽義仲、父との別れ@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
古文書によれば大倉城とも記されている。小倉城や菅谷館(下記)が程近い。周辺はおよそ耕作地帯で、創築当時は
水田地帯に浮かび土塁で防備を固める典型的な武家居館だったのだろう。@@@@@@@@@@@@@@@@@
この館が築かれたのは平安時代末期と見られる。伝承に基づけば、1152年(仁平2年)から1155年(久寿2年)の間に
使われたとの事。館の主は源義賢。六条判官源為義の2男にして、源氏の棟梁として名の知れた源義朝の弟である。
義賢は近衛天皇が皇太子時代、侍従長として仕えていたので東宮(皇太子を指す)帯刀先生(たてわきせんじょう)の
官職名でも呼ばれる。その義賢が本拠としたのがこの館だったが、兄・義朝が相模国から武蔵国へ勢力を伸張させて
領土争いが起きるようになり(源氏は総じて一門の仲が悪い)1155年8月16日、義朝の庶長子である悪源太義平から
襲撃を受け、討死してしまったのでござる。「平治物語」には大蔵の戦いとして記載が残っている。これにより大蔵館は
廃されて、周辺地域は義朝の支配下に置かれるようになり申した。館跡の近隣には義賢の墓が伝わっている。なお、
義賢の遺児で当時2歳だった駒王丸は畠山重能(はたけやましげよし)に救われ辛くも難を逃れ、家臣の斎藤別当実盛
(さいとうべっとうさねもり)が木曽の中原兼遠(なかはらかねとお)へ預けた。これが長じて、源平合戦期に北陸地方で
暴れまわった朝日将軍こと木曽義仲になるのでござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

開拓武士の方形居館…?@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
大蔵館は岩殿丘陵と呼ばれる低台地の北端部分、周辺の低地より少しだけ隆起した小丘に作られている。東側には
鎌倉古道上道が走っていた。また、都幾川を挟んで菅谷館が北東800m程の場所にある。往時のよすがを残し、館跡
周辺の小字名には「御所ヶ谷戸」や「堀之内」といったものがある。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
館の規模は東西170m、南北220mの長方形。この外周に土塁を積み上げ外側を堀で固めていた、まさに東国武士の
在地居館と言えよう。現地案内板によれば、高見櫓も置かれていたとの事。写真にある大蔵神社周辺の一角が特に
大きな隆起部となっており、ここが主郭部であったと目されているものの、館の敷地全体から見れば南西隅部に偏位
している。この主郭部は東西40m×南北70mほどの敷地。本来の館跡全域においては、かなりの部分が宅地化などの
造成を受けており、特に北半分はほぼ全滅してしまっているが、南西面(主郭部跡)や東面には若干の残存土塁や
堀跡が見受けられる。中でも東面100mの位置にある竹林内の土塁(大澤氏宅敷地内)遺構は大規模なもの。ただ、
これらの残存土塁は高さ3m程もある為、平安期のものがそのまま残った訳ではなく後世の改修が加えられたのでは
なかろうか。実際、発掘調査によれば平安時代の遺物は出ず、13世紀末~14世紀頃の物が出土している。となると、
実際に大蔵館が使われたのは鎌倉時代の末期、特に南北朝争乱期という事になろう。また、所在地から推定すれば
菅谷館の出城として機能した可能性が高い。この館跡も、杉山城同様に考古学的見地と伝聞の事象との整合性を
再検証する必要があるかもしれない。1934年(昭和9年)3月31日、埼玉県史跡に指定されている。@@@@@@@



現存する遺構

堀・土塁
城域内は県指定史跡








武蔵国 菅谷館

菅谷館址石碑と虎口土塁

 所在地:埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★★■■



「坂東武士の鑑」 畠山重忠の館跡?@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
鎌倉幕府創業の功臣・畠山重忠の館跡と伝わる城館址。武蔵七党の一つ・坂東平氏秩父家の流れを汲む畠山重能の
子である重忠は1180年(治承4年)石橋山合戦で源頼朝が平家打倒の兵を挙げた折、父・重能と一緒に当初は平家方へ
組し頼朝方の三浦義明を攻撃したが、程なく父子共々頼朝に味方するようになり、以後度々の戦闘に参陣。鎌倉入りや
富士川合戦では先鋒を務めている。特に有名なのが1184年(寿永3年)一ノ谷の合戦における逸話で、源義経が鵯越と
称される崖を騎馬武者が駆け下りて突撃するよう命じた際に、愛馬三日月を労わり、馬を背負って奈落の底へと飛び
降りたという話でござる。武門に誇りを持つ坂東武者の典型として活躍した重忠の働きあって、見事に源氏方は平家を
滅ぼし鎌倉に幕府を開いたのである。また、武蔵国内武士団の中心人物として活躍し、児玉党と丹(たん)党の争いを
調停するなど、政治的にも功績があった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
菅谷地域は当時から畠山氏の領地だったようだ。本拠を近隣の畠山荘(埼玉県大里郡川本町(現在は深谷市)畠山)に
置いていた事から秩父氏から畠山氏へと改姓した訳だが、菅谷荘にある天台宗成覚山平沢(へいたく)寺から、重忠の
曽祖父・秩父重綱(しげつな)の銘が入った経筒が発見された事により、既に重忠の先々代の頃からこの地に影響力を
及ぼしていたと推察できよう。菅谷館の創築時期ははっきりしていないが、鎌倉期の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」に
よれば1187年(文治3年)11月、重忠は菅谷の地に館を有した事が記されている。但し、この館が菅谷館を指したものか
あるいは別の館なのかは判然としない。兎にも角にも、畠山荘より鎌倉街道沿いにある菅谷荘を選択したのは軍事的
要因と時代の要請によるものでござろう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
頼朝没後も幕府の有力御家人として重きを為していた重忠だったが、それ故に幕政の主導権を握ろうとする北条氏との
対立が表面化してしまう。1205年(元久2年)6月19日、鎌倉に異変ありとの報を受けた重忠は134騎を率いて急ぎ出陣、
相模国へと急行。しかしその途上、22日に武蔵国二俣川(神奈川県横浜市旭区)で敵の大軍に囲まれ、無念の戦死を
遂げてしまった。享年42歳。つまり、これは重忠を粛清するために仕組まれた北条氏の策略だったのでござる。斯くして
秩父氏系畠山氏は滅亡、後に足利一門が名跡を継いで再興し室町幕府管領家の畠山氏へ繋がる訳だが、「吾妻鏡」に
重忠が鎌倉へ出陣したのは小衾(おぶすま)郡菅屋(菅谷)館(すがやのたち)からであると記されている。おそらく、
これが菅谷館の起源となる館でござろう。とは言え、その後しばらくは菅谷館に関する伝承がない。足利系畠山氏も
重忠の旧領を継いではいるのだが、次に菅谷館に関して話題が挙がるのは室町中期、1488年(長享2年)まで下る。

兵站拠点「菅谷城」への大拡張@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
室町幕府による東国支配機関の執政・関東管領を承継する上杉家において、本家筋である山内上杉家と、分家筋に
あたる扇谷(おうぎがやつ)上杉家が争った、所謂「長享の大乱(1487年(長享元年)~1505年(永正2年))」で2回目の
会戦となる須賀谷原(すがやはら)の戦いが菅谷館近辺で行われた事が漢詩集「梅花無尽蔵」に記載されてござる。
この時の戦死者は700余名、馬も数百頭が斃れた激戦だったとの事。合戦に立ち会った松蔭なる陣僧(従軍僧侶)が
記した「松蔭私語」によると、彼は「河越城に対し、須賀谷旧城を再興し鉢形城の守りを固める」よう進言したとある。
この須賀谷旧城が菅谷館の事を指しているようで、時代が下っても戦略的要衝である菅谷館の重要性が認識され、
古館址を復活させ利用する価値があると判断されたようだ。こうして室町時代に於いても菅谷館は整備改修を受けて
実戦利用されていく。山内上杉の将・太田資康(おおたすけやす、太田道灌の子)が城主として入り、上杉氏が勢力を
減衰させて武蔵国から撤退した後は、小田原後北条氏が菅谷館を接収し使用したと考えられている。都幾川の河畔に
面し、鎌倉街道を望む地点にある菅谷館はまさに水陸を股にかけた交通の要地。東方に川越城や武蔵松山城、西方に
鉢形城が控える地点である為、この地域における後北条氏の一大中継拠点(所謂繋ぎの城)という認識が一般的だ。
(個人的には、拠点城郭と呼んでも良いと思うほどの規模だと思うが)@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
一説に、後北条期には小泉掃部助が城代であったとも言われる。現在に残る菅谷館の姿は、後北条氏による改修後の
ものであろう。かなり巨大な曲輪を連ね、特に虎口近辺を角ばった横矢掛かりで固め、大規模な土塁や空堀を構築する
手法が後北条流築城術に共通するからだ。菅谷館と呼称してはいるが、最早菅谷城と呼んで良い位の規模にまで
発達している。ところが、この城の行く末は明らかになっていない。1590年、豊臣軍による関東制圧の際には菅谷館が
用いられたという記録がないのだ。これだけ大規模な城郭となっていながら、当時は既に廃されていたのではないか、と
考えられており申す。発掘調査による検証でも、菅谷館草創期である鎌倉時代の遺構や、成熟期とされる後北条期の
遺物は発見されていない。なかなかに謎多き城跡でござるな。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

広大な城域の構造@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
史跡指定されている菅谷館跡の敷地面積は13万㎡という広大さ。後北条氏が兵力の駐留拠点にしたという説を十分に
裏付ける大きさだ。館跡は都幾川と槻川の合流地点に程近い川原北岸に接した台地にある為、敷地南面は河岸段丘と
して落ち込んでいる。この部分の前衛となるように、東西に細長い南郭が用意されており、東西約110m×南北約30mの
鋭角三角形をした敷地を有している。古い説では水の手を利用した大手口が南郭に構えられていた、とされていた。
(現在ではこれを大手とする考えは否定的)@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
南郭のさらに西側外部は低湿地帯で、泥田濠のようになっていた。南郭東半分の北側に接する曲輪が本郭。本郭の
南~西~北にかけて空堀が掘削され、他の曲輪との隔絶を図っている。東側には都幾川からの侵食谷が入り込んで
天然の切岸を形成していた。人工的な堀で守られた部分は隅部を直角に整形する志向が見られ、鎌倉期武士居館の
典型である方形館が源流という説も頷け、後北条流築城術にも適うもの。敷地は東西約150m×南北約60mの長方形。
本郭の外周は南面を除き大半が土塁で囲われて、特に北面中央部には横矢掛かりとなる出枡形が張り出している。
この出枡形の東側に土橋があり、本郭へと出入りできるようになっていたようだ。出枡形は土橋に対して格好の攻撃
位置を確保する。一方、本郭東面にも門があったようだ。侵食谷を跨ぐような出入口となるこの門は生門(しょうもん)と
呼ばれて、その部分だけ土塁が途切れている。恐らくここには木橋が架けられており、平時は通用口、戦時には橋を
落として防備する感じだったのではなかろうか。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
本郭の標高は58.6m、都幾川の川原面は38.1mであり、比高差20mを数える。@@@@@@@@@@@@@@@@@
南郭の西半分から広がり、本郭の北側全域を覆うように構えられているのが二ノ郭。二ノ郭は西面~北面を土塁で守り
当然その外部には空堀が。ここも曲輪の外辺は折れを多用した整形が行われている。北面中央部に三ノ郭と連結する
虎口があり、特にこの場所は横矢掛かりと土塁による防備が厳重な状況。広大な菅谷館の中で最も技巧的な所だろう。
その虎口から堀を渡った対岸、二ノ郭の北側に置かれたのが三ノ郭。菅谷館の中で最も大きな面積を有する曲輪で、
東西約260m×南北約130m。全体的には長方形の曲輪と捉えられるが、上記の虎口部分や北辺部分に横矢掛かりの
折れを用意した出隅がある為、多角形を成している。現在この曲輪には埼玉県立嵐山史跡の博物館が建てられており
菅谷館をはじめとする比企地方の史跡に関して展示が行われてござる。館跡を訪れた際には、是非とも見学する事を
オススメする。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

謎の “二列虎口” 正坫門@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、三ノ郭西面には正坫門(しょうてんもん)が開き、その先に西ノ郭が連結している。正坫門の内側には目隠しとなる
蔀(しとみ)土塁が積まれ、西ノ郭から三ノ郭内部が見通せないようになっていた。また、発掘によれば正坫門は並列に
並ぶ2つの虎口であった。片方の虎口は架橋で繋がれ、もう片方は石敷きの道が空堀を渡る構造になっている。虎口が
2つ並び片方の虎口に敵兵を集中させ、もう片方の虎口を逆襲出撃口に利用する例は松山城(愛媛県松山市)隠門など
近世城郭に散見されるが、中世城郭でこうした構造は珍しく、どのような意図を以って作られたのか謎でござる。@@@
(正坫門虎口は密接して2つ並んでおり、隠門とはなり得ない)@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
西ノ郭はいびつな菱形。これも外縁が横矢の多重折れになっているからだ。城外側に面する北辺と西辺は土塁が積み
上げられ、南西隅部に城外へ通じる虎口が開く。現在では、ここが大手口であったという説が主流だ。一方、三ノ郭の
北端にも城外への虎口がある。ここは搦手口とされているが鎌倉街道へ最も近い出入口であり、更にこの付近だけは
土塁が城外側にも築かれた二重土塁になっている程の警戒厳重な部分。そのため、最近では実はこちら側が大手口
だったのではないか、という説が取り上げられつつある。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
現在、搦手口の外に国道254号線が走り、嵐山史跡の博物館への出入口となっているが、往時は国道部分も大規模な
堀となっていた。つまり、三ノ郭土塁~空堀~二重目の土塁~更に空堀~城外という構造だったのだ。以上が菅谷館の
縄張りであるが、その遺構はかなり良好な状態で保存されている。特に土塁は見事なものであり、郭の配置と相俟って
鎌倉武士の居館が戦国期まで拡充使用されるとここまで壮大なものになる、という様子が良くわかる。都幾川の段丘や
城の東西を削る侵食谷を上手く利用した複雑な構造は実に壮観。発掘調査も数度に亘り行われ、三ノ郭では建物跡や
井戸跡、正坫門では橋台基礎などが確認された。出土品は青磁碗・縁釉小皿・石板碑があり、年代比定では14世紀の
前半~16世紀前半と見られている。こうした状況から館跡は1973年(昭和48年)5月26日に国史跡指定を受け、1976年
(昭和51年)12月には管理団体決定に伴って東側堀跡の一部を追加指定している。更に2008年3月28日、近隣の松山城
杉山城・小倉城を加えた4城をもって「比企城館跡群」として再指定を受け申した。2017年4月6日、財団法人日本城郭
協会から続日本百名城の一つにも入選を果たしてござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
上記の通り、国道254号線に面しているため車で来訪するのが一番楽だろう。254号線は関越自動車道の東松山ICに
直結している。鉄道利用ならば東武東上線武蔵嵐山駅が最寄駅。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








武蔵国 腰越城

腰越城本郭跡

 所在地:埼玉県比企郡小川町大字腰越

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

★★★■■
■■■■



松山衆・山田氏の山城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
根小屋城とも。埼玉県指定史跡。平安末期の1180年、山田伊賀守清義が宇治川合戦の先陣争いに敗れた後、籠城する為
この城を築いたと「青木家家譜」に伝わる。以来、山田氏累代の城とされたが、現在残る形に整えられたのは戦国時代と
見られる。標高214.8mの山頂近辺がかなり技巧的な構造に作りこまれているが、平安期の状態でこの縄張りはあり得ない。
明らかに戦国時代の山城でござろう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
山田氏は文献上に時折名が見られる。天文年間(1532年~1555年)当地周辺の安戸(埼玉県秩父郡東秩父村)を領有した
山田伊賀守直定が腰越城主であったとされ、後北条氏の軍団・松山衆(武蔵松山城主・上田氏隷下)に属していたとの事。
腰越城の西には安戸城があり、東側へは青山城(小川町内)が接続し、それに連なる小倉城~菅谷館~青鳥城~松山城の
連携が取れる。まさにこの城は松山城支城網の中核を為すものであったと言えよう。@@@@@@@@@@@@@@@@
城山の西側山麓には当城を守る武士団の居住地があったらしく、根小屋の字名が現在も残る。根小屋城の別名もここから
来ている訳だが、侍屋敷が用意されていたとなると臨時の陣城などではなく恒久的な守備城郭だった事が結論付けられる。
後に江戸幕府が編纂した家譜集「寛政重修諸家譜」によると、1562年(永禄5年)長尾景虎(上杉謙信)が関東へ侵攻した際
直定は赤浜原(埼玉県大里郡寄居町)で合戦し長尾方の武将・道祖土図書助(埼玉県比企郡川島町の豪族)に討たれた。
直定の跡は直安が継いだ。直安は青鳥城(埼玉県東松山市)主も兼任。ところが1590年に豊臣秀吉が小田原後北条氏を
攻撃した際、迫る豊臣軍に対し彼は城兵助命の為に降って腰越城は開城、そして廃城となったようでござる。なお、その後
直安は新たな関東の主・徳川家康に仕官する事となった。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

小粒ながら上質の名城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
官ノ倉山から南下する舌状山塊の先端部が城山。この丘陵に沿う形で西~南~東へと槻川(つきがわ)が蛇行して天然の
濠を為し、その流路は小倉城・菅谷館・高坂館への連絡にも使える。この槻川は荒川支流・都幾川の上流部である。@@
城域北端、標高214.8mの頂部に20m×18mの本郭を置き、その下段に二ノ郭、南の小口郭を経て南端の三ノ郭に接続する
梯郭式の縄張りだが、特に南東面の前衛となる場所に帯曲輪が連なって敵を誘導する構造。しかも、そこかしこに竪堀や
堀切が掘削されている上、堀沿いに侵入しようとすると「囮虎口」と称される行き止まりの隘路に迷い込み、袋叩きにされて
しまう妙麗な縄張りでござる。城址の保存状態・整備状態も良好。1992年(平成4年)3月11日、埼玉県史跡に指定。2007年
(平成19年)には発掘調査が行われ本郭西側土塁内側で石段が検出され、坂虎口中段も板碑を用いた土留めが行われて
いた事が明らかになっている。また、通路面では焼土化が見受けられた為、廃城時に焼かれた可能性が考えられている。
城跡直近に駐車場が無いので、少し離れた所にある埼玉県総合福祉センター「パトリアおがわ」に停め、そこから歩いて
登山する事になるのが難点。そして城山頂部へ上がるまではかなりキツい急坂をひたすら登らねばならぬのが大変だが
山の上には見事な遺構の数々、加えて雄渾な眺望が待っているので是非オススメしたい城跡でござる。@@@@@@@



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡








武蔵国 小倉城

小倉城址石垣

 所在地:埼玉県

比企郡小川町大字下里
比企郡ときがわ町大字田黒
(田黒地域:旧 埼玉県比企郡玉川村大字田黒)
駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★★★
■■■■



屈曲が効果的な導入路@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
玉川城、小倉山城とも。標高137mを数え、槻川が蛇行する場所に突き出した山塊の頂部を城地とした山城。比企地方には
他にも素晴らしい城郭が多数残されているが、山城としては最高度の遺構が残存する一級品の名城である。また、近年では
通説とされていた「関東に石垣の中世城郭はない」という考え方を覆す全山石垣で補強された城郭という点で大いに注目を
集めている。半島状の尾根における最頂部分を大規模に啓開し郭1(本郭)を作り、その南西側に郭2が連接、郭2の南側を
囲うように郭4が開かれた連郭式の構造。それぞれの郭の間は巨大な堀切でザックリと分断され見る者を圧倒する。郭2の
南東側(郭4から郭1方面へ向かう道)にはこれまた(山城としては)大型の腰曲輪が用意されている。郭4→郭2、それから
郭2の腰曲輪→郭1、という上位曲輪への進入路は何れも堀切を堀底道として通過せねばならず、頭上の曲輪から雨霰の
如く矢玉を浴びせられる事は必定だ。しかもその経路は必ず堀底道の先で屈曲され、そこから更に横矢を掛けられながら
曲輪の虎口へと突入する構造になっているため、かなりの堅城ぶりが想像できる。周辺地域でも定型となったこの構造を
「比企型虎口」と呼ぶ事もござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
主郭である郭1は、内部に上段(北半分)と下段(南半分)の高低差が。郭1下段からは南東側に小さな尾根が延びており、
そこには出郭として機能する郭3がある。南西側の郭2と南東側の郭3に挟まれた谷間には未整形ながら郭5が控えていた
ようだ。更に郭1の北側、山塊北端で槻川蛇行部分に下りていく痩せ尾根には搦手の小郭が段を作って麓へと降っている。
郭3の北方、郭1の北東側下部にも腰曲輪が繋がり、この搦手小郭群へと接続している。もちろん、随所に竪堀が切られて
山腹を横移動しようとする敵の動きを制限する。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
かなり険峻な斜面で囲まれた城なのであるが、これだけの土木工事を行い見事なまでの堅城たらしめた先人の偉業には
敬服する。周囲にはこの城よりも標高の高い山があり、ともすれば城内が俯瞰されてしまう危険性があるのだが、槻川が
蛇行する事で天然の濠として使える立地や、秩父方面への街道監視機能などを優先した結果として、どうしてもこの山を
城地に選択せざるを得なかった分、とことん作り込みを行って弱点を克服するつもりだったのだろう。執念の築城である。

この地域では珍しい 「石垣の城」@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ところで、小倉城山は全体的に岩山でござる。よって、上記した郭間の大堀切の切断面には岩石が露呈している。故に、
ここで切り出された大量の石材が使用され、石垣の城郭となっているのだ。虎口など城内要所には石積みが見受けられ、
特に郭3は全周が石垣で囲まれていた。下里石と呼ばれるこの石材は、砂岩なので耐久性にはやや劣るものの、その分
加工しやすかったようである。郭3の外周石垣は高さ5m、総延長100m以上にも及ぶ。関東における石垣の城郭は希少で
ある為、防御機能のみならず城下に対する権威付け、即ち装飾としての石垣でもあったようだ。川筋や街道から見上げる
山城に石垣が光って見えれば、さぞかし立派な城に思えた事だろう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、砂岩ゆえ下里石はどうしても平石として切り出される。その為、小倉城の石垣は写真のように布積みで構築される。
平たい石をひたすら水平に積み重ねていく石垣は、まるで甲信地方城郭の石垣(はこうした構造である)を思わせるのだが
武蔵の小倉城と甲信地方の城郭の関連性を想像するに、考えれば考えるほど謎が深まっていってしまうのが困りもの(爆)
ともあれ、築城から400年以上を経過した石垣は、長年の風雪によりかなり脆くなっている為、現状では土嚢による補強が
行われている。もともと石質が強固なものではないので、下手に触って遺構を傷つけたり崩落させたりしないよう、見学の
際は注意して頂きたい。特に搦手方面の平場は、尾根の切岸自体がごっそりと崩れ落ちており接近するのも危険である。
事故の無いよう、特に注意されたい。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

戦国末期の築城@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
この城の築城時期は戦国時代、元亀年間(1570年~1573年)か天正年間(1573年~1592年)の前半だと見られてござる。
城主は武蔵松山城主の上田氏か、後北条氏重臣の遠山氏だったとされる。前者は、小倉城が近隣の城との連絡状況から
武蔵松山城の支城であったため上田氏を城主と考える説。一方後者は、遠山氏はこの地方に所領を持ち、小倉城主として
最有力候補とされる遠山右衛門大夫光影の夫人が小倉山山麓にある天台宗延命山大福寺に葬られている事により推測
されたもの。光影自身も、近隣の遠山村(埼玉県比企郡嵐山町大字遠山)の曹洞宗長谷山遠山(えんさん)寺に葬られて
いる。ちなみに、遠山氏は遡ると美濃国恵那郡遠山郷(現在の岐阜県恵那市周辺)を祖先とする美濃遠山氏に辿り着く。
室町時代、京都の幕府に伺候した遠山氏の一派が相模国で旗揚げした北条早雲(伊勢新九郎盛時)を頼って関東へ下向
したらしい(近年の研究で早雲は室町幕府政所執事である伊勢氏の出自と考えられている)。以来、遠山氏は後北条氏の
重臣として重用され、江戸城(東京都千代田区)の城代も務めてござった。発掘調査の結果、小倉城内では染付や白磁と
いった中国からの輸入磁器が出土。城主が高い地位にある人物だという事の証であろう。他に、瀬戸や美濃・常滑などの
陶器や環状の銅製品、銅銭、地元産のかわらけや擂鉢なども検出されており申す。@@@@@@@@@@@@@@@@
それはさて置き、小倉城も御多分に漏れず1590年の豊臣軍侵攻で松山城落城と併せて開城、廃城にされ申した。なお、
遠山氏はそのまま徳川家の旗本に取り立てられ、その縁で美濃遠山氏も譜代の扱いになる。時代劇で有名な北町奉行
遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元は、この美濃遠山氏の末裔だ。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
廃城から約4世紀を経、手付かずのまま放置された城跡は経年変化による崩壊はあったものの、大半が良好に保全され
城郭愛好家の中では隠れた名城として密かに語られていた城だが、昨今の史跡保全機運の盛り上がりによって、史跡
整備が本格化。その結果、近隣の杉山城・武蔵松山城などと併せ「比企城館跡群」として2008年3月28日、晴れて国指定
史跡になり申した。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
景勝地として知られる嵐山渓谷の西側、コワセ石材店さん(だったかな?)の南側から入っていく林道・小倉線を登ると、
途中に僅かな駐車余地があり、小倉城址入口の標識も立てられている。そこに車を停めれば、徒歩で城跡へ向かう事が
出来る。一番の見所はやはり郭3であるが、その周辺一帯は崩落の危険があるため事故や遺構破壊に十分気をつけて
歩かないといけないだろう。さりとて、それ以外の部分は容易に見て回れる城址なので、オススメでござる。@@@@@@



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








武蔵国 中城

中城址 土塁と空堀

 所在地:埼玉県比企郡小川町大塚

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★★
★★■■■



堀と土塁が見事な名城…@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
埼玉県比企郡小川町の中心街近くにある城址。陣屋沼緑地公園の南側に位置する小丘陵が城跡敷地で、周囲との比高は
15m程だが、傾斜がきつい為にかなり堅固な要害を成しており申した。地勢を大きく捉えると、八幡台と呼ばれるこの台地は
西にある腰越城の山塊から繋がる位置にあり、南麓を流れる槻川が北から流れ込んで来る兜川と合流する地点に突き出す
格好。すなわち北は兜川、南は槻川が塞ぎ、東は河畔堆積平野に屹立する立地となり、概ねこの3方向は比高による隔絶で
防御できよう。自ずと、陸続きとなる西側を戦闘正面に考える縄張となる。とは言え、この城は単郭構造となっており、曲輪を
ぐるりと全体に亘って土塁が囲み、更にその外側を空堀が囲繞している。要するにその出入口となるのが西側、と言う訳だ。
現在、半僧坊と呼ばれるお堂が建つ土盛り(写真右端)がかつての櫓台だが、これが西側つまり大手口を監視する強力な
火点であった事が想像できよう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
圧巻なのは空堀の外側にももう1重の土塁が取り巻く点。何とこの城は、台地突端部という狭隘な場所にありながら全周を
完全な二重土塁で封鎖しているのだ。しかもこの土塁と空堀は、複雑な屈曲を幾重にも織り成し、見事な造形美を見せる。
堀の深さも5m程を数えて、遺構破壊もそれほど見受けられない様子にまた感動。比企地域一帯には杉山城や鉢形城など
有名すぎる城跡がいくつもある為、どうしても知名度が落ちる中城であるが、それを覆すに余りある名城と言えよう。@@@

歴史は不明確な名城…@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
されど城の来歴はイマイチ判然としない。遡ると鎌倉時代、当地の豪族である猿尾(ましお)太郎種直なる者が館を構えたと
言われる。成程、単郭というのは鎌倉武士の居館が創始であるならば納得できる話ではあるが、しかし明確な確証はない。
なお「ましお」の地名は「増尾(ますお)」という呼び方に変化し現在へ至っている。@@@@@@@@@@@@@@@@@
建武年間(1334年~1336/1338年)には斎藤六郎衛尉重範という武士が居住したとの伝承もあるが、これも不詳。@@@@
現在に残る遺構や地域関連性から考えて、戦国時代に入ってから武蔵北部を支配した上田氏の城と考えるのが一般的に
なっている。これは1474年(文明6年)にあの太田道灌が記した書状の中で「上田上野介在郷ノ地、小河ニ一宿仕リ候」との
一文があり、この「小河(小川)」が中城を指すものとされるからだ。1980年(昭和55年)11月に行われた発掘調査の結果、
中城の使用年代が15世紀後半であったことが確認されている状況からも、上田氏の城だという説は裏付けられよう。二重
土塁が囲むという構造も、その時代の様式と合致する。だが廃城時期は不明。江戸時代になると1698年(元禄11年)旗本の
金田丹波守が陣屋を置いたと言う。これが「陣屋沼」緑地公園という名の由来でござる。@@@@@@@@@@@@@@@
一方、この史跡は「中城」としてではなく「仙覚律師遺跡」として名が通っている。この仙覚律師というのは鎌倉時代の天台宗
僧侶で、万葉集の解読に人生を捧げた学僧だった。彼の著作「万葉集註釈」は、その後の万葉集研究における根幹を成すと
伝わる大作で、これを記したのが「武蔵国比企郡北方の麻師宇(ましう)郷の政所」との事。この「麻師宇郷」というのが先に
記した「猿尾」郷の事で、その政所というのは城館を意味するので、中城だとされてござる。仙覚律師が万葉集註釈を著した
遺跡「仙覚律師遺跡」というのが中城…という事になる訳だが、だとすれば猿尾種直の創建説も間違いではないという事に?
なお、万葉集註釈が完成したのは1269年(文永6年)だそうな。こうした伝承から「仙覚律師遺跡」は1927年(昭和2年)3月31日
埼玉県指定史跡となり、1961年(昭和36年)9月1日に埼玉県指定旧跡に指定替えとなっている。しかしこの指定はあくまでも
仙覚律師の偉業に伴うもので、現状ある中城の土塁・空堀遺構とは切り離して考えるべきものだ。@@@@@@@@@@@
曲輪中央部にテニスコートが造成されてしまったのが唯一惜しむべき点だが、中城の土塁や空堀はとにかく素晴らしい残存
状況である。近年では地元有志の方々も不要樹木の伐採や下草刈り、見学路整備などを行って城跡としての史跡整備に
力を入れて下さっており(感謝)こうした事から改めて2003年(平成15年)8月21日、「中城跡」として小川町史跡に指定された。
別名で猿尾城とも。比企地方を訪れる際には是非とも来訪して頂きたいオススメの城郭でござる。@@@@@@@@@@



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡








武蔵国 奈良梨陣屋

奈良梨陣屋址 堀と土塁

 所在地:埼玉県比企郡小川町大字奈良梨

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★☆■■■
■■■■



非常に短命だった「諏訪氏の」陣屋@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
関越自動車道下り線の嵐山PAから南南西へ約500mの位置にある八和田(やわた)神社の境内が奈良梨(ならなし)陣屋址。
嵐山PAは上下線で異なる場所にあるため、上り線PAからだと真西へ800mという位置関係なので注意。八和田神社は1907年
(明治40年)に改名されたもので、それ以前は諏訪神社であった。諏訪神社と言えば長野県にある名社、諏訪湖畔に鎮座する
信濃国一宮の諏訪大社を分社したものと言う事になるが、それもその筈、奈良梨陣屋を築いたのは諏訪大社大祝(おおほうり)
諏訪氏の一族である諏訪安芸守頼忠(よりただ)である。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
戦国時代の諏訪氏当主・刑部大輔頼重(よりしげ)は甲斐武田氏と遠戚関係を結んでいたが武田晴信に攻められ自害。頼重の
娘・諏訪御料人は晴信の側室にされ、後に勝頼を産む…と言う話は良く知られているが、頼忠は頼重の従兄弟に当たる人物で
武田家に服従する事で諏訪大社上社の大祝職を守っていた。武田家滅亡、更に本能寺の変を受けて無主の国となった信濃で
巧みに諏訪領の回復を図るものの、後北条氏や徳川家康の信濃征服に伴い服属、結果的に徳川家臣になっている。ところが
1590年の家康関東移封によって郷里を離れざるを得ず、新たな領地として宛がわれたのがここ奈良梨の地でござった。@@@
奈良梨は鎌倉時代から川越児玉往還(川越街道)の宿場駅として発達してきた場所で、家康の関東移封以前、後北条氏の統治
時代には平時に馬3頭、戦時に馬10頭を置く伝馬宿だった。この伝馬制は江戸時代になると幕府公式の情報伝達・物流手段に
整備発展していくので、諏訪頼忠は交通の要衝を任された事になろう。彼の所領は比企郡奈良梨村・児玉郡蛭川(ひるかわ)村
(埼玉県本庄市児玉町蛭川)・埼玉郡羽生(はにゅう)村(埼玉県羽生市)の3ヶ所、計1万2000石とされ、その統治陣屋としてこの
奈良梨陣屋が築かれ申した。ここへ配された1590年、正確に言えば小田原征伐の従軍中(関東入封前という事になる)である
6月10日の事だそうだが、頼忠は長男の因幡守頼水(よりみず)に家督を譲っている。斯くして奈良梨へ入った頼忠・頼水父子で
あったが、僅か2年後の1592年(文禄元年)上野国総社(群馬県前橋市)へ移されてしまったので奈良梨陣屋の存続期間は実に
短命なものであった。余談ではあるが、江戸幕府が成立してから諏訪頼水は故郷・諏訪高島(長野県諏訪市)へ復帰を果たし
彼の地で見事な善政を敷いた。諏訪の名族ともなれば、よほど先祖伝来の地に執着があったのだろうが、幕閣に旧領帰還の
嘆願を働きかけそれを成し遂げたとあれば相当な政治力を有していたのだと思われる。諏訪での善政がそれを物語る一方で
ここ奈良梨での治世は如何なるものだったのかも気になる所でござる。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ものの本には陣屋遺構は全く残っていない…と書かれているそうだが、実際には八和田神社を囲うように土塁の断片と堀跡が
残っている。恐らく神社境内がそのまま陣屋敷地と思われ、それが正しければ東西50m弱×南北100m程の大きさを有したと推測
できるが、周辺には農業用水が張り巡らされているので、必ずしも古態を残している訳ではなく色々と改変を受けているようだ。
とりあえず1996年(平成8年)発掘調査が行われ、神社を廻る堀と土塁は並行してほぼ一直線に構えられ、堀の断面は箱薬研堀
(片薬研堀の事か?)の形状を成していた事が確認されている…と現地案内板に記されている。発掘が行われた年の4月19日、
陣屋跡は小川町の史跡に指定され申した。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は町指定史跡




鉢形城周辺諸城郭  深谷城