何故こんなにも複雑な構造物が?■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
城ヶ岡、あるいは一の関城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1452年(宝徳4年)山田伊賀守経光の築城と伝わるが、この経光なる人物は他に記録がなく詳細は不明でござる。
大和市と横浜市瀬谷区を分け、一般に相模国と武蔵国の境界線とされている境川に面した台地上に築かれた城。
城の北側〜東側は比較的急峻な崖になり、その直下に境川が流れている。河川面と城の郭との比高差は約15m。
よって、北東面はこうした天然地形に防御を頼ればよい構造。境川を越した北側、武蔵国(横浜市瀬谷区)方面は
平坦な地形が広がっており、往時の展望はかなり利いたはずである。一方で、城の南側は緩傾斜面となっており、
ほぼ平城と言うような状況。当然の事ながら、城としての構造物を配置し防備を固めたのはこちら側だ。■■■■
深見城の規模は然程大きくない。東西130m×南北100m、地方の小豪族が構えた城程度の寸法なのだが、それを
守るにしては超絶技巧的で複雑な普請が行われている。二重の空堀が掘られて、その堀は何度も何度も直角の
“折れ”がつけられた状態。無論、堀の縁部は土塁で防備を固めてござれば、堀と堀の間にできた小空間はまるで
角馬出のように見え、もしこれを突破して攻撃するとしたら相当な覚悟が必要だと思わされる。現地解説板にある
縄張図を見ると、こうした角馬出状の小曲輪が横一列に(しかも互い違いに)並び、さながら近世城郭の縄張りを、
或いは近代戦の塹壕列を見ているようだ。発掘調査によれば、この城が利用されたのは14世紀末〜16世紀末と
考えられており、こうした複雑な構造が完成したのは、軍制と整合して16世紀末と推定されるとの事。関東の覇者
後北条氏(小田原を拠点とし関東に覇を唱えた戦国大名)の役帳に深見城の記録がある上、後北条流特有である
角馬出の構造と相俟って、このような構築は(正確な記載はないが)後北条氏によるものなのか?これらの空堀は
個々に深さが異なっているのも特徴とされ、水はけを効率化し、堀の法面や土塁が崩落する事を防ぐ為の手法と
見られているが、詳細はよくわかっていない。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まるでジオラマのような小ささ、そして行き難い場所、謎ばかりの深見城…■■■■■■■■■■■■■■■■
城址の現況としては雑木林のような状態になり、こうした堀や土塁は経年変化によって埋没した感じだが、痕跡は
微少に確認できる。恐らく、城に興味の無い人が見ても全くわからないだろうが、逆に中世城郭に慣れている人が
見た場合には、ひと目で“凄い構造だ!”と判別できる状況にあるため、通好みの城だろう。ただ、こんなにも複雑
極まりない縄張りなのに規模が小さく、果たして実用に耐えられるものなのかも良く分からない、謎めいた城跡だ。
北〜東面は川、南は複雑な堀で守られた深見城。残るは西面だが、台地続きとなる部分をザックリと堀切で分断。
見事に一直線なこの堀切は、深さも相当なもので(写真)この谷を越えて城内へ侵入する事はほぼ不可能だろう。
堀底道としても利用されていたと考えられ、その坂道は天竺坂と呼ばれていた。戦国時代の終焉と共に廃城された
深見城だが、天竺坂の道は廃城後も当時の大山街道として使われ続けたそうな。■■■■■■■■■■■■■■
現在、城の北側に国道246号が走っている。東京から厚木方面へ抜ける途中、境川の橋を渡った直後に北部浄化
センター(終末処理場)へ入る小道へと左折しセンターの先、舗装道路が突き当たった場所が城跡の入口。246の
上り線側から右折する事は不可能なので御注意。駐車場はないので、路上駐車する事になるだろう。また、城跡の
西側にある林が「城山史跡公園」とされているが、そこは城址ではないので間違えないようお気を付けあれ。■■■
なお、「つる舞の里歴史資料館」(大和市つきみ野7-3-2)に深見城の精巧な復元模型が展示されている。城址を
訪れる前にこの模型を見ておけば、風化した城の遺構を目にした際に当時の状況を容易に想像できるので、予め
見学しておく事をお奨めする。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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