長尾景春の乱で構築■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
財団法人日本城郭協会により選定された日本百名城の一つ。国指定史跡。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長瀞から流れる荒川の急流が浸食した絶壁の景勝地“玉淀”の上にそびえる堅固な城(写真)。■■■■■■■■■■
伝承を遡ると、平将門が陣を張ったとか、それと対立した人物として知られる源経基(つねもと)によって築城されたとか、
鎌倉時代に畠山重忠が在城したとも言われるが確証は無い。有力な説は室町中期の1476年(文明8年)長尾左衛門尉
景春(かげはる)が築城したという事。関東管領(室町体制における関東の統括者)上杉氏の家宰だった長尾家にあって
当時は家督相続に端を発した騒動が勃発、景春はその乱の中心人物でありここに城を築いて立て籠もったのでござる。
景春と対立した主家・山内(やまのうち)上杉顕定(あきさだ)の軍勢と度々交戦に及んで、翌1477年(文明9年)正月には
鉢形城を出撃した景春軍が近隣に着陣していた上杉勢を襲撃、上野国(群馬県)へと敗走せしめた記録が残る。■■■
これに対し扇谷(おうぎがやつ)上杉氏(山内上杉氏の同族)に属していた名将・太田道灌が景春へ攻略を開始し、同年
5月に戦端が開かれた。野戦で痛撃を受けた景春は鉢形城へ撤退する事になったが、外交戦略で巻き返しを図り、古河
公方(こがくぼう、足利将軍家の分家で形の上では関東管領の上級役職)・足利成氏(しげうじ)の助力を取り付ける事に
成功する。このため上杉軍は鉢形城の包囲を解き、北関東では諸勢力入り乱れる混戦となった。上杉方と成氏は1478年
(文明10年)の正月に停戦が成ったものの、景春はなおも鉢形城に籠もり頑強に抵抗したため、結局その年の7月18日、
太田道灌が総攻撃を行い落城させた。城を落ちた景春は秩父へと壊走、鉢形城は上杉顕定の居城となったのである。■
ところがこの後、山内上杉氏と扇谷上杉氏が対立するようになり1488年(長享2年)扇谷上杉定正が鉢形城を攻撃せんと
出陣し、上杉顕定はこれを迎え撃ち、城の近くで両軍が遭遇し高見原の戦いが起こった。扇谷軍は勝利したものの城は
落とせず1494年(明応3年)再攻略しようと計画したが、肝心の定正が荒川の渡河中に事故死してしまった為、鉢形城は
堅守されたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
顕定没後は養子の民部大輔顕実(あきざね、実父は足利成氏)が城を守ったのだが、今度は山内上杉家中で家督問題が
勃発、顕実に対して同じく顕定の養子であった憲房(のりふさ)が攻撃を開始し、1512年(永正9年)鉢形城は落城、憲房が
城主の座と山内上杉氏の家督を奪取した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
後北条氏の重要拠点に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが、この頃から関東の勢力地図は新進気鋭の戦国大名に大きく塗り替えられていく。小田原城(神奈川県小田原市)に
本拠を構えた後北条氏だ。山内上杉氏と扇谷上杉氏が内訌を繰り返し自滅の道を歩む間隙を突き、瞬く間に勢力を拡大
1546年(天文15年)の河越夜戦(川越城の項を参照)で武蔵国全域は実質的に後北条氏の支配下へ入ったのでござる。
時の後北条氏当主・左京大夫氏康(うじやす)の4男(5男とも)である北条安房守氏邦(うじくに)は、山内上杉氏に属した
天神山城(下記)主・藤田右衛門佐康邦(やすくに)の養子に入り、武蔵国北西部を制圧する事に成功する。そして1560年
(永禄3年)頃、鉢形城へと入り居城に定め、大改修に着手したのでござった。以後、鉢形城は後北条氏の拠点城郭として
重きを為すようになる。1569年(永禄12年)武田信玄が上州方面から小田原攻略へ進軍する途上、鉢形城に差しかかるも
城の堅固な様子を見て攻撃を諦めてしまう。1574年(天正2年)には上杉謙信も鉢形城下へ放火したが、結局、城を落とす
事はできずにそのまま引き上げた記録が残る。このように、鉢形城は信玄・謙信という両巨頭の攻撃をかわした訳だが、
それもそのはず、背後を荒川の断崖で守る後ろ堅固な構えにして、城内各所は後北条流特有の角ばった縄張りで守りを
固めていたからだ。城内の最深部に玉淀断崖を背にした本曲輪(景春築城当初の郭と目される)、その南側に伝御殿下
曲輪が広がり、西側には二ノ曲輪が。二ノ曲輪の前衛に三ノ曲輪や伝逸見曲輪が置かれ、それらはいずれも戦闘的な
角馬出で出入口が守られていた。伝逸見曲輪の内部は複雑に湿地帯が入り組み、これを天然の泥田堀のように使って
いたらしい。伝逸見曲輪の西、最外郭部分には外曲輪となる伝大光寺曲輪が控える。三ノ曲輪の北には伝秩父曲輪、
同じく西には角馬出構造の諏訪曲輪があり、伝逸見曲輪北端に置かれた大手口へ横矢をかけるようになっていた。■■
一方、本曲輪・伝御殿曲輪の東には搦手となる笹曲輪が。恐らく当時は笹曲輪から荒川へと抜け落ちる事ができるように
なっていたのであろう。東から笹曲輪〜伝御殿曲輪〜二ノ曲輪〜伝逸見曲輪(の泉水部分)〜伝大光寺曲輪まで繋げた
線の南端を、荒川支流の深沢川が塞ぎ天然の濠となっている。即ち、鉢形城の主郭部は北に荒川、南に深沢川が挟み
込む三角形の地形を活用しているのでござる。さらに、深沢川の南側には外曲輪や搦手馬出で守っており、北条氏邦が
力を入れて作り上げた感じが見て取れよう。古曲輪である本曲輪と笹曲輪は自然地形に依存した作りだが、それ以外の
曲輪は何れも人工的に手を加えた起伏ばかり。往時はさぞかし堅固な雰囲気だった事だろう。北関東支配の拠点として
さらに甲斐・信濃や上州からの侵攻への備えとして使われた鉢形城の重要さが縄張りからも感じられる。城の周辺には
殿原小路や鍛冶小路、鉄砲小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら原初的な城下町も形成されていた。■■
小田原征伐時の籠城戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな鉢形城に終焉の時が来たのは1590年(天正18年)。後北条氏の他城郭と同様に、豊臣秀吉の小田原攻略による
ものでござる。城主・北条氏邦は小田原から打って出て豊臣軍との決戦を主張したが、その案は却下され、後北条氏は
領内の各城郭で籠城戦を採る事と決せられた。このため、小田原から戻った氏邦は老臣・黒澤上野介らと共に約3000の
兵で鉢形城に籠もり、豊臣方の前田又左衛門利家・上杉左近衛権少将景勝ら北国勢や真田安房守昌幸・浅野弾正少弼
長政、それに徳川家康配下の将である本多平八郎忠勝・鳥居彦右衛門尉元忠といった錚々たる武将の包囲を受ける。
攻城軍の総勢は10倍以上の3万5000とも言われ、5月13日には大砲の砲撃など大攻勢が掛けられたが良く持ち堪えて、
鉢形城は1ヶ月以上も落城しなかった。結局、八王子城(東京都八王子市)が落ちた事により後北条方の勝機は失われ
その報を受けた事で6月14日、氏邦は城兵の助命を条件に開城したのでござった。氏邦の身柄は前田利家に預けられ、
これを機に鉢形城は廃城になる。関東が徳川家康の所領となった後、この地には代官として入った成瀬吉右衛門正一
(なるせまさかず)や日下部兵右衛門定好(くさかべさだよし)が統治したものの、鉢形城が再興される事はなかった。■
以来300有余年、風化していたこの場所の上に八高線の敷設計画が持ち上がる。時は軍国体制に突き進む昭和初期、
高崎への兵員輸送を円滑に行うための線路が必要とされていたのである。当初の計画に於いて、この線路は鉢形城の
二ノ曲輪を分断するように設置される予定だったという。ところが、敷設に先立つ史跡調査で良好な保存状態にあった
鉢形城の姿が明らかとなったため、線路敷設は城を迂回するように変更された上、城址は1932年(昭和7年)4月19日に
国史跡となり申した。平成に入り、全国的に史跡保全の機運が盛り上がると鉢形城も発掘調査や復元工事が頻繁に
行われるようになった。例えば1997年(平成9年)には二ノ曲輪での発掘が実施され、柱穴や側溝、掘立柱建築物・土坑
工房跡といった痕跡が検出される。また、この年と1999年(平成11年)の2回にわたって二ノ曲輪と三ノ曲輪の間にある
空堀も調査され、いわゆる後北条流築城術の特徴と呼べる畝を発見。この他に、三ノ曲輪北辺の土塁は石積を伴った
ものだった事も確認され、鉢形城は土の城ながら要所要所に土留めの石積みが使用されていた事が明らかとなった。
これらの調査結果に基づき、主に二ノ曲輪以西の城跡において復元整備工事が行われ、再現四脚門や柵列が建ち、
今は見事な土塁や堀が浮き彫りとなる鉢形城公園として一般開放されている。一方で、本曲輪周辺は然程手を入れず
旧来の姿のままで保全されており、城内の東西で様相がかなり異なっている光景を見比べるのも面白い。実は、公園
整備された西側が寄居町の管理区域、手付かずの東側が埼玉県の管理区域という「縦割行政」の結果らしいのだが…
(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
何はともあれ、外郭部には鉢形城歴史館もあり駐車場なども完備。駅からもそれほど遠くなく、公共交通機関でも来訪
可能だ。2006年(平成18年)4月6日には、上記の通り日本百名城の一つに選出。景勝地・玉淀を観光しつつ、ゆっくりと
見学するのが良いだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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