武蔵国 鉢形城

玉淀川原から見上げる鉢形城址

 所在地:埼玉県大里郡寄居町

大字鉢形
大字立原
駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
★★★☆



長尾景春の乱で構築■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
財団法人日本城郭協会により選定された日本百名城の一つ。国指定史跡。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
長瀞から流れる荒川の急流が浸食した絶壁の景勝地“玉淀”の上にそびえる堅固な城(写真)。■■■■■■■■■■
伝承を遡ると、平将門が陣を張ったとか、それと対立した人物として知られる源経基(つねもと)によって築城されたとか、
鎌倉時代に畠山重忠が在城したとも言われるが確証は無い。有力な説は室町中期の1476年(文明8年)長尾左衛門尉
景春(かげはる)が築城したという事。関東管領(室町体制における関東の統括者)上杉氏の家宰だった長尾家にあって
当時は家督相続に端を発した騒動が勃発、景春はその乱の中心人物でありここに城を築いて立て籠もったのでござる。
景春と対立した主家・山内(やまのうち)上杉顕定(あきさだ)の軍勢と度々交戦に及んで、翌1477年(文明9年)正月には
鉢形城を出撃した景春軍が近隣に着陣していた上杉勢を襲撃、上野国(群馬県)へと敗走せしめた記録が残る。■■■
これに対し扇谷(おうぎがやつ)上杉氏(山内上杉氏の同族)に属していた名将・太田道灌が景春へ攻略を開始し、同年
5月に戦端が開かれた。野戦で痛撃を受けた景春は鉢形城へ撤退する事になったが、外交戦略で巻き返しを図り、古河
公方(こがくぼう、足利将軍家の分家で形の上では関東管領の上級役職)・足利成氏(しげうじ)の助力を取り付ける事に
成功する。このため上杉軍は鉢形城の包囲を解き、北関東では諸勢力入り乱れる混戦となった。上杉方と成氏は1478年
(文明10年)の正月に停戦が成ったものの、景春はなおも鉢形城に籠もり頑強に抵抗したため、結局その年の7月18日、
太田道灌が総攻撃を行い落城させた。城を落ちた景春は秩父へと壊走、鉢形城は上杉顕定の居城となったのである。
ところがこの後、山内上杉氏と扇谷上杉氏が対立するようになり1488年(長享2年)扇谷上杉定正が鉢形城を攻撃せんと
出陣し、上杉顕定はこれを迎え撃ち、城の近くで両軍が遭遇し高見原の戦いが起こった。扇谷軍は勝利したものの城は
落とせず1494年(明応3年)再攻略しようと計画したが、肝心の定正が荒川の渡河中に事故死してしまった為、鉢形城は
堅守されたのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
顕定没後は養子の民部大輔顕実(あきざね、実父は足利成氏)が城を守ったのだが、今度は山内上杉家中で家督問題が
勃発、顕実に対して同じく顕定の養子であった憲房(のりふさ)が攻撃を開始し、1512年(永正9年)鉢形城は落城、憲房が
城主の座と山内上杉氏の家督を奪取した。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

後北条氏の重要拠点に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
だが、この頃から関東の勢力地図は新進気鋭の戦国大名に大きく塗り替えられていく。小田原城(神奈川県小田原市)に
本拠を構えた後北条氏だ。山内上杉氏と扇谷上杉氏が内訌を繰り返し自滅の道を歩む間隙を突き、瞬く間に勢力を拡大
1546年(天文15年)の河越夜戦(川越城の項を参照)で武蔵国全域は実質的に後北条氏の支配下へ入ったのでござる。
時の後北条氏当主・左京大夫氏康(うじやす)の4男(5男とも)である北条安房守氏邦(うじくに)は、山内上杉氏に属した
天神山城(下記)主・藤田右衛門佐康邦(やすくに)の養子に入り、武蔵国北西部を制圧する事に成功する。そして1560年
(永禄3年)頃、鉢形城へと入り居城に定め、大改修に着手したのでござった。以後、鉢形城は後北条氏の拠点城郭として
重きを為すようになる。1569年(永禄12年)武田信玄が上州方面から小田原攻略へ進軍する途上、鉢形城に差しかかるも
城の堅固な様子を見て攻撃を諦めてしまう。1574年(天正2年)には上杉謙信も鉢形城下へ放火したが、結局、城を落とす
事はできずにそのまま引き上げた記録が残る。このように、鉢形城は信玄・謙信という両巨頭の攻撃をかわした訳だが、
それもそのはず、背後を荒川の断崖で守る後ろ堅固な構えにして、城内各所は後北条流特有の角ばった縄張りで守りを
固めていたからだ。城内の最深部に玉淀断崖を背にした本曲輪(景春築城当初の郭と目される)、その南側に伝御殿下
曲輪が広がり、西側には二ノ曲輪が。二ノ曲輪の前衛に三ノ曲輪や伝逸見曲輪が置かれ、それらはいずれも戦闘的な
角馬出で出入口が守られていた。伝逸見曲輪の内部は複雑に湿地帯が入り組み、これを天然の泥田堀のように使って
いたらしい。伝逸見曲輪の西、最外郭部分には外曲輪となる伝大光寺曲輪が控える。三ノ曲輪の北には伝秩父曲輪、
同じく西には角馬出構造の諏訪曲輪があり、伝逸見曲輪北端に置かれた大手口へ横矢をかけるようになっていた。■■
一方、本曲輪・伝御殿曲輪の東には搦手となる笹曲輪が。恐らく当時は笹曲輪から荒川へと抜け落ちる事ができるように
なっていたのであろう。東から笹曲輪〜伝御殿曲輪〜二ノ曲輪〜伝逸見曲輪(の泉水部分)〜伝大光寺曲輪まで繋げた
線の南端を、荒川支流の深沢川が塞ぎ天然の濠となっている。即ち、鉢形城の主郭部は北に荒川、南に深沢川が挟み
込む三角形の地形を活用しているのでござる。さらに、深沢川の南側には外曲輪や搦手馬出で守っており、北条氏邦が
力を入れて作り上げた感じが見て取れよう。古曲輪である本曲輪と笹曲輪は自然地形に依存した作りだが、それ以外の
曲輪は何れも人工的に手を加えた起伏ばかり。往時はさぞかし堅固な雰囲気だった事だろう。北関東支配の拠点として
さらに甲斐・信濃や上州からの侵攻への備えとして使われた鉢形城の重要さが縄張りからも感じられる。城の周辺には
殿原小路や鍛冶小路、鉄砲小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら原初的な城下町も形成されていた。■■

小田原征伐時の籠城戦■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
そんな鉢形城に終焉の時が来たのは1590年(天正18年)。後北条氏の他城郭と同様に、豊臣秀吉の小田原攻略による
ものでござる。城主・北条氏邦は小田原から打って出て豊臣軍との決戦を主張したが、その案は却下され、後北条氏は
領内の各城郭で籠城戦を採る事と決せられた。このため、小田原から戻った氏邦は老臣・黒澤上野介らと共に約3000の
兵で鉢形城に籠もり、豊臣方の前田又左衛門利家・上杉左近衛権少将景勝ら北国勢や真田安房守昌幸・浅野弾正少弼
長政、それに徳川家康配下の将である本多平八郎忠勝・鳥居彦右衛門尉元忠といった錚々たる武将の包囲を受ける。
攻城軍の総勢は10倍以上の3万5000とも言われ、5月13日には大砲の砲撃など大攻勢が掛けられたが良く持ち堪えて、
鉢形城は1ヶ月以上も落城しなかった。結局、八王子城(東京都八王子市)が落ちた事により後北条方の勝機は失われ
その報を受けた事で6月14日、氏邦は城兵の助命を条件に開城したのでござった。氏邦の身柄は前田利家に預けられ、
これを機に鉢形城は廃城になる。関東が徳川家康の所領となった後、この地には代官として入った成瀬吉右衛門正一
(なるせまさかず)や日下部兵右衛門定好(くさかべさだよし)が統治したものの、鉢形城が再興される事はなかった。
以来300有余年、風化していたこの場所の上に八高線の敷設計画が持ち上がる。時は軍国体制に突き進む昭和初期、
高崎への兵員輸送を円滑に行うための線路が必要とされていたのである。当初の計画に於いて、この線路は鉢形城の
二ノ曲輪を分断するように設置される予定だったという。ところが、敷設に先立つ史跡調査で良好な保存状態にあった
鉢形城の姿が明らかとなったため、線路敷設は城を迂回するように変更された上、城址は1932年(昭和7年)4月19日に
国史跡となり申した。平成に入り、全国的に史跡保全の機運が盛り上がると鉢形城も発掘調査や復元工事が頻繁に
行われるようになった。例えば1997年(平成9年)には二ノ曲輪での発掘が実施され、柱穴や側溝、掘立柱建築物・土坑
工房跡といった痕跡が検出される。また、この年と1999年(平成11年)の2回にわたって二ノ曲輪と三ノ曲輪の間にある
空堀も調査され、いわゆる後北条流築城術の特徴と呼べる畝を発見。この他に、三ノ曲輪北辺の土塁は石積を伴った
ものだった事も確認され、鉢形城は土の城ながら要所要所に土留めの石積みが使用されていた事が明らかとなった。
これらの調査結果に基づき、主に二ノ曲輪以西の城跡において復元整備工事が行われ、再現四脚門や柵列が建ち、
今は見事な土塁や堀が浮き彫りとなる鉢形城公園として一般開放されている。一方で、本曲輪周辺は然程手を入れず
旧来の姿のままで保全されており、城内の東西で様相がかなり異なっている光景を見比べるのも面白い。実は、公園
整備された西側が寄居町の管理区域、手付かずの東側が埼玉県の管理区域という「縦割行政」の結果らしいのだが…
(苦笑)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
何はともあれ、外郭部には鉢形城歴史館もあり駐車場なども完備。駅からもそれほど遠くなく、公共交通機関でも来訪
可能だ。2006年(平成18年)4月6日には、上記の通り日本百名城の一つに選出。景勝地・玉淀を観光しつつ、ゆっくりと
見学するのが良いだろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は国指定史跡








武蔵国 花園城

花園城主郭址 城址石碑

 所在地:埼玉県大里郡寄居町大字末野

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★★☆
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後北条氏に呑まれていく藤田氏■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
山内上杉氏の属将・藤田氏の古城。藤田氏は元来、武蔵七党の一つである猪俣氏の分流として成立した家柄。平安
時代末期、猪俣野三郎政家の子・政行が藤田郷に土着した事から藤田姓を名乗るようになった。故に、この藤田五郎
政行が藤田氏の始祖とされてござる。政行は源義朝や頼朝に従ったため武蔵国土豪の中でも名門とされ、室町時代も
南北朝や室町幕府と鎌倉府の対立など争乱が相次ぐ中、時流に上手く乗って関東管領・山内上杉氏の家中で堅固な
地盤を築いていた家柄でござった。最盛期には、上杉家四家老の一と呼ばれてござる。■■■■■■■■■■■■
さて花園城の起源は平安末期に藤田政行が築いたものだと言われるが、本格的な城砦となったのはやはり戦国期で
あろう。詳しい改修の履歴などはわからないが、現在に残る遺構から推測するに、かなり力を入れて城の拡張整備が
行われた事は間違いない。藤田氏は1532年(天文元年)近隣に天神山城を築きそちらを本拠にしたと伝わるものの、
その後も花園城は継続使用された事から、恐らく両方の城を重要拠点として勢力を維持していたのだと思われる。
しかし、天文年間(1532年〜1555年)と言えば上杉氏が小田原後北条氏に圧迫され没落していった時期である。特に
1546年の河越夜戦に敗れた後は上杉氏の衰退が決定的になり、当主の山内上杉憲政(のりまさ)は領国を棄てた上
越後国へと逃亡。このため、権力の空白地帯となった関東北部では軒並み各地の豪族が後北条氏への鞍替えを行う
事態となったのでござる。藤田氏15代・右衛門佐重利も後北条氏の軍門に降ったが、このとき後北条氏当主・氏康の
子である氏邦を養子に迎えて、何とか家名を保った。その上、重利は氏康と氏邦から一字ずつ貰い受けて康邦と名を
変え(させられ)、本拠である天神山城と花園城を氏邦に譲り渡し完全服従を余儀なくされる。■■■■■■■■■■
斯くして名門・藤田氏の名跡は全て氏邦の手中に収まり、以後は上記の鉢形城で更なる進展を見せていく。花園城も
鉢形城の支城として用いられていくのである。位置的に見ても、花園城は鉢形城から荒川を挟んだ対岸およそ2kmの
地点に占位しているため、鉢形城を北側から攻める敵に対して挟み撃ちできる要衝と言え申した。ところが、実際に
鉢形城を攻めたのは1590年、小田原制圧に向かう豊臣軍。3万5000もの大勢力が鉢形城を囲み、対する城方は僅か
3000のみ。勿論、花園城に活躍の機会はなかった。鉢形城が開城した後、花園城も廃城とされたのでござる。■■■

竪堀を直登した先に…■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現状、花園城址は殆んど人の立ち入らない山林と化している。藤田家の菩提寺である浄土宗白狐山善導寺の裏山が
それで、まずもって山へ分け入る道が藪で覆われていて先に進む事ができない。それでもこの藪を強行突破し斜面に
沿って西へ迂回するように回り込むと、巨大な竪堀に行き当たる。その竪堀から直登(かなり無理矢理)して山上へと
向かって行けば、大規模な堀切や土留めの石段、曲輪と思しき無数の平場が現れる。標高約200mを数える山頂の
主郭部には大層立派な石碑も立てられている(写真)ので、最初の竪堀に辿り着けば見事な遺構を拝めよう。■■■
城の縄張図を見てみると、城山全体を北から南へ一直線に切断する巨大な竪堀が数条用意され、その内部に多くの
曲輪がひしめく。一部は耕作地や坑道として改変を受けているが、全体的に遺構は良く残されてござる。縦横に張り
巡らされた強固な竪堀と土塁の組み合わせをしてクランク状の明確な折れを特徴に持つ構造を、この地域の他城郭と
併せて「藤田系城郭」と称する識者も居るくらいに技巧的だ。縄張図を見れば見るほど、とことん人為的に作り込んだ
構造が目に浮かび、訪城意欲を掻き立てられる山城であるのだが、惜しむらくは先にも記したように肝心の登城路が
全く整備されていない事でござろう。あれだけ立派な石碑が立つのに何故?道無き故に、登城するにはこの山を知る
人に先導して貰うのが良いと思われる。また、縄張図は必携。これが無いと、せっかくの技巧的な構造を見逃す事に
なってしまうだろう。兎にも角にも、百名城として整備が進む鉢形城の支城であるのだから、こちらも負けず劣らずの
手入れを行って頂くよう、関係各所にお願いしたいものである。なお、車は善導寺に駐車できる。御手洗も同じく寺の
ものを利用可能だ。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1969年(昭和44年)10月1日、埼玉県の重要遺跡に指定されてござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は県指定重要遺跡








武蔵国 花園御嶽山城

花園御嶽山城

 所在地:埼玉県大里郡寄居町大字末野

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
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花園城の“奥の山”にも■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
人造湖である円良田(つぶらた)湖の真南、曹洞宗萬年山少林寺の西側にある標高247mの山が城域。花園城から見ると
“一つ奥の山”である。少林寺の駐車場に車を停めさせて頂き、そこから九十九折の山道を登り山頂を目指す事になるが
寺から山頂までは比高差およそ100m。道沿いには五百羅漢の石像が順番に並んでいるので、楽しみながら登山すべし。
山腹に平場があったり、そもそも九十九折の道がどことなく防御遺構のように思えなくもないが、しっかりした城郭遺構は
山頂部に集中して配置されているのでひたすらそこまで頑張って登ろう。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
史料上、この城に関する記載は何もない。山上の遺構がある事から“状況証拠的に”城があったのは間違いないだろうが
来歴・城主は全く不明。すぐ隣に花園城がある事から、その支城だと推測するのみである。花園城よりも標高の高い山が
隣にあるとなれば、そこを占拠されて城内を見透かされないように予め出城を構えていた、と言う感じでござろう。また、
花園城から西側・北側への連絡拠点として、狼煙台としての使い方も想定できようか。■■■■■■■■■■■■■■
頂上部がほぼ四辺形の曲輪として造成され、その周囲は切岸として隔絶し横堀を巡らせている。この主郭の北西隅部は
土塁のような突き出し部を附属しているが、竪土塁と言う程の長さではなく小規模なもの。主郭北面だけは絶壁のように
崖下へ落ち込むので横堀が無く、それを補うように横移動を遮断させる(つまり竪土塁と同じ効能)為のものであろうか。
あるいは北西側の眺望を利かせる物見台なのか?それならば櫓台を構える方法の方が有効なので、謎多き構造物だ。
この他、主郭の西・南・東のそれぞれに下段の曲輪。主郭南面には竪堀も。下段の曲輪群も、それを囲むように横堀が。
これら曲輪+横堀+竪堀+土塁という組み合わせを見て回るのが面白い城でござる。ただ、来歴不詳である為なのか
城址碑や案内板のようなものは何もない。主郭内部にも、御嶽山信仰に関連する石碑が沢山並ぶ(写真)のみである。
まぁ、城としての認知が少ないのは仕方ないまでも、逆に山岳信仰の石碑ばかりこんなにもあるのはちょっと異様…。



現存する遺構

堀・土塁・郭群等








武蔵国 金尾要害山城

金尾要害山城址からの眺め

 所在地:埼玉県大里郡寄居町大字金尾

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 あり

★★☆■■
★★☆■■



来歴不祥の山城■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
金尾(かなお)城、金尾山城、或いは単に要害山城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
江戸時代後期、幕府の学問所である昌平坂学問所が編纂した地誌「新編武蔵風土記稿」には、金尾村(当時)の項に
「要害山 金尾彌兵衛と云者居れりとぞ、今愛宕社を勧請す、因て愛宕山とも云ふ、小山なり」と記述がある。一方、
現地の案内板にある記載を読み解くと当城は1532年に藤田重利(康邦)が築城し、鉢形城西方にある支城群の1つで
城主に金尾弥兵衛が入っていたとある。そして1590年の鉢形城落城と共に廃されたと。■■■■■■■■■■■■■
金尾氏というのは在地の武士だったのだろうか、詳細は不明。そもそも金尾の地名は奈良時代に秩父で国内初の銅が
産出した事に因み、その銅山から続く山の尾なるが故に「金(銅)の尾」金尾となったとされる。秩父の銅が和同開珎の
鋳造に繋がる話は有名だが、金尾の地名もそれに付随する由緒があるもので、深い歴史があると云える。埼玉県埋蔵
文化財調査事業団の調査報告書に拠れば、金尾弥兵衛は猪俣党の末裔にあたり、北条氏邦の家臣だった可能性が
高いとの事。藤田家を継承した氏邦が現地の武士を統括し、その中で金尾弥兵衛がこの城を任されたと言う感じか。
要害山(金尾山)の東側山麓には真言宗金尾山伝蔵院という寺があり、それが平時における城主の館跡だったとする
説もあり、弥兵衛はそこに在住していたのだろうか。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

綺麗な森林公園が実は■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
改めて、城山について。秩父鉄道波久礼(はぐれ)駅の西側、荒川が西〜北〜東へと大きく蛇行する内側に屹立する
標高229mの小高い山が要害山。ここは南側にある標高315mのピークから繋がる尾根突端部に当たるが、現状では
埼玉県道82号線が両者の間を分断し、まるで堀切のような状態を作っている。恐らく当時も、現代工法ほどでは無い
までもこのような堀切を構えて城山の独立性を保っていたやも知れない。その県道82号線には駐車場があり、城山へ
登る遊歩道が整備されている。これを登ると、今は「金尾山つつじ公園」として一般開放されている城域へと入れる。
ただし、明瞭な城の遺構と思えるのは山頂部の一帯のみ。全山が城郭化されていたとする説もあるが、つつじ公園の
全域を見渡す限り、傾斜地ではあるものの然程の作り込みは感じられない。金尾峠(駐車場の位置)から山頂までの
比高差は約50m。この間の登り坂がダラダラと続くので、それだけで敵兵の足を止めるには十分なのか。■■■■■
頂上一帯には愛宕神社(「風土記稿」の通りでござる)が鎮座し、その敷地は曲輪として啓開されている。更に、曲輪の
下段を取り巻くように腰曲輪状の平場も取り巻き、随所に石積みの残骸や堀切遺構と思しき構造も。この愛宕神社は
現地案内板に拠れば1560年以降の時期に、支城の完成を機として城主が城の守護神を勧進したものが発祥だとか。
そして愛宕神社から一段高い位置となる突起部が削り残され、現在そこには展望台が建てられている。この展望台は
当時も物見であったのだろう。展望台が主郭、愛宕神社が二郭、腰曲輪が三郭…とする説もあれば、展望台は物見の
土塁、愛宕神社が主郭(物見が主郭では狭すぎる為)、腰曲輪は二郭…と見る向きもある。いずれにせよ、これらの
山頂部一帯の構造物は比較的明瞭で見応えがある。そして何より、山頂からの眺望は抜群(写真)!これを見る為に
登ればそれで十分満足できる城跡と言えるが、山中の所々には竪堀らしき遺構もあるので気が抜けない(笑)■■■
山頂からの視界は縦横に開けて、眼下に秩父街道と荒川の河川交通を監視し、西に秩父山塊〜東の比企城砦群を
見通せる。城そのものの規模は然程大きくない(全山が城郭化されていたならば話は別だが)ので、このような眺望を
期待して狼煙台的な使い方をしていたと考える説も根強い。余談だが「新編武蔵風土記稿」金尾村の頁にある挿絵は
城山から望んだ写真の通りに、荒川が山々の間を縫って彼方に流れ征く情景を描いている。今も昔も、この景色は何ら
変わらないと言う事なのでござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等








武蔵国 藤田氏館

伝藤田氏館跡

 所在地:埼玉県大里郡寄居町大字末野

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 なし
 なし

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現存する遺構

堀・土塁・郭群






武蔵国 用土城

用土城址碑

 所在地:埼玉県大里郡寄居町大字用土

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

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現存する遺構

郭群



藤田氏、その興亡■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
先述の通り武蔵七党猪俣氏から分枝し藤田五郎政行が藤田氏を興した訳だが、その際に居館を構えたと伝わる地が
武蔵国榛沢郡藤田、現在の大里郡寄居町大字末野(すえの)と比定される場所である。一方、家督を北条氏邦に譲り
事実上家を乗っ取られた藤田康邦が隠居城として構えたのが用土(ようど)城。つまりこの2城館は、藤田氏の始まりと
終わりを示す史跡なのである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
まずは藤田五郎政行館から。国道140号線と埼玉県道349号線が交わる「末野」交差点の南西側、荒川北岸の台地上
水路に囲まれた四角形の区画がある。この水路、現在は護岸で固められていてそうは見えないが、当時の居館を囲む
堀の名残りだそうで、その内部が藤田氏館跡だと推測される。また、その隣の区画は「箱石館」と呼ばれる武家居館が
あったと言い、この一帯には何かしらの武士居住地が存在した可能性は高い。但し藤田館の比定地は他にも色々あり
必ずここだと言い切れるものでもないらしい。加えて、この土地は完全に私有地なので立入は憚られる。敷地内部には
土塁状の高まりがあったり、堀や河岸段丘との比高差を体感してみたいものなのだが、なかなかそうは行かぬようだ。
水路淵の通りから覗き込むように撮った写真が紹介の1枚でござる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
他方、用土城は寄居町北辺、用土地区にある。用土地区は地図を見ると寄居町の本体から突出した形になっていて
深谷市域を削り取るような敷地になっている。こうした地籍は往々にして中世・近世からの土地所有権を現代まで引き
継いだものなので、用土地域が用土城の支配地域つまり藤田氏の影響下に置かれていた事の名残りであろう。■■
養子入りしてから後、藤田重氏こと北条氏邦の指揮下には鉢形衆と呼ばれる後北条家の軍団が組織されて、それは
後北条氏の上州方面軍として一大勢力を築くのだが、その一方で居城と家名を明け渡した藤田康邦は、隠居城として
用土城を築いてそこへ移り、藤田の姓を棄て、姓名を改めて用土新左衛門と名乗った。これが1546年の事、用土城の
起源であるが、この後、旧来の藤田一門は完全に封じられる運命になる。■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1555年(天文24年)8月13日に用土新左衛門すなわち藤田右衛門佐康邦が病没し、更に康邦の実の息子である藤田
弥八郎重連(しげつら、2代目用土新左衛門)は1578年(天正6年)支配地域の問題が生じた事で氏邦に毒殺された。
このため、重連の弟である藤田弥六郎信吉(のぶよし)は後北条氏の支配を脱し甲斐の武田勝頼を頼る。武田氏の
滅亡後は越後の上杉景勝に従った。こうして藤田一門を排除した氏邦は鉢形城を拠点に周辺地域の支配を強化。
こうした流れの中、康邦・重連が没し信吉が去った以上、必然的に用土城は不要なものとなり廃城に。廃城時期は
康邦が亡くなった1555年とも、重連の死した1578年、或いは小田原征伐に伴う1590年とも言われてござる。■■■■
所在地は用土地区、浄土宗大谷山蓮光寺の北350m程の位置。用土二区公会堂(寄居町農業ふれあいセンター)の
隣に小公園があり、そこに写真の城址碑が立っている。公会堂には駐車場があるので、車で来訪可能である。が、
目ぼしい遺構は残らず、周囲も耕作地と化して跡地は判然としない。敷地の中心に主郭である実城が置かれ、その
周囲を取り囲む二郭の外城を巡らせ、輪郭式の城館であったと云うが、現状では判断できない光景。うっすらとした
傾斜が周辺にあり、それが城の中心から外へ向かう起伏の名残りなのかもしれないが、あくまで想像するのみだ。
城址碑裏面の説明書きには「敷地四町二反歩、内堀外堀等存在し、老松鬱蒼としていた…」とあるが、果たして?
一応、発掘調査では薬研堀の跡が確認されているそうだ。別名で高城とも。■■■■■■■■■■■■■■■■
さて、鉢形城主として豊臣軍に攻め立てられた北条氏邦は、開城後に前田利家へ預けられた。本来ならば、城主は
落城の責めを負って死に追い遣られる所であるが、その助命を嘆願したのが上杉景勝配下として鉢形城の攻撃側に
あったかつての義弟・藤田信吉だったという。氏邦によって故郷を追われた信吉であったが、藤田の家の同族として
氏邦への情は捨てきれなかったようだ。結局、氏邦は利家の客分として前田家の領国・加賀国へと流れ行き、1597年
(慶長2年)8月8日、金沢で没した。彼の亡き骸は鉢形の地に戻され、夫人と共に花園城址の東にある曹洞宗高根山
正龍(しょうりゅう)寺に葬られている。また、養父・藤田康邦夫妻の墓もこの寺にある。■■■■■■■■■■■■
蛇足になるが、藤田信吉の名を聞いてピンと来る方も多かろう。豊臣秀吉没後、上杉景勝と徳川家康の外交交渉に
奔走したものの、遂に閉塞し上杉家を出奔、徳川家に上杉家の内情を知らせ関ヶ原合戦の契機を作った人物こそ、
上記した信吉その人である。天下分け目の決戦は、ある意味この城から始まったのでござる。■■■■■■■■■







武蔵国 天神山城

草木に埋もれ朽ち果てた天神山城模擬天守

 所在地:埼玉県秩父郡長瀞町岩田・井戸

駐車場:
御手洗:

遺構保存度:
公園整備度:

 あり
 なし

★★■■■
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昭和の観光開発が徒に■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
先般から話の出ている藤田氏の山城。藤田重利、即ち藤田康邦が後北条氏への臣従策を採る中の1532年に築かれたと
されるが、築城年代は諸史料によってバラつきがあるために確定的ではなく、おおよそ天文年間の間と見るのが妥当で
ござろう。康邦は養嗣子・北条氏邦が鉢形城を本拠に定め支配力を強化する中、花園城とこの天神山城を氏邦に譲って
隠居し用土城へと退去していく訳だが、一説ではこれに伴って天神山城には藤田氏家老・岩田対馬守義幸が城代として
入るようになったともされている。その一方、上杉家を救援せんとする長尾景虎の大軍勢が1560年に小田原へ来攻した
際に藤田康邦が上杉方へなびいた為、長尾軍が越後へ引き上げた後の同年9月に関東再平定を図る後北条軍がこの
城を落城させたという記録もある。ともあれ、これ以後の比企・秩父地方は概ね北条氏邦が盤石な支配体制を敷くように
なり、天神山城はその支城として機能していたが、1590年の秀吉による関東征伐では前田利家らの北国勢により当城も
攻勢を受け陥落、以後は廃城とされたようである。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
以来400年近くは元の山林に戻った城山であったが、1970年(昭和45年)この地が城跡であるという事を観光活用しようと
した地元の事業家が、山頂に模擬天守を建設。麓からそこへ至る道を舗装したり駐車場を設置してひと儲けを企んだ。
言わずもがな、本来の天神山城は戦国期の山城で天守などある筈も無い。この工事で一部の空堀が埋められたり切岸が
削り込まれてしまったが、結局この商売は採算が取れず直ぐに倒産。天守は無人と化して取り壊しもされぬまま放置され
現在は倒壊寸前の状態で廃墟となっている(写真)。また、舗装道や駐車場も完全に草木で埋もれていき、再び原生林に
取り込まれてしまった。大自然の攻勢に及んでは、観光天守などひとたまりもないという実例になった。■■■■■■■■

色々な意味で“猛烈な山城”■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
荒川が観光地として有名な長瀞から玉淀へ下っていく区間、北上する流路が急カーブを描いて東へ曲がる地点の右岸に
天神山城の城山がある。埼玉県道82号線に面した白鳥神社の裏手から山を直登すると15分程で件の観光天守の直下に
到着。ここが標高226mを数える山の最高地点、つまり天神山城の主郭跡で、白鳥神社からの比高差は90mに達す。観光
開発で作られた舗装路はもはや使い物にならない為、この直登路を用いるのが天神山城へ至る唯一の経路と言えるが
距離は大した事がない割に、比高差と藪漕ぎを強いられる獣道である事が登城を実に困難なものにしてござる。とは言え
基本的に城跡の遺構は手付かずのまま残されているので、登ってみる価値はあるだろう。山塊北端部の山頂(主郭)から
南へ向かって伸びる尾根を利用し、二郭や三郭が並ぶ連郭式の縄張になっていて、これらの曲輪間には明瞭な堀切が
散見される。また、斜面に沿った下段域には帯曲輪や横堀の名残も見て取れる上に、こうした斜面部での要所要所には
土留めの石垣も僅かながら使用されており、これを見つけるのも“宝探し”な感覚で面白い。主郭北端〜三郭南端までは
およそ300mの距離があり、山城としては十分な大きさを持っている。特に、二郭の広さは兵士の駐屯拠点として有効に
使えるものだったであろう。それに加えて、東側の山麓部分には増築された?と見られる出郭部分も構えられてござる。
城山の西側は荒川の急流によって守られていた訳だから、もし陸伝いに侵攻する敵がいるならば当然この方角からと
想定できる。それに備えた出郭群も構築すれば天神山城の守りは盤石…という事になろうが、惜しむらくはこの見事な
出郭群へは二郭から直滑降で降りて行かなくては到達できない点。その急傾斜を降りて行くのは非常に危険だし、また
帰るには必然的に同じ斜面を登って来なくてはならない事になる。出郭群への往復を試みるならば、もはや本格的な
登山装備を用意しなくては不可能と言って良いだろう。これほど見事な遺構が残されているのだから、廃墟となるような
模擬天守を建てるより、適切な史跡整備を行ってくれれば良かったのだが…昭和の観光開発はそういうモノなのだから
仕方なかろうが、令和の今ならば改めて市町村や県あたりがきちんとした遺構活用を考え直して下さる事を期待したい。
別名で白鳥城、あるいは根古屋城とも。山頂の観光天守は近年、廃墟マニアからも注目されているらしいのだが、本当に
崩壊寸前の危険な建物である(床はほぼ全て抜け落ち、屋根瓦も半分以上滑落している)から決して近づかないように。



現存する遺構

堀・石垣・土塁・郭群等




忍城周辺諸城館  杉山城周辺諸城郭