武蔵国 神奈川台場

神奈川台場石垣

所在地:神奈川県横浜市神奈川区神奈川

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



横浜市神奈川区神奈川、現在はJR東高島貨物駅の構内となっている場所が
神奈川台場の跡地でござる。幕末、1853年(嘉永6年)6月にペリーが浦賀へ来航
江戸湾(東京湾)の中へと黒船が入り込む事態は江戸幕府に重大な脅威を与えた。
当時の日本の国力では軍事的な対抗は無理な話で、翌1854年(安政元年)圧力に屈し
日米和親条約が締結される。これに続き、列強各国とも同様な条約が結ばれたため
結果としてさらに多くの外国艦船が日本近海にやってくる事となってしまう。
沿岸防備を重く見た幕府は各地に“台場”と称される砲台を構築、何とか外国の脅威に
対抗しようとした。このような台場は、西洋軍隊に対する備えとして作られたため、
専ら西洋式城郭理論に則って設計されている。現在、東京のウォーターフロントとして
有名な東京都港区のお台場も、もともとはこうして築かれた台場群の一つ、品川台場である。
1858年(安政5年)、日米修好通商条約が結ばれさらに外国艦船の数が増大。
この条約により横浜が開港されたため、そこでの台場も必要とされた。斯くして、
幕府は伊予松山藩に命じて1859年(安政6年)5月から新たな海防砲台の構築を行う。
これが神奈川台場の起源でござる。
上記の品川台場は予算の関係から本来の計画通りには築かれず、構造的にも
不十分なものだったと言われていたため、神奈川台場製造の責任者であった松山藩主
松平勝成は並木町及び漁師町の沖に1基ずつ合計2基の台場を計画、このうち
漁師町沖の台場に関しては西洋通であった勝海舟に設計を一任したと言われており申す。
工期1年、延べ30万人の人員と約7万両の費用を要し翌1860年(万延元年)6月に竣工した
神奈川台場は、237m×86.4mの規模を擁した総面積2万6000u(約8000坪)の大きさで、
3つの鋭角な稜堡を海に突き出させた変形星型。陸地とは2本の土橋で繋がれており、
その内部は船溜まりとして用いられた。この台場の中には
合計14門の大砲が据えつけられており申した。
ところが完成後ほどなくして幕府は崩壊、明治の世となり外交の様相も激変を迎えた。
結果、神奈川台場は実戦に用いられず1899年(明治32年)2月に廃止されるまで、
礼砲用として存続するのみであった。台場跡地も1921年(大正10年)頃から
埋め立てられ、現在は完全に横浜湾岸の臨港地帯となっている。
この上にJRの貨物線が敷設され、最初に記したような貨物駅になっているのが現状。
とてもここが海上要塞だったとは思えない。ごくごく僅かに当時の石垣が残る(写真)ものの
貨物駅周辺の民家の裏側に埋もれている状況なので、立ち入りが躊躇されるほど。
その民家群の中には神奈川台場公園なる小公園があり、ここに台場関連の案内板が
掲示されているのだが、この公園がある場所は台場と陸地を繋ぐ西取渡り道(土橋)の
部分だった所なので、正確に言えば台場本体とは異なる。とは言え、ここも台場構築に
関連する重要な史跡であるため、横浜市は2008年(平成20年)6月30日〜7月14日と
同年11月14日〜11月21日の2回に分けて発掘調査を行っている。
現在はその調査結果に基づいて公園の再整備中との事。
完全に潰されてしまった台場遺構がどう復活するか、注目したい。


現存する遺構

石垣








武蔵国 金沢(六浦藩)陣屋

金沢(六浦藩)陣屋跡

所在地:神奈川県横浜市金沢区瀬戸・六浦

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



1723年(享保8年)米倉忠仰(ただすけ)がこの地に陣屋を構えた事が起源。
米倉氏は戦国時代、甲斐武田氏に仕えていたものの主家が滅亡したため
徳川家康に任官しそのまま江戸幕府譜代家臣となった家柄。
また、忠仰は柳沢吉保(徳川5代将軍・綱吉の側用人)の6男として
生まれたが、米倉昌照の養子として迎えられた人物でござる。
従前、米倉氏は下野国(現在の栃木県)皆川に本拠を構えており、一説に拠れば
米倉丹後守昌尹(まさただ、皆川藩米倉氏初代)が既に武蔵国久良岐郡(くらきぐん)
社家分村(しゃけぶんむら)谷戸(やど)、即ち金沢で封を得ていて武蔵金沢藩を
立藩していたとも伝わるが、4代・忠仰の時にこちらへ居を移したのだ。その所領は
1万2000石を数えるも、下野国安蘇郡・都賀郡、相模国大住(おおすみ)郡・淘綾(ゆるぎ)郡
久良岐郡、武蔵国埼玉(さきたま)郡など飛び地を合計した石高であり、
金沢に陣屋を置いたものの、他郡における領地の方が多かった。
ともあれ、米倉家は武蔵金沢藩庁となった金沢陣屋に本拠を移した為
それまでの皆川藩は廃藩となり申した。この陣屋で米倉氏は代を重ね
忠仰の後、里矩(さとのり)―昌晴(まさはる)―昌賢(まさかた)―
昌由(まさよし)―昌俊(まさのり)―昌寿(まさなが)―昌言(まさこと)と
藩主が継承された。昌言の代に明治維新を迎え、1869年(明治2年)には
藩名を六浦藩へと改称している(加賀金沢藩との混同を避けた為らしい)。
しかし直後に版籍奉還・廃藩置県となった為(一時は六浦県となったものの)
神奈川県へと整理統合され、六浦藩陣屋の役割は終わった。
京浜急行金沢八景駅のすぐ裏が陣屋跡。横浜市の中でも住宅過密地だけあって
現在、遺構と呼べるものはほぼ消失して陣屋跡地は一般住宅地になっている。
しかしそうした中、現在でも米倉氏の御子孫がお住まいになっているとかで
そこにだけ当時からの石段が残されているとの事。拙者はさすがに
個人宅まで押しかけなかったのでその石段は目にしていないが…。
なお、谷戸東南にある泥牛庵なる寺の頂上は、かつて
「殿様の見晴台」と称された「御茶山」という陣屋物見台だった。
写真はその御茶山頂上から陣屋跡地を見下ろしたものでござる。


現存する遺構

石段








武蔵国 今井砦

今井砦(城)址石碑

所在地:神奈川県横浜市保土ヶ谷区今井町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★★■■■
公園整備度:☆■■■■



砦の創建に関して詳しい史料は無く、一説に拠れば今井四郎兼平の居館と伝わる。
とは言え兼平は平安時代末期に木曽義仲の従者であった人物であり、当然ながら
信州の人物なので、相模国に直接的な縁はない。よって、この砦が兼平の館跡だという
説に信憑性は乏しい。もっとも、兼平の本姓は中原であり、相模国今井荘に所領を
有していた事で今井姓に改姓した可能性はある。そうなると兼平と今井砦の関連性は
出るが、いずれにせよ兼平がこの砦に居住していた可能性は少ないと思われる。
結局のところ、この砦が実際に用いられたのはもう少し後の年代であろう。
「新編武蔵国風土記稿」に拠れば、この地からは1304年(嘉元4年)5月の記載がある
板碑が出たとある。その板碑は現在、今井砦跡台地の麓にある真言宗長谷山金剛寺に
保管されており、神奈川県内出土の板碑としては最古の物とされている。軍事施設たる
今井砦との関連性はさて置き、この年代には人の手が当地に入っていたという証でござろう。
戦国時代に入れば、小田原後北条氏の城として使用され、城代に清水氏が任じられた。
この清水氏は後北条氏配下、伊豆衆の重鎮で水軍を率いた戦巧者であると同時に、
三島社奉行も務めていた名門。今井砦の城主は小笠原氏・谷氏・小幡氏らが次々と
交代していったが、城代は常に清水氏が入っていたとされ
現在でも今井にはその末裔の方がお住まいになっているとの事である。
このように(実質的に清水氏の城として)小田原後北条氏の支城網を構成していた
今井砦であるが、1590年(天正18年)豊臣秀吉が後北条氏を打ち倒した事によって
転機を迎えた。戦後処理の国替えにより関東は徳川家康の所領になる。今井の地は
家康配下の旗本・有田九郎兵衛吉貞が20石で領主となるも、旧来の今井砦は
山城形式であったため近世統治体制には不向きとされ、廃された。その結果、
旧砦の北西側にある丘陵地で新たな居館を構築。さらに1603年(慶長8年)に江戸幕府が
成立した後、交通の要所であった今井には幕府の命で改めて陣屋が置かれたという。
今井砦の所在地は、横浜新道今井ICの直近。神奈川県道13号(横浜環状2号線)と
横浜新道が挟み込む地点にある。現在でも交通の要所である事が一目瞭然な訳だが、
当時は砦の西側直下に鎌倉古道が走っており、その監視の為に今井砦は活用されたのだ。
と同時に、古道と並走するように今井川が流れており、これを砦の西側〜南側閉塞の
濠として利用していた事が伺える。城地は上に記した金剛寺の裏山で、標高87mの低山を
利用した山城。この山の中腹には城山稲荷が鎮座している。城域北端である山の頂点が
主郭で、南北およそ300mにわたって下っていく傾斜地の最下部が下段の郭、そして
城山稲荷付近が出丸という構造。縄張りとしてはさほど技巧的ではなく、
場所柄、後北条氏勢力圏においては前線城郭でもないため
「繋ぎの城」極端に言えば「烽火の中継点」といった用途の砦であろう。
しかし城山の各所(特に城山稲荷の裏手付近)には空堀や土塁の痕跡と思しき遺構が
見受けられ、当時の姿を彷彿とさせる。また、地元では昔からここが
「城跡」として伝承されており、地域に根差した城址だったようだ。
現在、城へ至るには金剛寺バス停の目の前にある城山稲荷の参道を登る。
しかしこの参道が実に細く(民家の軒下を抜けていく感じである)
道案内も「今井城 城山稲荷へ」と書いた棒板があるだけなので
非常に見つけ難く注意が必要。本当にこの道で良いのか?と疑問に思いながら
登っていけば城山稲荷に到着し、写真にある今井城址の石碑が鎮座している。
ちなみにこの石碑の揮毫は細郷道一(元横浜市長・故人)氏のもの。
城山稲荷の辺りを越えた山上部は、私有地なのでみだりに立ち入らない方が良い。
さて、発掘調査に伴う1955年(昭和30年)10月7日、今井砦の守護神である
城山稲荷の横に立つ黄楊の木の根元から常滑焼の大甕が掘り出された。
その中にはぎっしりと古銭が詰め込まれており、総重量は400kgにも及んだ。
古銭の種類は永楽通宝をはじめとする中国からの
渡来銭(唐銭・南宋銭・北宋銭・明銭など)で、日本においては鎌倉時代〜戦国時代に
かけて使用されていたものでござった。江戸時代以降の通貨(寛永通宝など)が
含まれていないため今井砦の使用年代を特定する重要な物証と言え、この事からも
砦は後北条氏時代の城郭であったと結論付けられ申そう。城主は何度も交代しているが
城代は一定していたので、この埋蔵金は清水氏が蓄財したものだと考えられている。
その他、今井砦跡からは太刀の金具や小皿なども出土した記録がある。
周辺には縄文・弥生時代の遺跡や古墳時代の集落跡、
江戸時代になってからの保土ヶ谷宿ゆかりの史跡も数多くあるため、
それらを絡めて散策するのが良いかと。


現存する遺構

堀・土塁・郭群








武蔵国 獅子ヶ谷城

獅子ヶ谷城跡 旧横溝家住宅表門と城山

所在地:神奈川県横浜市鶴見区獅子ヶ谷

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★☆■■
公園整備度:★★☆■■



別名で御園(みその)城・獅子ヶ谷殿山など。横浜市鶴見区獅子ヶ谷の端、現在は
みその公園とされている場所の小高い山が戦国期に獅子ヶ谷城となっていた城山でござる。
横浜市の地図を見ると良く分かるのだが、この城山だけが隣接する港北区師岡町の敷地に
食い込む形で区境界線が敷かれている。「新編武蔵風土記稿」によれば、獅子ヶ谷の地は
かつて師岡郷と呼ばれ師岡村から分村したものだったとか。獅子ヶ谷村は師岡熊野神社が
領した寺社領で、獅子舞を受け持った村であった事からその名が付けられたと言う。
そもそも師岡村および獅子ヶ谷村は鶴見川流域の水田地帯として発展しており
その中に単独で盛り上がる山は領内監視に適した場所であった事が
容易に推測できる。斯くして成立したのが獅子ヶ谷城でござる。
秀吉没後、徳川政権が成立する渦中にあった慶長年間(1596年〜1615年)
この地を治めていた小田切美作守が城を築いたと伝わる。小田切氏は山の麓に
平時の居館を構え、その裏山に空堀や土塁を巡らせて城砦化したらしいが
城の形式に中世の名残が見受けられるため、伝承より早い時期から獅子ヶ谷城が
存在していた可能性もある。ともあれ、城山の頂部には結構な広さの平坦地があり
ここが有事における詰めの郭だった。そこから麓に向かって下る途中、各所に空堀や
土塁が掘削されており、現在も幾許かそうした遺構が見て取れる。この他、文献によっては
御園(別名の由来か?)氏による城との説もあるが詳細は不明でござる。
結局、江戸幕府が成立した後に争乱は起きずこの城は廃城になったようだ。
城主であった小田切氏も江戸に移住している。移転に際し小田切氏は名主の役と居館を
横溝五郎兵衛(よこみぞごろべえ)に譲渡した。それにより、横溝氏は江戸時代全般を
通じて獅子ヶ谷村の名主を継承。鶴見川沖積地の新田開発や農業用水溜池の確保、
本覚寺を村内に建立する等の功績を挙げている。獅子ヶ谷村の石高は
正保年間(1644年〜1648年)に244石、元禄(1688年〜1704年)や
天保(1830年〜1844年)では309石という記録が。明治維新後には養蚕や
製茶業なども興して発展してきた。その中心たる横溝家の屋敷は、江戸時代後期から
明治中期にかけて建てられた諸建築がそのまま残されている。江戸期以来の
貴重な農村建築がこれほどまでに良好な状態で残存している例は貴重であり、
横浜市は1984年(昭和59年)から整備保全事業に乗り出し申した。各種建物の
補強・防火工事を行い、1987年(昭和62年)3月31日、横溝家17代目当主から
母屋・長屋門など5棟の寄贈を受けている。そして翌1988年(昭和63年)11月1日、
横浜市の指定有形文化財(建築物)登録第1号とされたのでござる。1989年(平成元年)
11月16日には横浜市農村生活館として一般公開開始。無料で見学でき
屋敷の裏手から城山へ登ることが可能となっている。上級者は中世の
小規模山城を見学するも良し、初心者は横溝屋敷を見て古き良き農村の
情景に思いを馳せるも良し、人それぞれに楽しめる史跡でござるな。
ちなみに、ここで耕作されている水田が鶴見区内に残る最後の田圃だそうな。


現存する遺構

横溝屋敷母屋・表門(長屋門)・穀蔵
文庫蔵・蚕小屋《以上市登録有形文化財》
堀・土塁・郭群








武蔵国 寺尾城

寺尾城址碑

所在地:神奈川県横浜市鶴見区北寺尾

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



小田原後北条氏5代に仕えた諏訪氏の城址と伝わる。創建年代に確証は無く、
一番古い説では南北朝時代に諏訪頼重が築いたとするものがある。建武新政期、
武家政権における東国枢要の都たる鎌倉を押さえていた
足利直義(ただよし、室町幕府初代将軍・足利尊氏の弟)を打ち倒し
鎌倉幕府復興を目指した北条時行(鎌倉幕府最後の執権・高時の遺児)が
鎌倉に乱入した1335年(建武2年)の「中先代の乱」において
時行に従って信濃国諏訪から遠征してきた人物が諏訪頼重でござる。
(時行は鎌倉幕府滅亡時に鎌倉を落ち延びて以来、諏訪で頼重に匿われていた)
しかし時行・頼重の軍は京都から攻めかけた尊氏の軍に追討されており
この時期から寺尾城を堅持し続けていたと考えるのはやや難がある。
信州諏訪氏の流れを組むのは正しいとしても、寺尾城が築かれたのは
やはり室町時代中期以降とすべきではなかろうか。現在、寺尾城の築城に関し
もっとも有力な説は永享年間(1429年〜1441年)、恐らくは1435年(永享7年)か
1436年(永享8年)とされてござる。この他、天文年間(1532年〜1555年)と見る説もある。
いまひとつ正確な築城年代が分からない一方、城主である諏訪氏に関しては
様々な史料にその名を見る事ができる。「新編武蔵国風土記稿」の「馬場村 城蹟」の項に
「小田原北条家に属せし諏訪三河守が居城の跡なりと云。今も村の中央にある丘の上なり。
年歴しことなれば今は堀なども埋まりて只雑木のみをひ茂れり」と寺尾城の記載がある。
また、小田原後北条氏の軍役帳「小田原家人所領役帳」においては1559年(永禄2年)の
内容として諏訪三河守は久良岐郡寺尾を二百貫文で知行し江戸衆に属していたとされている。
「小田原記」には「武州寺尾の住人諏訪右馬助」とあり、寺尾城近くにある
白旗明神の由緒では「永享七年六月五日寺尾の城主諏訪勧請す」となっている。
白旗明神の記録には更に続きがあり「寺尾城主二代目諏訪参河守、三代目
平三郎、四代目参河守、五代目馬之丞」と歴代城主の名が記されている。
初代である諏訪右馬助から5代に渡って諏訪氏が城主を受け継いだのだ。
信濃諏訪氏から分流した鶴見諏訪氏(としておく)は北条早雲の小田原城平定時
最初に功績をあげた家柄ということで相模衆十四家にも列されており
これが縁で北条領内、即ち武州久良岐郡寺尾の地に封を得たのでござる。
諏訪氏は文武に優れた良将であったらしく、これ以外の軍記物にも名が出てくる。
「鎌倉公方九代記」「北条記」によれば1495年(明応4年)北条早雲が宿敵である
扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と和睦を結んだ際に使者として赴いたのが
右馬助だったとされている。また、同じく「北条記」では1554年(天文23年)
後北条氏と甲斐武田氏が交戦に及んだ加島合戦の折、一番槍を上げて富士川を
渡河したのが諏訪右馬助(4代三河守の事か?)とござる。ちなみに諏訪氏は
武蔵国入間郡や橘樹郡、秩父郡(現在の埼玉県中西部)にも封を与えられており、
その地にも寺尾と名付けた城や村を有していたとされ研究家の関心を呼んでいる。
余談であるが、現在の行政区分になる前にこの周辺は寺尾城址を中心として
「馬場村」「東寺尾村」「西寺尾村」に区分けされていた。この3村を総称して
“寺尾”と呼んでいたそうで、「新編武蔵国風土記稿」に寺尾城の事を
「馬場村」の城跡(蹟)としているのはこれが故でござる。「馬場村」の名は
読んで字の如く、そこに寺尾城の馬場があった事に由来しており、ここに鎮座している
馬場稲荷(寺尾稲荷)には5代城主・諏訪馬之丞と関係した伝説が残る。曰く、馬之丞は
馬術に弱く日夜稲荷社に願を懸けていたところ、ある夜枕元に老翁の姿をした稲荷の神が
現れ「日頃の熱心なそなたの願いに感じ、今より馬術上達の加護を与える」と告げた。
以来、馬之丞はみるみる馬術に長じ、小田原旗本四十八番衆や
北条氏康(時の後北条氏当主)揮下十勇士にまで数えられるようになった。
その霊験にあやかる者はこぞって馬場稲荷に参拝するようになり、
江戸時代の記録には紀伊徳川家の者や江戸城の馬廻役が訪れたとある。
第2次世界大戦中には輜重兵らが武運長久を祈願しに来たとか。
話を寺尾城に戻そう。歴代諏訪氏によって守られてきた城であるが1569年(永禄12年)
10月、武田信玄が相模へ侵攻した際に落城し廃城となったというのが通説。武田軍は
碓氷峠(現在の長野・群馬県境)を越えて関東へ侵入し、武蔵を経由して小田原城の
攻撃を画策していたが、この時、寺尾城付近を通過して行ったのでござる。当時、
城主の諏訪馬之丞は小田原城の守備についており寺尾城には居なかった。当然、
寺尾城を守る十分な兵力はなかったのである。寺尾城下に迫った武田軍は城を焼き払って
落城、廃城させたと言われるのだが、一方で兵力不足の寺尾城は相手にもされず素通りされ
結局用を成さなかった城が廃されたという説もある。いずれにせよこの合戦後に馬之丞が
寺尾城に戻ったという記録はない。諏訪氏は1575年(天正3年)に滅亡しており
その時が(武田軍との交戦後放置された)寺尾城の廃城時期と見る向きもござる。
現在、寺尾城周辺は完全に宅地開発されており遺構らしいものは見受けられない。
全体的に丘陵地になっている周囲の状況から、そこに城があった雰囲気を
読み取ることくらいしか出来ないであろう。但し、住宅地の一角に殿山公園と名付けられた
公園緑地があり、そこだけは起伏に富んだ山野が残存しており申す。財団法人
横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターは1993年(平成5年)12月、公園整備に先立ち
この区画で170uにわたる大規模な発掘調査を行った。その結果、幅5m・深さ3m、
勾配角度50°〜70°という急傾斜で掘り込まれた薬研堀の空堀が検出され、そこは
宝永火山灰が堆積していた事が判明。即ち、寺尾城の空堀遺構は18世紀初頭以前に
埋没したのでござる。この発掘調査によって「新編武蔵国風土記稿」をはじめとする
数々の文献に記載された寺尾城の存在が考古学的に確定的となり申した。また、城に
関連する土塁の一部がキガクボと呼ばれた谷(天然の堀として使われていた)の
西縁にあるマンション内部に保存されているという。寺尾城の城地は南北に伸びる
舌状台地にあり、その南端がキガクボ谷、北端は堀切で台地基部と切断されていた。
城の東側は観音山と呼ばれる一段高い丘。その丘の麓にある観音堂の地下からは
1968年(昭和43年)小瀬戸の瓶子に入った約2000枚もの北宋銭が出土しており、
15世紀初頭〜中葉に埋められた寺尾城の軍資金ではないかと見られている。
これらが現在に残る数少ない寺尾城の遺構であるが、発掘後の堀は埋め戻されており
実際に目にする事はない。住宅街の中に建立された「寺尾城址」の石碑(写真)くらいが
城跡の存在を示すのみだが、これも一般民家の庭先にあるものなので見学の際には
要注意でござる。城跡周辺は1997年(平成9年)11月4日に市の登録史跡になっている。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域は市登録史跡








武蔵国 篠原城

篠原城発掘調査現地説明会時の様子

所在地:神奈川県横浜市港北区大豆戸町・篠原町

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



金子城とも。新横浜駅から東へ徒歩10分程の位置にある城。JR横浜線と東海道新幹線の
線路に挟まれた部分、正覚院という寺の裏山。最高地点の標高34m、比高25mほどの
台地先端部を利用した丘城で、特に北側は急傾斜の崖端城という様相を見せる。
反対に南側は台地続きなので、必然的にこちら側の防備を固くする必要があったと
思われる。よって、南側には空堀や切岸を掘削して敵兵の侵入を阻止する構造だった。
そしてより細かくこの小山を観察してみれば、山頂(主郭)から東への方向が
一番緩やかな傾斜となっているので、ここを階段状に造成し曲輪を連ね戦闘に備えた
梯郭式の縄張が想像できよう。ただし、現状で城地の殆どが住宅地になっており
往時の構造は全く垣間見えない。これらの住宅が、傾斜に合わせて階段状で建てられ
篠原城もこういう感じだったのでは?と推測する程度でござろう。また、北側の
本来は急崖だった部分も正覚院の墓地として造成され、さほど見るべき遺構には
なっていない。ごく僅か、主郭だったと思われる東西130m×南北90m程の部分だけが
残されるものの、こちらは逆に手付かず過ぎて完全に藪化している。なお、この区画は
横浜市が所有する管理地となっており勝手な立入は憚られる。この主郭を取り巻いて
空堀や土塁の残欠らしき起伏が垣間見えるので、それが当城の見所と言えよう。
城の歴史はあまり詳らかではない。戦国時代の後北条氏、小机衆(小机城主の隷下軍団)の
金子出雲守なる者の城だったと伝わるが、この金子出雲守がどのような人物だったかは
良く分からない。「新編武蔵国風土記稿」篠原村の項に古城があったという記載があり
「昔の代官金子出雲の塁跡なり」とされている。また、近隣の長福寺にある薬師如来の由緒で
「代官金子出雲が持たりし」とあったが、近年この薬師如来が調査され、その胎内から
1595年(文禄4年)銘の札が出てきた。その札に「名主金子出雲守」と記されていて
この伝承の裏付けが取れた事になる。とりあえず、篠原城主が金子出雲守だった事は
確かなようで、当城の別名「金子城(金子塁)」というのはそこから来ているのでござろう。
金子氏は江戸時代になると幕府の代官になったようで、篠原村の名主を幕末まで務めた。
城への道は民家の路地を入っていくので分かり難い。新横浜駅から見ると城の西側が
一番近い位置になるが、上記の通り東側が緩傾斜地で道が通じているので、いったん
東側へ大きく回り込む必要がある。しかし残存する主郭部へはやはり西側からが
入りやすいので、山を登りつつ住宅地の中をすり抜けて主郭西面へと至らなくてはならない。
たいして大きくもない小山なのだが、何度も何度も曲がりくねった経路を選ばねばならず
しかも住宅が密集する場所なので、近隣にお住まいの方に迷惑をかけぬよう配慮が必要だ。
写真は2011年(平成23年)1月29日に行われた篠原城址発掘調査現地説明会での様子。
それまで、東側の傾斜面も旧態が残されていたのだが遂に開発工事が始まり
宅地造成される事が決定された。これに先立ち緊急文化財調査が行われ、その成果が
発表された訳でござる。これによれば、開発される部分には2条の堀跡が検出され
土器なども出土したとの事。しかしこの現説の直後、あっという間に宅地造成が為され
現在ではもう住宅が軒を連ねている状態。他方、残存する主郭部分に関しては
まだ当分の間、改変される予定はないようだ。何とかこの最後の残存地だけでも
有効な史跡活用される事を祈りたい。


現存する遺構

堀・土塁・郭群等





玉縄城関連城砦群  横浜市内諸城郭(2)