琉球史(2)

第二尚氏王統の尚円王が即位したのは1470年。
日本本土では応仁の乱が勃発し、戦国時代に突入した頃である。
これから戦乱が激化していく本土に対し、ひと足早く琉球は
第一尚氏王統から第二尚氏王統への政権交代が済まされた。


16世紀の第二尚氏王統 〜 琉球の大発展期
群臣からの信を受け即位した尚円は、第二尚氏王統の基礎を固めた後
1476年に亡くなった。翌1477年、円の弟・尚宣威(せんい)が2代王位を継ぐも
その年のうちに彼も没してしまい、結局は円の子・尚真(しん)が3代王位に就いた。
以後、真は約50年に渡って治世を行っていく。その政策は文化発展を中心としつつ、
同時に王府である首里城の整備拡張を行い、王統の権威を向上させる事にあった。
例えば1492年に円覚寺を首里城のすぐ隣に建立、中国との文化交流拠点ともなる
琉球第一の寺院とし、1501年には第二尚氏の陵墓となる玉陵(たまうどぅん)を築く。
壮麗壮大な寺や廟所は、王族の高い格式を人民に喧伝するにうってつけの舞台であった。
その後も中国からの技術・文化導入により、首里城正殿前の龍柱建立や
端泉門前の龍樋に龍頭設置が行われ、琉球王府が大陸と盛んに交流を行い
明帝国の冊封・後援がある事を内外に示して権力基盤を強固なものにしたのである。
一方で軍事的活動も抜かりなく行い、1500年にオヤケアカハチ(於屋計赤蜂)の乱を
平定して八重山諸島の従属を為し、1522年には与那国島も征服した。こうした功績から、
尚真王の時代は琉球王国の黄金期と呼ばれる。聡明強大な王の統治により、
もはや琉球諸島に逆らえる者はいなくなり、各地の按司(あじ、地方統治の族長)は
首里城下の居住を定められた。信長が安土城、秀吉が大坂城に配下武将の屋敷を
構えさせたのと同じである。さらには“琉球版刀狩”と称される武装解除政策も行われ、
琉球全土は世界的にも珍しい非武装平和の時代を迎える。
尚真王の没後、王位を継いだ尚清(しょうせい)王以後もその政策路線を継承し、
1529年に作られた待賢門(たいけんもん、首里城の入口に待ち受ける門)には
1579年に「守禮之邦」の扁額が掲げられた。即ち、琉球王国は武略・謀略ではなく
礼節を固く守る国、という宣言だ。第二尚氏王統の支配は、理想的楽園の体現であった。
待賢門「守禮之邦」扁額待賢門「守禮之邦」扁額(沖縄県那覇市)

第二尚氏王統系図(1)

第二尚氏王統系図(1)  ―は親子関係 数字は王位継承順

島津氏の侵攻 〜 琉球王国、試練の時代へ
第二尚氏王統が爛熟期を迎えていたのと同時期、日本本土では戦乱を乗り越え
信長・秀吉による新たな中央政権体制が確立、強大な軍事政権が成立していた。
比較的平穏な時代が続いていた琉球王国であったが、激変の要因となったのが
秀吉の朝鮮出兵であった。琉球と日本本土を繋ぐ窓口となっていた薩摩の島津氏が
1591年に秀吉の意向として、琉球も朝鮮出兵に兵や兵糧を供出せよと命じてきたのだ。
(朝鮮・中国のみならず沖縄にまで負の遺産を残した秀吉、困ったものである)
当然ながら、琉球はこの要求を断った。平和国家を標榜する琉球が、軍事作戦に
参加などするわけがない。ましてや“万国津梁”の海洋国家にして、中国からの冊封を
受けている立場の国が、大陸出兵などしたら当の中国と敵対する事になるからだ。
ところがこの事件は、後々に大きな禍根を残す事になる。
琉球に賦役を断られた島津氏は、とりあえずその場では自国だけでの出兵に切り替え
秀吉の出兵命令執行を最優先としたが、江戸幕府が成立し天下が安定した後の
1609年、出兵要請拒否の報復として琉球へ侵攻したのだ。朝鮮出兵を命じた秀吉は
既に没し、豊臣氏の時代すら過去のものになろうとしていたこの時期なのに
それでも琉球へ兵を出した事件は、島津氏が琉球を属領化させ、それまでは
(日本・中国の両方に朝貢していたとはいえ)独立国家であった琉球王国を
明確に「日本領である」と策定する政治的意図があった。中国との窓口となる琉球を
自領に組み込む事が出来れば薩摩の経済基盤は大きく潤うし、秀吉の出兵で朝鮮経由の
通商にしこりが残っていた徳川幕府としても、新たな外交ルートを確保し得る琉球従属は
渡りに舟だったと言えよう。幕府の黙認を取り付けた島津氏は、3000の兵で琉球に侵入。
満足な兵力を持たなかった琉球はあっという間に蹂躙され甚大な被害を出した上、
当時の王・尚寧や重臣らは薩摩に連行されてしまった。尚寧王は江戸まで上り
将軍・徳川秀忠の謁見を受けた後にようやく開放され帰国したが、以後、琉球王国は
薩摩藩の厳しい管理下におかれ、独立国家としての自由は奪われた。

第二尚氏王統後期の琉球 〜 過酷な薩摩支配の中、誇りは王府の城
薩摩の過酷な支配下に置かれた琉球王国。奄美群島は薩摩藩直轄地とされ分割、
(現在の沖縄県と鹿児島県の境界線が確定したのはこれによる)砂糖などの特産品は
薩摩の専売品として厳しい管理統制が行われ、住民が自由に扱えるものではなくなった。
一応、王統は存続され国家としての体裁は残されたものの、1634年からは“江戸上り”と
称される慶賀使・謝恩使の派遣が行われるようになった。これは徳川将軍の代替わり時に
琉球国王から慶賀の使者を送るもの。本来、こうした使者を送るのは外交儀礼として
好ましいものと言えるが、江戸上りは義務的強制に基づくもので、琉球が薩摩を通じて
日本の属領の地位に虐げられた事を如実に示したものと言えよう。薩摩による支配は
明治近代化まで270年に渡って続いたが、しかし一方で、従来からの中国との関係も続き
琉球国王は冊封によりその権威が認められる事に変わりがなかった。言わば、日本と中国の
二重支配を受けた琉球王国。大陸規模渡洋が可能な南蛮船が頻繁に往来し、日本や中国も
独自の交易ルートを確立するようになった17世紀以降、中継貿易点としての地位も薄れた
琉球王国にとっては、ますます苦しい立場に追い込まれたのである。

第二尚氏王統系図(2)
「琉球国王」の称号についても、
薩摩の圧力により
8代・尚豊(しょうほう)王から
13代・尚敬(しょうけい)王まで
使用が許されず、
琉球国司とされていた。

第二尚氏王統系図(2)  ―は親子関係 数字は王位継承順


★この時代の城郭 ――― 首里城:琉球王府
屈辱的支配に甘んじる事になった琉球の民にとって、心の拠り所は王府である
首里城であった。第二尚氏王統の成立後も逐次首里城の改修は継続されていたが
特に17世紀以後、その傾向は顕著なものとなっていく。1621年〜1627年にかけて
正殿の隣に南殿(なんでん)を創建。1660年には失火により城内が全焼してしまうが
薩摩の支配下にありながら復興に着手する。1667年、正殿の前に有名な大龍柱が立てられ
1682年に陶工の平田典通(ひらたてんつう)が中国で習得した技術に基づき
龍頭棟飾を製作、正殿の屋根に据えられた。1709年、再び首里城は全焼してしまうが
1715年までに再建を果たし、以後、1846年まで必要な時期毎に修理が行われている。
特に1768年の正殿修理は大がかりなもので、この時に工事記録である
「百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)普請付御絵図并御材木寸法記」が残された。
首里城の拡大発展は、王国の民が一丸となり行われた国家的事業だったのである。
首里城正殿首里城正殿(沖縄県那覇市)

王国の誇りを守るため、琉球独自の史書編纂も行われた。1650年、時の摂政(しっしー)
羽地朝秀(はねじちょうしゅう)が琉球正史となる「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」を
編集。全6巻で成るこの史書は、薩摩の支配に配慮した部分があったり、非現実的な
伝説的内容も含んだものであるが、編纂事業は琉球国威の高揚に寄与した事であろう。
1701年には詩人としても名高い蔡鐸(さいたく)が「中山世譜(ちゅうざんせいふ)」を編集。
これは日本寄りに解釈・記録された中山世鑑を、それまでの琉球外交記録などを参考にして
再編し、より琉球独自の史書として相応しい内容に仕上げたもの。中山世鑑が和文で
記されていたのに対し、中山世譜は漢文で記録されている。この作業は蔡鐸の子である
蔡温(さいおん)にも継承され、それぞれ蔡鐸本・蔡温本と分類されている。
この他、1713年には琉球王府が直接編集した「琉球国由来記」も創刊された。

外国船の来航 〜 西洋諸国と修好条約を締結
19世紀になると、御多分に漏れず琉球周辺にも西洋諸国の船が出没するようになる。
主なものを挙げれば、1816年に英艦ライラ号とアルセスト号が来航したのを皮切りに
1844年にはフランス海軍の軍艦が那覇港に入港した例がある。特にフランス軍船が
入港した折には開国要求を突きつけられた。1846年にはイギリス海軍も来航。これら
2国の圧力により、当時(日本本土と同じく)琉球国内で禁教とされていたキリスト教の
布教が許可されるようになった。
そして1853年、米国東インド艦隊を率いたマシュー=カルブレイス=ペリー提督が来琉。
日本との開国交渉に赴く途上、那覇港に立ち寄ったペリー艦隊は、琉球を拠点に小笠原や
浦賀へ向かい、外交や測量の活動を展開。翌1854年に江戸幕府との開国交渉を成功させるや
再び沖縄に現れ、琉球王府とも折衝を行い、6月17日に琉米修好条約を締結した。
これに続いて1855年10月15日には琉仏修好条約、1859年6月7日に琉蘭修好条約を締結。
内容としてはそれぞれアメリカ・フランス・オランダと琉球との間に
1.自由貿易の承認
2.各国船舶に対する琉球からの薪水給与
3.各国船舶からの漂流民の救助と引渡
4.各国の領事裁判権を認める
といった事を旨とする約定が結ばれた。自由貿易と言いつつ、琉球に関税自主権はなく
領事裁判権の設定など、いわゆる不平等条約であるが、西欧諸国は琉球王国を江戸幕府と
切り離した一つの独立国と認めたものであり、歴史的意義は(知名度に反して)大きい。
明治政府成立に伴って琉球王国が消滅(詳しくは後記)した事でこれらの条約は事実上
無効となってしまい、現在では詳細もよくわからないが、中国大陸ではアヘン戦争などで
西欧諸国の侵略が激化、フィリピンやベトナムの争奪戦などもあり東アジア情勢が激変する
情勢下にあって、琉球王国の存在意義が再び高まった事の現われとも言えよう。近代以降、
沖縄はますます悲惨な境遇を味わうが、米・仏・蘭が独立国と認めた事は海洋王国の復権、
最末期の琉球王国が最後に咲かせた一花だと思いたい。

★この時代の城郭 ――― 中城城:ペリー一向も驚嘆
琉球開国交渉のために上陸したペリー一向は、王府・首里城だけでなく
琉球各地の見聞・測量のために、豊見城城など各地の城郭へも立ち寄っている。
その中でも特に記録が残っているのが中城城に関するもの。
1853年5月31日、中城城を訪れたペリーは「日本遠征記」に
『要塞の資材は石灰岩であり、その石造建築は賞賛すべきものであった。
 石は非常に注意深く刻まれて繋ぎ合わされているので、漆喰もセメントも
 何も用いていないが、この工事の耐久性を損うようにも思わなかった』と記している。
この当時、郭内に薩摩藩の番所が置かれているだけで既に中城城は実用とされておらず、
護佐丸の築城以来そのままの石垣が残されていたのみであるが、
ペリーらを驚愕させる堅牢な構造が維持されていたのだ。
日本人には“紅毛の赤鬼”と恐れられたペリーだったが、そのペリーを驚嘆させた
中城城は、静かに佇みながらも米国艦隊に一矢報いる存在と成り得たのだろうか?
この後、第二次大戦の沖縄戦を経てなお生き残った中城城の石垣は
2000年12月2日「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産になっている。
ペリー艦隊随行絵師・ウィリアム=ハイネの描いた中城城ペリー艦隊随行絵師・ウィリアム=ハイネの描いた中城城




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