★この時代の城郭 ――― 一国一城令
武家諸法度に先立つ閏6月、城郭に関連した重要な法令が発布されている。
いわゆる「一国一城令(いっこくいちじょうれい)」で、簡単に要約すれば
一大名の領国(または一令制国)には一つの城しか置いてはならず、
それ以外の城は全て破却せよ、という命令である。具体的に言えば、一つの
令制国の中にいくつかの藩がある場合、その藩ごとに一つの城だけ残す事ができる。
例えば、出羽国の場合は上杉氏の米沢城・最上氏の山形城…といった具合だ。
逆に、一大名が複数の令制国を領有している場合、その令制国ごとに一つの城を
保有できる。例えば藤堂氏の場合、伊勢国の津城・伊賀国の伊賀上野城を残せた。
ただ、この法令は厳格に規定されたものではなくかなり弾力的に運用されたようで
それに伴って詳細な条文が作成されていない。幕府が特別と認めた大名に関しては
領国の中に実質的な城が残された場所も多い。薩摩島津家の場合、領国全体を以って
城とする考え方があったため、本城である鹿児島城が簡易な作り方になっているぶん、
領内に点在する都市群が個別の城砦として機能する作りになっていたのだが、幕府は
これを黙認。また、仙台伊達家の場合は本城である仙台城の他、特別に片倉家の城である
白石城の存続も許された上、領内各地に「要害」と呼ばれる実質的な城が確保されていた。
しかし逆に、幕府の監視の目を恐れて厳格に適用する大名も居た。毛利氏は
周防国と長門国の2令制国を持っていたのだが、本城である萩城(長門国)だけ残し
岩国城(周防国)は幕府から存続の追認を受けていたにも拘らず破却してしまう。
もっともこれには別の理由もあり、岩国城を持っていた吉川氏は支藩格の大勢力であり
関ヶ原時に毛利宗家と意見を異にした経歴があった事から「吉川潰し」の意味で
岩国城の破却を行ったのである。つまり一国一城令は、幕府から見れば「不要な城郭を
整理し、再び戦乱が起きないようにするための安全策」であり、それに従った諸大名に
とっては「法令を楯に藩内の統治体制を中央集権化する大義名分」になったのである。
もちろん、関ヶ原で徳川氏に敵対した毛利氏にしてみれば、必要以上に法令を遵守し
幕府からの警戒を逸らす意図があった事は明白であり、他の大名もこれに倣い、
領内の諸城を破棄している。その結果、それまで全国に3000もあったと言われる城郭は
約170に整理された。こうして軍事拠点となる城郭が消滅した事で、以後250年におよぶ
平和な時代が訪れるようになったのである。
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