幕藩体制の成立

豊臣氏が滅亡した事で、江戸幕府による武家支配体制が完成。
さて、幕府による諸藩統制という社会制度を、
一般に“幕藩体制”と言うが、この「藩」という単語は
開国後の最幕末期に一部の有力大名が諸外国に対し、自分たちの勢力が
幕府とは異なる組織である事を表現するため使い始めたものである。
よって、江戸幕府成立当時は「藩」という用語ではなく
「○○家家中」とか「▲▲家領分」(例:播州浅野家領分)と
呼んでいたのだが、この頁では説明をわかりやすくするため
江戸初期の段階から「藩」の言葉を用いるのを御了解いただきたい。


武家諸法度と禁中並公家諸法度 〜 幕府、武家と公家を統制
豊臣氏が滅亡した直後、江戸幕府は重要な法令を立て続けに発布した。一つは武家諸法度
(ぶけしょはっと)、もう一つは禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)だ。
1615年7月に示されたこれら法令は、前者が諸大名をはじめとする全国の武士を統制し、
後者が天皇をも含む公家・朝廷(一部僧侶)の統制を記した規範である。
家康の命により崇伝が起草、秀忠が発布した武家諸法度(この時のものを元和令という)は
全13ヶ条から成り、武士たるものは文武の道を嗜む事、新規築城の禁止・修築も許可制とする、
謀反の厳禁・徒党を組む事の禁止、大名らが勝手に婚姻をする事の禁止、謀反人・殺人犯などの
召抱えを禁止、などの内容となっており、法度を破った者は取り潰し等の罰が与えられた。
要するに、武家の棟梁である将軍が配下の諸大名を統制するための根拠規定となる法律で
江戸幕府という「政治機構」が、統治の安定性と正当性を明示したものだと言える。その一方、
戦国時代をくぐり抜けた武家の法令らしく、それまでの分国法をベースとした内容になっていて
一説によれば、甲斐武田家の分国法「信玄家法」が多分に取り入れられているとの考え方もある。
(徳川家は本能寺の変以後、甲信地方を領有し武田家の旧臣・制度を取り込んでいる)ともあれ、
この法度は将軍の代替わりの都度に発布され、必要に応じて条文の追加・改定が行われている。
禁中並公家諸法度は、同じく崇伝が起草し、家康・秀忠・二条昭実(前関白)の連署で公布。
17ヶ条から成り、天皇をはじめとする公家は学問を修めるもの、摂政・関白任官における規則、
改元の法則、官職位階の決定、公家の罪罰規定、といった事が定められており、幕府が朝廷を
統制する為の明文法であった。つまり、朝廷さえも幕府が定めた法に従わねばならず、ここに
徳川幕府はあらゆる政治権力を一元的に掌る存在になったと言える。
加えて、幕府は寺院に対し諸宗寺院法度(他の呼び名もあり。単独の法令ではなく諸規範の総称)
神社には諸社禰宜神主(ねぎかんぬし)法度を発令している。これらは共に1665年制定だが、
元和時代にもこれに類する統制があり、宗教勢力に対しても幕府の管理が行われていた。
即ち、戦国時代に起きた一向一揆のように、宗教権威に基づく勢力が幕府の統治と対立するような
事態の予防と共に、禁教とされたキリスト教の伝播を防ぎ信教の制限・監視を行うものである。
軍事力という“実”を持ち、明文法による“名”も備えた幕府は、あらゆる権威を凌駕して
日本全土を支配下に治める体制を整えたのであった。

★この時代の城郭 ――― 一国一城令
武家諸法度に先立つ閏6月、城郭に関連した重要な法令が発布されている。
いわゆる「一国一城令(いっこくいちじょうれい)」で、簡単に要約すれば
一大名の領国(または一令制国)には一つの城しか置いてはならず、
それ以外の城は全て破却せよ、という命令である。具体的に言えば、一つの
令制国の中にいくつかの藩がある場合、その藩ごとに一つの城だけ残す事ができる。
例えば、出羽国の場合は上杉氏の米沢城・最上氏の山形城…といった具合だ。
逆に、一大名が複数の令制国を領有している場合、その令制国ごとに一つの城を
保有できる。例えば藤堂氏の場合、伊勢国の津城・伊賀国の伊賀上野城を残せた。
ただ、この法令は厳格に規定されたものではなくかなり弾力的に運用されたようで
それに伴って詳細な条文が作成されていない。幕府が特別と認めた大名に関しては
領国の中に実質的な城が残された場所も多い。薩摩島津家の場合、領国全体を以って
城とする考え方があったため、本城である鹿児島城が簡易な作り方になっているぶん、
領内に点在する都市群が個別の城砦として機能する作りになっていたのだが、幕府は
これを黙認。また、仙台伊達家の場合は本城である仙台城の他、特別に片倉家の城である
白石城の存続も許された上、領内各地に「要害」と呼ばれる実質的な城が確保されていた。
しかし逆に、幕府の監視の目を恐れて厳格に適用する大名も居た。毛利氏は
周防国と長門国の2令制国を持っていたのだが、本城である萩城(長門国)だけ残し
岩国城(周防国)は幕府から存続の追認を受けていたにも拘らず破却してしまう。
もっともこれには別の理由もあり、岩国城を持っていた吉川氏は支藩格の大勢力であり
関ヶ原時に毛利宗家と意見を異にした経歴があった事から「吉川潰し」の意味で
岩国城の破却を行ったのである。つまり一国一城令は、幕府から見れば「不要な城郭を
整理し、再び戦乱が起きないようにするための安全策」であり、それに従った諸大名に
とっては「法令を楯に藩内の統治体制を中央集権化する大義名分」になったのである。
もちろん、関ヶ原で徳川氏に敵対した毛利氏にしてみれば、必要以上に法令を遵守し
幕府からの警戒を逸らす意図があった事は明白であり、他の大名もこれに倣い、
領内の諸城を破棄している。その結果、それまで全国に3000もあったと言われる城郭は
約170に整理された。こうして軍事拠点となる城郭が消滅した事で、以後250年におよぶ
平和な時代が訪れるようになったのである。


大名・小名の分類
さて、江戸時代において大名の家格は将軍との関係によって大きく3種類に分類される。
その3つとは、親藩(しんぱん)・譜代(ふだい)・外様(とざま)である。詳しく説明すると
まず、親藩は徳川将軍家と血の繋がりのある家、つまり徳川一門の大名の事だ。
御三家を筆頭とし、家康の子息や兄弟、そこから派生した一門衆を総称してこう呼ぶ。
先に名前の出た松平忠輝(家康6男)や松平忠直(結城秀康の子)・保科正之
(秀忠の庶子、詳しくは後記)などがこれに当たる。
次に譜代だが、関ヶ原合戦以前、まだ家康が豊臣政権内の一大名に過ぎなかった頃から
徳川家の家臣として仕えていた部将の家を指す。本多・酒井・榊原・井伊と言った面々や
家康が甲信地方を押さえた際に付き従った小笠原氏、関東封入による太田氏などだ。
最後に外様、これは言うまでも無く関ヶ原以後、征夷大将軍となった徳川氏に従った大名で
仙台の伊達、加賀の前田、薩摩の島津などはこれに分類される。ちなみに、元和偃武時点で
50万石を越える所領を持っていた大名は8家あったが、そのうち6家は外様大名。関ヶ原の
戦功により得ていたわけで、外様大名に巧妙な“飴”を与えた幕府の作戦であったが、
その反面、外様の家柄は幕府の政治に決して加わる事ができない“鞭”もあった。
幕政に関わる事ができたのは、譜代家臣と親藩大名のみ。大きな所領を持たずとも、
幕府(つまり国政)を動かす大きな権力が与えられていた。江戸幕府の大名統制は、
プラスとマイナスを天秤にかけ、どちらかに偏る事の無い絶妙な配分が為されていたのだ。
ところで、大名と呼ばれるのは将軍から1万石以上の所領を与えられた武士を指す。
1万石未満の所領の場合、大名とはならない。これら小名のうち、将軍に謁見を許された
上級待遇の者を旗本(はたもと、戦国期に大名直属家臣という意味で用いられた用語)と
言い、それより下級の者(これを「御目見(おめみえ)以下」と呼ぶ)を御家人と呼んだ。
また、1万石以上の所領を持っていても大名の家臣の地位(つまり将軍から見ると陪臣)に
ある場合、大名としては扱われない。有名なのが尾張徳川家の附家老とされた成瀬家で
犬山城を有し、石高も3万5000石を数えていたが独立した大名として認められていなかった。
成瀬家は江戸時代を通じて独立を要求し続けたが果たせず、ようやく大名に列せられたのは
何と明治に入ってから。しかも直後に廃藩置県となったため、ごく短期間だけの大名であった。

家康死去 〜 東照大権現、日光に祀られ天下を守護す
1616年4月17日、前将軍・徳川家康が没した。享年75歳。関ヶ原戦役後、江戸に幕府を開き
将軍職の徳川家世襲制、豊臣家の滅亡、そして幕藩体制を磐石なものとする法制度を整備し
徳川の世が末代まで続く事を完成させたあとでの見事な大往生であった。遺言により、
遺体は当初の1年間を駿府久能山に祀った後、下野国日光へ改葬する事とされたので、
これを縁始として開かれたのが久能山東照宮と日光東照宮(当初は東照社)である。
家康は死後に神格化され、朝廷からの追号の形で東照大権現(とうしょうだいごんげん)の
神号が与えられたため、東照宮は大権現の神威を以って国を守護する社と讃えられ、のちに
全国各地に東照宮が分祠されていった。これには、家康を敬う態度を見せる事で幕府から
信頼を得ようとする諸大名の政治的思惑も働いていた。なお、日光東照宮が現代にまで残る
豪華な神社として整えられたのは3代将軍・家光の頃。尊敬する祖父・家康の墓所として
相応しいものにすべく当時の最高級技術を惜しみなく注ぎ込み、幕府の権威を全国に知らしめる
国家的事業として工事を執り行った。その結果、現在では世界遺産になっているのは周知の通り。
江戸幕府を鎮護する霊廟は、今や世界に冠たる聖地となったのである。
徳川家康像徳川家康像

★この時代の城郭 ――― 築城名人列伝(3):中井正清
創建当初の日光東照社をはじめ、徳川家の建築物に深く関わりのある人物が中井正清だ。
彼は武士ではない。もちろん、大名でもない。では何者かと言えば、大工である。築城に
携わる技術者なのだ。つまり、江戸時代初期に築かれた城を実際に建てた人物である。
中井家はもともと大和国で宮大工を営んでいたのだが、正清が父に従い仕事を始めた頃
当時、大和を領有していた羽柴秀長に見い出され、大坂城の普請に携わるようになった。
ここで城郭建築、特に天守のような高層建築物の技術理論を会得し、秀長の下を辞した後
徳川家康に200石で召抱えられたのである。後に500石へと加増され、徳川家の建築工事に
陣頭指揮を執る立場となった正清は、関ヶ原合戦後に畿内近江6ヶ国の大工・大鋸支配を
申し付けられ、京都二条城(徳川期)の作事を行った。これ以降、江戸城は勿論、家康の
隠居城たる駿府城を創築。既に従四位下・大和守の官位も得た上、石高が1000石に達し
熟練の域に及ぶ年齢の頃、東海の要となる名古屋城の作事も引き受ける。名古屋城天守は
高さこそ僅かに及ばないものの、将軍家の本城たる江戸城の天守を抜いて総床面積が
日本最大のものだった“超巨大建築”なのだが、これを成立させたのは、ひとえに正清の
優れた技術があったからに他ならない。
彼が手がけたのは城郭だけではなく、一例を挙げれば芝増上寺(徳川家菩提寺)、京都知恩院、
京都御所諸建造物(仙洞御所・女院御所・内裏など)、法隆寺、相国寺、久能山廟、日光廟と
いずれも幕府が威信を懸けて建造したものばかりが名を連ねる。また、江戸の町割を
設計したのも正清が関わっているらしい。要するに、江戸時代初期の名建築はほとんどが
中井正清の手によると言っても過言ではないのだ。
言うまでも無い事だが、天守のように高層・巨大な建築物は重量計算や耐震構造など、
正確な設計が行われていなければ建てられない。当然、それには専門の技術者が必要で
正清がその任に就いていたのである。徳川家の治世を支える城郭は、彼が居たからこそ
成立させる事ができたのだ。日本史全般から見ると名の知られる事の無い人物かもしれないが
城郭史においては欠かすことのできない重要人物であり、実は天下泰平を成し遂げた
「影の“建”役者」だったと言える。なお、正清の死後も中井家は幕府の御用大工であり続けた。

ところで家康の死後、駿府城は頼宣の城とされたが、1619年(中井正清の没した年)その頼宣は
紀州和歌山へと移された。未だ豊臣氏を懐かしむ気風が残る大坂の目前にある和歌山へ
徳川家一門(それも剛毅な性格で知られる頼宣)が入ったのは、関西地方の監視を厳しく
行い、豊臣家の威勢を払拭するためであった。ここに、徳川頼宣を祖とする紀伊徳川家が
成立し、徳川御三家は尾張・紀伊・水戸の3家を指す事へと変化していく。

武断政治の展開 〜 福島正則の例
頼宣が入るまで、和歌山は浅野家の領地であった。その浅野家は、和歌山から広島へ
移された。では広島はと言えば、福島正則の領地だったはずである。一体どういう事なのか?
この年の夏、大雨で広島に洪水が発生。正則の居城であった広島城は、石垣や建物に
被害を受けた。このため正則は修繕を行ったのだが、幕府に無断であったという事から
武家諸法度に定められた「城の改修には幕府の許可を要する」という項目に違反したとされ
処分を受けたのである。実は正則、幕府に届けを出してはいたものの、その返答を待たず
城の修理を行ったらしい。いや、幕府の返答が遅れたのに関しても、幕閣内の政治的
対立から発生したとか、正則をわざと処罰対象にするために引き伸ばしたとか、諸説あり
実情がどのようなものだったかは極めて不透明である。とにかく、正則が幕府の許可なく
広島城の修繕を行っ(てしまっ)た事だけは確かで、弁明のため修理した部分をわざと
再破壊する(これも実際には異なるらしい)などの手立てを講じたものの、結局は安芸国
50万石を取り上げられ、信濃国高井野4万5000石への大幅減封という処分を食らった。
彼は程なくして信州の片田舎で寂しく没し、福島家は歴史の表舞台から消え去る。
福島正則墓所(長野県上高井郡小布施町)福島正則墓所(長野県上高井郡小布施町)
関ヶ原以後も豊臣家大事を叫び、幕府から危険人物と見られていたが故に、ある意味
「見せしめ」的に嵌められた感がある正則の左遷人事。50万石もの大大名であっても、
些細なミスで一気に没落したこの事件は、幕府の統治を強化する為には目障りな大名が
容赦なく抹殺される事を明らかにしたのである。出羽の名族であった最上氏も、
御家騒動を起こした結果、山形57万石を取り上げられ僅か1万石の所領に移されている。
また、幕府の厳しい処断は外様大名だけでなく親藩や譜代大名にも分け隔てなく与えられた。
代表的なものが松平忠輝の例で、将軍・秀忠の弟という特別な地位にありながら領地を
没収され、追放の処分を受けている。忠輝は剛毅な性格が行き過ぎて、むしろ過激・驕暴な
振舞いを度々見せたため粛清されたのだ。こうした事例を見て、他の大名も襟を正したに
違いない。家内に少しでも不都合があれば即時に幕府から厳しい処断が行われるのだから。
なお、大名の処分の理由には、上記のような“城の無断修築”“大名としての資質に劣る”と
いったものの他、“無嗣断絶”という事例が多かった。要するに、大名が跡継ぎの無いまま
没してしまった場合、自動的にその領地は幕府に没収され、家名が断絶するというもの。
これを防ぐためには、できるだけ子息を産ませ、どうしても叶わぬ場合は養子を取ってでも
跡継ぎを用意する必要があったのだが、大名が臨終の間際に養子を取る事は武家諸法度で
禁じられていた(これを「末期(まつご)養子の禁」という)ため、家督の相続については
さまざまな苦労があったようである。
ちなみに、大名が所領を全て没収され家名を絶たれる事を「改易(かいえき)」と言い
領地を削られる懲罰を「減封(げんぽう)」と言った。減封の場合、往々にして所領そのものを
別の場所に移される(これを「転封(てんぽう)」と言う)事が多かった。

中宮和子の入内と紫衣事件 〜 内政家・秀忠の本領発揮
法制度と武断処置により厳しい統治体制を確立しつつあった江戸幕府。もはや諸大名に
幕府と対立する力は無く、朝廷・寺社などの諸権威も従順に従うしかなくなった。しかし
将軍・秀忠はこれで支配力の完成とは見做さなかった。とどめの一手、朝廷権威を完全に
屈服させるため、少々無理な難題を天皇に突きつける。自身の5女・和子(かずこ)
後水尾天皇の中宮に迎え入れるよう迫ったのだ。
実はこの計画、もともとは家康が存命時代に計画され、当初は家康の娘を嫁がせるよう企図して
いたとも言われる。しかしその娘が夭折した為、和子に白羽の矢が立ったとか。ともあれ、この
計画を引き継いだ秀忠は、父・家康譲りの政治的才覚を開花させ、朝廷に(半ば強引な)承諾を
迫る。結果、幕府の力を恐れた朝廷は(さまざまな曲折があったものの)要求を受け入れ、1620年
6月18日に入内させた。この時、濁点のある名前「かずこ」を忌み改名、和子(まさこ)と称した。
皇室と幕府の板挟みとなる立場で順風満帆とは行かなかったが、天皇との夫婦仲は良く、彼女は
女一宮興子(おんないちのみやおきこ)内親王女二宮内親王などを産んだ。天皇家の血筋に
徳川家の血が入ったのはこれが最初で最後であり、秀忠がいかに強い権力を持っていたかが
窺える話である。(ちなみに和子は男子も産んだが、不幸にして早世している)
ところがこの後、大きな問題が持ち上がる。1629年、紫衣(しえ)事件と呼ばれる一件だ。
紫衣とは朝廷が認めた高僧に与えられる法衣。これを僧侶に贈る行いは朝廷権力が宗教勢力を
認定する事であり、即ち朝廷と諸宗派がそれぞれの権威を喧伝する事に繋がるため、幕府は
禁中並公家諸法度で紫衣の贈呈を厳しく制限していた。しかし朝廷は、この当時名の知られていた
僧侶らに独自で紫衣を与えてしまったのである。当然、幕府はその裁定を認めず、与えられた
紫衣を剥奪するように指示。この当時、既に将軍職は3代・家光に引き継がれていたが、事実上
政務を取り仕切っていたのは秀忠であった。大御所・秀忠の果断に対し、朝廷のみならず
宗教界からも反発が巻き起こり、大徳寺の住職・沢庵宗彭(たくあんそうほう)らが幕府に
抗議書を提出するほどであった。しかし、幕府は「法は法」としてこうした反論を一切認めず、
幕府に反抗した沢庵らは流罪に処せられてしまった。沢庵は臨済宗の名僧として知られ、
当の幕府からも一目置かれる存在ではあったが、それにも関わらず流罪とした所に、幕府が
朝廷勢力や宗教勢力に甘えを許さず、厳しい統制を図ろうとした意図が見える。また、如何なる
者に対しても決して法の適用を緩めなかった事は、従来の豊臣政権などとは違い「法治主義」を
貫く姿勢を表しており、幕府の施政方針に揺るぎが無い事を示した。

★この時代の城郭 ――― 江戸城(3):江戸の町造りと秀忠の元和度天守
秀忠の治世、江戸の町造りは一応の目処がついた。もともと江戸は湿地帯の寒村。
秀吉の命により家康が入った当時もその状況に大差はなく、また、当時の家康は新領国の
統治体制再編や朝鮮出兵の後方兵站業務などを優先としたため、大がかりな都市開発は
控えていたのだが、関ヶ原で勝利を掴み天下の主となって以降、ようやく造成に着手。
山を崩し川の流れを変え海を埋め立てる大工事は10年以上の歳月をかけ、秀忠の代になり
やっと完成の域に達したのである。こうした大規模都市開発事業は、とても家康の代だけで
終わるものではなく、事実上江戸の町割を策定したのは秀忠だと言われている。もちろん、
以後も順次改変が行われていくわけだが、現在の東京が繁栄する基盤整備を成したのが
徳川2代将軍・秀忠だったのだ。
一方で秀忠は、江戸城の改変工事にも手をつけた。完成した江戸の町と一体となり、城の
防御力を高めるのみならず、父・家康の城を生まれ変わらせる事で、2代将軍の治世を
天下に示す事が狙いであった。当然、この工事も全国の諸大名に手伝普請が命じられ
彼らの忠誠度を試すと同時に、その経済力を削ぐ事に力点が置かれている。豊臣家が滅び
天下の火種はなくなったにも関わらず、それでも諸大名に対する抑圧の手を緩めない秀忠。
しかしそれだけ念入りに統制を図ったからこそ、徳川250年の安泰を勝ち取る事ができたのも
また事実。偉大なる父の方針を忠実に引き継ぎつつ、自らの政治色に塗り替えた秀忠の
手により、江戸城は更なる進化を遂げ、慶長度天守を超える巨大な新天守も造営された。
秀忠の命により築かれたこの新天守を元和度天守と呼ぶ。信長の安土城以来、近世城郭の
象徴であった天守は、政治的意味合いを高め“天下の主”を明示する喧伝装置であった事の
証明であろう。城の在りようを理解する徳川秀忠、有能な政治家だったようである。
江戸城元和度天守復元CG江戸城元和度天守復元CG [(C)3kids]

ところが紫衣事件は思わぬ影響を幕府に及ぼした。あまりに過酷な締め付けを嫌悪した
後水尾帝が、抗議の意味を含めて突如退位してしまったのだ。このため、急遽即位する事と
なったのが女一宮改め明正天皇である。そう、秀忠を外祖父とした天皇が誕生したのだ。
単純に考えると、これで徳川家の権勢が極まった事になるのだが、然に非ず。問題は
明正天皇が女帝である事だ。皇位にある以上、その身は神聖にして犯す事のできぬ存在。
結果、明正天皇は夫を持ち契りを交わす事ができず、徳川による皇統は一代限りとなる。
後水尾帝はこれを狙って退位したのだ。しかも、幼少の女帝が即位したとて実質的な政務は
果たせる筈が無く、退位した上皇が院政を敷く事になる。平安末期から隠然とした権威を
有した院政であるが、実は朝廷の序列の中で明確な規定があるわけではなく不文律によって
執り行われていたもの。よって、幕府が定めた禁中並公家諸法度にも規定が無く、事実上
後水尾上皇の施政は幕府の統制から離脱する事まで可能となったのである。まさに
逆転の一打、幕府にとっては手痛い反撃を食らった状況である。
しかし、秀忠はこれを黙認した。和子が男子を産んでいれば防げた事態ではあったが、
こればかりは人の手でどうなるものでもなく、致し方の無い事である。また、さらに強権を
発動して朝廷との関係を悪化させては、和子の立場がなくなる上、朝敵と見做される恐れも
あった。加えて言えば、慣習を破り明正天皇に夫を用意したとしても、その夫系の家柄の
権勢が強まり外祖父としての秀忠の地位が低下するのみ。あらゆる選択肢を考慮すれば、
ここは素直に後水尾帝から明正天皇への皇位継承を認めるのが最良の策であった。
苦渋の選択ではあったが、その果断を決意した秀忠、やはり只者ではなかったと言えよう。
とかく凡庸と酷評される事が多い“2代目”であるが、徳川家の場合そうではなかったようである。
なお、幕府の制約から脱した後水尾上皇は、これ以後の生涯を自適に過ごしたらしく
当時としては非常に長命な85歳まで生きている。歴代天皇でこの記録を抜いたのは、
(神話の世を除き)87歳で没した昭和天皇と、その次代・平成上皇のみである。




前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る