琉球史(1)

さて、ここで閑話休題。
大陸との交流によって繁栄した「もう一つの日本」が南海に存在した。
日本本土とは異なる独自の発展を遂げ、
“万国津梁(ばんこくしんりょう)”を目指した琉球王国の歴史を紹介したい。


貝塚時代 〜 琉球前史
南海に孤絶した島、琉球諸島。中国大陸や日本本土から遠く離れた場所であるが故に
新石器時代が長く続き、国家や君主という制度が根付く事がなかったと言われる。
ところが、南海の孤島は日本と大陸・アジア諸国を結ぶ掛け橋ともなり
時に日本や中国の歴史に登場する事があった。有名なものでは
日本に渡航しようとした鑑真和上が「阿児奈波(あこなは=沖縄)」に漂着した記録がある。
また、日本との関係を重視した使節が大和朝廷に派遣された事もあり
699年には奄美大島から、714年には球美(久米島)と信覚(石垣島)から
朝貢(ちょうこう、従属するために貢ぐ交易)の使者が日本へ送られている。
しかし、冒頭に記した通りまだこの頃は文明的な生活とは言えない世界であり
琉球諸島は貝塚時代と呼ばれる先史の状態にあった。

グスク時代 〜 「王」の登場
中国大陸との交流の中で、次第に文明的制度が芽生え始めた琉球では
集落をまとめる「按司(あじ)」と呼ばれた族長制度が生まれた。
按司による集落統治は、次第に他の集落との同盟や交戦を繰り返すようになり
勢力の拡大が行われるようになっていく。その中でも、各地の按司を束ね
大勢力を築いた者は、やがて「王」の称号を名乗るようになった。
琉球史上初めて王を宣言したのは舜天(しゅんてん)、1187年の事である。
舜天は浦添に王城を構え、沖縄本島の中央部を支配するようになり
彼の死後は子孫の舜馬順熙(しゅんばじゅんき)義本(ぎほん)が後を継いだ。
舜馬順熙は1238年即位、義本は1249年の即位で、舜天王統は3代73年間続いたとされるが
そもそも舜天とは伝承上の人物に過ぎない、とする説もある。舜天王統の末期は
天災や争乱で世が乱れ、再び按司による群雄割拠の時代になったが
この戦いを勝ち抜いた伊祖(いそ)按司の英祖(えいそ)が1260年に即位、
新たに英祖王統が開かれた(英祖も伝説上の人物とする見解がある)。
英祖王統は5代90年間に渡り継続。1300年即位の大成(たいせい)
1309年即位の英慈(えいじ)、1314年即位の玉城(たまぐすく)
1337年即位の西威(せいい)が歴代の王である。こうして、王が統べる国家が成立し
沖縄本島の統治が行われた時代を「グスク時代」と呼ぶ。
しかし、国家組織としてはまだまだ未熟。舜天・英祖の両王統とも浦添を王府としたが
いずれも沖縄全土を掌握するほどの力ではなかった。

★この時代の城郭 ――― 琉球の「グスク」
グスクとは、琉球における城郭を意味する言葉だが、日本本土の城郭とは違い
戦時の防衛施設としての意味だけではなく、祖霊に祈りを捧げる礼拝所としての機能や
住民の居住空間をその中に含んでおり、つまりは「集落」そのものを指していた。
平時には住民の生活の場所、祭事には「御嶽(うたき)」と呼ばれる神聖な信仰の聖地、
そして戦時には城郭となる総合的な空間だったのだ。
中国から技術を得た琉球では日本本土より早く石垣の製造方法が確立したため、
こうしたグスクは沖縄で産出する石灰岩の石で城壁が組まれていた。
もちろん、地の利を活かし山岳斜面や峡谷の谷を防衛施設として利用する事もあったが、
さながら中国の万里長城を思わせる高く壮大な石垣で囲まれるグスクが目立つ。
現在、国連の世界文化遺産に登録された今帰仁城や座喜味城が代表例である。
今帰仁城石垣今帰仁城(沖縄県)の石垣


三山時代 〜 琉球王、互いに覇を競う
玉城が即位した1314年頃から、沖縄本島は北山(ほくざん)・中山(ちゅうざん)・南山(なんざん)の
3勢力圏に分裂するようになった。この状況を三山時代(さんざんじだい)と呼ぶ。
北山の本拠は今帰仁城(沖縄県国頭郡今帰仁村)、中山の本拠は浦添城、
南山の本拠は島尻大里城(沖縄県糸満市)であった。三山にはそれぞれ王が立ち、
英祖王統はこのうちの中山王として君臨する事になる。互いの王が覇権を競い争う中、
英祖王統は次第に衰退、代わって中山王になったのが察度(さっと)だ。
1350年に即位した察度は存在が確認される人物で、中国からの冊封(さっぽう)を受け
政権基盤を強固に固めていた。冊封とは、中国皇帝から王の認証を受ける事で、
これによって察度は中国の皇帝を後ろ盾とする権威を得たばかりか
大陸との正式な交易権を獲得した事になり、政治的・経済的にも強力な王国経営が可能になる。
以後の中山王は代々、中国から冊封を受けるようになった。
察度の死後、1396年に王位を継承した武寧(ぶねい)もまた冊封を受けるが
武寧には父・察度ほどの力量がなかったのか、次第に察度王統は弱体化していく。
一方、14世紀中頃に北山に覇を唱えた怕尼芝(はにし)は、
今帰仁城に本拠を構えて周辺地域を服属させ北山王を名乗った。
北山地域とは、現在の名護市および国頭郡にあたり、沖縄本島の北半分という
実に広大な面積である。怕尼芝の後を継ぎ北山王になった攀安知(はんあんち)
沖縄本島のみならず与論島や沖永良部島、徳之島までも支配下に置き
さらに北山王の権威を高めた。また、南山地域は沖縄本島の最南端部、
現在の豊見城市・糸満市・島尻郡を領土としており、面積は小さいが常に中山を脅かしている。
成長著しい北山、固い結束の南山、それに挟まれた中山、
互いの争いは、さらに激しい戦乱を呼ぶかのような様相を呈していた。
琉球三山勢力地図琉球三山勢力地図(城は代表的なグスク)

尚巴志の覇業 〜 稀代の英雄、三山の統一を成す
争乱に明け暮れる沖縄に、彗星の如く一人の英雄が現れるのはこの時代である。
名を尚巴志(しょうはし)という勇将は、弱体化して治世定まらぬ武寧王を打倒し
1406年、中山を平定した。察度王統は2代56年で幕を閉じ、新たな王統が開かれたのだ。
巴志は父・尚思紹(しょうししょう)を中山王に据え、中山の本拠を浦添から首里に移す。
従来、中山の一支城に過ぎなかった首里城は、これを機に王府として整備され拡張された。
猶も覇業に邁進する巴志、いよいよ強敵の北山王・攀安知との対決に挑んだ。
長年に渡る北山との戦いはなかなか決着がつかなかったが、剛勇を誇る攀安知は武勇に任せて
粗暴の振舞いが多く、次第に家臣が離反。こうして徐々に敵の勢力を奪った巴志は
1416年、決戦を挑み北山本拠の今帰仁城を攻撃した。首里城を進発した中山軍は
周辺諸将の兵を吸収、羽地寒天那湊(はねじのかんてなこう)に集結する頃には
3000もの大軍になっていた。が、堅城として名高い今帰仁城は大軍を以ってしても容易に落ちず
巴志は謀略戦に移行した。今帰仁城に立て籠る城兵を寝返らせ、城中から崩壊させたのである。
斯くして、剛勇で鳴らした攀安知は討たれ、北山は中山に征服された。
巴志は腹心の護佐丸盛春(ごさまるせいしゅん)を北山監守の職に任命し
平定した北山の統治を任せる。これにより、今帰仁城は護佐丸が城主を務め、
以後の北山監守による北山支配の拠点となった。
1421年、思紹が死去した事で翌1422年に巴志自身が中山王を継承。
巴志は冊封使の意見に従い、首里城の外濠にあたる龍潭(りゅうたん)や外苑を造成し
王府としての首里城を巨大城郭へ変貌させていった。その傍ら、南山攻略へも着手し
遂に1429年、島尻大里城を落として南山王統を滅ぼす事に成功した。
三山に分かれて争った琉球は、尚巴志という1人の覇王によって統一されたのである。

第一尚氏王統 〜 琉球初の統一王統
尚思紹・巴志に始まる王統を第一尚氏王統と呼ぶ。
琉球初の統一王統による「琉球王国」がここに成立したのだ。
が、覇業を成した巴志が1439年に没すると、再び戦雲が巻き起こった。
1440年に即位した3代琉球王・尚忠(しょうちゅう)はわずか4年で死去、
忠の子・尚思達(しょうしたつ)が1445年に4代目を継ぐも
これまた4年で亡くなり、1450年に5代目王位は尚金福(しょうきんぷく)へ移った。
金福は忠の弟で、巴志の次子。ところが、金福も在位3年で世を去ってしまう。
6代目の王位を巡り、金福の子・志魯(しろ)と金福の弟・布里(ふり)の間で
争いが勃発、王室を二分する戦いは大乱に発展し、首里城は全焼してしまった。
王位争奪で起きたこの乱は、志魯も布里も戦死する結果に終わり、結局6代目の王には
忠・金福・布里の弟で巴志の末子である尚泰久(しょうたいきゅう)が就いた。
一方この頃、尚氏王統の下で統一されていた琉球王国の政権転覆を虎視眈々と狙う者が現れた。
勝連(かつれん、現在の沖縄県中頭郡勝連町)按司の阿麻和利(あまわり)
尚泰久の娘・百度踏揚(ももとふみあがり)を妻にし、表面上は王室に従っていたものの
実は尚氏を打倒し、自らが琉球王になる事を望んでいた。これに対抗すべく、
巴志の重臣であった護佐丸は、勝連城と首里城の中間地点になる中城城を修築し入城、
阿麻和利の侵略を阻止せんとした。築城の名手であった護佐丸は武将としても優秀で、
この名将が中城城にいる限り、阿麻和利の野望は果たせなかったのだ。
何とかして護佐丸を排除したい阿麻和利は、泰久に「護佐丸は謀叛を企んでいる」と讒言。
初めは信じなかった泰久であったが、度重なる謀略に惑わされ、遂に王府軍を派兵して
護佐丸を討ってしまった。阿麻和利の策略は成功し、自ら手を下す事なく護佐丸を倒したのだ。
しかし間もなく計略に気付いた泰久は、阿麻和利を討伐すべく王府軍を勝連に向けた。
事が露見した阿麻和利も、尚氏王統打倒を賭けて決戦に挑む。
勝連城を舞台にした戦闘は熾烈を極めたが、
最終的に王府軍が城を落として阿麻和利を滅ぼした。1458年の事である。

第一尚氏王統系図

第一尚氏王統系図  ―は親子関係 数字は王位継承順

第一尚氏王統の最期 〜 第二尚氏王統へ
計略で護佐丸を誤殺してしまった泰久であるが、無能な王ではなかった。首里城を再建し、
農民出身ながら有能な内間金丸(うちまかにまる)を登用し安定した治世を進めると共に
1455年には日本の僧・道安(どうあん)を朝鮮に派遣し蔵経を求めるなど、
文化の発展にも深く寄与した。また、歴代琉球王に倣って渡洋貿易を推進し
その交易範囲は日本・中国・朝鮮のみならず、東南アジア諸国にまで及んでいる。
太平洋の中心にある琉球は、全アジアを繋ぐ海の中継点であり、
それを利用した貿易は巨万の富を産み出したのだ。
1458年、この気概を刻んだ「万国津梁の鐘」が鋳造され、首里城に掲げられた。
万国津梁とは、読んで字の如く「世界の国々を繋ぐ海の掛け橋(梁)」という意味。
琉球は交易を以って発展し、世界の国々と平和を謳歌する、そうした思いを刻んだのだ。
第一尚氏王統の最盛期を告げる鐘の音が、琉球の空に鳴り響く。
しかし、そうした泰久の治世も長くは続かなかった。即位から6年後、1460年に死去したのだ。
翌1461年、泰久の子・尚徳(しょうとく)が7代目の王に即位するが、
父とは異なる政策を進めようとして金丸ら功臣を左遷し、独裁を敷く。
徳の専横によって政治は混乱、不正が横行するようになり民臣は反発を強めた。
1469年に徳が死去すると、民衆の不満は爆発しクーデターが発生。
徳の王妃と遺児はこの反乱で殺害され、7代64年に及ぶ第一尚氏王統は滅亡したのである。
新たな王として群臣に支持されたのは、他ならぬ金丸であった。
泰久王の時代、交易部門の長であった金丸の手腕は才知に富み、
評価も公正・公平だった事から信望は厚く、誰もが新王になる事を望んでいたのだ。
こうして、民に推されて1470年に新王となった金丸は尚円(しょうえん)と名を改めた。
明治維新まで続く琉球王国の新王統、第二尚氏王統の誕生である。



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