大坂の陣

徳川氏にとって相容れない存在となった豊臣氏。
事ここに至り、家康は自らの存命中に秀頼を抹殺する決意をした。
もはや何人たりとも邪魔は許さず、悪役に徹してでも
次代の太平を守るため、最後の決戦を行う必要があった。
戦国乱世最終の戦い、大坂の陣が火蓋を切る。



★この時代の城郭 ――― 江戸城(2):入江埋め立てと家康の慶長度天守
天下普請による諸大名統制は相変わらず続けられ、特に将軍家の居城である江戸城の工事は
まだまだ終わる気配を見せなかった。江戸の街づくりと並行して行われる大土木工事は一朝一夕で
成し得るものではなく、改良に改良を重ねて天下の首府を少しずつ形成していたのである。
そんな中、語られる逸話は加藤家の石垣工事であろう。1613年、江戸城石垣の修築工事が西国
諸大名34家に命じられ、翌1614年から開始されたのだが、最も地盤の軟弱な日比谷・桜田近辺の
担当とされたのが肥後加藤家と紀伊浅野家であった。このあたりはかつて江戸湾の入江となっていて
神田山を切り崩した残土で埋め立てた土地。にもかかわらず、早期に工事を終わらせて将軍家に
気に入られようとした浅野家は、造成予定地に土留めの大木を敷き詰め、一気呵成に石垣を
積み上げた。ところが加藤家は、工事を担当した部将・森本義太夫がのんべんだらりと構えていて
全然はかどらない。義太夫はわざわざ江戸西域の武蔵野台地から萱を刈り取らせ日比谷に敷き、
その上から土をかぶせた。そこに多くの子供を招きいれ、好き放題に遊ばせたのである。
これでは工事も何もあったものではない。散々遊ばせた挙句、ようやく石垣積みに着手した頃
既に浅野家の丁場はほとんど完成した状態であった。ところがその後、浅野家の積んだ石垣は
地盤沈下を起こしてどんどん歪み、挙句雨が降った為に崩落を起こした。それも3度も。
このため百名以上の労働者が死傷する大惨事となったのだが、一方、義太夫の積み上げた石垣は
全く以って無事、頑強な強度を見せ付けたのだ。実は、子供に遊ばせたのは地盤を固めるための
圧搾工事で、こうした下準備を入念に行った事で見事な石垣を完成させたのである。城造りの名人
加藤清正は既にこの世の人ではなかったが、その技術は加藤家中にしっかりと継承されていたのだ。
江戸城慶長度天守復元CG江戸城慶長度天守復元CG [(C)3kids]
ところで徳川期の江戸城天守は3種類あった。慶長度の天守、元和度の天守、寛永度の天守だ。
家康時代の天守は慶長度天守。この頃はまだ望楼型天守で、図にあるように2層目の上に大屋根が
切られ、その上に望楼部分が載った作りである。形式としては前時代的な部分を引きずっている。
しかし、外壁は白漆喰の総塗込。瓦も鉛瓦で白く光り、まるで雪山のような存在であったという。
城郭建築の技術において、鉛瓦といった新技術が開発され、これを徳川幕府が積極的に
使用したのだ。単に技術年代が一致した事による導入と見る向きもあるが、豊臣系城郭の
“黒い天守”のイメージを払拭し、新時代の覇者である事を印象付ける為“白い天守”を
志向したという「政治戦略」があった事は否めないだろう。事実、名古屋城天守や二条城天守も
こうした白い天守が採用されている。この時代の城郭、特に天守が単に戦闘装置であるだけでなく、
政治的意味を帯びていた事が良く理解できる好事例であろう。
ただし、必ずしも「黒い天守=豊臣系城郭」「白い天守=徳川系城郭」という事ではない。
秀吉が朝鮮出兵の前線基地とした名護屋城天守は白漆喰塗りであったし、家康の隠居城であった
駿府城の天守は下見板張りの黒い天守であった事を補記しておく。


方広寺鐘銘事件 〜 家康呪いの梵鐘、果たして…?
大坂城包囲網により、豊臣家の軍事力は徐々に削がれていった。残るは、秀吉が残した
莫大な遺産に裏付けられる経済力である。徳川幕府は、豊臣家の金を使い果たすべく、
秀頼・淀殿親子に積極的な寺社建立を薦めた。神仏に重き価値を置いていたこの時代、
武家が天下国家安寧の為に寺や神社を庇護する事は、政治力を示す事に直結している。
このため、豊臣家は(幕府の策略と知ってか知らずか)盛んに寺社の造営を行った。
そうして造られた寺の中に方広寺がある。かつて秀吉が開基となしたこの大寺は、奈良の
大仏よりも大きい大仏が作られていたのだが、慶長の大地震により倒壊していたのだ。
秀吉の追善供養とすべく、豊臣家はこの寺と大仏の再建を行い、1614年に大仏殿がほぼ
完成に近づいていた。ところが落慶供養の日取りが間近に迫る7月29日、幕府はこれに
待ったをかけ、豊臣家に難題を吹きかけた。方広寺の梵鐘に刻まれた銘文の中に、家康を
呪い殺し豊臣家が天下を支配する意図を見つけたというのだ。問題の文は「国家安康」と
「君臣豊楽」の2文。「『家』『康』の名を引き裂き、豊臣を君と為す」と解釈できる、と。
何とも無理矢理な言いがかりだが、近年の研究では銘文を選定した南禅寺の僧・文英清韓
(ぶんえいせいかん)はやはり意図的にこの文を用いたのではないかとも言われている。
真偽のほどは兎も角、この難題に慌てた豊臣家は家老・片桐且元を弁明の使者として駿府へ
派遣。しかし家康は且元と面会せず、代わりに応対した本多正純や家康の政治顧問僧である
金地院崇伝(こんちいんすうでん)は、とにかくその鐘をすり潰せとだけ伝達するに留まった。
交渉が遅々として進まぬ事に苛立った大坂方は、加えて大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)
駿府へ派遣。彼女は淀殿や秀頼の乳母で、関ヶ原戦役後北政所が京都へ退去した大坂城内で
大きな権勢を握るようになっていた人物。淀殿に近しい存在である彼女は、対徳川急先鋒の一人で
今回も家康に対して厳しい意見を突きつけようとしていた。すると家康は、且元の時とは違い
大蔵卿局とはあっさり面談、話を纏めようとする。しかしこれが家康による“離間の計”であった。
大坂城へ戻った且元は、徳川家の要求が厳しく1.淀殿が大坂城を出て人質となり江戸へ下る、
2.豊臣家を国替えし大坂城から退去する、このいずれかを選ぶ必要があると上奏した。
これくらいの覚悟で徳川家に従わなければ、豊臣家は討たれる可能性があると判断したのだ。
ところが家康に面会できた大蔵卿局としては、そんなに厳しい話などありえないという印象を
持っていた為、この要求は且元が勝手にでっち上げた話ではないのか?且元は徳川の
回し者ではないのか?という疑心暗鬼に陥る。結局、強硬派意見に傾いた淀殿は且元を疑い
遂に大坂城から排除してしまった。且元のみならず、大坂城内の穏健派はこの件を端緒にし、
豊臣家を見限って退去してしまう。これこそが、家康の魂胆であった。豊臣・徳川の仲を
取り持とうとする穏健派(つまり、豊臣家の実力が失われた事を承知している現実的人物)である
且元らが大坂城を出た事により、豊臣家の方針は過激な交戦派の意見で統一される。即ち、
幕府が豊臣家を取り潰すための名目が整えられるようになったのである。


★この時代の城郭 ――― 築城名人列伝(2):藤堂高虎
豊臣方を追い詰めていった徳川方による大坂城包囲網。それら多くの城の築城に関わった
人物が藤堂高虎である。加藤清正が「石垣名人」の面を強調されるのに対し、高虎は
「縄張名人」として名高い。築城する場所を活かした縄張りはもちろんの事、江戸幕府
開設後においては徳川系城郭の要望に合わせた「面を重視した」縄張りも自在に発想した。
天下普請によって造られた諸城は、大半が高虎の縄張りによるもので、それらは概ね
直線的外周を形採っている。丹波篠山城、名古屋城、駿府城、膳所城などは方形を基本とし
高虎自身の居城となった伊予国今治城や伊勢国津城もまた、それらと同様の構造で作られた。
火力制圧に有利な“面の城郭”は、高虎にとって作りやすい城郭だったのだろう。文献上に
確認されるだけで高虎が関わった城は17城にもなり、それらはいずれも名城ばかりだ。
さて外様大名(後記)でありながら徳川家に重用された高虎。城作りのみならず、政略的局面でも
家康は高虎に大きな信頼を寄せていたと言う。関ヶ原の功で今治20万石を得た後、さらに転封され
伊勢・伊賀(つまり大坂の東側隣国)で領地を獲得し津城や伊賀上野城を築いたのも、高虎が
豊臣氏に対する最前衛となり得る人物だったからだ。彼の人生を振り返るに、浅井家の一兵卒から
始まり、織田家、豊臣家へ仕え、最終的に徳川家康の重臣となった立身ぶりは、築城名人という
だけでなく、出世名人だったとも言えよう。寝返りや裏切りではなく、主として真に相応しい人物を
ひたすら追い求めて仕える家を変え、そして天下の将軍・徳川家に信任された高虎。
そこには築城の才が大きく関わっている。例えば二条城の縄張りを選考した時の話。
高虎はわざと2種類の図面を用意した。一つは精巧な図面。もう一つは乱雑な図面。
普通に考えれば、精巧な図面だけあれば良い筈である。当然、当時の将軍・徳川秀忠は
2つの図面のうち精巧な方を採用した。その行為を以って、「将軍様が城の縄張りを行った」とし
高虎は自らの縄張りを秀忠の手柄として譲ったのである。天下の名城と讃えられる縄張りが
自分の手によるものだと誇る事ができた秀忠は、たいそう気分が良かったに違いない。
築城名人は、優秀な政治感覚も身につけた良将だったのである。
最後に一つおまけの話を。高虎がまだ浅井家に仕える足軽だった頃、貧乏で文無しにも関わらず
空腹に耐え切れず峠の茶店でついつい餅を沢山注文し、全部平らげてしまった。ふと我に返れば
とても勘定を払えたものではない。それを正直に侘びた高虎であったが、茶店の主人は逆に
これほど見事に餅を食べた客は見たことが無い、良いものを見せてくれた事に感謝してお代は
出世払いで構わないと言い、高虎を許してくれた。それから数年後、その茶店の前に通りがかった
殿様の籠が停まり、主人に大金を与えたという。何とそれは、見事に出世した高虎であった。
高虎は主人の恩義に感じ入り、家紋を白い餅の図柄にして勇戦、約束を果たしたのだ。
そして高虎は配下の兵みなにその旗印を持たせて戦ったという。白餅、すなわち城持ちを意味し
自分だけでなく、藤堂家の皆が城持ち大名になろうという願をかけた粋な計らいだったそうな。


大坂冬の陣 〜 幕軍持久策を展開、真田丸は堅固
且元を排除し事実上幕府方と手切れを行った豊臣方は、秀頼・淀殿の側近にして強硬な交戦派の
大野治長(おおのはるなが、大蔵卿局の実子が陣頭指揮を執り、大坂城内の金を惜しげもなく
放出して大量の浪人を雇い入れた。兵力を増強し、幕府との戦いを行うためである。と同時に、
島津・福島らかつて“豊臣恩顧”とされた大名にも参陣を求め、幕府に対抗しようとした。
ところが諸大名は1人としてこの誘いに乗らない。もはや徳川時代の到来は明らかであり、大名の
統制権(つまり、所領分配権=鎌倉時代風に言う“御恩”)は徳川将軍家に属し、豊臣家には
ないからだ。わざわざ幕府に逆らい、所領を没収される愚を冒すはずもない。結局、大坂方は
全国から集まる浪人で溢れかえるだけであった。その数およそ10万人。しかしその中には、
かつて関ヶ原で所領を失い、徳川家に一泡吹かせたいと恨む長宗我部盛親、明石全登、それに
真田信繁らの姿が。高野山追放後、紀州九度山へ移されていた信繁は豊臣家危急の時と知り
密かに山を下りて脱走、大坂城に入ったのである。真田が大坂入りした事を聞いた家康が、
手にした障子戸をガタガタ震わせて「親か子か」と訊ねた話は有名だ。親、すなわち昌幸か
子、信繁の事なのか。“家康の天敵”とまで評された昌幸は先年死去しており、大坂入りする事は
ない筈なのだが、震えおののくほど家康はその動きを恐れていた。子だという返答を聞いた家康は
ようやく震えを収め安堵したという。が、後に彼は昌幸以上の恐怖を信繁から味わう事になる。
さて、一方の幕府は諸大名に号令を発し豊臣家征伐の軍を起こした。その数、総勢20万。豊臣方の
倍である。1614年10月11日に駿府を発った家康は、同月23日に京都二条城へ入城。この日、
江戸から秀忠も出立している。二条城は大坂討伐における大本営であり、幕府の統制は磐石であった。
対する大坂方は戦略方針で紛糾する。歴戦の強者である真田信繁は、幕府軍の展開が終わる前に
畿内各地を先制制圧、敵の出鼻を挫き戦局を主体的に動かすべきだと主張した。この作戦が
成功すれば、あるいは幕府方に属した大名の中から豊臣方へ寝返る可能性も期待できた。
しかし豊臣家の中枢を担っていた大野治長は、太閤秀吉の築いた大坂城に籠もってさえいれば
良いと主張。結局、淀殿は治長の意見を採用し籠城戦が決定。大坂城の防備に絶対の自信を
持っていた事の現れであるが、その作戦は幕府軍に戦いの主導権を明け渡す事も意味していた。
何より、こうした意見の対立は外部から雇い入れた浪人衆に対して淀殿や治長らの首脳部が
信を置いていなかった事でもある。せっかく歴戦の勇者が集結していながら、それを活かせず
実戦経験の乏しい治長が幅を利かせていたという事情は、大坂方の弱さを露呈していたのである。
ともあれ、豊臣方が初手から籠城戦術を採った事により(多少の小競り合いはあったものの)
幕府軍は難なく大坂城を包囲する。12月初旬には家康が大坂城南方の茶臼山に着陣、同じく秀忠は
その東側にある岡山古墳を陣とした。大坂城の北辺は淀川・島野川を挟んだ位置に、さらに東西からも
挟み撃ちするかの如く幕府方が布陣。大坂城にとって、川と堀で守られた北・東・西の3方は十分な
防備が施されていたため、この方面においては堀越しに両軍が対峙した。この戦いを大坂冬の陣と言う。
大坂冬の陣 主な武将の布陣状況大坂冬の陣 主な武将の布陣状況

★この時代の城郭 ――― 真田丸:幕府軍の喉元に突き刺さる鉄壁の要塞
問題は大坂城の南側にあった。外堀以南に大掛かりな障害物がなく、広い平野部が続く城南は
大坂城防衛構想における唯一のネックであり、当然、攻城軍の侵攻路となる事が予想されていた。
実際、家康や秀忠が陣を張ったのも城の南側だ。数に劣る籠城側は、戦闘正面となる南面に
ウェイトを置いた兵力配分を考えねばならなくなるが、それでもどこまで支えられるかわからない。
そこで、真田信繁は城南の防備を強化する出丸を独自に築いた。これを真田丸と言う。外堀の更に
南側、平野部に突出して築かれた真田丸は、通説では武田流築城術を思わせる半円形の曲輪で
(真田が信州出身、つまり旧武田氏の統制下にあった事が影響しているのだろう)小ぶりながら
警戒に適した構造となっていた、と言われてきた。しかし近年、当時の絵図面が発見された事で
旧地形との照合が行われ、複数の曲輪を連結させた複合構造の砦、即ち“出丸”どころか“出城”と
呼べる万全の構えが採られていた様子だったと推測されるようになっている。もし幕府軍が南から
大坂城へ侵攻する場合、必ずこの真田丸を攻略してからでないと前進できない位置にあった訳だが
信繁の防備は鉄壁で、圧倒的大軍の幕府軍が攻めかかってきても容易には落ちない構えが施されて
いたのだ。信繁は真田丸で幕府軍の制止を一手に引き受ける。大坂城の備えが固い事を知っていた
家康は、力攻めを避け持久戦を指示していたが、血気に逸った井伊・前田らの部隊が独断で真田丸の
蹂躙を目論み戦いを始めてしまった為、案の定、智勇を兼ね備えた信繁の前にあっけなく敗退。
父・昌幸と共に徳川と戦い続けた信繁は「関東軍百万と候えども、男は一人としてなし」とまで
言い放ち、世代交代で実戦経験者の乏しくなった幕府軍の無力さをあざ笑ったとされているが
その言葉を言わしめたのは、堅城と言われた大坂城の守りをさらに強化させた真田丸の存在が
あったからだろう。結局、幕府軍はこれ以後直接的戦闘を行わなくなった。

大坂城の防備に隙がないことを見抜いていた家康は、力攻めをする事なく包囲戦を展開。
真田丸攻略で失敗した面もあったが、幕府軍の統率は概ね執れており、大きく指示を逸脱する
部隊は居なかった。しかし、このままいつまでも包囲し続けていても埒が明かない。そこで家康は
戦局を一変させる秘密兵器を取り出した。南蛮から取り寄せた新型の大砲である。カルバリン砲という
種類に属するこの攻城大砲は、大坂城の守りの外側から砲撃を可能とした(当時としては)長射程の
もので、城に籠もる豊臣方将兵は砲撃を回避する術がなかった。加えて、幕府軍は連日連夜に渡り
城の周囲で鬨の声をあげ、城内は安眠できる時がなかったという。こうした心理攻撃で日に日に
城方はストレスを溜めていく。そのため、大坂方首脳は徐々に和議の可能性を模索するようになり
淀殿を人質として出す代わりに豊臣領の加増を求める(浪人に分け与える為だったらしい)条件を
提示した。が、家康はこれを拒否。浪人用の領地を与える=豊臣家の戦力増強を認める和平案など
呑む訳にはいかない。家康は和議どころか全軍に砲撃頻度を上げる指示を出した。そして精神的緊張が
ピークに達した12月16日、何と大砲の弾が大坂城の天守に命中、淀殿の侍女が戦死する。どうやら
狙った命中ではなくまぐれ当たりだったようなのだが、大筒の威力が証明された事になる。これに
恐怖した淀殿は、態度を一変させ早急な講和を求め、19日に和議が成立、20日に停戦となった。
この講和条件は、淀殿も秀頼も人質となる(あるいは城外へ出る)事は不要とする代わりに
大坂城の堀を埋めるというものである。今まで通り大坂での生活が保障された事に飛びついた
淀殿であったが、家康の狙いはそんな事ではなかった。和平条件が履行されるや、兵士や周辺住民を
動員してあっというまに大坂城の堀を埋め始めた徳川軍。しかもそれは、淀殿が思っていたのと違い
外堀だけでなく、内堀までも全て埋めてしまう大掛かりなものだった。豊臣方があわてて抗議したが
時既に遅し、大坂城は堀のない丸裸の城になってしまっていた。かつて太閤秀吉が存命中に、
「この城を落とすには堀を埋めるしかない」と豪語し、大坂城の守りが堅い事を自慢したのだが
家康はその言葉通り、堀を全て埋めて大坂城の防御力を無力化したのである。即ち、家康にとって
今回の和議は一時的なものに過ぎず、人質を取るよりも来るべき次の戦いに備えて城の攻略を
簡単に行える環境を整える事が必要とされたのであった。恐らく家康は、既にこの時に豊臣家の
抹殺を決心していたに違いない。戦国最後の戦いが、刻一刻と迫っていた。

大坂夏の陣 〜 真田日本一の兵なれど、豊家滅亡
もはや城として機能しなくなった大坂城。だがその中には大坂冬の陣以来、浪人衆が留まり
なお増加する一方であった。職を失った諸国の浪人は、大坂城内に入り込めば食い扶持に
ありつけると聞き及んだのだ。こうなると城主である豊臣家でさえ制御できぬ混乱に陥り、
(無論、幕府があっさりと冬の陣で講和したのはこれを見越しての事だろう)こうした浪人は
いつ暴発するかわからない暴徒と化していた。そこへ幕府からの通告。浪人を多数召抱えるのは
再び戦争を起こすつもりであろう、と。事ここに至り、豊臣方は戦うしか道がなくなった。1615年
4月下旬に家康・秀忠らが京都に進軍、それに対抗し大坂方は大和・紀伊近辺で幕府方の機関を
襲撃している。堀の埋められた大坂城では守りきれず、今回は積極的に攻勢をかけたのだ。
しかし5月6日、遂に本格的開戦となると豊臣方は劣勢に。この日行われた道明寺・誉田合戦で
大和方面から進軍してきた幕府軍3万5000と豊臣軍先鋒が交戦するや、数に勝る幕府軍が押しに押し
豊臣方は各個撃破されてしまう。八尾・若江の合戦も同様で、結局豊臣軍は大坂城内に追い込まれた。
翌7日、天王寺決戦が行われ豊臣軍は城から出撃し幕府軍陣営に突撃を敢行。大混戦模様となるも
やはり数と火力に勝る幕府軍が豊臣方を圧倒していく。期待された総大将・豊臣秀頼の出陣もなく
士気に陰りが見えた豊臣軍はさらに劣勢に。歴史家の中には秀頼が出てくる事で豊臣軍の士気高揚
及び幕府軍に属する豊臣恩顧大名の翻意を想像する者もいるが、もはや焼け石に水だっただろう。
息子かわいさに出陣を認めなかった淀殿の短慮により、豊臣軍の勝機は完全に潰えたと言える。
そんな中、豊臣軍の中に一陣の風が巻き起こった。赤備えの甲冑軍団を率いる猛将、真田信繁が
徳川家康の本陣に向かって壮絶な突撃を開始したのだ。兵力優勢で余裕を見せていた徳川軍だが
信繁がよもや本陣中心に駆け込んでくるとは思っておらず、何と総崩れに。眼前まで肉薄した
真田の特攻に家康は色を失い自刃まで覚悟したと言われるが、何とか退却に成功し態勢を立て直した。
桶狭間合戦で今川義元が討たれ織田軍が逆転勝利を得たように、もしここで家康が討たれたら
あるいは歴史が大きな転換を迎えていたかもしれないが、惜しくも信繁は総大将の首を討ち損じ
逆に周囲の幕府軍から猛反撃を食らって討死する。とは言え、その壮烈な奮迅ぶりは家康に
父・昌幸以上の恐怖を与え、「真田日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と言わしめた。
小説や講談などで後世に語り継がれた名将・真田幸村とは、この信繁の事である。
大坂城落城再現CG大坂城落城再現CG [(C)NHK]
信繁はじめ多数の将兵が討死し、この日の夜に大坂城は炎上。家康の孫娘・千姫は秀頼の
計らいにより城外へ送り出され家康・秀忠に保護されたが、8日朝には城内が幕府軍によって
完全に占拠され、淀殿・秀頼親子や大野治長らは山里丸に押し込められた。もはや生き残る
術はないと観念した彼らは自ら命を絶ち、これにより戦闘が終結。この戦いを大坂夏の陣と言う。
秀頼が侍女に産ませた男子・国松も捕らえられ処刑。国松の妹も京都東慶寺に押し込められ
ここに豊臣家の家系は断たれ、滅亡を迎えたのである。戦死した真田信繁、戦後捕らえられ
刑死した長宗我部盛親のように豊臣方に加担した多くの将はことごとく討死、または斬首の刑を
受けたが、生死定かでない者の捜索は徹底的に行われ、戦後10年にも及んだとされる。
特に有名なのが「明石狩り」で、旧宇喜多家の宿老にして熱心なキリシタンであった明石全登を
徳川方は延々と探し続けた。関ヶ原で猛攻を加えた戦績、キリスト教徒を糾合して率いる
統率力など、多方面に亘り脅威となり得る人物として徳川幕府は彼の復讐を恐れたのだろう。
ともあれ、これで豊臣家は滅び徳川幕府にとっての敵はいなくなった。大坂城は戦功として
松平忠明(まつだいらただあきら、家康の外孫に与えられたが、後に幕府直轄の城となり
豊臣家お膝元の大都市は、江戸幕府枢要の地として再編されていく。豊臣家の権勢が払拭された
事により、全国の支配は江戸幕府による一元化が成り、以後、大名間の抗争は全くなくなった。
これを以って戦国乱世は終了となり、世に言う戦国時代は終幕を迎えた。なお、豊臣家滅亡により
幕府は改元を行い、元号は慶長から元和(げんな)に変更される。よって、天下平定の成った事を
元和偃武(げんなえんぶ、元和の時代になり武器を伏(偃)せる=戦乱が終結する)と呼ぶ。
応仁の乱からおよそ150年、遂に戦のない平和な時代が徳川幕府によって成し遂げられたのである。




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