日本国王・足利義満

南北朝の争乱を終結させ、朝廷を合一させる事に成功した足利義満。
その勢いは、もはや誰にも止める事ができなかった。
南北朝動乱の不安定期を終え、室町幕府は一挙に全盛期を迎えたのである。
権勢並ぶ者無き義満の政治は、その後どのように進んだのか。


義満、太政大臣に 〜 武士に成し得ぬ快挙
1394年12月17日、義満は征夷大将軍の位を息子の義持(よしもち)に譲った。
しかし、義満の政治的勇躍はここからが本番である。その翌日、太政大臣に任じられたのだ。
太政大臣とは、律令制における最高役職。つまり、義満は公家の最高位に就いたのであった。
武家の頂点である征夷大将軍と、公家の頂点である太政大臣を両方務めた人物は他にいない。
平清盛・源頼朝・足利尊氏と、権勢を極めた武士は数多いが、
義満の出世は前代未聞の快挙であった。
ところが、わずか半年ほどで太政大臣を辞し1395年6月に出家してしまう。
出家後の法名を道有、さらに道義と称した義満は
形式に束縛されず、気の向くままに政治を行おうとしたのであろうか。
1397年には諸大名を動員して洛北の北山(きたやま)に山荘を造営し始め
翌1398年、完成したこの山荘へ居を移して政務を執るようになった。
北山山荘(北山殿)と呼ばれたこの邸宅は、室町御所をはるかに上回る広大な敷地にあり
紫宸殿(ししんでん、天皇の寝所)を思わせる贅沢な御殿や、優雅な池泉回遊式庭園、
金箔を全面に捺された舎利殿(しゃりでん、仏舎利を納める建物)など
絢爛豪華な建物や庭園で構成されており、当時の義満の威勢を物語っている。
義満の死後、徐々に建造物は失われ鹿苑寺(ろくおんじ)という寺となったが、
優美な庭園と金色に輝く舎利殿は残された。この舎利殿も1950年、不幸にして
放火で失われてしまったが、現在は再建され往時と同じ輝きを今に伝えている。
これが京都随一の観光名所、金閣である。
鹿苑寺舎利殿(金閣)鹿苑寺舎利殿(京都府京都市北区)

応永の乱 〜 宗家を狙う鎌倉公方と血気盛んな守護大名
一方、義満の活躍が面白くないという人物が多かったのも事実である。こうした輩の中で
特筆すべきは、鎌倉公方の職にあった足利氏満(あしかがうじみつ、基氏の子
その後を継いだ子・足利満兼(あしかがみつかね)であろう。
鎌倉府を任された鎌倉公方は、本来ならば宗家を助け東国を統括すべき立場であったが
代々の鎌倉公方は常に京の将軍家へ対抗意識を燃やし、足利家第2位の地位から脱却して
自らが中央政権の中心、即ち征夷大将軍の地位に就こうと狙っていた。
義満が勢力を伸ばせば伸ばすほど、氏満・満兼親子はそれを打倒し
自分こそが将軍になるという野望を膨らませていたのだった。
また、守護大名の中にも義満に不満を抱く人物がいた。南北朝合一の立役者、大内義弘である。
土岐氏・山名氏が叩かれた後、守護大名で随一の勢力を持つに至った義弘は、
それが故に義満に疎まれるようになっていたのだ。当然、義弘は反発する。
北山山荘の普請を拒否し、義満の風下には立たない事を暗に示俊した。
対決意識が鮮明になった事で、義満は義弘の領国である紀伊・和泉を召し上げようとするが
そうはさせじと義弘は挙兵に及んだ。南北朝合一の功績がありながら、領国を没収されるとは
歴戦の強者である義弘には許せなかったのであろう。1399年10月、本拠地である
周防・北九州の兵を率いた義弘は瀬戸内海を渡り堺(大阪府堺市)へ上陸し
幕府軍と交戦状態に入った。これに満兼が呼応し、同時の挙兵を計画するが
関東管領・上杉憲定(うえすぎのりさだ)は謀叛の愚を強く諌めた。
それでも義満を打倒したい満兼はとうとう兵を起こし出陣するが、
遅れをとった為に大内軍は幕府軍に倒されてしまった。
結局、満兼軍が美濃まで進んだ所で義弘は敗死、
戦いに間に合わなかった満兼は鎌倉へ引き上げる嵌めになる。
この戦いを応永の乱(おうえいのらん)と言う。

日明貿易 〜 勘合符による朝貢貿易
翌1400年、駿河・遠江などを領有する今川了俊も義満に討伐され、隠退を強要された。
土岐氏・山名氏・大内氏と同じく、強大過ぎる力を幕府に削がれたのである。
有力な守護大名の脅威を次々と消した義満は新たな政策に着手する。
1401年5月、僧侶・祖阿(そあ)と商人の肥富(こいずみ)を明(みん)に派遣したのだ。
明とは、元を滅ぼし1368年に成立した当時の中国正統王朝。明からは長年に渡り
倭寇(わこう、朝鮮半島や中国沿岸を襲う日本人海賊集団)の取締りを要請されており
これを承諾する条件で日本と明との交易を要望したのである。日本と明が貿易を行い、
その利潤を幕府が独占すれば、室町幕府の経済基盤は強固なものになる。
鎌倉時代に派遣された建長寺船(1325年)、南北朝時代の天龍寺船(1341年)に倣い
義満も大陸との貿易で莫大な利益を手にしようとしたのだった。
翌1402年8月、派遣使節は明の使者を同行し日本へ帰国。明皇帝の親書には
「日本国王源道義(源(足利)義満を日本国王と為す)」と記され、
中国皇帝による義満政権の承認と日明貿易の開始が表明されていた。
これに対して、1403年に義満が返書を送付すると共に倭寇取締りを開始、
日本と明の間に正式な国交が樹立され、翌1404年から日明貿易が始まった。
日明貿易は勘合符(かんごうふ)を用いた朝貢(ちょうこう)貿易。
勘合符とは、正規の貿易船である事を確認するために使われた割符の事で
貿易船が持つ半券と明の底簿を組み合わせて文字が完成すれば貿易が許可された。
このため、日明貿易は勘合貿易とも呼ばれる。
勘合符を持つ貿易船はその当初において幕府が派遣する船のみであったが
次第に有力寺社や大名にも波及し、応仁の乱後に室町幕府が衰退していくと
大大名である細川氏・大内氏が独自に派遣するようになっていった。
回数
出発年
派遣内容
1325年
建長寺船(元に対する鎌倉時代の派遣船)
1341年
天龍寺船(元に対する足利尊氏の派遣船)
1
1401年
幕府船 正使祖阿 義満の国書を送る
2
1403年
幕府船 明使節に対する返使
3
1404年
幕府船 勘合貿易の開始
4
1405年
幕府船
5
1406年
幕府船
6
1408年
幕府船
7
不明
幕府船
8
不明
幕府船
9
1432年
幕府・相国寺・三十三間堂・山名
その他大名寺院13家による派遣船
10
1434年
幕府・相国寺・三十三間堂
山名・大乗院による派遣船
11
1451年
九州探題・天龍寺・伊勢法楽舎・大友・大内船など
12
1465年
幕府・細川・大内船
13
1476年
幕府・相国寺勝鬘院船
14
1483年
幕府・内裏船
15
1493年
幕府・細川船
16
1506年
大内・細川船
17
不明
1520年

大内船
細川船
1523年 中国逗留先の寧波で両者武力衝突(寧波の乱)
18
1538年
大内船
19
1547年
大内船 最後の勘合貿易船
遣明船一覧
朝貢貿易とは、相手国(明)の臣下に降り貢物を差し出す見返りとして
その何倍にも及ぶ莫大な下賜品を受け取る形式の貿易である。
アジア各国と貿易を行っていた明帝国は「世界の中心(=中華)」を称していたため
いずれの国に対してもこの形式の貿易しか認めていなかった。
対等外交ではない、従属外交といえる朝貢貿易形態は、
4代将軍・義持の時代に嫌避されて一時断絶するものの
体面にこだわらず利潤を追求した義満は積極的に活用、
それ以後も義満の例に倣い、上表にある通り1500年代半ばまで続く。
これによってもたらされた明朝頒賜物(みんちょうはんしぶつ、明から下賜された物品)や
明朝頒賜銅銭(みんちょうはんしどうせん、明から送られた銅貨)から成る貿易利潤は、
抽分銭(ちゅうぶんせん)と呼ばれ、義満以降において室町幕府の主要な財源となった。
なお、明との国交成立と同様に、この時期朝鮮とも外交を行い貿易を開始。
幕府や西国諸大名はさかんに倭寇を取り締まるようになり
日朝間の貿易でも経済基盤を強化していった。

義満の栄華 〜 権力を握ったままの逝去
1408年3月、義満は後小松天皇を北山山荘へ招き、盛大な歓待の宴を開いた。
天皇の逗留は20日にも及び、その間に連歌会・蹴鞠・舞楽・猿楽など
様々に趣向を凝らした芸能が催された。1381年の室町御所落成で後円融天皇を迎えたように
今回もまた、天皇に自らの権勢を誇るかの如く接宴を用意したのだ。
いや、むしろ「自分は天皇の上を行く存在である」と主張したのかもしれない。
この時に義満が身に着けた衣装は桐竹紋(きりたけもん)の法服で、
本来これは皇室の出家した者しか着用する事を許されぬ服であった。
武家・公家の両者において頂点を極め、有力大名を次々と制圧し、
明皇帝から「日本国王」と認められ、贅を尽し皇室と同じ立ち振る舞いを行う…。
確かにこの時、日本で最も大きな権力を手にしていたのは天皇でなく義満であり、
室町幕府は最盛期を迎えていた。政治・経済・文化など、あらゆる物事の中心に義満がいた。
義満と幕府の栄華は、天皇も朝廷も、何人たりとも寄せ付けぬものになっていたのだった。
足利義満像
足利義満像

この画像で義満の着用している服が
桐竹紋の法服である。これを着る事で
自らは天皇にも勝る存在であると
万民に宣言していたのだった。
ところで、この接待において義満と同席したのは4代将軍・義持ではなく
義満の次子で義持の弟である義嗣(よしつぐ)であった。
嫡子として義持に将軍職を継がせたものの、義満が溺愛したのは義嗣のほうであり
天皇との会見という重要な場面においても義嗣を引見させ、
将軍職にある義持は京都市中の警備という任務に就かせて疎外する有様。
いずれは将軍の位を義持から剥奪し、義嗣に与えるつもりだったとも言われる。
しかし、この接宴から3日後の事、突如義満は病を発し倒れる。
5月1日には重態に陥り、6日に帰らぬ人となった。享年51歳。
あまりに突然の死は、義満に危機感を抱いた天皇や諸大名、
嫡子ながら政務から遠ざけられていた義持の陰謀だとする説も唱えられる。
そのいずれも憶測に過ぎぬものであるが、ともあれ
栄華に酔いしれた義満が亡くなった事は天下に大きな動揺を与えた。
大黒柱を失った室町幕府、急遽政権を握る事になった4代将軍・義持の舵取りはどうなるのか。



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